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黒き魔人のサルバシオン  作者: 鈴谷凌
三章「フェスタ・デル・ヴェント~癒えぬ凍傷~」
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三章 第二十二話「高潔なる贖罪」

「やはり精霊に由来する力というのは、この世界で最も警戒すべき代物だね」


 エルキュールらとの戦いから離脱したマリグノは、ブロニクスの裏路地を抜けながら自らの置かれた状況を整理し始めていた。

 あの場から彼女が立ち去ったのにはいくつか理由がある。

 まずは単純に、エルキュールとロレッタの能力が予想よりも高く、完全に制御できていないブリューナクでは突破できなかったというところ。

 最初に住人の死骸に変化し、あらかじめ確保しておいたイブリス・シードを見せることで牽制はできたが、あのままでは力で上回られてしまっただろう。

 彼らが人ならざる力を惜しみなく使ってきた点もそうだが、遺物を手にするマリグノの肉体的な弱さがここに来て悪さをしていた。

 マリグノの力では、ブリューナクは単なる殺戮の道具以上の価値を持たない。あれだけの強者を相手するには、さらに高い次元を要求される。むろん彼女は初手の入れ替わりトリックを成功させた後、密かに遺物を掌握することを何度も試みていた。しかし――。


「参ったね。これがトゥルリムの呪いか。ボクの身体の損耗が酷すぎる。あと一時間もない、自壊する前にさっさと次の宿主を見つけなければね」


 流れゆく水は千変万化。マリグノの身体は精霊の権能によってこの上ない柔軟性を獲得したが、その反面、確固とした肉体からかけ離れたそれは、動物として致命的な脆弱性に悩まされていたのだ。

 幾度の変化を繰り返すたびに、マリグノの身体は前のそれよりも魔素が希薄になっていく。完全に肉体を元通り修復することは不可能だった。以前ならばイブリス・シードの本能やコアの再生力で補うことは出来ていたが、遺物を手にする引き換えとしてその力も失ってしまった。魔人としての大半を犠牲にし、彼女は求めていた遺物を手に入れた。

 水の力があれば、究極的には肉体など不要である。この精神は自在に分離し、あらゆる肉体に憑りつき、寄生し生き永らえることができるのだ。ゆえに肉体の滅びは問題ではない。マリグノの研究は生物の極地を切り拓いた。


 さて、マリグノが戦場を離れたもう一つの理由が新たな宿主を探すことである。出来ればロレッタかエルキュールの身体を奪いたかったところだが、千里の道も一歩よりとスパニオの故事では言うらしい。彼女は辛抱強く、まずはそこらの住民でも支配しようと、さながら獲物を探す獣のように眼を妖しく揺らしていた。

 そして、その哀れな弱者というのは、果たして都合よくマリグノの前に姿を現した。


「見ーつけた。取りあえずあんたでいいや。ボクを未来に生かす駒となれ」


「な、なんだ……って、やめろ! うああああああっ!?」


 ブロニクスの街には既に警報が渡っている。マリグノの襲撃によって住民たちは屋内で避難が命じられていたはずだが、どの世界にも油断に甘える人種というのは存在する。

 通りすがりに魔素を操り、マリグノは目の前の青年に対して魔法を放出した。自らの精神を魔素に変換し、対象となる生物に侵入することで支配を行ったのだ。このヴェルトモンド大陸のあらゆる生物を研究し、水魔法の極致を体現してみせた彼女だからこそ為せる業。悲運の男はひたすら無力であった。

 水の魔素が瞬くと、マリグノの身体はたちまち分解されて空気中に溶け消えた。一方、恐れ戦き尻餅をついていた青年は、徐に立ち上がると落胆したように肩を落とした。


「やっぱり。居心地が悪い。まあブリューナクを振るうだけの筋力があるだけマシかな」


 ブリューナクを顕現させた青年、マリグノは新たな身体に不平を漏らしながらも行動を再開した。完全に遺物を掌握できればこの街を水に沈めてしまえば解決できるのだが、それにはまだ少し時間を要する。ここは寄生と支配を繰り返しながら街に潜み、あの彼らを完全に凌駕できる域にまで成長する時を待つ。

 算段を立てたマリグノは遺物を仕舞い、素知らぬ顔で街を闊歩し始めた。


「……ん? おい、そこの君! 今は危ない、早く家に隠れていなさい!」


 街に侵入したマリグノを警戒していた騎士の小隊が、表通りに現れた青年に詰め寄る。

 青年の瞳が蒼く光ると、先頭にいた隊長格と思しき騎士の男が一瞬だけ呆然として虚空を見つめた。マリグノの精神は分かたれ、対する騎士の意識をいとも容易く支配した。しかしそれはごく短い間で、後続の騎士が到着する頃には何事もなかったかのように話は進んでいく。


「えっと、すみません。少し道に迷ってしまって」


「もしかして風霊祭を見物しに来たお客様ですか? 残念ながら今は非常事態ゆえに、我々が安全な場所までご案内いたしましょう」


「そうですか。それは助かります!」


 滑稽な一人芝居を演じて、マリグノは騎士隊長の皮を借りて連れ添った部下の騎士たちに拠点への案内を命じる。

 取るに足らない烏合の衆でも、弾避けや使い走りなど駒としての役割は果たせるだろう。ここから住民どもを支配下に置いていけば、結構な時間も稼げるというもの。

 その暁には。この街を水都の名に相応しき様相に変えてみせよう。もはや名もなき青年に宿ったマリグノは、来るべき未来にそっとほくそ笑んだ。




 マリグノを追っていたエルキュールとロレッタが、街の異様な静けさに気づいたのは、彼女を追って数分後のことであった。この危機的状況に際して住民が屋内に避難していることは聞き及んでいたが、流石にこの静寂は尋常ではない。子が泣く音、親が宥める音、衣擦れの音、床の軋む音、あらゆるものが止んでおり、風魔法でブロニクスを飛翔する二人の息遣いのみが空中には広がっていた。


「ねえ、エル。流石にこれは、何か変じゃないかしら」


「……この微かな水の魔素の残滓。魔法のようなものが使われた痕跡だが、それにしては街の様子に代わり映えがなさすぎる。破壊や殺戮を目的としていない、もっと……内側に向けた……」


「取りあえず下りて辺りを詳しく見てみましょう。一刻も早くマリグノを追うべきなのかもしれないけれど、これを放置するのはあまりに危険かもしれない」

 

 風魔法を解除して道路に降り立ち、二人は身近にあった家屋の様子を窺った。煉瓦製の外壁には特に異常は見られない。魔獣除けのシャッターで閉じられた窓に近づいてみると、人の気配は確かにあるのだが、生気とも言うべき何かが欠けているような、そんな雰囲気すらも感じられた。

 深刻さを深めた顔のロレッタが恐る恐る扉に近づき、ノックをしようと手を伸ばしたその時。隣にいたエルキュールは弾かれたような動きで彼女の身体を傍まで引き寄せた。瞬間――。

 激しい音で扉が破られ、かつて広場の戦いでマリグノが見せた波のようなものが勢いよく溢れてきた。そしてその流れに乗るように虚ろな目をした住人が現れ、たちまちエルキュールたちに襲い掛かって来た。動転した気を制御しながらその場から一歩離れ、二人はめいめい武器を構える。


「この魔素の気配、やはりマリグノが――」


「水人形、じゃない。私に掛けられていた精神と肉体に作用する魔法と同じ? ブリューナクの魔力を引き出し始めたということなの?」


 ロレッタが左腕の手甲で牽制するものの、操られたと思しき住民の行進は止まることはなかった。朧げな足取りで拳を振り上げ戦闘の姿勢を見せつけている。

 相手が魔物ならまだしも、相手は罪のない人間である。エルキュールは僅かに眉を寄せると、武器を仕舞って裏の通りを見やった。


「回り道だ、ロレッタ。俺には彼らを斬ることはできない。どこかに逃げたマリグノを叩くべきだろう」


「……待って、後ろからも、来てるわ」


「仕方ない、消耗することになるが風魔法で上を――」


 そこで目にした光景は、とてもではないが信じられないものだった。

 通りを挟むようにして並ぶ家屋の上階の窓が一斉に開けられると、それぞれの窓枠から水で形作られた大砲のようなものがせり出てきた。砲口から蒼き輝きが瞬き、水の波動がエルキュールたちに降り注ぐ。

 地上と空中を支配する水の兵隊がものの見事に完成し、二人の行く手をひたすらに阻む。


「なんなのよ、これ! 全員マリグノに操られたというの!?」


 地上の住民たちを魔法で一掃することは簡単だ。

 ただし相手は無辜の民。中にはあどけなき子供すらもいる。ロレッタは迫りくる彼らから逃れながら悔しげに歯噛みした。

 こんな卑怯な手に屈するわけにはいかない。何としてもマリグノに追いつき、この所業に報いを与えなければ。しかし、これだけの包囲を突破するには魔法による攻撃が不可欠だった。

 上を見れば空を飛翔するエルキュールも、大砲からの水弾を受けて突破できない様子だった。彼が本来の力を解放すれば大砲を破壊することもできるだろうが、それではブロニクスの街並みもまた巻き添えにあってしまうだろう。


「本当に、卑怯よ……ふざけるな……!」


 両腕をだらりと下げたロレッタはその場で俯く。彼女の小さな姿が、忘我の群衆の影に埋もれていく。

異変に気付いたエルキュールが必死の形相で手を伸ばした。「諦めるな! ロレッタ! 君は――!」しかし数を増していく操り人形に押されて二人の距離は次第に遠ざかっていった。


 肉塊に圧し潰されて呼吸もできないほどの窒息感のなか、ロレッタの意識は次第に暗い底へと沈んでいく。

 力とは無であるのか。強者のための世界を作ろうとしているマリグノが打つ手にしては、些か皮肉がすぎるのではないだろうか。

 空虚な心が彼女を蝕む。

 やがてそれが完全な空になる。闇が意識を覆う。世界から感覚が遠のいていく。そのとき微かに、誰かの声が悲しげに揺れた。「……まない……して……くれ……」




◆◇◆◇



「ロレッタ! 目を開けろ!」


「……っ!?」


 どれだけ気を失っていたか。ロレッタの意識は、その鋭い語気によって呼び戻された。

 覚束ない足に鞭打って立ち上がって前を向けば、今にも泣きだしてしまいそうな黒衣の魔人がこちらの顔を覗き込んでいた。

 琥珀の瞳が揺れている。エルキュールのこんなにも悲しそうな姿を見るのは初めてで、ロレッタは何かとんでもないものを彼から奪ってしまったのではないかと焦燥に駆られた。


「……エル。貴方、一体何をしたの?」


「マリグノの身体はもうこの世界には存在しない。精神体となってこのブロニクスの街の人々の中に入り込んでいる」


「あの人たちはどこへいったの? あれらが勝手に止まるとは到底思えないし、それにしても人の気配がなさすぎるわ」


「どうにかして住民に溶け込んだマリグノの精神を炙り出す必要があるが、それには君の――」


「いいから答えて!!」


 一切こちらから視線を切って捲し立てているエルキュールに、ロレッタはその細身に縋りついて無理やり目線を合わせる。まるで上半身に力が入ってない。無理して平静を装い、ついでに何かロレッタに対して隠している。続けて詰問するも、彼は決して口を割らなかった。あくまでも事態の収拾における話を進めたがっていた。


「……落ち着いてくれ。一大事なんだ。君の質問には全てが終わったら答える。必ずだ。……だから。今は目の前の命を救うことに注力しよう。彼女がブリューナクの力を完全に掌握する前に、俺と君とでそれを阻止しなくてはならない」


「……どうやって」


「君は特異な生まれを持ち、今となっては精霊の権能を受け継いだ存在だ。そして俺もまた、闇精霊が生み出した被造物。特殊な魔力と魔素感覚を備えている。俺たちが力を合わせれば、このブロニクス全体に作用する魔法を放出することができるだろう」


「魔法……もしかして、マリグノが遺物から引き出した能力を上書きするつもり? 街一つを覆いつくすまでとなると、貴方の人間を模倣した姿にも影響がでるかもしれないのよ?」


「ああ。服装や外皮も魔素で編んで生成しているが、全力を込めれば、回復するまで魔素質の皮と胸のコアは暫く隠せなくなる」


「だから本気で言っているの!? それは貴方が今まで努力して築き上げてきたヒトとしての居場所を捨て去ることと同義なのよ!? どうしてそこまでするの……そうまでして貴方が救ったこの世界は、事が終われば平気で貴方を裏切るかもしれないのに。私やジェナ、グレンのような人間ははっきり言って――」


「分かってる。俺はこれまで恵まれてきた。これから為すことによって、俺は多くの悪意と直面することも。だがそれでも俺は止まれない。もう、道は決まってしまったから……」


 エルキュールが魔力を滾らせると、黒き魔素の奔流と共に空気が震え始めた。それからどこか疲れが見える複雑な表情でロレッタに手を伸ばした。


「さあ、君も仇を討たねばならないんだろう?」


「……そうね。分かった。けどマリグノを倒したら、ぜんぶ話してもらうから」


 ロレッタは既に手袋が破け黒い魔素質の痣が露わになった手を躊躇いもなく握った。他の誰が彼を詰ろうとも、自分だけは彼の隣に立つ。絶対に、何があろうとも。その覚悟を胸に、ロレッタもまた自らの中に眠る魔力に意識を向けた。

 マリグノが施した氷の心臓。トゥルリムから譲り受けた水の権能。それらを自らの血肉に還元させ、魔力に適合させるイメージを想像する。清澄な流水と静謐な銀氷が溶けあい、掌を伝って、安らかな夜の闇に向かっていく。

 エルキュールはかつて言った。祈りを捧げよと。ならば今のロレッタがすべきこととは、敵を滅するだけの憎しみだけを燃やす姿勢を貫くことでも、破壊をもたらす力を追い求めることでもない。ただ、マリグノの魔の手に陥ってしまった哀れな住民に平穏を捧げ、この罪を贖い続ける意思を示すこと。それこそが必要であった。

 傍に立つエルキュールも同じ心地なのだろうか。互いが同調する感覚をひしひしと感じるロレッタ。姉が去ってから誰とも真に分かり合えないでいた彼女にも、新たな導が生まれた瞬間であった。


「……想像できたか、ロレッタ? 住民の精神を癒し、魔を滅する贖罪の魔法の在り方が」


「ええ、ありがとう。私に力を貸してくれて。この恩は、一生を懸けてでも返すから――っ!」


 氷と闇。互いの魔素が最大限まで増幅したところで、二人は繋ぎ合わせた手を空へと高く掲げた。


「一切を浄化せよ――エヴィニエス・アポイナ!!」

 

 既存の魔法体系を超えたその特級魔法は、青黒い光となって天を駆け、煌々と弾け、全てを癒し救う断罪の吹雪と化したのだった。

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