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黒き魔人のサルバシオン  作者: 鈴谷凌
三章「フェスタ・デル・ヴェント~癒えぬ凍傷~」
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三章 第十八話「鹿魔獣ケリュネイア」

 ブロニクスより東の平野にて。作戦遂行の便宜上、ケリュネイアと称された大型魔獣の威力は凄まじいものであった。


 クロエ、ジェナ、シオンといった指折りの実力者が対処に当たっているが、この数分間の戦闘において、悠々たるケリュネイアにただの一撃も与えることができないでいた。


 彼らの築いてきた華々しい名声など大型魔獣との厳しい対局にはまるで役に立たないのだといった、悲観主義の評論家が如何にも論ずるような浅薄な見識の出番はない。三者の持つ実力は間違いなく玉石にも勝る価値であり、偏にここで問題となっていたのは、ケリュネイアの有する圧倒的な機動力によるものだった。


 通常、大型魔獣はその桁外れな体軀と魔力と引き換えに、運動面で少なからぬ犠牲を払う傾向にある。この摂理に当て嵌めると、オルレーヌの一般的な建造物にも劣らない体積を持つケリュネイアの動きは、本来ならば魔法による集中砲火は免れないほどに緩慢であるはずだった。


「――ストラール!……ってまた避けられた!? もう、何でこんなに速いの!? 無詠唱の中級魔法すら放出しても間に合わない!」


 クロエとシオンが前衛を担う中、後方からの魔法支援に徹していたジェナが苛立ちを露わに叫びを上げた。


 ケリュネイアの動きは常軌を逸しており、ヴェルトモンドの自然法則すらも超越していた。動物の歩行や走行といった基本的な動作を介さない、弾丸の如く軌道の突進。不可視の初動を巧みに駆使して戦地を縦横無尽に飛び回る姿はあまりにも自在であった。


 魔法による攻撃は、対象の動きを止める補助魔法も含めて悉く躱され続けており、そうなると通用するのは武器による物理攻撃に限られてくるのだが。


「まあまあ……歴史ある王城のダンスパーティーでも、これほど猛々しい者はいなかったでしょう。ケリュネイアさんはたいそう優れた運動神経をお持ちのようで」


「クロエ殿下。軽口を叩く暇がありましたら回避に専念を。またあの突進が来ます」


 この場で唯一魔獣の動きに食らいつけるクロエが攻撃を誘発し、膂力に優れた亜人であるシオンがそれを受け止める。幾回も繰り返されたやり取りではあるが、時が経てば経つほど有利になるのは、周囲の魔素そのものを活動の素とするイブリスの方である。


「くっ……馬鹿力め。だがあまり我を侮るなよ、はああっっ!!」


 交差させた双剣でケリュネイアの頭突きに真っ向からぶつかったシオンは、裂帛の呼吸とともに自重を支える大地を力の限り蹴った。体重差で見れば十数倍、ともすればそれ以上はあるケリュネイアの巨体を、シオンは己の筋力のみで弾き返したのだ。


 後退る鹿魔獣。辛うじて生まれたその隙に、シオンの背後から空を駆けたクロエが体勢を整えつつあった魔獣の眼球をレイピアによる刺突で抉る。翡翠色に輝く風の魔素が飛び散り、魔獣はけたたましい咆哮をあげた。


「……っ! 今!! ――シャドースティッチ!!」


 前方に飛び出たジェナは冷静に魔法の射程を測ると、エルキュールから学んだ闇の束縛魔法を一瞬にして放出した。

 大型魔獣を一撃で葬るだけの上位の魔法を詠唱する時間はない。その彼女の判断は限りなく最善に近しかったが、すんでのところで回復したケリュネイアの動きのほうがやや上回った。


 失った片方の眼球の再生も間に合わない刹那、魔獣は本能に任せて自らを縛ろうとする闇の矢の存在を嗅ぎ取ると、これまた予備動作を介することなく滑るように後ろに逃げてしまった。渾身の魔法をふいにしたジェナは悔しげに地団駄を踏んで声にならない呻き声をあげる。


「〜〜っ! もういい! 魔法が意味ないなら杖なんて捨ててやる! こうなったら素手で戦ってみせるんだから! 私は強化魔法だって一流だもん!」


「ふう、いくら譲歩したとしてもそれは得策とは言い難いが……確かに、魔術師であるジェナ殿からすれば、あの魔獣は天敵に違いなかろう」


「結局のところ武器による攻撃も心臓部であるコアを狙わないと意味がございませんもの。ジェナさんにはケリュネイアさんのコアの位置がお分かりになりますか?」


「う……し、知らない……けど! 倒れるまで殴るのを止めなければ勝てるっ!」


「これはこれは、グレンさんの情熱が移りましたか? 感情的な貴女も素敵ですけれど、そろそろ打開策を練らねばなりませんね」


 先ほど抉った眼球を再生したケリュネイアが再びこちらに迫ってくる。クロエはその性格に似つかぬ険しい表情を浮かべながら、シオンのほうをちらと伺った。

 隆々とした肉体、硬い鱗で覆われた肌。極めて強靭な亜人である彼を置いて、あの魔獣に近接戦を仕掛けることは不可能だろう。


 シオンもまたその視線の意図を敏感に察知していた。

 先の襲撃の余波に対処するべく王都から離れられないロベール団長を除けば、副官であるシオンが事実上騎士団のトップである。アマルティアに抗う戦力的にも、騎士を導く象徴としても、その命の価値はあまりにも大きいものだった。


「シオンさん、その命……ブロニクスの街と聖域を守るため、わたくしに譲って頂くことはできないでしょうか」


「ふっ……冗長な言葉など不要です殿下。貴女は正真正銘、我らの上に立つ御方なのですから」


 その重みある命を。クロエは微塵の逡巡もなく勝負の天秤にかけてみせた。保守的なシオンもまたそれに賛同し、傍らで会話を聞いていたジェナだけが驚きに惑っていた。


「ジェナ殿。これより我は亜人としての全力を解放する。ナタリアの怪鳥の姿については既に知っているかと思うが、我にも似たような獣化の力が備わっているのだ」


「シオンさん、それって……」


「古くからヒトの盟友である竜の生命力はリーベの中でもひときわ群を抜いている。我が全霊の力を以て、あのケリュネイアの動きを正面から封じてみせよう。その隙に、御二方はあやつのコアを発見して破壊せよ」


「無茶です! いくら頑丈な身体を有していても、魔物の持つイブリス・シードに汚染されれば、取り返しのつかないことに……!」


「なに。そのような下手を打つつもりはない。だがもしも万一が訪れたとしたら、その時は殿下、介錯をお頼み申す」


「承知していますわ、シオンさん。わたくしが全ての任を負いますから。だからどうか、頼みます」


「殿下も待ってください! まだ軽率に命を賭ける局面ではないはずです! せめてエル君たちの合流を待って、戦力を整えてからでも――」


「それでは恐らく間に合わないでしょう。この魔獣との戦闘がそもそもアマルティアの策の内なのですから、彼らが向かったカエルレウムもきっと危うい状況にあると見るべきです。それにこちらの兵たちの体力も限りがあります。可及的速やかに魔獣を殲滅しなければ、被害は拡大する一方に」


 二人の意見が対立する間、削られた魔力を完全に取り戻したケリュネイアが反撃の構えを取っていた。

 その予断を許さない状況に、双剣を収めたシオンは有無を言わせぬ調子で一歩前に踏み出した。次いで正面から鹿魔獣と対峙し、その眼を確と閉じる。言葉はもはや意味を持たず、ただ武力のみが場を制する時が来た。


「ゆくぞ、ケリュネイア。このシオン・ムラクモが真の強者とは何たるかを教えてやろう」


 議論の結論を待たぬままシオンが精神を統一させると、その身体は眩い光とともにみるみる肥大していった。

 着込んだ銀の甲冑を内側から破るように姿形が変形し、二本足から四本足へと体位も変わる。

 背からは二対の黒い翼が生え、尻にあった尾は次第に伸びていき樹木のような太さにまでなった。

 長い首から伸びる頭部には尖った角が添えられ、牙を剥き出した口腔からは熱を孕んだ呼気が漏れる。

 ヒトの状態から肌を覆っていた鱗もより硬度を増し、どんな外敵からの攻撃にも耐えうる不朽の漆黒を表していた。

 そこにいるのは亜人の騎士ではなく、リーベとしてのある種の究極系、万物を踏みならす黒龍の姿であった。


 そのなんたる威容か。真っ向から対峙せしケリュネイアも、後ろに控えていただけのジェナもまた、シオンの圧巻の様に暫し呆然としていた。時すらも凍り付かせた彼の変異に、ただひとり少しもたじろぐ素振りを見せなかったクロエが飄々と魔獣目掛けて飛び込んでいく。


「さて、ケリュネイアさん。そろそろ後ろ姿を拝見してもよろしいかしら?」


 平野に巨大な弧を描くように滑るクロエが回り込んで魔獣の背を捉えんとする。ケリュネイアは自身の弱点を悟られまいとしてか、直ぐに疾風の如く潜り込んでくる彼女を正面から受けようとしたが。


「相手を違えるなよ魔獣。それとも我の威容に怖気づいたか?」


 黒龍と化したシオンがその全身を以てケリュネイアの先制の手を食らい潰した。クロエに気を取られて空いた横腹に鋭い爪で一撃を入れ、前足で魔獣の頭部を組み伏せると剣山にも似た牙で額に齧りつく。


「この距離なら避けられまい。いざ、力比べといこうではないかっ!」


 その体勢のままシオンは喉奥で生成した火炎をケリュネイアに向けて零距離で放射した。爆発と熱風が巻き上がる中、悠々たる鹿魔獣が初めて苦悶の咆哮を放った。


 風魔法で地を滑っていたクロエは、両者の激突を尻目に陽が傾きつつある空へと飛翔する。そのままシオンの巨体を通り過ぎ、ケリュネイアの背にレイピアをなぞらせるようにして魔素質の皮を剥ぎ取った。これは有効打にこそならなかったが、彼女はそれでも魔獣の広い背を斬り刻みながら進み、やがて魔獣の尻にまで辿り着いた。


「顔、胸、背……どこにもコアがありませんわね。ならば……」


 斬撃を見舞いながら思考するクロエは直ぐに隠されたコアの位置に思い至った。ここまで目にすることの叶わなかったケリュネイアの下腹部を、地平との隙間を縫うようにして潜り込もうとしたその時。


「キュオーッッッッ!!」


「ぐっ!? よもやこの形態で力負けするだと……!?」


 自らに訪れた危機を脱するため、ケリュネイアは体内に溢れる魔力を解放し、覆いかぶさるシオンを頭突きで押し返した。それから股座に入り込もうとしていたクロエを後ろ脚で蹴散らしにかかる。


「……っ! この的確さ、後ろに目でもついていらっしゃるの?」


 ともすれば内蔵ごと身体が破裂するであろうその蹴撃を、クロエは魔力を込めたレイピアでいなすようにして軸をずらすと、痺れを帯びた利き腕を庇いながらいったん前線から距離を置いた。


 人間にしては傑出した魔力量を誇るクロエであっても、流石に大型魔獣であるケリュネイアには及ばない。魔素をオーラとして身体に纏わせることで致命打を躱したが、すぐさま反撃に転じるほどの余力は残されていなかった。


「殿下! くっ、ケリュネイアめ。その動き、先に我を仕留めるつもりだな?」


「キューーー!!」


 ケリュネイアからしてみれば、機動力に富んだクロエは手強い。多様な魔法を操るジェナも同様だ。ゆえに力負けを覚悟してでも、俊敏さで有利を取れる黒龍シオンを倒し、そのうえ汚染できれば。それはこの窮地を切り抜ける至高の一手となる。


 知性に乏しい魔獣が弾き出した解答としてはあまりに出来すぎなその策に、シオンは煩わしげに唸りをあげた。単純な膂力では勝っている。しかしケリュネイアの有する爆発的な推進力を加味すると――。


「ぐおっ!? まずい、此奴の狙いは汚染か……!?」

 

 ケリュネイアの目にも留まらぬ突進で体位を崩したシオンは、魔獣が珍しく見せた不気味な口腔を目にしてその狙いに気付いた。


 リーベを汚染するイブリス・シードは、そのほとんどが肉体的損傷に伴って体内に入り込み、対象の物質で形作られた組織を魔物の持つ魔素質へと変換させる。そして因子を植え付ける最も効果的で原始的な方法が、いまケリュネイアが体現している噛み付きによる攻撃であった。


 シオンの持つ頑健な鱗があったとしても、長時間接触を続ければ汚染は免れない。体勢を崩した龍の首元を狙って鹿魔獣がこれ幸いと迫ってくる。

 接触は不可避。ならばせめて汚染を受け切る前にカウンターで切り抜けよう。シオンが冷徹に覚悟を決めたその時である。


「私を忘れてたら痛い目見るよっ!」


 突如として中空に黒い穴が広がり、そこから飛び出してきたジェナが迫りくるケリュネイアの下顎を魔力を込めた杖で殴りつけた。闇魔法ゲートによる空間転移が可能にした意識外からの奇襲。不意を突かれたケリュネイアは頭を伝う振動に暫し動きを止める。ようやく魔獣に一矢報いたことに喜ぶジェナであったが、空中に投げ出された身体を制御するための魔力を残していなかったことを悟る。


「風魔法忘れてたぁ! お、落ちるーー!」


「ジェナ殿! 我に掴まれ!」


 危機を脱したシオンが状況を一瞬で分析すると、その翼で飛び上がってジェナの落下を背で受け止めた。


「あ、ありがとうございます。うう……私はちょっと鼻をぶつけちゃいましたけど、シオンさんはどこも怪我してませんよね?」


「お陰様でな。それに丁度よい、ジェナ殿。貴女の手にしている杖ではあやつ相手に心許かろう。我の翼に刺さっている双剣の片割れを使うがいい。そしてそのまま頭のほうまで登って参れ」


「まさか、馬すら乗れない私に騎馬戦ならぬ騎龍戦をしろと?」


「悪いが拒否権はないぞ。こうなった以上、貴女を降ろしている余裕などないのだからな」


「ちょっとシオンさんっ……って、きゃあぁっ!?」


 地上に待ち構えているケリュネイアはその枝のように広がる角から幾重もの光線を黒龍目掛けて繰り出していた。旋回で辛うじてそれを躱すシオンだったが、その背に乗るジェナは慣れない駆動に吐き気を催した。


 文句の一つでも言いたいところだったが、今はその時ではない。気を取り直したジェナは火魔法エンハンスで筋力を強化すると、シオンの指示通り剣を携えて彼の頭頂部にまで登った。


 シオンが片手で振るっていた得物を両手で構え、脚を龍の角に絡ませて体勢を整えたジェナは、かつてグレンから聞きかじった剣術を頭に思い浮かべた。肘を固定し、脇を閉じ、切っ先の向こうで相手を捉える。頭に乗せるジェナの気配が変わったのを、シオンは感覚だけで理解し、対する魔獣との格闘に意識を割き始める。


 翼を折り畳んでケリュネイア目掛けて降下するシオン。同時に口からは炎を吐き出して機先を制す。


 やがて黒龍と魔獣は再びその身体を激突させ、力比べの格好になる。


 シオンの上に座ったジェナは構えた鉄剣にありったけの光の魔素を込めて刀身を増やし、上半身の捻りも活かしてケリュネイアの巨大な角を叩き斬らんとした。魔素質で構成された角と光の刃が鎬を削り、魔力を帯びた衝撃波が空を裂く。


「かったい……なぁっ! でも、私だって六霊守護の後継者なんだから。これくらい軽く! 折って! やるっっ!!」


 ジェナが満身の力で剣を振りぬくと、網目の如く広がるケリュネイアの角に次第に亀裂が入り、砕けた魔素の結晶が軋む音を上げながら割れていった。


「シオンさん!」


「任せよ――っ!」


 怯んだケリュネイアの身体にシオンの顎と爪がすかさず猛威を振るう。全リーベのなかでも極めて強靭な黒龍の武器は、魔力を削がれた魔獣に手痛い一撃を喰らわせた。


 二対一ではやはりこちらに分がある。勝利への道筋を捉えたジェナは、未だ後方で回復に徹していたクロエに向かって声を張り上げた。


「殿下ー! いつまでも休んでないで早くコアを破壊してくださいー! こっちは慣れない剣術で大変なんですからぁー!」


「……っ! そんなに煽らずとも、ご覧に入れて差し上げますわっ! わたくしの剣は、誰よりも速いのだと!」


 瞬間、蹲ったクロエは力の限り大地を蹴り上げると、音を置き去りにするほどの速さでケリュネイアとの間合いを詰めた。彼女の居た場所は石塊とともに土が抉れ、雑草が宙に儚く舞っていた。


 その葉が落ちるよりも遥かに早く、クロエは再び魔獣の股座に潜り込む。今度は蹴撃もない。容易く下腹にある翡翠のコアを目視で確認し、その飛び込んだ勢いにエンハンスによる強化まで付与すると。


「先ほどはよくもっ、この可愛らしい姫君を足蹴にしてくれましたわねっ!」


 大地と魔獣の間の狭い空間で器用に身体を回転させると、クロエは強化した右脚で以て弱点たるコアを思い切り蹴り上げた。


 山のようなケリュネイアの巨体が、後ろの二本の脚を残して一瞬だけ浮く。その隙にクロエはより刈り取りやすくなった獲物目掛けてレイピアによる刺突を放った。


 耳障りな破裂音を出しながらケリュネイアのコアが粉微塵に砕け散る。クロエは倒れ伏す魔獣の身体に押し潰されないうちに素早く身を翻して全力で横に回避した。


 正面では魔力を含んだ角を悉く斬り落としたジェナと、魔獣の身体を真っ向から封じた黒龍が歓声を上げた。


 コアを破壊した今、あとはケリュネイアの肉体から完全に魔素が無くなるのを待てばよい。人間側の勝利が約束されたかに思われた、本当に束の間のことである。


「キュオオオ!!」


 あとは滅びを待つのみであったケリュネイアが、なんというべき決死の勢いで眼前のシオンらに襲いかかったのだ。


 その予定外の健在に、目の前であろうと反応が遅れる両者。ケリュネイアは上に乗るジェナごとシオンの頭部を丸呑みにせんと巨大な口を広げた。


「……これは参った。ジェナ殿、許せ」


 いち早く我に返ったシオンの行動は唐突であった。その頭から振り落とされたジェナが空中を落ちながら目にしたのは、大型魔獣の口腔に呑まれるシオンの姿であった。


「そんな、私を庇って……!? シオンさん! 早く魔獣から離れてっ! そのままだと……!」


 汚染は免れない。シオンもそれは十分承知していた。だが彼はケリュネイアから逃れるどころか、その長い首を自ら奥へ奥へと突っ込んでいく。どのみち捕らえられた時点で、この命の行き着く先は決まっているのだ。


「ああ、存分に我を傷つけるがいい。だがその本能が、お前の身を今度こそ滅ぼすのだ」


 シオンは尖塔のような角で内側からケリュネイアの上顎を持ち上げると、喉の奥にある翡翠の煌めきをしかと見た。それはちょうど魔獣の下腹部に鎮座していたあのコアの光に酷似していた。


「ふん、やはりそこに隠しておったか。先ほど噛みつかれようとした時、この光を見逃さなかったのは武人として誇るべきことか」


 シオンの言葉は、この魔獣を殺すのに道連れを選ぶほかない己の不甲斐なさへの裏返しでもあるかのようだった。


「シオンさん、おやめください! わたくしが今からもう一度コアを破壊しに……!」


 駆けつけたクロエがすかさずシオンの身体に登ろうとするのを、彼は黒き片翼によって振り払う。これから繰り出す決死の攻撃に、その尊き身体を巻き込まぬように。


「代価を払うのは騎士たる我の役目であります。殿下には、後のことをお頼みします」


「っ! この国にはまだ貴方の力が必要なのです! いいからおやめなさい! シオン!!」


「申し訳ない。殿下、ジェナ殿。――さらば!」


 クロエの制止も意味を持たず。シオンは短く告げると、自らについた傷口から入り込む何かの感触に堪え、口から生成した最大火力の炎をケリュネイアの体内で爆発させた。


 ひときわ大きい炸裂音の後、時空が無音で満たされる。視認を許さぬ空白で塗りつぶされる。それは紛うことなき必殺の一撃に違いなく、暴虐のケリュネイアの脅威はこれにて完全に消し去ったのだった。




 クロエが反射的に閉じた瞳を再び開けるとそこには、魔獣の残骸に凭れるようにして倒れるヒトの姿のシオンがあった。


 黒い鱗は所々が食い破られ、竜人種特有の青い血が悲惨に肌を彩っている。傷口からは魔獣の魔素が入り込み、体組織を汚染し始めたのか、全身には黒い瘴気が漂っていた。


 その致命的な光景を前にして、クロエは心の裡で膨れ上がる憤怒と悔恨を理性で縛り付けると、近くに落ちていたシオンの双剣をそっと拾い上げた。


 それから幽鬼の如く足取りで力を使い果たした竜騎士の前にまで歩み寄る。その美しき顔は、見る者を震わせる深い決意で満たされていた。


「――シオンさん。貴方は今までの任務において、汚染の兆候が見られた部下をいったい何人ほど手にかけて来たのでしょう」


 シオンの散らした血溜まりでドレスの裾を濡らしながら、クロエはついに自重を支えられなくなって横たわる彼を淋しく見下ろした。

 死に体のシオンの覇気は塵に等しく、かつての泰然とした影は何処にも残されていなかった。血反吐をひとつ吐いたシオンは、それでも確かな意思をその瞳に宿して敬愛せし主に微笑みを返した。


「我が直接手を下しただけでも367名でございます、殿下。彼らの名も顔も性格もすべて……今なお克明に思い出すことができます」


「それしか汚染を拡大するのを防ぐ方法がないとは言え、罪悪感に駆られることもあったでしょう」


「ええ。我は弱いゆえ。ただ、罪と向き合うために、ヒトも亜人も強くなるものです。……殿下も、必ずや――」


 双剣の片割れを持つクロエの腕が微かに震えるのを、シオンは自らの子を諭すかのような口調で宥めた。

 立ち尽くすクロエのもとに、身体を強かに打ちつけて動けないでいたジェナもようやく合流した。彼女は両者の状況を汲み取ると、クロエの持つ剣を指で指し示した。


「殿下。お辛いのでしたら、私が代わりに――」


「……いえ。お気持ちだけ頂きますジェナさん。シオンさんには昔からお世話になりましたから。これはわたくしが手ずから解決致しますわ」


 力強い亜人が魔物となれば、それがもたらす被害はケリュネイアと同等の域にまで及ぶだろう。


 リーベとイブリスは相容れない。それこそ世の摂理。果たして覆すとしたら、いったいどれだけの代価を支払えばよいのか。クロエはままならない現状に苛まれながらも、携えた剣を両手で振り上げた。


「まさか本当に介錯をお願いすることになるとは。我もすっかり老いてしまったようだ」


「全くその通りですわね。次に判断を誤ったら、わたくしとて罰することはできませんから」


「ふっ……。この身が魔素に還り、また新たな命として生まれるときまで、覚えていられるとよいのですが」


 それきり瞳を閉じたシオンに、クロエは今度こそ覚悟を決めて鉄剣を振り下ろす。

 宙に舞った青の血飛沫は、一等偉大な騎士に捧げられるべき、生者からの献花にも似ていた。

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