三章 第二十話「颶風に捧ぐ」
復活を遂げ、反撃の誓いを立てた直後のこと。カエルレウムから転移装置を渡って復路である遺跡群を進んでいたエルキュールたちは、ふと前方にとある影を目にして足を止めた。
二つ。一つは褐色肌に青い波のようなドレスを身に纏った幼き少女。もう一つの横たわる翡翠の女性に向かって何かを呼び掛けている様子だった。
「……あれは、ミレーヌ。それに……」
「姉さま!」
水の六霊守護の遺児と、アマルティアの魔人との奇妙な組み合わせ。ここが戦場であるならば、エルキュールも容赦はしなかったが、二人の間に広がるひたすらに物悲しい空気がそれを制した。
見ればミレーヌのほうは目立った外傷がないものの、ミルドレッドの状態は酷く無惨なものであった。髪色とお揃いの緑のドレスはほとんど引き裂かれ、普段は人間を模しているはずの肌は翡翠の魔素質が漏れ出てしまっている。露わになった胸にあるコアはほぼ全壊といった具合であり、誰がどう見ても死に体と判断せざるを得ないものであった。
ミレーヌは敵である魔人に向かって意味のない治癒魔法を繰り返しては己の魔力を枯らしていた。エルキュールはそんな無力に溢れた光景が見るに堪えず、そっと二人の間に割って入っていった。
「ミレーヌ、無事でよかった。色々と君には謝らなければならないことがあるが、今はとにかく身を休めてくれ」
「エルキュール、うちは――ロレッタの姿をした魔人がこのひとを傷つけるのを、ぜんぜん、見ていることしかできなくて。あいつが、うちの姿に化けてこのひとを――」
「おい、エルキュール。六霊守護の娘の話はオレが聞いておいてやる。任せろ。だからお前とロレッタはミルドレッドを見てやってくれ」
今にも飛び出してしまいそうな氷の少女を見かねてグレンが提案する。エルキュールはミレーヌを介抱する彼に感謝しながら、倒れ伏す風の魔人の傍らに跪いた。面長の貌は魔素質のひびが入り、悪夢に魘された病人の如き苦悶の表情を浮かべていた。
ロレッタはその痛々しい様子に歯をかみしめながらも冷静さを保って状況を飲み込もうとしている。
「……エル、魔人に近い存在である貴方になら分かるかしら? 姉さまが助かる見込みは――」
その気丈さだけに。エルキュールはこれから述べることを躊躇ってしまうのだった。
「……彼女は……。ここまでコアが損傷してしまっていると、周囲の魔素から身体を再生することは不可能だろう。だがたとえ死が必然であろうとも、彼女の身体にある魔素質は自己を回復しようと働く。中途半端な治癒は意識に苦痛をもたらし、やがて死に至るその時まで心が苛まれることになる」
「…………そう」
ロレッタは悲痛な面持ちで俯いた。
「どうすれば、姉さまを楽にできるかしら。魔法? 医術? こんなことになるのなら、もっと精霊様に対して敬虔であるべきだったわね。私は、昔から姉さまに何もしてあげられない……」
「それは違うな。それだけは、絶対に違う」
「エル……?」
「君が救ってみせた俺を信じてほしい。以前に君の幻聴を和らげたときのように、ミルドレッドの苦痛を解放できるか試してみよう。君には酷なことをいうが、できれば汚染の被害を受けないよう彼女からは離れていてほしい」
「……わかった。お願い、姉さまを救ってあげてくれる?」
かつて祈りを捨てたはずの少女が懇願するその様に、エルキュールは力強く頷いた。この悲哀を目にして、どうして出来ぬと言えようか。
エルキュールはロレッタが遠ざかったのを確認すると、今なお苦しむミルドレッドの顔をそっと覗き込んだ。
「もういい、楽にしてくれて。先ほどは近くにいたミレーヌやロレッタを汚染しないように力を抑えつけていたのだろう? 俺は知っての通りヒトではないから、あなたの溢れ出る魔力にも耐えられる」
「……エルキュール、様……まさか、こんな無様な姿で再会するなんて。ひひひ、貴方とは、まだ、勝負の決着も――」
瞬間、堰を切ったようにミルドレッドの身体から風の魔素の奔流が溢れ始める。彼女の魔人としての性が、最期に誰かを汚染せしめんと荒れ狂っているのだ。
エルキュールはその颶風を自らの魔素感覚で以て制御し、胸にあるコアによる吸収を試みた。すると行き場を手に入れた魔素は安寧を手に入れ、ミルドレッドの顔にも僅かばかりの余裕が生まれた。
「……感謝しますわ。ワタクシ、一人きりで最期を迎えるのだと思っていましたから。こうして触れ合う貴方の魔力は、優しい夜のよう……安らぎを、与えてくれますの……」
「……貴方は、あのマリグノと戦ったのか? アマルティアに属する者同士でありながら、なぜ、そんなことを……」
「ロレッタから聞いていらして? ワタクシたちと彼女には並々ならぬ因縁があることを。彼女のせいでロレッタは半魔人となり、ワタクシもヒトを汚染せねば生きられぬ身体となりました。その報いを、受けてもらうつもりでしたのに……」
「すまない。マリグノに水の遺物を奪われたのは俺たちの失態だ。そうでなければ、あなた程の武人が後れをとることはなかっただろう」
ミルドレッドはエルキュールを慰めるようにそっと首を振った。身体を構成する魔素が徐々に尽き始めているのか、その輪郭は朧気でどこまでも儚い。対して、エルキュールの身体にはイブリス・シードを伴った風の魔素が満ち満ちていた。ナハティガルとして造られた彼の魔素感覚は、森羅万象を統べるほどに強大であった。
「彼女は異相の名を持つ魔人。昔からイブリスを研究していたからか、悪知恵だけは一級品ですの。対峙する際は彼女の言動だけでなく、周囲の環境にも注意を割く必要があるでしょうね。……己が力の真髄に至った貴方には要らぬ助言かと存じますが」
「いいや、しっかり心に留めておく。俺はロレッタやあなた、多くの人間の尊厳を踏みにじった彼女を決して許さない。精霊の遺物も在るべきところに返す。ブロニクスの街を守ってみせる。あなたのぶんまで」
「……そう、ですの。それは……安心、ですわね……少し、いえ、かなり遅かったですけれど。最期にヒトの心に向き合えてよかった……。ロレッタが、言ってくれたのですよ。ワタクシも、エルキュール様のようになれると。罪を雪ぎ、希望を繋げると……」
「ああ、あなたの遺志も、俺が引き継ごう。同じくこの世界を覆さんとした同士として、あなたの力を存分に借りるとしよう。だから……ふむ、そろそろ時間のようだな」
本来ならばヒトを汚染するのみであったミルドレッドの魔力は、あらゆる魔人の始点にあるエルキュールという器に吸収され、より純粋なものへと変換されていった。一方で、いよいよ肉体を維持できなくなった彼女の存在はほとんど希薄に、春の霞の如く消えていく。
「……お別れ、ですわ。最後に……あの子のこと、ロレッタのこと……どうか、お願い……エルキュール、様――イブリスの呪われた定めに、救いを――――」
やがて一陣の風が吹き、次の瞬間にはミルドレッドの身体は跡形もなく消え失せていた。
彼女に安らぎを与えるという役目を終えたエルキュールは天を仰ぎ、体内を巡る風の魔素を感じながら暫し追憶に浸る。
旅を始めてからアルトニーの街でミルドレッドと邂逅したとき、彼女がエルキュールとの戦いを中断したのは。
『あら、どうしてそのように嫌がるのでしょう? これが私たちの本性ですのに』
きっと己の中に蟠っていた不信感に依るものだろうと。アマルティアに属し、どれだけ魔人となった自らを肯定しようと試みても、人の心をついぞ捨て去ることはできなかったのだ。
ロレッタと再会し、マリグノと向き合い、彼女は魔人に課せられた理不尽に抗おうとした。称賛に値する。エルキュールはその想いを無駄にしてはならないと誓った。
事が終わったのを確認したのか、ロレッタが静かに地に跪くエルキュールに寄り添ってきた。
「……ねえ、エル。姉さまは、最期……どんな顔をしてた?」
「笑っていた。そして君の行く末を案じていた。君が自分自身に向き合って出した答えは、正しく彼女の心に届いていた」
「そう……。ありがとう。……この後マリグノと戦うわけだけど、その前に。もう暫く……こうしていてもいいかしら?」
ロレッタは後ろからエルキュールの背を抱きしめてその中に眠る姉の魔力を偲んだ。
エルキュールは何も口にせずそれを黙って受け入れ続けた。
◆◇◆
ミルドレッドとの別れ勝ったという情報がミレーヌの口から明かされ、いよいよ油断ならない状況であると判明したのだ。いう情報がミレーヌの口から明かされ、いよいよ油断ならない状況であると判明したのだ。
グレンは憔悴したミレーヌを護衛しながら、魔獣の危機が及ばない場所で待機することに。操られたロレッタを正気に戻すために疲弊した彼は、対マリグノにおいて十全に力を発揮できないとの考えだった。
彼の魔人と因縁があるロレッタはもちろんブロニクスに向かう役割を買って出た。水精霊トゥルリムの加護も得て魔力に余裕があるとの向きで、これに異を唱える者は誰もいなかった。
最後に選択を迫られたエルキュールは、ジェナや他の動向を気にする素振りを見せたが、グレンがブラッドフォードの訓練兵を各地に手配しているとの言葉を受けて意を決した。
「ならば俺もマリグノのもとに向かおう。授かったこの颶風の力も俺に囁いているんだ。悪業の報いを味わわせろとな」
鬼気を漲らすエルキュールに二人も頷く。決戦の時は刻一刻と近づいていた。