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黒き魔人のサルバシオン  作者: 鈴谷凌
三章「フェスタ・デル・ヴェント~癒えぬ凍傷~」
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三章 挿話①~シオン~「その黒龍は戦乱に幕を下ろす」

 スパニオ亜人連合国の歴史は全ヴェルトモンドのなかで最も浅いが、その道程にはひときわ血腥い闘争と、数多の生命が紡いだ狂気にも似た強い信念が深く宿っている。


 六霊歴400年代初頭。イブリスを駆逐し大地を制するリーベに新たな種が芽生えた。それは人間とその他の動物の間で為される異種交配の果てに生まれた産物であり、双方の特徴を身体に有する従来の有機生命体の何れにも属さない異物であった。


 大陸に生息する魔物然り、常識の埒外に存在する者とは、既存の画一的な他者から得てして弾圧と迫害を受ける。亜人と称されたこの新たな生命体も例に漏れず、万物の霊長たる人間との隔絶は避けられなかった。


 空を駆る鳥人種は過激な思想を有した人間によって翼をもがれ、水に棲む魚人種は智慧に驕った魔法士により凍結魔法の餌食となった。恵まれた体躯を有する竜人種は数の差を賢しく利用した野蛮な輩に労働力として酷使され、小柄で雌が多かった人狐種は好事家たちの手によってその身を穢された。


 欲望を滾らす彼らの魔の手から逃れた亜人は、やがて大陸東にある大森林の彼方へと移住し、人の目を憚って密やかな繁栄を遂げることになる。



 亜人の四大種族において最も栄えた種族が何かと問われれば、ほとんどの者はあの気高き竜人種であると答えるだろう。


 事実、大陸最東端の火山地帯に版図を広げた彼らは類稀なる身体能力で以て過酷な環境を凌駕し、他を征服せんとする力に何よりも飢えていた。それは単なる競争のための渇望ではなく、先の時代において敗れた人間に対する復讐心に由来するものであった。


 長命である竜人種の一世代は、人間のそれに比べれば個体数も少なく、交代の頻度も著しく低い。それでも彼らは病的なまでの能力主義と、険しい火山から採掘される豊富な資源により、着実に求める力をつけていく。


 その飛躍の過程にて、大役を演じた要素の一つにムラクモ家がある。竜人種の間で神聖視されるカタフニア大火山を守護する、他の亜人の勢力に視野を広げたとしても並びたつものがほとんどない至高の一族。彼らは純度の高い魔鉱石を加工し良質な武器を量産することで、軍拡の風潮において頭角を現した。


 人間への抗戦を前にして、他種族との縄張り争いや内紛に向けた対処など、それら武具は大いに役立った。他にも武術の指南、優れた戦士の輩出など、功績を上げれば枚挙に暇がない。そうして六霊暦も1000年代にまで進む頃には、ムラクモ家は竜人種の王家を除けば頂点に君臨するまでの存在に成長を遂げていた。


 やがて竜人種の国の内情も沈静化し、いよいよ人間への反抗の機運が高まって来た時。栄えあるムラクモ家に一人の男児が生まれた。名をシオンとつけられた、火山の恵みかとさえ思える黒土の如き鱗が特徴の幼竜である。ヒトの形態を獲得する速度も速く、与えられた遊具を操る姿勢からは確かな知性を感じられるものであった。


 周囲からは来るべき人間との戦いで活躍する戦士となることを嘱望された。悪しき人類を残らず皆殺しにせよ。不当に奪われた領土を疾く奪還せよ。かつて祖先が受けた屈辱を悉く塗りつぶせ。

 古くから続く教育がシオンの性格を形作り、あどけない身体には先人たちの知恵が溢れるほどに注ぎこまれた。


 シオンはどこまでも健気であった。自らが置かれた境遇に戸惑いながらも、厳しい訓練にも不平を零さず取り組んだ。しかし、皆が期待した時代を変革し得る才能には恵まれなかった。亜人の世を築くべき英雄には様々な領域での傑出が求められる。この世界に数十万と蔓延る人間を相手取るため、肉体はどのような城塞でも突破できるほど強靭に、精神はどのような魔法をも跳ね返すくらいに頑健である必要があった。


 シオンのそれではとうてい力不足。筋力、魔力、機動力、知力、体力。あらゆる要素が基準には満たず、周囲はそのことを口悪く罵った。湧いて出る落胆を隠そうともせず、彼に落第の刻印を押すのも辞さなかった。彼が一年躓くたびに、亜人の宿願が果たされる時は百年遅れるのだと――。


 一時期は革命児と称されたシオンの名声は十数年と経たず無に帰した。生まれながらにして戴かれた賞賛の言葉による冠は、路傍の石にも等しい無価値なものに成り下がっていた。

 それでも。シオンは果てなく忍耐強かった。誰からの期待も失望も関係ない。強くあらねば自らを証明できないというのなら、喜んで武に命を賭そうとしたのだ。


 凡人では千の素振りで済ますところを万の数で差をつけ、土台で天才に敵わぬというのなら先人の記した書籍を漁ってはその視座を極めた。文武両道を尊ぶばかりか、彼の研鑽はより苛烈に続いた。荒れ地に転がる岩石を拳で砕いたり、日がな一日険しい火山に籠っては、溶岩の滝に打たれて精神を鍛えたりもした。


 一見して孤独であったシオンだが、その彼にも幸運なことに友人がいた。それも唯一無二の。

 コハクという竜人種の少女は、シオンが修行と称して過酷な環境に身を置くたびに、彼のあとを健気にもついて回った。その身体が傷つけば手当てし、その身体が疲労に倒れれば付きっきりで看病した。

 それは生まれたときから傍にいた幼馴染としての関係性だけに由来しない、彼に向けられた特別な感情に依る結果であった。


「ねえ、シオン。もうやめようよ。もう、やめよう……? 無理をしたって、身体が壊れるだけだよ」


 赤みがかった丸い鱗に、痩せ型で小さな体躯。竜人種の中でも特に貧弱だったコハクの瞳はいつの日も、その他が疾うに捨て去ったはずの悲しみの涙に濡れていた。

 青年期に差し掛かった竜人種は、通常、ヒトの幼児期の形態を模倣するようになる。亜人が辿ってきた種の発生に基づく性であるが、あまりに純粋で人間的なその表現は、殊更シオンの心を憤怒で燃やした。


「そっちこそ、ヒトの真似事はやめろ。見ていると吐き気がする。俺を気遣ってくれると言うなら、さっさとここを去るんだな」


「嫌だ。ただ傷つく君を見ないふりするなんて、そんな私は私じゃない! この涙も含めて、いま君を心配しているこれこそが私なんだよ!」


「お前に何が分かるというんだ、コハク? 稚拙な情をいくら並べても世界は変わらない。俺たちが受けてきた屈辱を晴らすには、圧倒的な力のみが必要なんだ。古代の精霊も結局は武力でもって不和を解決したという。俺もそれに倣わなくては。亜人と人間、どちらが優れているかを証明する。必ずや……他の誰でもない、この手で!」


「そこまでしてヒトを恨むだけの理由が君にはないはずでしょ!? 私たちは生まれてからこの国を出たこともない。ヒトと言葉を交わしたことも刃を向けたこともないのに。だったら外には可能性があると信じるべきだよ! 君が本当に望んでいるのは戦争や略奪の先にある誰かの不幸なの!? それで君の心が満たされるっていうの!?」


「心を満たす? 馬鹿を言うな。今の俺にはその権利すら与えられない。存在のためには勲章が必要だ。戦士として未熟な俺に価値など無い。その俺にすら劣るお前の言葉は余計にだ。亜人の手に入れられる資源は限られている現状、価値の無い者は淘汰されても文句は言えない。だから強く、ただ強くならないといけないんだ。………だけど――」


 もしシオンが圧倒的な支配力を得ることができれば。竜人種が築き上げたこの理すらも揺るがすことも可能であろう。その暁には、もう目の前にいるか弱き少女の滂沱を眺める機会も潰えるかもしれない。

 惰弱な言葉を飲み込んだシオンは、それきり少女に背を向けたままなのだった。



 六霊歴1400年代中頃になると、亜人と人間の争いは隆盛を極めた。着実に力を蓄えた竜人種の国が、かつて祖先が受けた屈辱を雪ぐため人間の地へと侵攻を開始したのである。


 他の亜人種はその多くが争いを好まなかったが、竜人種の部隊の中には鳥人種や人狐種も少なからず混じっていた。空を舞い、変化の術に長けた彼らは竜人種にとっての大きな助けとなり、人間側に圧倒的な苦戦を強いた。


 この時代のリーベの国家のうち、亜人に対し最も強硬的な態度であったのが、スパニオの隣国であるオルレーヌであった。そこでは未だに亜人の奴隷制度が敷かれており、立地ゆえにスパニオとの資源の奪い合いも多発していた。


 オルレーヌ王国は北の帝国との睨み合いや、南から出没する魔物の対処に追われるなか騎士団を再編成し、迫りくる亜人との戦いに注力することになる。そこで名を轟かせたのが、彼のエマニュエル・オスマンという男であった。


 当時は王都からやや東に離れた一帯を統べる小貴族であったが、エマニュエルには非凡な才があった。幼年の頃から剣術に優れ、民たちが外敵に怯えることなく暮らせるよう守護者としての道を邁進した。当主となってからも辣腕を振るい、政治家として、騎士として、王国中にその名を馳せていた。

 

 そんな彼の参入が対亜人との戦争において大きな転換点となった。徐々に戦線を拡大していく亜人の軍勢に、自ら先頭に立ち指揮を執る姿は、人々の戦意を高揚させた。


 エマニュエルは身体の数倍もある方盾を扱って優れた膂力を有する亜人の攻勢を削ぎ、魔術師も顔負けの強大な魔法を操っては相対する者を悉く屠ってみせた。その様はさながら不滅の移動要塞。亜人の軍団は後退を余儀なくされるのだった。


「シオン隊長。一刻も早くあの盾の男を止めなければ。私たちだけでなく、全ての亜人軍は壊滅させられます。場合によっては降伏するのも……」


「その弱気は相変わらずか、コハク。調子づいたあ奴らが本国にまで侵攻することがあってはならん。オスマンとかいう輩は必ず我が軍の手によって殺さねばならないだろう」


 竜人種の軍隊が敷いたその野営地は、この段に至って亜人に残された最後の拠点であった。人間の住む村を焼いた跡地に造られたそこで、隊の副官であるコハクは止め処無い悲嘆を隠すでもなく上官となった彼に進言を続ける。


「ヒトも亜人も既に多くが魔素に還りました。その残った僅かも、魔物の横槍を防ぐのに体力を削られる始末。これ以上の継戦はお互いに不利益しか生まないでしょう」


「なるほど。確かに一理ある。だがもしも俺が、たとえこの命と刺し違えであっても、あの盾男を討つことができたのなら。不利益の天秤はあやつらの方に傾くだろうな。あれはオルレーヌに生まれた新時代の旗手だ。それに比べれば……たかだか竜人種一人の命など、取るに足らない価値だと言えよう」


「……っ! シオン、君はまだ分からないの!? 命に重いも軽いもない、同じ空の下で生まれて、同じ魔素の祝福を受けた者同士、分かりあえる可能性を捨ててしまうのは――」


「分かっていないのはお前だ。昔も、今も。こと戦争において命とは単なる数量に過ぎない。それ以上の意味を持たないのだ。散々聞かされてきたその理想論は、戦いが終わった後に好きなだけ唱えるといい。俺もその時は、お前に力を貸そう。むろん、この命が尽きていなければの話だが」


「シオン……」


「勝つぞ、コハク。それぞれの意志のために」



 オルレーヌとスパニオの国境付近にて。エマニュエル・オスマンの隊は程なくして、シオン・ムラクモが率いる亜人軍と会敵した。戦況は酷く熾烈、昼夜が巡るなか剣戟と魔法による爆発が一帯を覆い尽くした。

 竜人種の勢力は補給も断たれた上に少数であったが、龍に変化できるその個の力はヒトのそれを遥かに上回っていた。数で押してくる人の群れを、恵まれた体躯と広範囲にわたる灼熱の攻撃によってなぎ払う。兵卒にだけ限って見れば、亜人の優勢は揺るぎなかった。しかし――。


「各員、我の後ろに下がって魔法による援護を! 龍どもの相手はこのエマニュエル・オスマンが努めてみせよう!」


 難攻不落のエマニュエルが依然として立ちはだかり、種族による力の差を押し返すようにして、竜人種の兵を一人、また一人と地に伏せていく。

 後方で指揮を執っていたシオンは味方が為す術もなく倒れていく状況に耐えかね、遂には黒龍の姿を解放すると不動の盾騎士に真っ向から対峙した。


「おい、ニンゲン。俺の名はシオン・ムラクモ。このまま無駄に命を散らすのもお互い惜しいだろう。ここは大将同士、一騎打ちで決着をつけるのはどうか」


「ほう? そなたが最後に残った総大将の亜人だな? 噂に聞こえし通りの大した勇猛さだ。だが……我がそなたの首を討ちとって王都に持ち帰れば、いよいよ両国の力関係は覆せないものになる。王国の亜人蔑視の風潮も増すばかりだろう。その危険を負ってでも、我と闘うつもりか?」


「シオン、その人の言う通りだよ! いくら何でも分が悪すぎる、負傷者を連れて今すぐに撤退命令を――」


 隊長の代理で膠着した戦線に注意を向けていたコハクが叫ぶ。それと同じく、人間の騎士の中にも疲弊に喘ぐ者もいた。自国に攻め入ってきた亜人から領地を奪還するために、ここまで無理な行軍を続けてきたためだ。

 双方の兵力は間もなく限界を迎えようとしている。エマニュエルは暫しの沈黙の後、方盾を構え直して目の前に鎮座する黒龍を見据えた。


「いいだろう。そなたが勝てば、オスマンの名に懸けて王国での亜人の待遇を見直すよう提言させよう。祖先が行ってきた蛮行についても、改めて謝罪することを約束する。そのために、あらゆる努力を惜しまない」


「……代価は?」


「そなたが敗れれば、スパニオをオルレーヌの属国にするよう王と騎士団本部に進言する。この様な諍いは本来我の本意ではないからな。我々が一つになるには長い年月を要するだろうが、大陸の恒久的な平和のため、この身を賭して尽力する心積もりである」


「傲慢だな。誇り高き竜人種は、亜人は……貴様らに下ることはない。未来永劫、頂点に君臨するは我らである。それを証明するため、不遇の同胞を解放するため。この勝負、俺が勝たせてもらう」


「……承知した。全員、この勝負に手を出すことを禁ずる。この盾に誓って、我が大陸を守護して見せようではないか!」


 亜人と人間、両者の隊員は二人の背後に整列すると、その種族の未来を懸けた勝負を見届けんとした。


 一陣の風が吹き抜けると同時にエマニュエルとシオンは動き出した。

 シオンは初手から上空に飛び上がり烈炎で機先を制すると、巨大な体躯を以て渾身の勢いで体当たりを繰り出した。


 その圧倒的な物量は並の人間ならば甲冑に守られたとて内臓すら潰される威力であったが、エマニュエルは火炎と共に迫りくる黒龍を方盾でいとも容易く弾き返した。


 初級魔法であるエンハンスも、極めればどの上級魔法よりも絶大なる効果を発揮する。火の魔法で強化されたエマニュエルの筋力は種族の差を歯牙にもかけなかった。


 甲高い金属音が周囲に鳴り響く。衝突によって体勢を乱したシオンに、エマニュエルは得意とする風魔法を放出する。翡翠の魔素で編まれた槍が黒龍の翼を穿ち、瞬く間に飛行に困難をきたした。


 重量差による有利が期待できない以上、龍の形態のまま継戦するのは機動力の観点から望ましくない。費用対効果を瞬時に計算したシオンは直ぐにヒトの形態に変化すると、腰に帯刀した双剣を構えてエマニュエルに向かって走り出した。


 左右に大きく揺さぶりながら接近するシオンの動きは音を追い越すほどに俊敏であった。しかもそれは魔法すら介さない純粋な肉体のみによって成された駆動であり、魔力の流れを辿ることでその軌道を推測するといった常套手段も通じないほどの神業であった。


 側面や背後に回り込んみ驟雨の如き斬撃を繰り出すシオンに、今度は巨大な盾を扱うエマニュエルのほうが速度で押され始める。


 ふと、シオンの鋭い眼光が烈しく煌めく。エマニュエルは人生において初めてとなる死の予感を覚えた。得てして、生命の危機に晒された個体が取りがちな行動とは、ほとんどが自らの身体を守るためのものである。人間も亜人も、リーベもイブリスも、本能には逆らえないのが常なのだ。


 その意味で、エマニュエルの理性は恐ろしく優秀であった。シオンが双剣を振り切った僅かの間隙をついて、自らの身体を覆い尽くす方盾をその方へと投げつける。それまで数多くの亜人を圧倒してきた無二の防御力を手ずから捨て去ったのである。


 狂気ともとれるその蛮行に、攻勢にあったシオンに動揺が走る。迫りくる鉄塊を辛うじて剣を滑らすようにしてやり過ごす頃には、拳を固く握ったエマニュエルが眼前に迫っていた。


「悪いな。我は無手の方が数段強いぞ」


 呆然としたシオンの聴覚は空白で満たされていたが、その低く威圧的な言葉だけははっきりと捉えていた。


 瞬間。遠ざかるエマニュエルの姿。魔力を込められた拳で殴られたのだと、シオンは風を裂き吹き飛ばされるなか朧気に推測した。打撃が頭部に直撃したからか、思考は混濁し、正常な判断も叶わない。


 だがそれでも、地を転がりどうにか受け身を取った亜人は、揺らぐ視界でエマニュエルの次の手に抗おうと身を捩った。


 先ほどシオンを殴り飛ばしたことで青い血が付着したエマニュエルの右手には、魂すら凍りつきそうに見える氷の刃が延びていた。魔力を込めたとて、流石に素手で亜人の頑丈な肉体に致命傷を与えることはできぬと踏んだのだろう。


 もしもあの冷たきで胸でも刺し貫かれようものなら、シオンの心臓は泡のように破け、体内を巡る血も瞬く間に凍結して死に至るに違いない。


 シオンは反射的に上体を起こし、両腕を正面で交差させた。双剣による防御態勢。物質の鋼と魔素質の刃なら前者のほうが遥かに頑丈だ。彼我における実力差も埋められるだろう。

 シオンが本能による咄嗟の行動を後から正当化しているうち、彼はとんでもない事実に気がついた。

 有るべき剣が、そこにない。恐らくは、吹き飛ばされた衝撃によって手放してしまっていたのだ。


 貴重な刹那を無駄にしたことを恨む間もなく、エマニュエルの刃が迫りくる。シオンは敗北を噛み締めると、薄く口の端を吊り上げた。誰よりも鍛錬に打ち込んできた自負があるからこそ理解できる、目の前の男が歩んできた強者としての道程。種族間の蟠りを無視すれば、個人としては敬意を払わざるを得なかった。


 シオンは羨望と称賛と嫉妬のなか目を瞑る。来たるべき痛みに歯を食いしばった。しかし――。


「……っ! 馬鹿な……!」


 初めて耳にしたエマニュエルの動揺と、周囲兵たちのざわめきが聞こえるのみで、いつまで経ってもシオンの身体は痛みを訴えない。不審に思った彼が再び瞼を開けると、そこには。


「………コハ、ク……?」


 氷刃に深々と胸を刺された、彼にとって唯一己に歩み寄ろうとしてくれた幼馴染の姿があった。



 シオンとエマニュエルによる決戦は一時中断され、直ちに双方の陣営から選りすぐりの衛生兵がコハクの容態を観察することになった。


 周囲の状況とコハクの所持品から見るに、彼女は人狐種に伝わる妖術を操り肉体を転移させることで、二人の間に割り込んだようだった。結果として、シオンの代わりに莫大な魔力を込められた氷刃の餌食となったのだ。


 刃がコハクに到達する前に違和感に気付いたエマニュエルが魔法を弱めたため即死は免れたが、彼女の内臓と体組織の損害具合から見るに治療は不可能とされた。


 重苦しい沈黙がその場の全員を支配する中、シオンの膝を枕に身体を休めていたコハクは愉快そうに双眸を細めた。

 それに気付いたシオンは、堪えきれない憤怒と悔恨を静かに漏らした。


「なぜだ……なぜ俺を庇った? この戦線を維持させて本国からの支援を待つためか? それとも亜人の歴史に再び敗北の二文字を刻ませないためか?」


「……ふふ。勝つとか負けるとか、そんな基準じゃ私を測れないよ。私はただ、大陸の平和のために、この戦争を一刻も早く終わらせようとしただけ。そのために……必要だったから……」


「必要だと? 命を自ら捨てることが必要だと言うのか、お前は?」


「……強いシオンには、必要ないかもね。でも……弱い私には必要だった。だってこうでもしないと……弱い者は言葉を届かせることもできないのが戦場の常でしょう?」


「戦士には戦士の理がある。より力の強いものがより高みに立つ。だからこそ、俺とオスマンの決闘も成り立ったのだ。弱い者は、それに従うべき。言葉など、必要ない。ただ強きを支えるだけで、それだけで、十分に――」


 言葉に詰まるシオンの姿に、彼の部下である周囲の亜人も、エマニュエルを筆頭とした人間の兵士たちも慰めの沈黙を捧げた。


 コハクの行動は果たして国家間の争いにおいて塵の価値すら持たないものであろう。利害、威信、優越、競争。他を排するこの戦争という行為のなかで、個体とはどこまでも冷酷であるべきだ。そうでなければ自らが奪われるのみで、何をも生み出すこと叶わない。


 ただ一方で、個体とは他との連関を除いて存在することができないのも事実である。だからこそ彼らに共感能力は芽生え、その関係は協調することによって豊かに拡大していく。組織も国家も、還元すれば等しく全て、その絆にこそ辿り着くのだ。


「……精霊様が魔素から世界を創世して、そこから人間が生まれて……やがて私たちが生まれた。全ては同一から派生したのだと……大陸に生きる全てが知るべきなんだよ。だって、ほら……私が刺し貫かれたとき……みんなの胸の中には……根源的な不快感が渦巻いていたはずでしょ? 理性ではいくらでも正当化できても……心の底まで隠すことはできない。私はね……それを……それをね、教えたかったんだ」


「……お前のこの犠牲で俺らを諭したとしても、それはあくまで一時的なものに過ぎないのではないか。この世に幾人もの人間と亜人が存在するか、分からないわけなかろう?」


「ううん。これでいいんだよ。君に……そして騎士オスマンに。二人にだけでも届けば……世界は変わっていくと信じてる。それだけの力が……二人に、は――」


「……コハク?」


「―――――」


「目を開けてくれ。ここで死ぬなど俺が許さん。いいか、お前は間違えている。それを理解するのだ。それから二度とこの様な禁忌を犯すことをしないと誓ってくれ。……どうか分かってくれ……そして、これからも俺を支えてくれ。多くは望まない。それだけで。だから、頼む……」


 その時、シオンらの後方の森から十数もの信号弾が上空に伸びた。人間の騎士の間で用いられている、魔物の襲撃を知らせる合図である。規則では弾の数に比例して、より緊急の事態であることを告げる仕組みになっていた。たとえ一条であっても下手をすれば村が丸ごと消失するほどの被害が生まれることも珍しくはない。稀に見るその信号弾の多さに、沈黙を貫いていたエマニュエルは部下を振り返って重く告げた。


「諸君。これからそなた達を死地へと連れゆくこと、どうか許してはくれないだろうか。亜人軍の脅威は一時的に収まっている。今は同胞の危機を優先するべきだろう。負傷者は後方の基地に帰還し応援を――」


「エマニュエル・オスマン。勝手に話を進めるなよ」


 両の腕に抱いた亜人の骸を、徐に地へ横たえたシオンが立ち上がる。その双眸には、飽くなき闘争心が宿っていた。エマニュエルは一瞬だけ憐憫と疲弊の表情を漏らしたが、直ぐに毅然とした笑みを面に貼り付けた。


「……ふむ、その眼差し。よもやこの混乱に乗じて侵攻を続けるつもりか? 魔獣との挟撃であれば、この我を以てしても防ぎ切ることはできないだろうな」


「勘違いするな。確かに本国の族長らならば俺にそうするよう命じたかもしれぬ。なるほど合理的な手だ。普通ならば逃してはならない好機と言えよう。だが……」


 シオンがふと地を見下ろす。そこに眠るコハクの最期の姿が、彼の胸には今なお深く突き刺さっていたのだ。

 無論あれは戦場において、一兵士としてあってはならない行いであった。シオンの考えは一貫している。コハクのそれはもはや禁忌とも言える愚行なりと、彼の冷たい理性は頑として告げていた。

 しかし。一方でどうしても拭い切れない感情が、自らの支えを喪ったばかりのシオンの内に溢れていた。


「俺自身の信念や価値観などどうでもいい。とにかく、俺はあいつの遺志に報いなければ。亜人の未来を任されたのだから。力ある者として、責任から逃げるつもりはない。そのために、だ。お前にまでここで死なれるわけにはいかない。魔獣との戦闘に関しては俺たちも心得がある。せいぜいその命を諦める前に、使える駒は全て使ってみることだな」


「……成程。それがそなたの答えか、シオン・ムラクモ。どこまでも、どこまでも見上げた男よ」


 斯くして人間と亜人の連合軍が結成され、両国の国境付近に出現した魔獣の群れは数十日にも及ぶ熾烈な戦闘の後に殲滅された。


 兵士達の犠牲は決して少なくなかったが、エマニュエルとシオンの両名は辛くもこの窮地から生還し、やがてそれぞれの使命に力を尽くしていった。


 エマニュエルは亜人の侵攻を食い止めた最大の功労者として、そして歴史的にも大規模な魔獣との戦いを勝利に導いた傑物として評価を受け、やがては騎士団長の座にまで登り詰めた。彼は今まで培った経験と知恵と権力を惜しまず発揮して政治にまで参加すると、オルレーヌ王国にいる亜人に基本的人権を認める法律を立案した。彼の計画が完遂するには数十年の年月を要したが、それまで奴隷として扱われてきた亜人たちは、ついに王国市民として迎え入れられることになった。

 そして、それにはもちろん、エマニュエルがかつて肩を並べた黒龍たちとの縁が大いに関係していたのだった。

 

 竜人種の国に戻ったシオンは、戦争のなか何一つとして手を打たなかった上層部に対し、作戦の顛末をあくまで形式的に説明した。それから他の亜人種を交えての会談を行うよう、頑なな老骨連中に提言したのだ。


 それは亜人種全体に通底する反人類の思想を改めるため、人間との新たな関係性を築き上げるため必要なことだとシオンは信じていたが、己の利益を最優先に考えた保守派がこれを拒否。彼を反乱分子と見做し、竜人種の国を挙げて親人類勢力を厳しく弾圧した。


 だがコハクが命を賭して示した、亜人の由来に着眼したある種の根源主義は、竜人種の国の内外で密かに根付いていたのである。結果として国賊となったシオンは、それら根源主義者の協力を受けて国家に対し革命を起こした。内紛はついに竜人種だけでなく他の亜人種の国においても波及し、このさき数十年のあいだ、亜人連合国は建国期以来の混乱に巻き込まれることになる。後の世の歴史家たちは、これを亜人種における二度目の誕生の儀であると記したという。


 元々人間との戦争に対し消極的だった他の亜人種国家もまた、竜人種の病的なまでの亜人至上主義に遺憾の意を表しており、竜人種の旧政権を討ち倒すことによってこの革命戦争は幕を下ろした。


 親人類派の団結には、人間との戦争において常に最前線に立ち、常に同胞のため戦い抜いたシオン・ムラクモの武功が深く関わっていた。彼を支持したものはみな口を揃えて彼を讃え、その力と信念をいたく信じていた。


 再生した竜人種の国の新たな当主として、シオンの名が挙がったのは言うまでもないが、彼が王の座を戴くことは終ぞなかった。彼は革命期の中で信の置ける者らに代役を命じると、表舞台を離れ大火山の麓に居を移した。


 その後の彼については様々な噂が交わされた。曰く、さる尊い身分にあらせられる人間と時おり文通していると。曰く、彼は自らが住む大火山の麓に、亜人種の領土でもひときわ精霊の加護が強いその地に数多の墓石を手ずから建てたと。曰く、彼がその墓前に手を合わせない日はただの一度もなかったと――。

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