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黒き魔人のサルバシオン  作者: 鈴谷凌
三章「フェスタ・デル・ヴェント~癒えぬ凍傷~」
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三章 挿話②~シオン~「東の果て、巡り逢い」

 竜人種の英雄シオンと、稀代の騎士団長エマニュエル。双方が成した革命から数百年の時が過ぎると、オルレーヌとスパニオ亜人連合国の間では諍いなど滅多に起きなくなっていた。

 オルレーヌに生きる亜人は市民権を獲得し、人類との共生を果たしている。亜人の国にあった反人類思想は、その大部分が取り除かれ、互いの文化を尊重する姿勢が民たちの間で醸成されていった。


 この趨勢には無論、リーベの共通の敵である魔物に抗うための、国防を強化するといった考えも多く関係している。身体を汚染される脅威とは、リーベにとっては単なる殺戮よりも恐ろしいものであったのだ。

 大陸にある四大国のうち、北のカヴォード帝国と南のエスピリト霊国は独自の武力組織を編み出していき、他の二国とは一線を画することになる。その中でも六霊教や精霊に親しいエスピリトは比較的自然主義の態度を崩さず、外交においても穏やかな姿勢を示し続けていたが、六霊暦1600年代以降、カヴォードの魔道機械技術が隆盛を極めたことで、大陸の国交関係は歪なものへと変化していく。


 大陸の北方にあるカヴォードは元来、そのあまりに寒冷な環境から生物の住める土地ではなかった。だが火の大精霊ゼルカンと、彼の魂が眠る聖域の加護が、カヴォード人に自然を調伏する方法を授けたのだ。聖域から抽出した膨大な量の火の魔素を使役し、人々は大陸でも屈指の科学技術を生み出していった。その過程において、ヴェルトモンド大陸の魔素の均衡が次第に崩れていき、各地では異常気象や自然災害が頻発することになる。中でも特筆すべきが、スパニオ亜人連合国の東端にある、カタフニア大火山の噴火事件だ。大陸でもオルレーヌのアルクロット山脈に次ぐ標高を持つその火山の怒りは、やがて世界に毒々しい灰の雨を降らした。


 ただでさえ荒れ狂う一途の自然災害に加え、火山灰による農業被害や健康被害がリーベを蝕んだ。精霊の力を重んじるエスピリトは、神聖なる聖域の保全と過度な魔道機械の使用を禁止することを帝国に進言した。火山を鎮めるために奔走している亜人連合国の救援には、兼ねてより親交が深かったオルレーヌ王国騎士団が名乗りを挙げた。

 斯くして大陸全土は未曾有の危機に呑み込まれていったのである。



 六霊暦1678年。大火山の問題解決に向けて編成されたオルレーヌ騎士団の小隊は、いとも険しいゾルデリッジ大森林を抜けて越境を果たすと、亜人連合国の西部、鳥人種の治める国に辿り着いた。

 雲に届かんばかりの遥か樹上に小屋を建てて暮らすという彼らのその独特の文化から、リーベの手が入らぬ地上は荒れに荒れており、騎士隊は長旅の疲れを癒やす間もなく襲い来る魔獣の対応に追われることになる。

 両の指では数え切れぬほどの接敵を潜り抜けた彼らは、近場にあった岩場の洞窟に拠点を作ると、やがて今後の作戦内容について話し合った。


「オスマン隊長。カタフニア大火山がある竜人種の国まではまだ距離があります。我々の現在の消耗具合からすると、このままでは半ばで力尽きる恐れが」


「だろうな。ここは天に最も近いハルピュイアの住まう地、速やかに空に渡り安全な場を確保せねば、地上の荒野にいる私たちに残されるは暗い未来のみだ」


 部下の悲観的で尤もな分析に、小隊長であるロベール・オスマンは悠々と頷きを返した。そのどこか中性的な顔は微塵の焦りも表さず、気品ある所作は余裕の二文字をまざまざと周囲に刻みつける。齢十八にして次期騎士団長の呼び声も高い彼には、狼狽えることなど露も知らない如在なさが備わっていた。


「そなたらはここで休みつつ、周囲の警戒に当たれ。案するな。私に策がある。直に事態は好転するだろう」


 祖先から伝わる方盾を手にロベールは洞穴を後にした。部下の何人かが同道を申し出たが、彼はこれを固辞して単身で荒野に臨んだ。


「……この魔素感覚が告げている。死と絶望に蝕まれた悪しき風を。急がねば、オスマンの名に懸けて如何なる簒奪も許しはしない」


 風魔法を身体に付与し、ロベールは大地を勢い良く滑りながら、ただ東の地を目指して進む。遥か遠方に漂う、邪悪な魔力を縁にして。




 基本的に鳥人種は樹上で生活する種族ではあるが、度々地上に降りてはそこでしか自生しない薬草を採集することがある。それは亜人に効果覿面な霊薬の素材となり、呪術に長けた人狐種の触媒としても希少だ。故に貿易の観点から重宝される薬草は、鳥人種の多くにとっては生活の資となるのだ。


 ハルピュイアの領土の東にある高天の大樹林が彼らの住処であり、彼らがそこを離れることは少ない。しかし先に生じたカタフニア大火山の噴火によって植生が変化し、生業となっていた薬草を卸す仕事にも影響が及んだ。そのため鳥人種の中には西部の荒野付近にまで足を伸ばして薬草を求める輩が現れたのである。


 卸屋の一団に属していたナタリア・フローレスという少女は、目の前で繰り広げられた惨劇の元を、正にその薬草に捉えたのだろう。事実、彼女が手にした薬籠を前方に放り投げれば、薬草の魔力に誘われた魔獣が一斉に群がり、黒い瘴気が辺りに噴き出した。


 それは狼型魔獣が魔素を分解した際に放出される単なる残滓のようなものだが、ナタリアにとっては絶望の暗幕のようにさえ見えた。その幕が開く時、再びあの殺戮の舞台が始まってしまう。恐怖で身を竦ませたあどけないハルピュイアの少女は、自らを庇って魔物に討たれた家族と同胞を思い起こし、酷く罪悪感に苛まれ膝から崩れ落ちた。


 ここまで逃がしてくれた彼らの願いを無駄にはしたくないが、体力は既に底をつきようとしている。両親から度々褒めてもらった薄く色づく桃色の羽も、もはや魔物の注意を惹くほかに価値は無かった。魔素を多分に含む薬草を消化し終えた獣どもは、未だ満たされぬ渇望に突き動かされ、荒野に伏したナタリアを情け容赦なく取り囲む。そのあまりに非力な様は、まさに恰好の餌食であった。


「いや……いや……いや……」


 輝きの失われた瞳でナタリアが力無く呟く。そのなんと弱きことか。知能に乏しい魔獣でさえ哄笑を浮かべていた。次第に這い寄る絶望に、彼女の双眸から大粒の涙が流れる。


 その嗚咽には何時だって誰かの優しさが伴っていた。溌剌で気立ての良いナタリアは常に周りから愛され、その顔が悲しみに歪めば慰めるものは数知れなかった。小柄な肢体は庇護欲を掻き立て、美しい旋律のような歌声は如何様な場面にも打ち解ける。彼女には天性の魅力があった。故に彼女は、孤独に立ち向かう術をこれまで一切持たなかったのである。


 嗚咽がいよいよ慟哭に変わり、イブリスの魔の手がやがて小さな命を無慈悲に摘み取る。あと一瞬の後には全てが終焉に呑まれることだろう。だが、そのたかが一瞬は、ついぞ訪れることは無かった。

 ナタリアが反射的に閉じた目を開けるとそこには。


「……鳥人種の少女よ。君はまだ、ここで命を散らすべきではない。死ねば誰かに悔いることもできぬのだぞ」


 嵐のような魔法で容易く敵を滅ぼした、方盾の騎士の姿が燦然とあった。




「……ああ。諸君には三日間その洞窟で待機してもらいたい。私の置かれた状況については先に話した通りだ。それまでにハルピュイアの住む高天の大樹林の情報が手に入れば、直ちに連絡するように。では、頼んだぞ」


 持参した手鏡に光魔法ビジョンを付与して部下と連絡を取ったロベールは、通信を切ると背後で人形のようにへたり込んでいるナタリアに歩み寄った。

 桃色の髪、あどけない顔、控えめに揺れる羽、そのどれもが、先ほどロベールが葬った魔獣の爆ぜた飛沫によって薄汚れてしまっていた。

 ロベールは持参した背嚢から手拭いを持ち出すと、それを水魔法で濡らしてからナタリアの身体を丁寧に拭いてやった。


 そのあいだ彼女は、見知らぬ男に身体を触れられることに対して微塵も抵抗する素振りを見せなかった。

 信頼感を得たからでは断じてない。警戒心に乏しいことでも。これはただ、身を滅ぼしかねるほどの圧倒的な喪失感に由来する無抵抗なのだ。ロベールはナタリアの内に広がる暗闇の根深さに、忸怩たる思いを噛み締めながら手当てを続けた。

 魔獣の穢れの他にも、擦り傷や打ち身、服のほつれ等も適宜処置し、ひとまずナタリアを外敵から身を隠せる大岩の陰に匿った。


 ここまでは騎士団で任務に当たる中で学んだことを試していたロベールだったが、心神喪失状態にあるハルピュイアの看護など、貴族社会に生きてきた彼には覚えもあるはずがなかった。

 しかし目の前の少女を見捨てるなど、天地が覆ろうともあり得ない。一先ず、ロベールは今朝汲んだばかりの新鮮な水を、ナタリアの前にそっと差し出してみた。だが彼女は目の前の水筒に興味を示すこともなく、ただただ虚空を見つめるばかり。水分すら補給できないとなると、身体の衰弱は避けられまい。頭を振ったロベールは水筒を地に置くと、治癒魔法で少女の心身に活性を促した。魔法によって体内の魔素バランスを管理することは、虚弱体質の者にとっては有用な治療法になることもある。


 ロベールの献身はそれからも続いた。やがて月が昇って、地平の彼方に沈んだ頃。ナタリアのひび割れた唇が薄く開き、微かな呼気が発せられた。その開花を待ち望んでいたロベールは、疲労をおくびにも出さずやわらかな笑みを浮かべた。しかし――。


「………です」


「ん? 済まない、もう一度聞かせてもらえないだろうか」


「……もう、よかです。もう……ウチは、生きてても……辛い……ほんとうに、辛すぎる。だから……殺して、ください。お願いです。みなしゃんの、パパとママと同じ、ウチを精霊しゃまのとこに……」


 ナタリアは感情の色が見えない淡々とした声色で告げた。その痛々しさは筆舌に尽くしがたく、ロベールは暫し口を開くことさえできなかった。彼が今まで生きてきた中で、これだけ負の感情を湛えたリーベというのは目にしたことがなかった。

 彼女の精神は辛うじて意識を保てているが、いたずらに言葉をかければいよいよそれすらも崩壊してしまうだろう。ロベールは大きく息を吐いた後、脳に血を巡らせて必死に言葉を探り始めた。


「私が君を殺す、か。確かにそれが、死を望むならば一番手っ取り早い方法であろうな。君は自ら命を手放すことができないほどに衰弱しているが、そのじつ意識や意思というのはなまじはっきりとしているようだ」


「…………?」


「もし君に魔人化の兆候があれば、私は遠慮なく君を排除していただろう。知っての通り、魔物の汚染を広げないためには、知性に乏しい生まれたてを殺すのが最も楽だからな」


「……っ、ウチ、は……」


「そう。君は幸か不幸か汚染を受けていない。恐らく君と共にいた同胞が、君の生還を心から願い、尽力したおかげだ。故にこのように換言できよう。君の同胞の死の価値は、即ち君が歩む未来しだいだと」


「……! そげん、言い方ば……!」


 ナタリアの虚ろな目が、ここで初めて炎を宿した。それは命を軽んじているとさえ取れるロベールの言葉に対する確かな反感であり、紛れもない彼女自身の主義を表していた。

 ロベールは少女の義憤を嘲けりも貶したりもせず、ただ淡々と諭すように言葉を重ねていく。


「君は本当に、同胞のことを大切に思っているようだ。だからこそ彼らのいないこの世界に絶望し、彼らと同じ領域に向かおうとしている。そうすれば永遠を共にできると思ったのだ。しかし。それは果たして本当のことと言えるだろうか?」


「し、しゃからしい、です……パパもママもウチに教えてくれました。亜人も、ヒトと同じ。死ねば精霊しゃまのとこくるって。死んでも一緒だって……!」


「ああ。確かに生ける者にとってはその理屈は当てはまる。だが死んでしまえば意識は失われる。君が彼らと共にいたいという感情も、共にあることで生じる喜びも、二度と感じることはできなくなる。彼らを思うことはできなくなる。この世界では彼らを思うには遠すぎるかもしれない。精霊の世界では彼らとの距離は限りなく近いかもしれない。しかし、君が彼らを感じることができるのは、ここだけだ。どんなに果てしのない絶望を背負うことになっても、ここだけが、彼らに思いを馳せることのできる唯一の場所なのだぞ」


 ロベールの言葉に、ナタリアは俯く。宗教とはどこまで行こうと生者のための救済である。年端もいかぬ少女では理解できるかはさておき。死の後の世界とは、この世の誰にも知覚できない領域なのだ。

 どれだけ思いを募らせても届かないことを再び自覚し、ナタリアの瞳にもまた大粒の涙が溢れだした。荒野に悲しみの雨が降る。尽きぬ悔恨が根を張らす。少女は二晩そうしており、やがては全てを絞り出して眠りについた。

 ロベールは泣き疲れたナタリアを負ぶって駐屯地にまで連れ帰った。いつまでも岩陰に置いておくよりも、その方が心身ともに良くなるのは明らかであった。ハルピュイアの生き残りはオルレーヌ騎士団の小隊によって保護され、それから一行は荒野地帯よりもなお東にある高天の大樹林に向けて出発したのだった。



 カタフニア大火山までの道のりの中継地点、鳥人種の国がある高天の大樹林に到着したロベールらは、慣れない樹上の世界に苦闘しながらも衰弱したナタリアを医者に診せに行った。精神的な被害も相当であったが、魔法や魔獣の持つ魔素に身体が蝕まれていたため一か月近い休養が不可欠だという判断に至った。

 ロベールは死の淵に陥った少女に生きる道を提示した責任を果たすため、火山の情報を集めるとともに彼女の回復までこのハルピュイアの国に留まることを決めた。彼を深く慕っていた部下たちも異論を唱えず、暫くヒトと亜人の共生の日々が続くことになった。


 ナタリアの命を救ったことは他の鳥人種からいたく感謝され、この国におけるロベールの待遇も厚いものであった。鳥人種の国の長老から直々に滞在の許可を貰い、情報収集も恙なく進んだ。

 これよりさらに東へ進んだ竜人種の国は、カタフニア大火山から降り注ぐ灰の被害が甚大であり、一線を退いた昔日の英雄であるシオンすらも対応に追われているとのことだった。家屋を守るためだけでない、火山の異常活性により刺激された魔獣の群れが勢いづいているのが主な問題であるらしい。混乱の渦中にある竜人種の国には支援が不可欠だが、あまりに過酷な自然環境がその越境を固く拒んでいる。並の使い手が大挙したところで、魔獣の餌になってさらなる災厄を生むだけなのは想像に難くなかった。


 ロベールは騎士隊に宛がわれた駐屯所で一日じゅう思案していた。かの国の被害情報を聞く限り、彼と後もう一人くらいならば問題なく行動できるだろうが、それ以上の数での進軍となると防御面で大きな枷となる可能性が高い。

 付き添いを誰に頼むか、慎重に見定めなければならなかった。しかし結局、妙案を閃くことなく時が過ぎ、ロベールはもはや日課となっていたナタリアの見舞いに行く時間となった。

 ハルピュイアの住まう高天の大樹林の離れにある静謐に包まれた区間に設えられた病院、その一室の布団で横になっていたナタリアは、ロベールの顔を見るや否や花が綻ぶような笑顔を浮かべた。


「ロ、ロベールしゃん、今日も来てくれておーきにです。ばってん、なんか元気なかと?」


「君が少しずつ前を向こうとしているのは見ていて嬉しく思うが、少し仕事で躓いてしまってな……どうにも顔に出てしまっていたらしい」


「お仕事……もしかして、火山についてです?」


「その通りだ。この国ではあまり影響はなさそうだが、カタフニアの火山灰問題はいい加減に解決しなければならない。が、武力で支援する方法も中々に厳しい。……まったく、武芸だけが頼りだというのに情けないものだ」


「そ、そげんことなかばい……ロベールしゃんは……えっと、その……」


 上体を起こして傍らに立つロベールを見上げていた少女は、そう言葉を区切って毛布に頭から包まった。その心の機微を量れないでいた彼は困惑の表情を浮かべると、やがて全く別の思惑を広げていく。


「そう言えば、ナタリア。これは話したくないのなら無視しても構わないが――君たちが生業にしていたという亜人に効く霊薬について詳しく聞かせてくれないだろうか」


「……あう、それ、は――」


 現状、ハルピュイアの多くが生業とする薬売り業はほとんどが麻痺している。それにはもちろん、ナタリアとその仲間が荒野で巻き込まれた一件が関わっていた。ゆえにそれを、全てを救いきれなかったロベールが口にするのは躊躇われたのだが、それでも竜人種の国で今なお戦う戦士たちのために霊薬の話はいずれ聞かねばならないことでもあった。

 ナタリアは一瞬、迷ったように視線を彷徨わせ、まだ小さな両翼をはためかせていたが。一か月近い療養と医師やロベールの支えが大きかったか、おもむろに決意を宿した表情をつくると彼女たちに伝わる霊薬について語り始めた。


「その……詳しいこさえ方ば教えるこつはできないとですが、木の下で取れる薬草と人狐しゃんとこの洞窟で取れる魔鉱石ば混ぜると、亜人に凄か効くお薬ができるたい。ロベールしゃんに助けてもろたときに採った薬草があるけん、後は魔鉱石があれば……」


「必要ならば私が交渉して手に入れてみせよう。もしそれで霊薬を生み出せたとして、一体どれだけの亜人に与えられる?」


「…………ひとりっきりです」


 ナタリアはがっくりと肩を落とした。よく見れば顔色も悪い。恐らく無理に話させてしまったきらいがあるのだろう。ロベールはその桃色の髪を不器用ながら優しく撫でると、努めて明るく礼を述べた。


「えへへ……はっ! そうじゃなか、あともうひとつだけ。霊薬は作ってから一日もしないでダメになっちゃうけん、もし竜人種の国の誰かしゃんを助けたいなら、ここで作っても間に合わないかもしれんです……」


「なるほど。それは重大だな。ナタリアならば、霊薬を作ることは可能なのか?」


 控えめに頷くハルピュイア、ロベールは再び頭を悩ませることになる。

 これから彼が提案することは、決して人道的なものとは言えない。ともすれば軽蔑の対象になるばかりか、再生しかけた少女の心を砕く可能性すらあった。

 だが、それでもロベールは信じたかった。リーベの強さを。彼女の資質を。


「用意できる霊薬が一つだけなら、カタフニア大火山で戦っているシオンという竜人種に与えるのがよいだろう。彼の元まで辿り着くまで、その他の戦士たちの救護もしなければならない。そのためには、製薬の心得があるナタリアに同道を頼みたい。無茶を言っているのは百も承知だ、しかしこの大陸のあらゆるリーベを救うために……どうか、頼む」


 見た目だけなら幼子のナタリアに、次期騎士団長の座を嘱望されている凄腕の騎士が深く頭を下げている。この様を部下が見れば酷く焦ったことだろう。それだけの能力と価値を彼は自ら手放し、全てを失った少女と同じ地平に立とうとしていた。

 そして、その心は伝わったのだろう。ナタリアは悲しみを超えた、儚げで勇気に満ちた微笑みを浮かべてこう告げた。


「ロベールしゃんが望むなら、ウチはよかですよ……? ばってん、条件が一つだけありますたい」


 ナタリアは長身のロベールを屈ませると耳元で小さく囁いた。それを聞いたロベールの顔は一瞬だけ驚いたように見えたが、すぐに慈しむような顔つきで頷きを返すのだった。




 カタフニア大火山の深部は殺戮と狂乱に満ち溢れていた。

 過酷な溶岩地帯に適応して、元々強大な力を有していた蜥蜴型魔獣は、火山の魔素が活性したことにより尋常ならざる領域に足を踏み入れていたのだ。屈強なる竜人種の戦士たちは一人地に伏し、一人魔人となり味方に討たれ、また一人は前線から撤退した。


 その中で獅子奮迅の活躍を見せていたシオン・ムラクモという老兵は、唯一この絶望的な戦況に士気を落とすことなく冷静に抗戦の意思を貫いていた。彼にとって戦いとは己の存在証明だった。大切な誰かに報いる手段だった。そして今は、全世界の人間と亜人を守るという遠大なる使命が宿っているのである。


 シオンは使い古した双剣で敵を一掃するあいだ、相手の行動原理をつぶさに観察していた。それによると連中はカタフニア火口にあるという火山の心臓とよばれる巨大な魔鉱石を狙っているようだった。魔獣は通常、魔素に惹かれる。それが強大であればあるほど、その渇望もまた大きくなる。彼らには崇高な歴史を持つ霊石でさえ、ただの餌の一部だとしか認識できない。リーベのように生命を繋ぐためではない、イブリスはただその個体自身を存続させるために力を振るう。


 年を取り、守るべきものが増えたシオンにとって、その生存方法の違いというのも到底黙っていられるものではなかった。リーベこそ、このヴェルトモンドを統べるに相応しい。古代の大精霊がリーベに大地を明け渡したのには相応の理由があるはずだ。イブリスが支配する地には枯れ果てた魔素の残滓と、醜く肥大した幾つかの個体しか残らない。果たしてそれは、正しき未来なのであろうか。シオンは確固たる意志を以て、迫りくる魔獣に挑み続けた。


 次第に戦える者は少なくなっていく。遂にはカタフニアの麓を守る防衛線において、戦える者はシオン一人となってしまった。対して蜥蜴型はいくら排除してもどこからともなく湧いてくる。歴戦のシオンの体力もあわや底をつきようといったまさにその時であった。


「貴方がシオン殿か。どうやら間に合ったようで何よりだ」


 方盾を構えた一人の若者が、見事な風魔法の速攻で数体の魔獣をいとも容易く滅ぼしたのだ。彼らの注意がシオンに向いていたとはいえ、並外れた魔素感覚の持ち主だと見受けられる。シオンは数十年ぶりに見る人間に、どこか懐かしさを感じながら敬意と謝意を示した。


「助太刀感謝する。だがこの地にまさか人間が来るとはな。今は非常事態故に人の出入りを制限していたはずだが……」


「私はオルレーヌ騎士団所属のロベール・オスマン。カタフニアの問題を解決せよという任を賜り、ここまで馳せ参じた次第です。鳥人種のナタリアという少女に協力を仰ぎ、ここまで兵の救護を進めながら来ました」


「オスマン、だと? まさかお前はエマニュエルの……ふん、我も年を取ったということか。風精霊セレの導きも、粋なことをするものだが……問題は依然として深刻だ。カタフニア火口にある火山の心臓が異常に活性している限り、魔物どもの勢いは止まることを知らない。世界に降る灰の雨もまた然り。お前は奴に似て優れた使い手なのだろうが、この状況にはまだ足りぬな」


「もちろん、私のような若輩の身では余りあります。故に貴方を救いに来た」


 ロベールが示した方角から、可愛らしいハルピュイアの少女が駆けてくる。その両手には何やら薬草や光る石などがいっぱいで、今にも零れ落ちそうで危なっかしい。彼は少女を助けるように荷物を庇うと、改めてシオンのほうを仰ぎ見た。


「鳥人種の間には亜人の力を高める霊薬があるとはご存じでしょうか。今からそれを傷ついたシオン殿に与えますので、どうか最後の作戦に加わっていただきたい」


「作戦? 敵を倒すことにおいてこの双剣は無類の強さを誇るが、火口の心臓から溢れる魔力を鎮静させる術に心当たりでも?」


「私の魔素感覚ならば固まってしまった魔素を散逸させることができます。亜人という種族は類稀なる身体能力を有する代わりに、魔力に関する能力を犠牲にしてしまう傾向にある。今こそお互いの長所を合わせるべきです。かつて救国の英雄として活躍されたシオン殿なら、ご理解いただけると思います」


 その強きは若さゆえか。見定めるシオンの脳裏に、かつてのエマニュエルの姿が表れる。民を守り、未来を築く盾の騎士。その心は清廉、力は周囲の者を生かすことに長けている。幾星霜が過ぎようとも、その性質は変わらう受け継がれていた。やがて、過去と現在を映す二つの像は一つに結ばれると、シオンの中で納得を伴う信用の感情として結実した。


「いいだろう。あの亜人戦争の時には取れなかった手を、今度はこちらから差し出そうではないか。……して、そこの娘はナタリアといったか。我に異存はないゆえ、疾く治療の準備を進めてもらえるだろうか」


「ひ、ひゃい……! すぐにお作りするけん、ちーと待っててください!」


 ナタリアが製薬を行うなか、ここに来る道中でロベールが救助した亜人の兵たちが態勢を整えて舞い戻って来た。麓一帯の魔獣処理を彼らに任せると、霊薬の効果で力を取り戻したシオンは火口への道を歩み始めた。かつては刃を交えた人の子とともに。



 カタフニア大火山の火口には火山の心臓と呼ばれる巨大な火の魔鉱石が鎮座している。それは火山の源とされ、古くから竜人種が代々守護してきた神聖なる代物である。だが力とは畢竟、善悪で二元できない曖昧な性質を帯びている。亜人から尊ばれた霊石は、今となっては世界を蝕む毒と成り下がっていた。

 溶岩地帯に飛び石の如く岩が浮き出ており、奥の魔鉱石へと道のように連なっている。シオン、ロベール、ナタリアの三人は氷魔法の加護で熱波を防ぎながら、カタフニアの心臓部へと歩を進めた。シオンは優れた膂力で邪魔な岩石を砕き、吹き出るマグマはロベールが方盾でいなす。空を飛べるナタリアは、戦闘の面において後れを取る一方で、飛び石が途切れているところを他の二人を運びながら移動することで貢献していた。協力関係も地に足が着くころには、火口の最深部に辿り着き、後はロベールが凝固した魔素を処理するだけとなった段にそれは現れた。


「クアアアアッ――!」


 マグマの海から突如と飛び出してきた巨大な鳥のような魔獣。翼と尾には猛き炎が纏わり、嘴は剣山の如く鋭い。さながら火の化身。大精霊ゼルカンを思わせる威光に、一行は動きを止めざるを得なかった。


「カタフニアの内部に大型魔獣だと!? そのような報告はこの数百年聞いたことがないが……」


「恐らくは警備の穴を抜けた幼体が紛れ込み、ここの魔力を吸い取り、長い歳月をかけて肥大化したのでしょう。そして昨今のカヴォード帝国がもたらした世界規模の魔素異常がそれに拍車をかけている。この魔物が力をつけるたびに、火口の心臓も悪影響を受けているのです」


「御託はいいが、エマニュエルの子孫よ。ハルピュイアの娘をしっかりと守っておけ。あやつの相手は我一人で結構」


「……この場所では黒龍の姿になることもできませんが、それでも勝機がおありで?」


「愚問だな」


 シオンは二人を下がらせると、炎の怪鳥と真っ向から相対した。ここの狭い地形から黒龍の姿が封じられているとロベールは言ったが、空を飛ぶ優位性を失っているのは相手も同じこと。単純な力比べの勝負となるが、一線を退いた身とはいえ、シオンが鍛錬を欠かしたことなど一日としてなかった。即ち歴戦の老兵たるその実力は翳りなく保たれているということだ。


 対魔物において最も避けるべきは汚染を受けることと相場は決まっている。故に長時間の戦闘継続は望ましくない。どちらが敗れるにせよ、即断即決こそが戦いの要である。シオンはその論理をよく熟知していた。双剣をしかと握って一足飛びに怪鳥魔獣フィニクスとの間合いを詰めた。


 接近には相手のコアの位置を見定めるという狙いがある。フィニクスは己を守る本能に任せて迫りくるドラゴニュートに火炎放射でこれに応対した。その威力はロベールが付与した氷の防護魔法を以てしても皮膚と肉を融かすほどの熱量を帯びていたが、魔物の背丈のためか些か打点が高い一撃であった。

 シオンは冷静に熱線の通過点を割り出すと、地面を滑るようにして紙一重で回避した。背後からは熱風の余波に煽られたのかナタリアの悲鳴が聞こえたが。彼女の傍にいるロベールを信じて、後ろを振り向かずに間合いを詰める。


 双剣の一振りが届く位置にまで近づくと、フィニクスは両翼を振り回してシオンを遠ざけようとした。柔らかい羽毛など微塵もない、過酷な環境に適応した固い皮に覆われた翼である。造形は鋭利で、単に暴れるだけでものこぎりを彷彿とさせる殺傷能力を有していた。

 いくら身体が頑健なシオンとて、直撃すれば命が危ぶまれるだろう。安全を考えるならばここも回避が得策。ほとんどの戦士はそのように考える。

 しかしシオンは違った。全身にエンハンスを付与すると、真っ向からフィニクスの両翼を剣でいなす。ひとたびタイミングを誤れば致命傷は免れない状況だったが、回避によってせっかく詰めた間合いが離れることの方がシオンにとってはよっぽど不利に働くと、彼はそう考えていた。

 この魔物を倒すことが作戦の主ではない。解決すべきは火口の心臓に宿る魔素の鎮静化と、世界を蝕む灰の雨を止めること。そのためにカタフニアの麓を始めとするあらゆるところで、亜人の兵達が迫りくる魔物に対処している。シオンが一秒魔物に後れを取れば、一つのリーベの命が失われる。その心構えが、彼の身体を苛烈に突き動かすのである。


 シオンは魔物との距離をできるだけ近く保つことでコアの位置を特定しようとした。フィニクスがあまりに暴れるもので苦労したが、どうやら右翼の先端に煌々と輝く赤の輝石があるようだった。しかし、シオンの背丈を以てしても、怪鳥のコアは幾ばくか遠かった。かといって何もせず防御に回るの気はさらさらない。彼は一瞬の迷いもなく叫んだ。


「ロベール! 我に風を授けよっ!」


「……! ええ、心得ました――フライハイト!」


 後方で無防備なナタリアを守っていたロベールは飛翔の魔法を素早く詠唱し、前線を駆け回るシオンに付与した。

 跳躍力の増したシオンは持ち前の筋力を遺憾なく発揮しフィニクスの翼にあるコア目掛けて飛び上がった。狭い火口内では十分な機動力を確保できない。慎重かつ緻密な操作が求められるのだが、怪鳥もまた座して死を待つわけもなく。火炎弾を乱射してシオンを撃ち落とさんと躍起になる。


 空中を飛び回ることで辛うじてこれを回避するシオンだったが、フライハイトの速度では敵の攻撃頻度についていくことが難しい。これでは攻撃の暇がなく、結局時間だけを浪費することになってしまう。

 しかし、それを是としないシオンの次の手は早かった。自らの貧弱な魔素感覚を振り絞って一気に天井まで昇ると、身体を器用に反転させて天蓋に張り付く。さながら虫のような体勢。動きを止めたシオンに、フィニクスは体内で貯めた火炎を一気に放出した。


 下手すれば火山内部が崩れてしまうほどの一撃。こうなってしまった以上は諸々を速やかに済ませる覚悟が必要だった。つまり、この攻防で全てを決する覚悟である。

 無論シオンにはその備えがあった。エンハンスの力を瞬間的に高め、天井を勢いよく蹴って降下する。魔獣の火炎と睨み合う格好であるが、フライハイトの飛行能力により直線的な機動を僅かに逸らし、シオンはすれ違うようにこれを躱した。竜人種の持つ丈夫な皮膚であっても、炎による余波だけでたちまち爛れて全身に痛みが走るが、彼は双剣を構える闘志だけは捨てなかった。そうなると彼にとって、火炎を放ち静止したフィニクスのコアを破壊するのはもはや朝飯前のこと。


 その一撃は驟雨の如く降り注ぎ、魔獣の右翼にあるコアを瞬く間に破壊した。硝子の割れるような甲高い耳障りな音が響き、フィニクスは断末魔を上げる間もなく消滅した。かつて英雄として名を馳せたシオンの剣技は、単騎特攻で大型魔獣すら凌駕してみせたのだ。後ろで待機していたロベールとナタリアも、その最高峰の戦士の動きに言葉もなく感嘆を示していた。


 シオンは剣先にこびりついた魔獣の残滓を一振りして吹き飛ばすと、二人の方を振り返って告げた。


「さて。火口の心臓については任せても良いか? 戦闘の余波でここも不安定になってきている、素早く済ませてくれると助かるのだが」


 ともすれば不遜な物言いに、ロベールは苦笑交じりに頷いた。


 

 


 ロベールの処置は順調すぎるくらいに終わった。亜人にしては魔素感覚に長けていたナタリアの補助も合わさり、一行は夜が明ける前に竜人種の集落に帰還した。火山が鎮静化したことにより、亜人の国一帯を闊歩していた魔獣も鳴りを潜め、それから数日経つ頃になると異常な量の火山灰もどうにか収まった。

 鳥人種の国に駐屯していたオルレーヌ騎士団は事件後の治安維持に努め、二種族間の結束はまたしても強まることになった。シオンは数百年前の功績に並び国から勲章を賜り、ロベールもまたスパニオ全土の称賛を浴びるのだった。

 カタフニア大火山を巡る事件から一か月が経った頃、ロベールが率いる騎士団が本国からの招集を受け帰国することになった。風精霊セレの噂によれば、此度の功績から次期騎士団長のポストはより強固なものになったらしい。亜人の民が豪奢な壮行会を開く中、ひとりナタリアだけが憂いた顔で過ごしていた。


「ロベールしゃん……まさか、ウチとの約束忘れたと?」


 その時、鳥人種の国にある騎士団駐屯地で給仕係として日々を送っていたナタリアは、隙を窺ってロベールに念押しした。執務室で書類に向かって難しい顔をしていたロベールは、その可愛らしい態度のハルピュイアに堪らず相好を崩した。


「約束と言えば、確か作戦を手伝ってもらう際に交わしたものだな」


「そ、そうたい! ウチを生かした責任を取ってもらうって!」


「なるほど、そうだった。君のその逞しさにすっかり甘えてしまっていたが、君にはもう……寄る辺がないのだったな。君に前を向かせた張本人として、君の未来を保障するという約束だった」


「……やっぱり忘れてたと?」


「まさか。私はただ、君が具体的にどのような未来を望んでいるのか、それについて考えていたのだ」


「具体、的に……?」


「私に出来ることなら可能な限り応えよう。君にはあらゆる選択肢を用意したい」


「……本当に、何でもいいですか」


「構わない。あれだけの苦境に見舞われた君には、その資格が十分にある」


「じゃ、じゃあ……」


 ナタリアはか細い声を漏らすと、小さな両翼をぴくぴくと動かしながら俯きがちに告げた。


「じゃあ……ウチと、その……け、け――」


「け……?」


「け、結婚してくだしゃいっ!!」


 その声はともすれば室外で働いている他の騎士衆にも伝わってしまうほどの声量で、さしものロベールも少々面食らった表情で暫く固まった。

 二人の間に少なからぬ沈黙が横たわり、顔を真っ赤に染めたナタリアがいよいよ叫びだしてしまう頃になってようやく。


「……ふむ。これは参った。私についてくるかもしれぬとは思ったが、まさか私の人生そのものをねだるとは。自慢をするつもりなど毛頭ないが、本国では私もそこそこ名の知れた家の出身でな。見合いの話も相当に舞い込んでいる。私はもとより愛するならば一人の女性だけにすると決めているゆえ、その判断も慎重に慎重を重ねているわけだが――」


「何もないウチじゃ、やっぱりダメですか……?」


「いいや、全く。だが、私の庇護のもとに暮らすわけでもなく、将来を共にする伴侶としての未来を望むのならば……それは互いが互いのためになる、互恵的な関係でなくてはならないだろう。ナタリア、私が君を守る代わりに、君は私に何を与えてくれるのだろうか」


 ロベールは早急とも取れるナタリアの懇願を一笑に付すことなく真剣に向き合っていた。ゆえに敢えて試すような口調で判断を委ね、少女のさらなる熟慮を促したのだ。

 ナタリアは暫くのあいだ口を閉ざしており、ロベールもまたそれを邪魔しないように沈黙を貫いた。

 再び静謐に戻った室内、それを打ち破ったのはひょんなことであった。三度のノックと共にかけられた声に、ロベールは壁にかけられた時計を見ながら返事を返した。

 間もなく、黒い鱗の竜人種が姿を現す。彼はロベールとナタリアの間に漂っている空気を察すると、呆れたような口調で言った。


「壮行会の前に話をしたいと言ったのはお前のほうだというのに。エマニュエルの後を継ごうとする男が、まさか少女の願いすら叶えられずに遅刻するとはな」


「申し訳ございません、シオン殿。これは……なんと言いますか」


「お前ほどの者なら、己が力で他を導け。王道を征く過程においても決して挫けぬ、最もかけがえのない杖を自分で用意するのだ」


「……私が、杖を――」


 全てを見透かしたかのようなシオンはそれきり口を閉ざすと、遠く離れた壁際に背を預けながら目を閉じた。考える余地など一瞬で十分なはず、といった無言の圧すらも感じる仕草に、ロベールは覚悟を決めたようにそれまで泣きそうな顔をしていたナタリアに寄り添った。愛おしむようにその桃色の髪を撫で、片膝をついてゆっくりと目線を合わせて告げた。


「ナタリア。私は君に生きろいった。亡くなってしまった同胞のためにも、君自身のためにも。そのために私は君にあらゆる協力を拒まないと約束したな。その結果、私を慕ってくれるようになったのは個人的には歓迎すべきことだ。君の言葉に心から頷き、その柔らかな身体を抱きしめたいほどに。しかし、私は騎士を統べる者として、今後は常に危険に晒されることを覚悟せねばならない。君だけを傍で守ってやることはもうできないんだ。ゆえに私と共に歩んでくれるというのなら、君は私の使命を背負えるほどに強くあらねばならないんだ。例えばそうだな――オルレーヌ史上初めてとなる亜人騎士として民を守れるくらいにな」


「……騎士しゃま、ですか? ウチが……?」


「ああ。結婚を申し込んできたということは、私が君の全てをもらってもよいのだろう? 君の愛だけでなく、力も。私と私が守るべき世界に捧げてほしい。ナタリア、どうか私からのプロポーズ、受けてくれないだろうか?」


「あ、あう……う、うう……」


 途中から涙目でいたナタリアはそこでいよいよ感極まって泣き出した。柄にもなく慌てるロベールの胸に縋りつき、小さなハルピュイアは大志を抱いた。


「ウチ、あのとき魔獣から助けてくれたことも……村に戻ってからずっとお見舞いしてくれたことも……何にもないウチにも頼って役目を与えてくれたことも……! ぜんぶぜんぶ、嬉しかったけん……ロベールしゃんの力になりたい、お傍にいたいって……!」


「ああ、感謝する。先ほどは冷たい物言いをして済まなかったな」


 嗚咽を漏らすナタリアの背を優しく撫でながら、ロベールは彼女が泣き止むまで暫らく胸を貸すことにした。そしてようやく二人の話し合いが一段落した頃。席を外していたシオンが場を見計らって慣れない素振りで用件を切り出した。


「上手く纏まったようなら重畳であるが。して、我を呼び出したのは如何なることか。そろそろ教えてくれてもよいのではないか?」


「そうでしたね。この件は貴方の都合がよろしければお受けしていただきたいと考えていたのですが、たった今そんな悠長なことを言ってられなくなりました」


「……ロベール、端的に申せ」


 急かすシオンに、どこかまだ不安が残る表情で見上げるナタリア。二つの視線を悠然と受け止めながらロベールは告げた。


「シオン殿を私の側近として迎えたい。以前に話した時、一線を退いたことで今現在は暇を持て余していると聞きました。ナタリアも亜人として単独でオルレーヌで暮らすのは少々心許ないでしょうし、私が描く未来への道筋に、貴方のその力は大いに役立つ」


 稀代の英雄を前にしての大胆なスカウトに、シオンは一瞬だけ面食らったあと磊落に笑った。


「くっはっはっは! 私にお前の下につけと、あのエマニュエルでさえ、そんな大言ついぞ口にはしなかったぞ。だが、ついさっきお前とナタリアの件に口出しをした我がその提案を一蹴するのは心苦しいものがあるな。……まさかとは思うが、ロベール。こうなることを予見していたか?」


「それこそまさかです。私はただ運がいいだけ。周りにいる人々に恵まれているだけなのです」


「……まあよいわ。面白い。我を仰ごうとした者は数知れず、従えようとした者は久しく現れなかった。彼女の望んだ未来というのも、こうしたことを指すのだろうか」


「改めて、シオン・ムラクモ殿。この提案、お受け願いますよ」


「ふん。この老いぼれの命、お前の執念に賭けるのも一興か」


 そうして、カタフニア大火山の事件から一年。帰国したロベールはナタリアとシオンを正式に部下に迎え入れると、騎士団長の座へと続く階梯を上り始めた。いくら亜人の差別が薄れた世であるとはいえ、当時の周囲からの反感は相応にしてあったが、彼の辣腕はそれを歯牙にもかけないほどに優秀だった。対魔獣における防衛や亜人連合国との平和的かつ互恵的な関係の構築など、彼がオルレーヌにおいて必要不可欠な人材になるのに大した時間はかからなかった。

 結局のところ、ロベールは僅か五年の月日で騎士団の頂点にまで君臨すると、それまで交際していたナタリアとの結婚を発表した。この国際結婚は両国のさらなる親交の礎となり、ヴェルトモンド大陸の平和に寄与することとなった。

 ロベールの部下となったシオンは彼のよき相談相手として、時には必殺の矛として活躍し、王国での権威を高めていく。彼が竜人種の国で培った武芸は騎士たちのよき手本となり、師事を乞うものも後を絶たなかったという。彼はそのたびに若き頃の挫折と栄光を追憶し、こう言葉をかけるのだった。「己の弱きを知り、隣人のために力を振るえ」と――。

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