三章 挿話③~シオン~「その忠義に祝福を」
ロベールが騎士団長の座に就き、ヴェルトモンド大陸南東で起こったアートルムダールの戦役が終戦した直後のことである。苛烈を極めた戦場で団長から預かった部下を悉く失い、自身もまた重傷を負ったシオンはフォンターナ城の警護を担う後方任務へと回されていた。聖域に蔓延る魔物の軍勢がそれだけ強力であり、直接の戦地となったエスピリト霊国の惨状を思えば、オルレーヌの被害というのは比較的軽微なものであるという捉え方もできようが。自ら進んで選んだ騎士道を果たせなかった事実は、重くシオンの背に圧し掛かっていた。
二度の英雄となった傑物も時の流れには逆らえない。能力の衰えを日に日に感じていた彼は、周囲からの慰めを空元気で返しつつ、しばしばあることを思い浮かべるようになっていた。
「我の知恵、武芸、思想……それらを継ぐ者を探さねば……この身が朽ちる前に」
齢五百となるシオンには伴侶も子孫もなかった。このままでは歴史上最も崇高な竜騎士である一人の痕跡は果てしのない時の流れに埋没してしまうだろう。だがその意思を継承するには、純粋で高潔な新しい魂が不可欠であった。個体として成熟した者は不適格である。シオンが最も信頼を寄せているロベールやナタリアも、その他の騎士衆も同じく。確固たる自我と信念を抱いた彼らに老いぼれの願いを託すことはいらぬ苦労をかける恐れがあり、そもそも彼らにはその資格がないのではないかとさえ思っていた。
あらゆるものを超越し、制覇し、君臨する絶対的な力。かつてシオンが諦めたそれらを、自らの手で育てたいという渇望。そしてそれが求められるであろうイブリスの隆盛の時代に対する予感。怪我を負い、ろくに動けぬ身となったシオンの、その焦燥にも似た感情は次第に募るばかりであった。
青天の霹靂とはまさにこのことを指すのだろう。突如として王からもたらされたある情報に、シオンは含めた王国の人間のすべてが、絶対的な歓喜と畏怖を植え付けられた。
クロエ・ド・フォンターナ。生後数か月にして自然すら調伏させる法外な魔力を秘めた恐るべき御子の存在である。彼女が笑えば陽光は照り、彼女が泣けば暗雲から雷鳴が轟く。その強すぎる力を前に世話役のほとんどが精神を病んだ。彼女の機嫌を取ることさえままならず、このままでは王国を巡る魔素の循環さえも脅かされるといった時になり、事態を重く受け止めたシャルル王から王城の者へ勅命が下った。
『貴様らの持てる全てを尽くし、この娘にあらゆる知恵を授けよ』
それはクロエをただの赤子と見做すのではない、真なる王としての至高の教育を施すという王の決意の表われであった。シオンはこれこそ、己の最期の使命であると直感した。迷いなくクロエの教育係に志願し、王も彼のこれまでの実績に鑑みて了承した。
シオンは赤子の面倒など見たためしがなかったが、未知を既知に変えて己が力とすることは彼にとって呼吸するのに等しいことであった。不屈の意志のみが、彼をここまで導いたのである。言葉も通じぬ幼きクロエに向き合う日々がこうして幕を開けた。
はじめはクロエが何を好み、何を嫌うのか。これを理解するのに終始した。
室内の温度、揺り籠の律動、毛布の感触、食事の種類、玩具の趣向。その一つずつを試行し、時には彼女の好意を買い、時には彼女を傷つけた。彼女が泣きわめくときには、軋みを上げる王城のなか必死に機嫌を宥めた。強すぎる魔素感覚の暴走によって、時おり魔法めいたものがシオンに襲い掛かったが、武芸に長けた彼はそれを文字通り赤子の手をひねるが如く対処していった。
「あうあうあっ! ううぅぅ……!」
「どうされた。クロエ殿下。我の変顔が気に入らないとでも?」
「うぎゅうう……」
「ふむ。ロベール様に子の育て方を一から学んでもこれか。先は思いやられるな」
超人的な魔力を秘めるクロエの相手は至難のことであったが、幸いにして彼女の知性はその他の人間のそれに比べて格段に優秀であった。生後一年も経つ頃には、彼女は人の言葉を理解するに至っていた。
「シオン! わたくち、おやつ!」
「承知。砕いた林檎で構わないでしょうか」
「シオン、抱っこ!」
「ええ。いつものバルコニーから空でも眺めましょう」
「シオン、本読んで! この魔法学入門って本ね!」
「……殿下は本当に才能に溢れておられる。では読みますので、膝に腰掛けてください」
三年も過ぎればクロエは自分の力で感情を制御できるだけ理性的になり、シオンの苦悩も随分と減った。だが彼女の知識の吸収力は凄まじく、その勢いに食らいつくのにまた骨を折ることにもなっていく。
「シオンさん。わたくし、剣術を学んでみたいわ。お城の人たちに聞いたけど、あなたってとても強いって聞いたの」
「構いません。元より我の力はすべてあなたに捧げると誓ったゆえ。ですがまずは身体づくりから。我と違ってか弱い人の身では怪我をしたら大事になります。栄養をしっかり摂ってから臨みましょう」
「いいわ。わたくし、食べるのも好きだもの。シオンさんが一から作ってくれるのはもっと好きよ?」
「これは嬉しいお言葉を賜りましたな。では本日より武芸の修行も始めましょう」
身体が十分に発達するまで一年かけて食事から管理し、クロエは四歳にして初めて剣を握った。稽古相手のシオンから一本取れるようになるまで、僅か一年弱しか経たなかったのは、城内の誰しもが予想だにしなかったことである。数百年の歳月によって成された彼の至高の領域に、幼き姫殿下はいとも容易く足を踏み入れたのだ。
「シオンさん、なぜでしょう。剣を握っていると、まるで長年そうしてきたかのように手に馴染むのです。どうやって振るえばいいか、最適な足運び、攻撃と防御の意識配分など……戦うのに必要なすべてがはっきりと理解できます」
「我も王宮剣術に限って相手していたとはいえ、この成長速度は人の常識では計り知れないほどだ。殿下はさながら、精霊から尊き使命を託されて生を受けた御子のように思えます」
「……もしわたくしがあの戦役の頃に間に合っていれば、世界は今より暗く沈んではなかったでしょうか」
「それは少々、傲慢が過ぎますな。殿下、貴方にはまだ学ぶべきことが山ほどありますし、戦いとは一人で完結するものでもないのです。高みを目指すと仰るのならばこのシオン、全てを貴方に捧げるつもりですが……どうか過去に囚われず、未来を見据えて生きてください」
「シオンさん……ありがとう。その言葉、覚えておきますね。わたくしも、わたくしに宿る力が尋常ではないことはとうに知っております。武術はそこそこ身につけましたし、お次は魔法を学んでみたいですわね」
「ならば、高名な魔術師を四方から集めましょう。殿下の魔素感覚はあまりに非凡、正しく制御できなければその御身すら蝕むでしょうから」
「……ふうん」
「殿下? 如何されました?」
「シオンさんが教えてくれるのではないのですね。わたくし、少しがっかり致しました」
「……申し訳ありませぬ。魔法は昔から単純なものしか扱えないのです。我よりな者は適任がいくらでもおります」
「むう、結構ですわ。しかし、あなたはわたくしの従者なのですから。しっかりと稽古の様子を見にいらしてくれなきゃ嫌ですよ?」
武術を修めたクロエは魔法の分野でも才能を開花させ、主要となる六属性は瞬く間に扱えるようになった。その間、すっかりアートルムダールの戦役での傷も癒えたシオンは騎士団での職務に復帰していたが、周囲の部下から直々に背中を押されては、クロエの傍に仕える時間を過ごしていた。
クロエは楽しそうに魔法の成果を語っては、シオンにそれを披露したがった。休日に連れだって騎士団の訓練所に赴いては成長を見せつけるさまは、シオンにとっても一等眩しく映っていた。
騎士団に足繁く通うこの頃になると、クロエはロベールやナタリアとも親交を深め、度々意見を交わすことも多くなっていた。ロベールからは人の上に立つ者としての心得を教わり、ナタリアからは少女らしい趣味の話題で盛り上がった。
類稀なる才気と暴力的なまでの魔力を備え、生まれた時から孤高を歩む運命にあったクロエが、自らの力を律して他人との共生の道を歩まんとしている姿を見て、シオンは過去の自分が救われたかのような感覚を覚えるのだった。
盲目的に力を求めては過ちを繰り返した身であっても、こうして後進を立派に導くことができている。それは得難き幸運であり、希望であり、祝福であり肯定であった。シオンはクロエの存在に心から感謝していた。
クロエはその後も健やかに育っていったが、十歳を迎えるころになると彼女の顔にしばしば憂いが混じるようになっていく。それは彼女が有する資質を思えば、避けては通れぬ疑問であった。
「シオンさん、わたくしはなぜここまでの力を得られたのでしょうか。不思議に思ってやまないのです。何か……そうなるべき意味がなければ、不可解でどうしようもないのです」
「我らに生まれた意味など初めから存在しません。ただ、自らの手で定義するほかないでしょう」
「わたくしはこの力に、シオンさんや皆様が育ててくれたものに報いたい。今は世も安定していますが、魔物との戦いの歴史は未だに続いている。それに終止符を打つことこそ、わたくしの存在意義なのではないのでしょうか」
「殿下はまだあの戦役で犠牲になった全てを気にしておられるのですね」
「当然ですわ。王女として、武人として、魔法士として、あの未曽有の戦いに加われなかったのは忸怩たる思いです。それに代わる何かを探そうとも、わたくしにはとても……」
クロエは天才ではあるがゆえに、自責の念が強すぎる傾向にあるようだった。剣を学び始めた時から見られた兆候ではあるが、彼女のその焦燥感はかつて種族の希望として祭り上げられたシオンにもいたく理解できるものであった。
「我も初めは迷っていたものですが、殿下……貴方のお力が必要とされる時は必ず訪れるでしょう。どうか目を曇らせずに、鍛錬に励むのです。そして人を信じて頼ることを覚えてください。何でも一人で抱え込もうとはなさらないでください。戦役のことが気になるのでしたら、生き証人である我がいくらでも語りましょう。それが貴方の光になるのなら本望でございます」
シオンの言葉から時と経験に裏打ちされた含蓄を察したのだろう。それきりクロエが愚痴を零すことはなかった。代わりに王城の蔵書を読み漁りこの世界の闘争の歴史を学び、一層の鍛錬に明け暮れた。民の希望となることを目指し、人々に光をもたらす剣にならんと邁進したのである。
そして、この日からクロエはシオンを従者の役目から下ろし、その力を騎士団のために活かすように伝えた。かつての雛鳥は見る影もなく、新たな伝説の序章が始まろうとしている。その確信を抱いたシオンは安心して彼女の傍を離れることになったのだ。
時は流れて六霊暦1708年。水都ブロニクスで催される風霊祭にクロエ一行が向かっていたときのことである。名もなき草原に拠点を張り、夜が明けるまで見張り番を担っていたシオンとエルキュールは周辺の哨戒を行うなか古き話を語り合っていた。ここまでの道中で親交を深めた両者は、性格的にも立場的にも通じるものがあったのだろう。やがて任務が終わって帰路につくころにはすっかり打ち解けていた。
「……コハクさん、エマニュエルさん、ロベール団長、ナタリアさん、そしてクロエ殿下も。みんなあなたに期待し、あなたに託し、あなたを信じてきたのですね。そしてシオンさんは、そんな彼女たちに報い続けてきた……とても、とても尊敬できることです」
月明りのもと、どこか寂しげに笑うエルキュールは遠くの空を見上げながら呟いた。シオンはすぐに察しがついた。自らのせいで家族に負担をかけながら戦うその青年は、自らの未来に祝福をもたらしたいのであろう。その渇望はよくよく理解している。彼女と同じ、迷い人の瞳。シオンもまた彼と同じ空を仰いだ。
「貴殿には今日だけでも多くのことを語ってもらったが、その身にはまだ、我の知らぬ部分も多くあるのだろう。故にこの言葉がどれだけ貴殿に届くかは分からぬが……。過ちはいくらでも正せることを、どうか忘れるな。答えは自らの内には存在しない、外にこそ散らばっている。見逃すな、そして手放すな。我の生き様は決して綺麗ではなかったが、世界に確かな礎を築いただろう。その道の果てで、貴殿もそう在れることを願っている」
エルキュールの琥珀の瞳が細かく揺れる。その無垢な輝きがどうか悪に染まらぬよう、シオンは世界に眠る精霊に心中で祈りを捧げた。
「……シオンさん、先ほどは俺たちデュランダルがクロエ殿下を守ると言いましたよね。だからこそアマルティアの脅威がある中でもブロニクスを目指すと仰ってくれた。ですが……今回の旅で俺が優先するべきなのは、水の聖域を訪ねること。もし、万が一があっても……俺は――」
「よい。貴殿は貴殿の目指すべきを行け。案ずるな。あの子は強い。それにあの子を守るのは我の役目だ。この老いぼれは最期まで使命を果たすと改めて約束しよう」
ふと、すぐ後ろをついていたエルキュールが足を止めた。聡い彼ならば、容易にその言葉の真意を理解してしまったことだろう。だがシオンが敢えて漏らしたのは、彼がここで深追いするような青年ではないと分かっていたからである。
事実としてエルキュールは特に詮索することなく再びシオンについて歩を進めた。
「……だったら俺もひとつ約束を。俺がいつかこのリーベとイブリスの戦いを終わらせてみせます。貴方が失ったものと築き上げたものを継承して、必ず平和を創世する。ここまで戦い続けてきたあなたは、その景色を真っ先に見るべきヒトだと信じて戦い続けます」
エルキュールは足早にシオンを追い抜くと、振り返りながら力強く告げた。それがたとえ真でなくとも。シオンは刮目せずにはいられなかった。
「……ああ。それは、できるなら見てみたいな……本当に」
その夜、シオンは柄にもなく祈りを捧げた。かつてコハクの望んだ博愛が、オスマン一族の目指す秩序が、クロエの為す救世が、この純粋なる青年と共にどうか果たされる日が来るようにと――。
ブロニクス東の平野にて魔獣ケリュネイアと交戦したシオンは、敵からの汚染を受けて自らの終焉を悟った。我が子にも等しいクロエに介錯を頼まなければいけないのは悔しいものだったが、この屈辱も彼女にとっての試練になるのだとしたら。それはそれで悪くない結末のようにも思える。
地に転がるシオンの身体に、クロエが手にした鉄剣が振り下ろされる。共に行動していたジェナの息を詰まらせる音が聞こえた。
それを最後に、シオンは臓を一突きにされ、その意識は世界を巡る魔素の循環へと還る――はずだった。
「……ぐっ……これ、は……?」
シオンの全身を痛みが駆け抜ける。放たれた斬撃は一つではなく四つ。それを知覚していること事態がおかしなことであるが、ひとまず彼はそのことを置いて周囲の情報を確認した。
平野に転がる我が身には、両の手足が喪失し、傷口は青黒き氷で凍てついていた。その氷はどこか神聖な魔力を帯びており、汚染された肉体を浄化しているように思えた。
疑問に言葉を失うシオンに、どこか呆れた様子のクロエが覗き込んで笑みを浮かべた。
「殿下、我は……なぜ、まだ生きて……」
「言ったはずですよシオンさん。貴方の命がこの国にはまだ必要だと。汚染を受けた肉体が中枢を蝕む前に四肢を断つことで、辛うじて貴方の意識は保たれました。本来なら大量の失血により命は危ぶまれるところでしたが、奇跡がわたくし達を救ってくださったのです」
クロエが仰ぎ見た方には、ブロニクスの街並みと、そこに降り注ぐ季節外れの吹雪。上空に生まれた黒雲から勢いよく雪が注ぎ、麗しの水都を純白に染め上げている。それを目にしてようやく、シオンの身体は周囲に伝わる冷感を知った。
「あの異常気象は、エルさんと、あともう一人の魔法によるものでしょう。その凛冽さに反して、魔を和らげヒトを癒す優しい魔法です。お陰でシオンさんの肉体は致命傷を免れました。流石は救国の英雄と謳われた御仁。運も素晴らしきものでございますね」
クロエは剣に付着した亜人の青い血を拭き取ると、それをシオンのそばに横たえた。
「わたくしがこの世界を覆すその時まで、貴方には全てを見届けてもらわなければ。途中で舞台を降りる真似など許しませんからね」
その不敵な言葉が、いつかの夜の青年と重なる。
もう十分すぎるほど生きたと思っていた。全力を尽くしたと思っていた。それなのに彼女らは果てなき先を見据え続ける。純粋な目でこちらに手を伸ばし、最後の最後まで戦えと奮い立たせて来るのである。
「……まったく、敵わないな。真の強者とは斯くあるものか。やはり我には程遠い」
「そのような老人仕草はおやめください。ケリュネイアの脅威が去った今、すぐに治療を手配します。どのような形になるにしろ、これからもよろしくお願いしますよ……シオンさん?」
「……承知しました、殿下。この身をどうぞ、どこまでもお使いください」
水都に降る雪が風に舞ってこの平野にまで流れ着く。その粉雪はシオンの身体に触れるとそっと染み渡るように甘く溶けた。
それはあらゆるものを喪いながらも強くあらんとした傑物に対する祝福であるのかもしれない。