三章 第二十四話「蒼き胎動」
ロレッタが目を開くと、そこにはブロニクスの街並みは影も形もなかった。円形の巨大な台座を囲むように六つの玉座が並ぶ神聖な場。それは彼女がトゥルリムと出会った六霊の庭の景色に違いなかった。しかし以前と異なるのは、そこに本来立ち入るべきでない簒奪者の姿である。
異相のマリグノ。アマルティア幹部にして生命の探究者である彼女は、ついにその始点である精霊界にすら足を踏み入れていた。
精神世界という特異な環境で、本来の姿を取り戻したマリグノは台座の中央に佇んでおり、ロレッタとエルキュールの追跡に気づくと忌々しげに表情を歪ませてブリューナクを突きつけた。
「あんたたちの評価をまだ侮っていたみたい。まさかあれだけの魔法を使えるとは思っていなかったよ。こうなるなら、ボクの主義に反してでもあのとき殺しておくべきだったかな?」
「ようやく気付いたの? 本当に救いようのない愚か者ね。見るに堪えないからそろそろ終わりにしましょうか」
「ああ、いい加減に付き纏われるのも面倒だしね。時間をくれたおかげでブリューナクの制御も順調に進んだ。これ以上ボクの選別の儀を邪魔立てさせるつもりはないよ」
睨み合う両者。一歩引いた位置にいたエルキュールは一歩踏み出すと、ハルバードを片手で構えて臨戦態勢を取った。
「ここでは前のような目晦ましは通用しない。純粋な力比べで俺たちに敵うと思っているのか? ただ運良く精霊の遺物を手にしただけの君如きが本当に勝てるとでも?」
「……本当に忌々しいよ、あんた。なぜベルムント様の寵愛を受けていながら、あの方を裏切るような真似をする。もう自分がただの魔人ではないとは知っているだろうに。イブリスを敵に回して偽善に酔っているつもりなの?」
「俺は家族と仲間が生きるこの世界を良い方向へと導きたいだけだ。そちらこそ、封印されたベルムントを魔王だのと祭り上げているのが不快極まりない。世界に魔物をけしかけるのが神聖なる精霊の所業なのか?」
「それはあくまでヒトの尺度だよね? ベルムント様の復活をお助けし、世界を魔で染め上げてこそ、ボクらは真に救われるんだ。そのためにはあらゆる力が要る。弱き者を排除することで、ヴェルトモンドは新たなステージへと至るんだ」
「考えを改めるつもりはないようだな。ならばこの茶番もとっとと切り上げよう――ロレッタ、準備は出来ているか?」
「当然。始めるわよ、エル。断罪と贖罪の戦いを――!」
三回目の対峙。双方の動き方はある程度知れている。だからこそ、未だ見せてこなかった切り札を切るタイミングが非常に重要となってくるのだ。その点でいえば、マリグノは実に優秀だった。今までの遠距離主軸の戦いから一転、ブリューナクに魔力を込めると、エルキュールに向かって刺突を放つ。この緩急のつけ方はさながら武人のようで、長年研究に費やしてきた学者とは思えぬ早業であった。
先手を取り数の利を削る算段。エルキュールは心中で称賛を贈りながら、その決死の攻撃を軽くいなした。刃先でブリューナクを弾き、崩れた体勢に闇魔法ダークレイピアを叩きこむ。瞬間、弾けるマリグノの身体。見慣れた水人形の使い方には、微塵も動揺しないエルキュールだった。背後に感じた気配に振り返らぬまま肘鉄を見舞う。
苦悶に喘ぐ魔人の声。エルキュールはハルバードを振りかぶって追撃を行った。白衣を着こんだ彼女は紙屑か何かのように吹き飛び、広場の外周にある玉座に身体を強かにぶつけた。
マリグノとエルキュールとでは戦闘経験に天地の差がある。そのことをマリグノが思い知り後悔する間もなく、次は殺気を滲ませたロレッタの鎖が勢いよく伸びていく。特殊な手甲から射出されたそれは、玉座に凭れマリグノの身体を瞬時に巻き取ると、天に吊り下げるかの如く持ち上げた。
ロレッタはそのまま手甲を付けた左腕に魔力を込め、魔人を捉えた鎖をじわじわと締めていく。これは罰であり、報いなのである。簡単にコアを破壊して絶命させるなどといった生ぬるい方法は相応しくない。この六霊の庭に逃げ込んだ以上、そして現実世界でエヴィニエス・アポイナにより住民から精神を剥奪された以上、彼女に逃げ道など残されていなかった。故にロレッタは迷いなく処刑を続けることができた。身体を圧迫され掠れた声を発するマリグノに、冷ややかな視線がひたすら突き刺さる。
次はマリグノから授かった氷の力で彼女に苦痛を味わわせる。空いている右手で氷の魔素を操るロレッタ。それを察知したマリグノは死に物狂いで咆哮を上げた。もちろん為す術がなくなった獲物の最後の抵抗などではない。その叫びに呼応するように、中空から蒼き魔法陣が顕現し、ブリューナクを模した水の槍が地上に勢いよく降り注いだ。さながら雨の如く。それは拘束し続けるロレッタに向かって軌道を変え牙を剥く鮫にも似る様相であった。
水の遺物ブリューナクの力をより操れるようになった結果だろうか。マリグノ本体にのみ注力していたロレッタの反応が一瞬だけ鈍る。応戦が遅れ、水の咢が少女を襲う。しかし彼女は一人でない。共に歩む青年が魔法でこれを悉く相殺し、魔素の爆風が辺りを舞った。その煙に紛れるようにして、エルキュールは風魔法でマリグノとの距離を詰めると、拘束されたその胸のコアを躊躇いなくハルバードで刺し貫いた。
ふわり。刹那、時が止まり、力の抜けたマリグノと共にエルキュールがゆっくりと落ちてくる。彼はハルバードの切っ先を魔人から抜くと、駆け寄ってくるロレッタに振り返った。
「まだ微かに息がある。辛いだろうが、もう少し頑張ろう」
「ええ。さっきは危ないところをありがとう。貴方を信じてよかった」
言葉少なにお互いを称え合う。されど未だ戦いは終わっていない。仰向けに転がるマリグノに二つの視線が突き刺さった。
「無様ね、マリグノ。貴方は自分を過信しすぎた。ブリューナクの力に拘りすぎた。力は誰かを守ったり、温めたり、照らしたりするためにあるはずなのに……貴方は結局、殺戮と破壊の道具にしか用いなかった。そんな愚か者に、私たちと姉さまが負けるはずなかったのよ」
「……ククク、元はと言えばボクがあげた力だ。あんた自体にはなんの価値もなかった。あんたの傍にいる魔人も同じ。ベルムント様のお力のお陰だ、それをたまたま都合よく利用出来て、運よくボクに勝てただけ……。ボクは違う。ボクは自らの研究を武器にイブリスの領域を引き上げ、アマルティアで地位を確保し、精霊の遺物すらものにして見せた。誰かから与えられたものじゃない。ボク自身の結果なんだよ」
「大した負け惜しみだな。俺にしてもロレッタにしても、価値がないだなんてお前如きには言わせない。俺たちは自分の意志で歩む道を決めた。ロレッタに力がなければ、今ごろはお前の道具に成り下がっていただろうし、俺の心が弱ければ、ヌールの街を焼かれたあの日、アマルティアに屈する道を選んでいただろう。その方が楽だから、そうなるように仕向けられていたから。だが俺たちは違った。外の力に振り回されながらも、進む道を、理想を追い求め続けた。ミルドレッドもまた、最期には己の本心に向き合った。力とは何かを手にすることではない、何を志向するかで価値が決められる。お前には、理解できないかもしれないがな」
「……ボクの、ボクたちの崇高さを理解できないのはあんたらもそうだ。この世界には革命が必要なのに。なぜ弱い人間の、リーベの器に拘る? なぜ高みを目指さない? 神聖な魔素をいたずらに食い潰す種族など、不要なのに……カヴォード帝国にある火の聖域など、その最たる例じゃない」
「理解が云々はもういいわ。興味もないし、永遠に平行線。それより貴方が言っていたのは。北方の凍土で人が暮らすために、カヴォ―ド人が自然の環境を支配したことかしら? 確かにあそこの軍事力に抵抗するには、遺物の力すら手に入れないと太刀打ちできないでしょうけど」
自然との調和が取れているオルレーヌではまず見られないが、外国――とりわけ北のカヴォ―ドでは魔素の劣化が問題となり、不作や砂漠化などの自然の崩壊が顕著となっている。その現象が波及する前に先手を打とうという考えだったのか、弱々しい姿となったマリグノは自嘲気味に乾いた笑みを浮かべた。
「あんたらのせいでその計画も台無しだけどね。せっかくこの身体を捧げてまで遺物を奪ったのにさ」
「その割には残念そうに見えないわね。もう勝負は決したのよ? 貴方を苦痛の中で生かしているのは、単に対アマルティアに向けて情報を得たいから。決して慈悲の心からじゃない。貴方は遅かれ早かれここで死ぬ」
「そうみたいだ。ブリューナクが本領を発揮した姿を見られないのは残念だけど、ボクの研究はボクの死後も残る。アマルティアの仲間が、あるいは人の社会から爪弾きにされたあんたたちが、その成果を証明するだろう」
この精神世界においても、コアを傷つけられたイブリスの末路は決まっているらしい。ぼろぼろの白衣を着たマリグノの身体は徐々に崩壊が始まっていた。それでも彼女の表情には敗北から生じる絶望の色が見えなかった。その不気味な様子にエルキュールはとある予感を閃いた。ブリューナクの本領。それはマリグノを強化することでも、街を支配したことでもない、何か別のものを指しているような気がしてならなかった。
「……この期に及んで何を隠している? 水人形による撹乱も住民たちの精神支配も、全て乗り越えたはず……」
「……ククク」
「答えろ、何をした! マリグノ!!」
「アッハッハッハ! 可笑しいね、これは! なんであんたらがそんなに狼狽える? どうしてもう何も残されていないボクに怯える? 不思議だ、実に不思議だね。でも致命的な領域に踏み入る前に一度立ち止まったのは賢いよ、あんたには研究者の素質があるのかもしれない」
「エルの質問に答えなさいマリグノ! その身体を氷漬けにして無理やり延命させてもいいのよ!?」
氷と化した右腕から魔法を放出しようとするロレッタ。マリグノの余裕は未だ崩れない。
「そんなに怖い顔をしなくてもそちらの勝利の報酬として教えてあげるよ。敗者として、それなりの振る舞いはするさ。まあ、この身体を維持できるまでになるけどね。……それで……? ああ、ボクが何をしたか、ね……。と言っても、ボクが何をしたのかは、ボク自身にもよく分からないよ。あんたがボクの精神体を追い詰めて、ここまで虚仮にしてくれたおかげで。ただ――」
マリグノは力なく下げていた右腕を徐に伸ばし、天を掴んで続けた。
「ボクの制御を失った現実世界のブリューナクが、主から離れ暴走を余儀なくされたあれが、今ごろどんな現象を引き起こしているか……考えるだけで高揚する」
「――っ!? まさか先ほどの戦闘でのブリューナクは、六霊の庭によって反映された仮初の――?」
「その通り。ボクの精神はここで潰えるが、遺された本物の遺物はまだあちらにある。さて、街にいる脆弱な民がどうなろうと、ボクの知ったことではない。荒波を乗り越える強者のみが生き残れば、それは世界にとって喜ばしいことでしょ? そう……ボクはもう終えていたんだよ、ここに来るまでに……全てをね」
マリグノの身体が粒子状の魔素になって空に溶けていく。その最期の瞬間、彼女は臨終とは思えぬ凄絶な笑みを浮かべていた。
「じゃあね。ロレッタ、エルキュール。ここまで来るのに大した代償を払ったみたいだけど、今度もそうやって立ち向かうのかな? せいぜい足掻くといい。それを観察できないのが口惜しいけど……だが、撒いた種には……必ず……花、が――」
その先を紡ぐことなく、水の魔人は敢え無く事切れた。
ついに仇敵を討ったロレッタたちだが、その顔が晴れることはなかった。いくら楽観的に考えようと、直前のマリグノの言葉はあまりに不吉であった。
感慨に浸る間もない。どうにかして現実世界に帰らねばならなかったが、ここに来てある重大な事実に気づく。
「エル、どうやって戻れば……!?」
「……ここに招かれたのは精霊の導きがあったからだが……現実への道は俺の力で繋ぐには難しいな。もっと高次の存在の力がなければ為しえない」
また魔人を殺めたことによる不快感をどうにか断ち切ったエルキュールは、広場の外周にある玉座の一つを目指した。榻背に嵌め込まれた蒼の宝石は、そこがトゥルリムの座であることを暗に示している。
「いるのだろう? 君の頼み通りマリグノは排除した。また迷惑をかけて悪いが力を貸してくれるとありがたい」
すると蒼い光の筋が玉座に注ぎ、空間を一瞬染め上げた。視界が戻ったその直後には、陽光に照らされた波のように煌めくトゥルリムの姿がその座にちょこんと座っていた。
「遅い」
「……は?」
「片付けるのが遅いって言ってるの、このスカポンタン! ここは六霊の庭なのよ!? 本当は人間界の生き物が許可なく入っていい場所じゃないの。あんたならそれくらい分かるでしょ!?」
「先ほどから勘違いしているようだが。俺は闇精霊ベルムントの分霊から創られた存在とはいえ、記憶に関してはほとんど引き継がれていないんだ。もちろん君がトゥルリムだということくらいは知っている。しかし君たちが遺した文明についてはそれほど多くは知らない」
立ち上がったトゥルリムはずかずかとエルキュールのほうに詰め寄ると、その周囲を周りつつしばしば睨みをきかせていたが。すぐに何かを察すると溜息をつき、呆れたように双眸を細めた。
「ふうん、まあ分かったわ。……あいつは一体こんなのを作って何をしたかったのか、興味があったけど知らないって言うなら仕方ないわね。それで? 力を貸すっていうのはブリューナクの制御に関してよね? というかあんたたち、遺物を放っておいてこっち来たわけ? 危機感どうなってるわけ?」
「……とっとと来いと言ったのはそちらでは?」
「ああもう口答えしないで! まるであいつと話してるみたいでなんかやだ!」
「……ロレッタ、代わってくれないか。俺ではどうも話にならないらしい」
二人のやり取りに呆気にとられていたロレッタが急いで駆け寄ってきて、エルキュールの代わりにトゥルリムと相対した。その健気な姿勢に気を良くしたのか、彼女は薄い胸をこれでもかと反らすと威厳のある素振りを示した。見た目が幼いのでそれなりではあったが。兎角、ロレッタは至極真面目な調子で、偉大な偉大な水精霊に呼びかけた。
「遺物を放置してしまったのは私たちのミスです。それでもマリグノを倒した今、後の問題はブリューナクだけ。ここはぜひお知恵を貸していただけないでしょうか」
「ふふん、流石は私が見込んだ子。どこかの性悪精霊とは違って信仰心があるわね」
「性悪精霊とは自己紹介か?」
「黙りなさいってば! 本当に記憶失ってるのあんた!? ……こほん。まあいいわ。ブリューナクの問題ね、まあそれに関しては直接見てもらったほうが早いかしら。……えいっ!」
トゥルリムが右腕を振り下ろすと、広場の地面がひときわ輝き、次の瞬間には鏡のように写像を映し出していた。それは六霊の庭の光景ではなく、見覚えのある街並み――水都ブロニクスの光景だった。
トゥール海を望むその街は、ロレッタらの魔法で豪雪が注いでおり、かなり異常な様相であったが。それを置いても――。
地面を見下ろすエルキュールとロレッタに驚愕が走る。
「これは――」
「なに、あの化物――」
海の彼方に高波が生じ、それを掻き分け山のような影が街に迫っている。幾数本もの長い手足と錐形の胴体からなる巨大なイカのような存在。中心部の透き通る蒼が鼓動の如く明滅し、夥しい魔力を垂れ流していた。
「完全にブリューナクが暴走してるわ。この時代にわたしの眷属まで召喚してしまうなんてね」
「眷属だと? あのおぞましい怪物が?」
「それはあくまであんたたちの美的感覚でしょ。精霊の時代ではあれで可愛かったの! 名前はクラーケンって言って、昔は精霊たちを守る魔素生命体の一種で――」
「概要は結構。それよりも対処法は? あの様子は尋常じゃない。何が目的かは知らないが、人間などまるで意に介していない動きに見える。このまま好き勝手されたらまずいのでは?」
トゥルリムは話を遮られたことに不平を唱えていたが、エルキュールのあまりに真剣な表情に痺れを切らして言った。
「人間の尺度で言えば、あと二十分といったところね。――あの街がヴェルトモンドの地図から消え失せるまで」




