三章 第十五話「エルキュール・ラングレー」
六霊暦が制定される遥か昔。まだヴェルトモンド大陸が世に存在しなかった、精霊が隆盛を極めた時代のこと。
世界を統べる六大精霊の内の一柱、闇の魔素を司るベルムントは、その優れた知性から世界に滅びを見ていた。
それは如何様なことか。
世に存在する精霊は周囲の魔素を吸収し、己の糧とすることで半永久的に生き永らえる。だが、増殖の一途を辿る彼らに対し、それらを生かすための周囲の魔素というのは枯渇する一方であった。尽きぬことのない生命。精霊同士の小競り合いは往々にしてあり、一時的に数を減らす時期というのも度々あったが。六大精霊が頂点に君臨してからの治世は素晴らしいもので、時代は平穏無事に移ろっていた。
しかしそれも仮初の平和であった。魔素と命の慢性的な不均衡。それこそが、精霊界を静かに蝕んでいたのだ。魔素が潰えればそこに依存する精霊もまた潰える。即ち、滅びへの道。そしてその来るべき滅亡を誰よりも危惧していたのが、闇精霊ベルムントをおいて他にいなかったのは、後の人の世代から見れば、あまりに不幸なことであったのかもしれない。
ベルムントは研究熱心な精霊だった。取り分け、生命の創造に感心があった。精霊を形作る魔素とは何処から生まれるのか。どうすれば魔素に依存しない生命機構を生み出せるのかといった、革新的で根源的な問いを四六時中において考えていた。
なぜその他の五柱の大精霊でなく、ベルムントだけがこの領域に達していたのだと云われれば、それは闇の魔素に由来する特徴がそう仕向けたに違いない。闇とは知恵の光が射さぬ無明であり、元より不明瞭な特性を持つ。ゆえに探究し、その実を解き明かさねばならないと、勇気ある者へ語りかける。闇とは、精霊に、人に、大いなる好奇心を抱かせるものであるのだろう。
さて、聖域アートルムダールに籠って幾星霜、ベルムントは数百を超える試験体を生み出し、その経過を観察した。闇の魔素を中心にして、密かに他の精霊の力も借りることで、六属性の均一なる魔素の結合を実現させる。そうして生み出されるのは、精霊とは異なる安定した身体を持つ新たな生命体――そのはずであったが。
何度試しても結実には至らなかった。魔素の集合によって捏ねられた造形はどれも歪であり、そこに命の息吹が宿ることはなかった。抜け殻、残像。腐敗した魔素と、死の具現。精霊に達するまでもない、失敗に次ぐ失敗であった。
また、尊き生命を弄んでいるかに見えるベルムントの所業は、やがては他の精霊の顰蹙を買い、彼は次第に孤立していった。罪人の烙印さえ押され、あらゆる醜聞が交わされた。されど、彼の研究は続いた。彼には崇高な使命感があった。何より純粋で、何より狂気的な渇望が。
世界を守りたい。滅びを回避するために、精霊という生命体は変化を遂げなければならない。そうあるべきだと。
高濃度の闇の魔素は、現代においても研究が至っていない不可思議な性質を帯び、あらゆる力、あらゆる意志、あらゆる秩序を歪ませる。ベルムントの道も、またそれと同様であった。
だがベルムントは己の身さえ省みることなく、なおも生命の昇華をその手中に顕そうとした。手法を変え、完全に魔素の吸収を抑えるのではなく、生命の維持に必要な量を減らすという方向で妥協案を拵えた。今の精霊ほど魔素に依存せず、しかし完全に魔素との関係は切り離さない。
自身の魔素を、精神を切り分け、魔素で形造られた器に封じ込める方法。これはベルムントの存在そのものを懸けた壮大な計画であった。誤れば、精霊の持つ永続性は失われ、ベルムントの身体は名もなき魔素へと還る。
それでも彼は、進むことを止めなかった。丹念に六属性の魔素を注いだその器は、丸みを帯びた部分、四本に分かれた部分――後の世にヒト型と呼ばれる形――で創られ、強大な魔力が六色の光を放っていた。
ベルムント会心の一作。それは以前までの虚像と異なり、時を経ても形を失われずそこにあった。そして何より、器から生じる途轍もない魔力だ。その光景を目に、那由多の歳月が実を結んだことを実感したベルムントは、ひとりアートルムダールの奥の間で歓喜に吼えた。
『これは、果てしのない道に刻まれた大いなる一歩である。我の、我らの未来を紡ぐ、新時代の生命――その原初の存在である! ここに寿ぎ、名を贈ろう、貴様の名は――』
◆
『それが貴殿の名であるのか? 随分と大仰で、馴染みの持てぬ……』
黒髪を後ろで束ねた剣士の青年が、見た目の麗しさに似つかぬ訛り言葉で告げる。その低く艶やかな声が空気を伝わるのを、名を名乗ったほうである琥珀色の瞳を持つ魔人は、感情のない面持ちで聞き流していた。
六霊暦1693年。後の世にアートルムダールの戦役と恐れられる、大陸南西端に位置する闇の聖域にて行われた大戦。高濃度の魔素がか弱き人体の中枢を蝕み腐敗させ、魔物が無尽蔵に湧き出る狂的なる戦乱の地において、この二人の邂逅は全くの偶然と呼べるものであった。
黄土色の荒れた土肌に黒い腐食の痕が残る不毛の大地、解けかけている闇の封印を再構築するため、六霊教教皇ルクレアに同道するとある少年少女がいた。
冷静に戦局を判断し、適切な管理能力を持った少女グロリア。魔素による諸々の影響を中和する術を持ち、かつて大精霊の施した封印にも熟知した青年ローリー。そしていま魔人と対峙せし、圧倒的な剣技を有する刀使いオーウェン。
後にデュランダル幹部となるその三者が住んでいた村は戦の混乱に呑まれ、彼らは路頭に迷う浮浪児となった。その暗がりとも呼べる時のなかを教皇含むリーベ連合軍に拾われ、間もなく戦場に登用された。それは彼らの有する非凡な才を見込まれたがゆえ、そして如何なる兵力であろうとも活かさずしては勝利を許されない過酷な状況ゆえのことだった。
ルクレアとオーウェンら三人は荒れ狂うアートルムダールの地を一文字に駆け抜け、ついに大陸最西端に位置するベルムントが封印されし遺跡群へと辿り着いた。兵貴神速の構え。人を襲う魔物が集うのは、偏に闇の聖域の封印が解かれつつあるから。力尽き散りゆく兵達を、彼らは深い悲しみの果てに幾度も見送った。命よりも重い大きな任が、疾駆する彼らには確かにあったのだ。
だがそんな彼らも、究極の僻地であるこの遺跡内に見知らぬ人影があったとなれば、流石にその歩を止めざるを得なかった。闇の魔素が醸す暗闇に佇むその黒衣は、暗闇よりもなお暗く、一見して素性を悟らせない不可思議さがあった。
しかし辛うじて目を凝らせば、その胸部には怪しい煌めきが見て取れた。魔人の持つ生体器官であるコアの発光。ここまで先陣を切っていたオーウェンは、それを見るや否や正体不明の魔人に鬼人の如き勢いで斬りかかった。他の三人も飛び出した彼を補助するべく魔法を放出し、あちこちで咲き乱れる戦火の一つがここにも同じく湧き立ったのである。
正体不明の魔人と四人の精鋭たち。共に類稀なる魔力を有する。戦局は苛烈を極める――かに思われたが。勝負の時は一瞬で訪れた。
暗黒よりもなお暗い闇のイブリスは、容易く人間の結束を跳ね退けてみせたのだ。オーウェンの剣術を体捌きで躱し、他の三人の魔法はより強力な魔法で以て迎撃する。彼我の実力差を思い知り、この遠き地で果てる未来を予感した四人がひとたび攻撃の手を緩めると、常夜の化身たる魔人は二の手を打とうとする彼らに先んじて距離を詰めてこう告げた。
戦うよりも前に貴方がたの名前を知りたい、と。
戸惑いつつも休戦の提案を受け入れたオーウェン一行は、そこで初めてその魔人の真名を知ることになる。
森羅を染めあげる夜の化身。遍く広がる闇を統べる者。
その者曰く――。
◆
「宵闇のナハティガル……? 闇精霊ベルムントの善性だと……!? 何を言ってやがる、お前は、お前は……!」
水の聖域カエルレウム、聖遺物の間にて。半魔人の少女ロレッタに身を預けながら、正義の執行者グレン・ブラッドフォードは目の前に現れた闇の化身を前に痛切に叫びあげた。
忘我の魔人は、揺らめく黒き魔素を周囲に漂わせながら泰然と佇んでいた。その琥珀の眼差しは深淵の如く、見る者を暗がりに引きずり込むかのよう。
「太古ノ時代。ベルムントガ生ミ出シタ新タナ生命。魔素欠乏ニ陥ッタ旧世界ノ希望。ソレコソ俺ノ造ラレタ本当ノ意味ダッタ。ダガ俺ノ存在ハ数多ノ精霊ノ反感ヲ買イ、ベルムント本体共々アートルムダールニ封印サレタ。精霊ヲ否定スル存在自体ガ禁忌ユエニ。全テハ罪過カラ生ジ、コノ身ニ祝福ガ訪レルコトハナイ……。俺ハ……目覚メルベキデハ無カッタノカ……?」
閉ざされた水の聖域の一室に、記憶の濁流に苛まれた魔人の葛藤が静かに響き渡る。
闇精霊の被造物。それは六大精霊の分裂の元凶となり、やがてベルムントが封印されることになる、あの精霊大戦の火種となった。結果として、精霊の持つ魔素が戦いによって激しく衝突し、今のヴェルトモンド大陸並びにリーベ、イブリスが生まれることになった。
この魔人の存在は、現在における二種族間の対立を引き起こした遠因と呼べるのだろうか。グレンが逡巡に口を閉ざした瞬間――。
「そんなこと、どうだっていいでしょ!」
その身に同じく魔を宿す少女が、沈みゆく空間を掬いあげるように声を荒げた。ロレッタ・マルティネス。かつてマリグノの非道な実験により壮絶な道を歩むことになったその少女である。
「私の魔物への復讐心が私にとって意味がなかったのと同じように、貴方が生まれたことに貴方が定義できる意味なんてないわよ! 存在の価値なんて他人によって幾らでも変わる不確かなものだわ! でもね――」
傍らに抱えていたグレンを優しく地面に座らせると。ロレッタは嘆き暮れる魔人と真っ向から対峙した。
「少なくとも私にとって、貴方はもう無くてはならない存在なの! グレンやジェナみたいに光を目指して戦うだけでない、自分の中の闇に抗うためにも戦う貴方だからこそ! 私は貴方に感謝してる!」
一歩、ロレッタが魔人との距離を詰める。
「私の歪んだ魔物への感情が暴走しないよう、ずっと静かに見守ってくれてありがとう! 私にデュランダル特別捜査隊という地位を与えてくれたのは、私に少しでも正義感を芽生えさせるためだったって今だからこそ分かるわ!」
二歩目、魔人から放たれる魔素が困惑に揺らぐ。
「貴方を魔人だと知って傷つけてしまった時、貴方は指のひとつすら動かさず私の言葉に耳を傾けてくれた! 貴方の潔白を一分も信じることなく一方的に捲し立てるだけだった私に、貴方は憤るばかりか私に深い共感と誠意を示してくれた! それは他の誰でもない貴方だからできたことよ!」
三歩目になると、ロレッタと魔人の距離は手を伸ばせば触れあえるほどになった。
「私の体質が死者の魔素と共鳴して怨嗟の声を拾ってしまった時も、貴方は私と亡くなった人たちに心から祈ってくれた! 貴方がどこまでも純真だから、ヒトを愛しているからこそでしょう!? そこに出自も立場も関係ないのよっ!」
そうして伸ばしたロレッタの両の腕は、肥大しつつも辛うじてヒト型を保っている魔人の胴体をしかと抱きしめた。
「私から見ただけでも、貴方はこんなにも凄いヒトなのよ!? 世界にとって価値がないなんて私が言わせない! もしも本当に貴方の存在が厄をもたらすものだったとしたら、私が貴方を殺してでも止めてみせるわ! 私というヒトの中で、貴方を素晴らしい価値を持つ存在だと永遠に留めてあげる! だから弱音なんて吐いてないで生きなさい! 魔物に連なる私たちでもきっと光の世界を歩めるから!」
「……ロレッタ。ソウダトシテモ、俺ハ……」
「うるさい馬鹿! 私が歩むべき人生の意味を変えたんだから、最後まで見届けなさいって言ってるのよ! さっさと元に戻って姉さまとマリグノの所に行くの! 貴方はヒトの世に生きる魔人でしょ!? ヒトと共に在れる自分を目指してるんでしょ!? こんな所でうだうだしてたらご家族も絶対に悲しむわ! だからお願い! 元に戻って! それでもう一度私と一緒に戦いなさいよ――エル!」
少女が名を叫ぶ。それはかつての真名ではない。ヒトとしての記号。
その願いに導かれたのか、魔人の身体は次の瞬間、目も眩むような黒き極光と共に姿を異にするのだった。