三章 第二十五話「水の化身クラーケン」
豪雪が舞うブロニクスの街。その横沿いにあるトゥール海には未曽有の混乱が生じていた。突如として姿を現した水精霊の眷属クラーケン。青黒き触手で波を掻き分け街へと向かう様からは、人の住まう園を歯牙にもかけない不遜さを感じられた。その目的は不明だが、クラーケンの進行方向に生息していた水棲魔獣や海鳥などは瞬く間に食い尽くされ、消化され、そして同化されていった。つまりはその先にいる人間の末路など、幼き子供にすら想像に難くない状況と言えた。
東ブロニクスのケリュネイア戦からブロニクスに帰投したクロエ含む騎士団メンバーは、すぐさま事態の深刻さを把握すると人員を手配して住民の安全を確保し、魔法士を束ねて街の結界を強化しクラーケンの進行に備えた。その魔素で編まれた防壁が、果たして正体不明な異形の怪物にどれだけ効果があるかは計り知れない。それどころか、この防衛が児戯にも等しい無価値なことであると、優れた魔素感覚であるクロエは容易に察していた。
しかしそれをおくびにも出さず、彼女は指揮を執り続ける。ブラッドフォードの訓練兵を、光の魔術師のジェナを。最大能率を生み出せる配置に向かわせる。自らもまた、民たちの不安を消し去る燦然たる王家の象徴として前を見据える。魔物とも魔人とも異なる存在を前に、彼女は決して希望を捨てなかった。
エルキュールらによる豪雪の魔法のおかげで、ブロニクスに近づこうとする魔獣は悉くが排除されているようだ。しかし家屋や道路などには荒々しい損壊が目立ち、つい先ほどまでこの地が戦場であったことを窺わせる。あのケリュネイアだけがアマルティアの仕込みとは思えない。十中八九、ここで彼らに動きがあった。この浄化の雪と併せると何が起こったのかは容易に想像できるが、クロエはひとまず推測を止め、騎士を引き連れ民たちの不安を取り除こうと努めた。アマルティアの脅威は取り除かれつつあること、あのトゥール海に突如として現れた怪物も直ちに討伐すること。無論、どちらも確約されたものではない。だが法外な力を持って生まれたクロエには責任があった。全てを賭して戦い平和を導く責任が。故に、嘘も誠にしてみせよう。水の都に、彼女は静かに誓いを立てた。
クロエの采配によって街の結界強化に駆り出されたジェナは、街はずれの丘の上にある結界装置にまで辿り着くと、同行してきた騎士団の魔法士に指示を飛ばし、術式の再構成を目指した。その間、望むトゥール海の果てには、青黒き異形が他の生物を呑み込みながら移動する様がありありと映し出されていた。あのまま進行を許すわけには断じていかない。その先に待ち受けるは善悪の見境のない破壊のみであろう。目的も思想も意思も関係ない。
沈黙の怪物は依然として悠々と。ジェナはその威容に身を震わせながらも、とある予感が脳裏を閃いた。この魔素の気配。種類は違えど、覚えのある。光の聖域で獅子魔獣マルティコアスを倒した後のこと。ルシエルと邂逅した時の感覚と似ている気がしたのだ。この類似性から推測できるのは、あの巨大なイカが精霊に関連する存在だということ。もしやエルキュールらが向かった水の聖域カエルレウムでの出来事が遠因であろうか。アマルティアの執念にはほとほと驚かされる。
が、今はそれも捨て置く。準備を整えた魔法士たちに命じてジェナは結界装置を囲むようにして陣を形成した。街を守護するための結界とは、術者の魔素感覚を可能な限り共有し、同一的で均一性のある土魔法を装置に付与することで初めて効果を発揮する。意思と目的を擦り合わせ、視座を同じくすることが何より重要なのだ。ジェナは魔法を付与する前に各員へと告げた。精霊の加護は人々を見捨てない、祈りを胸に戦うことは必ず未来を切り拓くということを。魔を憎むだけでなく、人々の平和を希求することを。力とは傷つけるためでない。守り、他を生かすためのものなのだと。
ジェナたちの魔法が装置に宿り、その先端からアンテナのように伸びた突起から土魔法が天に放たれる。光芒が空を舞い、ブロニクスのその他の結界装置と共鳴し、やがては各々から伸びた光線がブロニクスの外周を飛び回り土の結界を形成した。原理としては土魔法エスクードに近しいものがあるが、それよりも持続性と効果時間に特化させた拠点防衛の要である。結界魔法が滞りなく発動したことを確認したジェナは、連れだった魔法士にその場を任せて街の中心部にいるクロエとの合流を目指す。各地に散らばる仲間の無事を祈りながら。
トゥール海の景色を見晴らすブロニクス西の高台にて。カエルレウム、遺跡群と魔物に対処しながら進んできたグレンは、すぐ後ろをついてきていたミレーヌを付近の木陰に休ませるとひとり崖際に立ち前方を睨みつけた。その先にあるのは、無慈悲なイカ型の魔物と思しき存在。六霊守護の娘であるミレーヌを安全な地へ逃がす途中、突如としてトゥール海が光り輝き現れたそれは、何を目指すやらブロニクスの街へと向かっていたのだ。グレンに宿る戦士の勘はそれに悪しき兆しを見せた。故に急遽、グレンは目的地を変更し、こうして波の打ち寄せる断崖の上に立っていた。
この前が開けた地点からは、海を横切るイカの怪物の姿がはっきりと見て取れる。そのことを改めて確認したグレンは、携えた銃大剣を構えると砲口を固定し狙いを定めた。カエルレウムでのロレッタとの戦闘で体力を削られはしたものの、あの化物を見過ごすなど彼の正義に反する。その正体、力の性質、目的、弱点、すべては分からないが、周囲の生物を呑み込みながら闊歩する様は断じてヒトとは相いれないだろう。
グレンが魔力を込めれば赤き剣身が発光し、刻まれた術式を通じて火炎が砲口内に生まれる。凝縮された紅蓮はやがて勢いよく射出され、遠く離れたクラーケンに襲い掛かった。瞬く間に着弾し、彼方で爆発が起こる。煙と爆風で空気が揺れる中、海鳥や魔獣が散り散りになったが、クラーケンだけは意に介さず母なるトゥール海を遊泳していた。そこにリーベもイブリスも関係ない。全てと同化し、吸収する怪物の威容。その不遜とすら見える姿にグレンは忌々しげに舌打ちすると、再び魔力を込めて砲撃を続けざまに放った。全てはあの怪物の侵攻を抑えるために。
覚悟の数発を。決死の十数発を。意地の数十発を。その底なしの戦意と騎士道精神が終ぞ届いたのか。クラーケンの動きが止まる。こちらを脅威と認識したか、それとも単なる気まぐれか。進路を変え、触腕を唸らせグレンの立つ断崖へと向かってくる。
このまま限界まで惹きつけて、ミレーユを連れて撤退する。グレンの持つ圧倒的な攻撃力があればあの怪物にダメージを与えられるかもしれないが、やはり今の酷く傷ついた彼が単身でそこまでやってのけるのは厳しいものがある。幸い、この方角ならクラーケンが崖を乗り越えることができたとしても、人の住む村はかなり遠い。時間は十分に稼げるだろう。青黒い胎動と共にクラーケンが迫る中、グレンは銃大剣に意識を向け続けた。
クラーケンの進路が変わったという報告を騎士から受けとったクロエは、急いで魔法士部隊を編制させると、それをブロニクスの港へ集結させた。トゥール海に沿って魔法士が一列に並び、それぞれが攻撃魔法を展開させる。怪物の注意が向こうの崖付近に逸れている今、時間をかけて魔力を束ねるだけの余裕が生まれたのだ。
恐らくは、別行動しているグレンによる援護だろう。街に降る豪雪がエルキュールとロレッタによるものだという仮説に推測を上乗せただけであるが、驚異的な魔素感覚を備えるクロエは半ば確信を抱いていた。彼の得物である銃大剣ならば、遠距離からの銃撃も可能なはずだった。
さて、当のクロエと言えば、ブロニクス住民をひとりひとり訪ねて、彼らの心情に寄り添った説明を行っていた。本当ならばクロエもまたあの怪物の対処へ向かいたいところだったが、ここは戦士よりも王族としての職務を優先した形である。
この状況はアマルティアの策略によって引き起こされた可能性が高いこと。クロエを含む王国騎士団やデュランダルが事件の解決に動き出していること。クロエの姿を目にした住人たちは、めいめい安堵し、感謝し、或いはせっかくの風霊祭の折にこのような事態となったことを詫びたりもした。「それは貴方がたのせいではありません」クロエは慈悲深き微笑みで彼らに慰めの言葉をかけ続けた。そうして暫くした後である。
「ク、クロエ王女殿下! 貴方様がここに来られる前、私は窓越しに恐ろしい光景を目にしたのです」
屋内に避難していたその住人は語った――。
街路に現れた虚ろな住人たちを殺害した、とある闇の魔人の存在を。
クラーケンが出現したトゥール海の上空にて。二つの人影が弾丸の如き鋭さで勢いよく降下していた。一つは黒い外套を身に纏った灰髪の青年。そしてそれに寄り添う形にして、右腕を氷の剣と変化させた神聖さを滲ませる少女がいた。
少女の全身には蒼き水の魔素が満ち満ちており、遠く離れたクラーケンが発する輝きと共鳴しているようであった。即ち、精霊に連なる者。少女は決意を込めて隣の青年を見据えた。
「トゥルリム様から頂いた力で精霊界は脱したけど、エル……本当にいいのね?」
「問題ない。この世界に再現されてしまったクラーケンに対処するには、俺の魔人としての力――ひいては闇精霊に纏わる力が必要だ。もう隠すのも出し惜しみもなしだ。……いや、その必要がなくなったというべきか」
「必要がなくなった……?」
「そんなことよりロレッタ、そろそろ海面につく。氷魔法で足場を確保しよう」
戦いの前の会話もそこそこに、エルキュールとロレッタは同時に下方へ手を伸ばして魔法を放出した。マリグノの研究によってロレッタの体内に植え付けられた純粋なる氷の魔素、自然界には存在し得ないその魔素に容易く合わせるエルキュールの突出した魔素感覚、その二つで以て彼方まで広がるトゥール海を瞬く間に凍てつかせてゆく。そしてそれは海上を移動するクラーケンの周囲にまで及び、異常を察知したそれの動きが止まる。
氷結した海面に着陸した二人は氷上を滑るようにして移動し、暴虐の怪物に勢いよく迫った。クラーケンは腕をしならせて飛び回る羽虫を払おうとするものの、二手に分かれた彼らを追うのはやはり難しい。ロレッタが氷の剣で一本の腕を落とし、エルキュールもまたハルバードを振るい触腕をいなす。青と黒の斬撃、氷と闇の武闘は続く。
クラーケンは胴体の上のほうにあるコアを瞬かせると、周囲に高波を起こしてエルキュールらの足場を奪おうと足掻く。不安定な氷の足場では跳躍で波を躱すこともかなわない。水の牢獄が退路を塞ぎ、二人は窮地に立たされた。その束の間。
彼方の崖から飛来した炎が波を焼き、彼らの動線を繋いでみせた。状況から見て、遺跡群で別れたグレンからの援護射撃だろう。エルキュールは心中で察しながら、高波に空いた穴を潜り抜けて氷魔法で着地点を繋ぐ。反対ではロレッタも同様に危機を脱しており、クラーケンを挟む格好となった。
「ロレッタ! 奴の動きを止めてくれ! その隙に俺が――!」
言葉を飛ばし、エルキュールは上空へと舞い上がる。瞬間、陽光射す空に陰りが落ちたかのように辺りが薄暗くなった。彼がヒトの模倣を解き、魔人としての姿をあらわにしたことによって、大気中の闇の魔素が著しく活性化したためである。
黒く輝く肥大した身体に、琥珀に塗りつぶされた瞳。宵闇を告げる者が現世に降臨する。その威容を目にするのは二度目であったロレッタに、動揺の色は見られなかった。否、彼がどのような姿であれ、どのような力を持っていても。その純真さは変わりない。それを知っているからこそ、ロレッタは微塵の逡巡もなく氷魔法を展開し、クラーケンの周囲の水面を凍てつかせていく。
腕をうならせ、その魔法に対抗しようとするクラーケンだが、水精霊トゥルリムの権能を引き継ぎ極限まで魔素感覚の研ぎ澄まされたロレッタには及ばなかったらしい。瞬く間に海は凍結され、身動きが取れなくなっていった。
「魔素ニ還レ……!」
上空から急降下したエルキュールがクラーケンに接近し、その頭部に目掛けて右腕を伸ばした。クラーケンの生態とは、確固たる肉体を持つリーベや、魔素を吸収し半永久的に活動できるイブリスとも異なる。精霊の被造物にして、この世でも最も魔素に近いより純粋な魔素生命体。故に他の生物の魔素に共鳴し、同化し、吸収できる性質を持つのだが、それはあくまでも、自らがより高い魔力を有していることが前提である。
この場合、顕現したばかりのクラーケンと、闇精霊ベルムントの最高傑作たるナハティガルの魔力差は比べるほどもないものであった。獣の口腔のように大きく開いたエルキュールの掌の穴から、魔素の粒子へと変換されたクラーケンの身体が次第に仕込まれていく。今までクラーケンが他の生物を吸収したように、さながら餌食の如くその巨体を平らげていく。時間にして数分も満たないうちに、氷結した海面に残るのはエルキュールとロレッタのみとなった。
「終わった、の……?」
「ああ。水の遺物ブリューナクの暴走はこれでお終いだ。これがその遺物……取りあえずは君が持っておくといいだろう」
クラーケンの体内にあった蒼の槍を、ロレッタに渡すエルキュール。
水精霊の祝福を受けた彼女に呼応してか、槍は穏やかに明滅を繰り返していた。
「私が水の権能を受けついたということは、闇の聖域にある封印を再構築するにはあと三体の精霊を訪ねなくてはならないのね」
「火のゼルカン、風のセレ……土のガレウスについてはどうだろうな。あのディアマントによって聖域も遺物も汚されてしまったようだが……まあいずれにせよ、その話はあとにしよう。事の顛末を皆に説明しなくては」
「……そうね。姉さまのこと、マリグノのこと。トゥルリム様のことに、亡くなった六霊守護のジェラールさんのこと、そして――」
ロレッタはそこで言葉を切って、珍しく悲しげに目を潤ませた。
「私の、罪……それに、貴方のことだって……。言わなければ、いけないのよね?」
「ああ、そうだ」
「…………」
「怖いか?」
「……うん」
ロレッタには魔物を狩る理由がもはやない。それは彼女にとっては生きる意味を失ったということに他ならないのだ。間違っていたとはいえ、その仮初の怒りが、今日まで彼女を生かし続けた。そして、その原動力となっていた家族もまた、今では全ていなくなってしまった。ならばこの少女に残されているのは何だろうか。許されざる所業と歪で恐ろしい魔の身体か。旅をした仲間は彼女の罪を赦してくれるだろうが、世界は彼女を受け入れるだろうか。
同様に、エルキュールにもその問題は圧し掛かる。その身に魔を宿しているということは、それだけでリーベの安穏を脅かす災厄となり得るのである。
「貴方は怖くないの?」
「さあ……もう慣れてしまったから。俺にはもう感じることができない。ずっと、あの家族の前で目を覚ましてから……いやその前からずっと。俺は俺の居場所を見つけることができないでいた。もう諦めている節さえある。だが、君には同じ思いをしてほしくない。君には未来があるべきだ。祝福された未来が。大丈夫、君なら見つけられる。あのとき忘我に彷徨っていた俺を救ってくれた君ならば」
そのエルキュールの言葉と、長年続いた戦いが終わったことによる解放感と安心からか。ロレッタはさめざめと泣き続けた。エルキュールは彼女の気が済むまで胸を貸し、やがて陽が沈むころになって、二人はブロニクスの街へと帰投したのだった。




