三章 第十四話「追憶と赦免と」
覚醒の時は突然であった。
それまで静寂と暗闇に満ちていた感覚が何の前触れもなしに開かれ、ロレッタは背中に伝わる冷たく固い無機質な感触にふと煩わしさを感じた。姉であるミルドレッドと外を放浪していたときにはよく慣れたものだが、ミクシリア教会に拾われてからというもの、このような目覚めを迎えるのは随分と久しい。
身体の節々が痛い。柔らかなベッドが恋しい。そもそも意識に纏わりつく眠気が酷くて煩わしいことこの上ない。自動的に湧き立つ感情はどれも目的意識が薄く柔らかで曖昧だったが、次の瞬間にはロレッタの中に電流のような衝撃が走った。
ここはどこだ。今はどういう状況か。大切な任務があったはずなのだ。ロレッタはそれを果たさなければならない。
朧げな視界を必死に瞬かせ、ロレッタは痛む上体を起こしながら周囲をぐるりと見渡した。
紺碧の壁と火の消えた燭台が並ぶ広い空間。背後には以前までは何かが祀られていたのだろう酷く空白の目立つ祭壇があった。どこかの遺跡、祭祀場だと見受けられる。しかし、まるで覚えがない。ロレッタの記憶はあの夜、月光の下に立つミルドレッドの姿を最後に途切れて――。
「……っ! そうだ、姉さま! そしてマリグノ! 私は背後から撃たれて、それで――!」
思い出す。ミルドレッドと分かり合えた瞬間を。
思い出す。マリグノの古くから続く狂気を。
思い出す。魔人と化し、グレンとエルキュールを襲ってしまった事実を。六霊守護であるジェラールを殺めた罪を。
トゥルリムが拾い、グレンが繋いでくれたこの命を。
全て、思い出した。確実に。
ロレッタは視線を床に向け、そこにあるべきものたちを探した。
まずは祭壇前で倒れているジェラール。海を彩る波があしらわれた地面に赤黒く変色した血液を撒き散らし、胸部を穿たれたままうつ伏せに倒れている。出血量と傷の損傷具合から見て、既に事切れていることだろう。ロレッタは改めて己が為した所業に震え、叫びだしそうになった。だがそれをすんでのところで堪え、悔しさと情けなさに歯噛みし、行うべき探索を続けた。
広間の入口のほうを見やるロレッタ。そこにもまた彼女の罪が横たわっていた。
火花が燃えるような赤毛をした長身の青年。得物である銃大剣をすっかり手放し、力なく天を仰ぐ様は正しく満身創痍。微かに呼吸し身じろぐ姿から、まだ微かにその命の灯が消えてはいないことが知れる。一方には間に合わなかったが、もう一方はまだ世界に存在が繋がれていた。有難い。ロレッタは精霊に感謝を抱きながら男のほうへと手を伸ばした。
「グレン……!」
名を呼び、目を見開く。
ロレッタはすぐにでも彼のもとへ寄ろうとしたが、その全身はまるでつい先ほどまで冷凍されていたかのように力が入らず、這いずるような動きはぎこちなく緩慢であった。
目と鼻の先を移動するのに焦れるくらいの時間をかけ、ようやくロレッタはグレンの傍に辿り着いた。近づき、顔を覗き込むようにして様子を窺う。見れば額や腕、両の足、至る所から鮮血を流し、どうやら多量の失血により気を失っているらしい。このまま放置すれば、彼の命は敢え無く潰えることだろう。
その事実に気付いたロレッタは急いで自身の膝にグレンの頭を乗せて寝かせてやると、傷ついた肉体に作用する水の治癒魔法を放出した。
「――クラーレ。クラーレ。お願い……水の魔素よ、彼を癒して……!」
覚束ない詠唱。枯渇する魔力。鈍麻した魔素感覚。治癒の効果は絶望的なほどに表れない。ロレッタはあらゆる点で消耗していたのだ。マリグノの変化の術を受け、魔人として暴れ回り、グレンとの戦闘においても力を垂れ流し続けた。残されているのは、ほんの僅かな搾りかすのみ。
されど彼女は諦めない。長年貼り付けた達観を脱ぎ捨て、なりふり構わぬ姿勢で治療を試みる。心から、グレンの存命を願う。他人には祈るまいと決めた過去の決意すら手ずから葬り、目に見えない精霊にすら祈りを捧げた。
果たして、その哀願が届いたのか。
治癒の魔法が鮮やかな血肉となり、グレンの紅き双眸が再び蹲るロレッタを映した。
「……お前……やっと、目が覚めたのかよ。まったく、嫌になるくらいに遅え……とんだ怠け者だな、おい」
力ない笑みを浮かべるグレン。声は弱々しく、平時の気迫も見られない。しかし、それでも生きている。自分を省みずにロレッタを救おうとしてなお、その命の炎を絶やさずにいてくれていたのだ。
ロレッタは涙を流した。嗚咽を抑えず、かつてないほど大声をあげて。大粒の雫がグレンの顔をしとどに濡らした。
「……ひぇっ、ぐすっ……良かった……本当に良かったよぉ……!」
「はぁ!? おい、そんな泣くこたあねえだろ!? そんな可愛い奴だったかお前!? って、痛えっ!」
素っ頓狂な声を上げたグレンが慌てた様子で上体を起こし、またすぐさまロレッタの膝に後頭部を打ち付けた。
世界にただ一人の姉が魔人となってからずっと覆い隠してきた弱みが露出し、止め処なく溢れてしまうのを抑えきれないロレッタ。積もりに積もった思いに突き動かされ、彼女は震える口で言の葉を紡ぐ。
「だって……だって……! 王都で再会した時グレンが私のこと全然覚えてなくてっ、それで酷い態度で当たっちゃってっ、ずっと謝りたかったのに素直になれなくてっ……うぅ、うわあああん!」
「再会……? オレとお前がか? 悪い、頭がぼうっとして思い出せねえんだが、いつどこで会ってたって言うんだ?」
「ずびっ……そ、それは――」
相変わらず鈍いグレンに、ロレッタは安堵と後悔の中に少しだけ怒りを露わにして続けた。
今から七年も前のことになる。ロレッタが初めて王都ミクシリアの地を訪れたときのこと。
姉を喪い、エスピリト霊国を脱出しオルレーヌ王国の原野をひとり放浪していたロレッタは、力尽きて倒れたところを薬草を摘みに来たミクシリア教会のシスターらに助けられた。長らく食事を摂っていなかったがゆえの栄養失調と、マリグノ研究によって人体を改造されたことによる体組織の魔素化が著しく、ロレッタの身は魔法に詳しいミクシリアの六霊教総本山に預けられることになった。
大司教であるアレクセイの下で静養し、辛うじて一命を取り留めたロレッタは、行く当てもない身の上を心配され見習いシスターとして教会に住まわせてもらうことに。掃き掃除に水やり、買い出しなど。十歳になったばかりの少女は周囲の助けを得ながら健気に働き、その代価として安住の地を手に入れることができたのである。
そんな日々が数か月続いたある日。教会にとある客がやって来た。
高そうな衣服を泥まみれにした酷く荒れた様子の赤毛の少年。彼はミサが行われる大広間で説法を聞くでもなく、ただ背を壁に預けて寂しげな表情で佇んでいた。
ロレッタよりも一回り年上に見える少年は、まるでこの世界のどこにも信じられるものがないと言わんばかりに、周りの景色を呪っているように見えた。
その姿が、どことなく自分の境遇に重なって映り。物静かなロレッタにしては珍しく自ら進んで少年に話しかけたのだった。
『ねえ、あなた。何を見てるの?』
『あ? 誰だよお前……別に何もしてねえっての。放っておいてくれ』
『あなた、お名前は?』
『……あのさ。だから放ってって――』
『じぃー……』
『…………』
『じぃー……じぃー……』
『ああもう! うぜえな! グレンだよ、グレン・ブラッドフォード! ここの腑抜けた騎士連中の中でも特に下らねえトコの養子だよっ!』
『そうなの。わたし、ロレッタ。……あなた、それで何を見てるの?』
『しつこいって。そんなに知りてえことかよ、それ』
『うん、知りたい。あなた、わたしと同じだから』
『同じだあ?』
『世界に、絶望してる。恨んでる。……呪ってる』
虚ろな目をグレンに向けるロレッタ。仄暗い親近感が少女から少年へ向けられる。ともすれば、光の差さぬ奈落への誘い。しかし、その契りは決して結ばれることはなかった。
『バカか、お前? 周りが気に入らねえなら自分で変えてやればいいだけの話だろ』
『……え?』
少年、グレンはロレッタの瞳を鷹の如き眼光で捉えた。
『オレはなあ、偉いものに媚びて守るもんも守らねえ騎士も家も大嫌いだ。そんなのに属するくらいなら、ぜんぶ捨てて逃げ出しちまいと思ってるけどよお……いつか、いつかな。強くなって変えてやるんだ。親父も、世界も。このオレの手で。今は弱くとも、な。だから……オレはお前とは違えんだ』
『…………』
『不満かよ? お仲間になってやれなくて。でもそうした方が身のためだぜ? お前に何があったか知らねえし興味もねえけど、自分からは絶対に逃げられねえのなら、どんなに回り道をしてでも自分と向き合うしかねえんだよ』
『向き合う。自分と? こんな……情けない、弱い私だとしても?』
『そうだよ。少なくとも、それがオレの信じる騎士道だ』
グレンは一転して晴れやかな表情で締めくくった。もしかすると、ロレッタに悩みを打ち明けたことで自らの道を見定めたのかもしれない。
教会の大広間では未だに司教による説法が続いている。しかしロレッタからすると、どれだけ伝統に裏打ちされた伝説であっても、このとき初めて出会ったばかりである少年の言葉ほど価値があるとは思えなかった。
それだけ、彼が眩しかったのだ。
そのあとグレンはブラッドフォード家を出奔する。己の正義を見出すために。そしてロレッタもまた、魔法と武術を本格的に学び始めた。世界を否定するために、魔物を殺せと命じる声なき声に抗うために。マリグノによって呪われた自己を肯定するために。
この邂逅が、二人の少年少女の運命を決定づけたのである。
「――そんなことが。言われてみれば、柄の悪い奴に絡まれた記憶があるなあ……」
「が、柄の悪いって……不良だったのは貴方も同じでしょ。あのときのグレン、凄い形相だったんだからね」
「素行が悪いのは今もお互い様だがな。っていうか、昔のオレもとんだ生意気なガキだぜ、自分の至らなさを棚に上げて見ず知らずの奴に説教かよ」
「……でも。私には大切な導となった。どんな言葉よりも胸に響いたのよ? だからありがとう、グレン。そして――」
涙で腫れた目を閉じながらロレッタは一息つく。
甘く温かな追憶に浸る時間、終わらせるのは早ければ早いほどいい。
「もう一度、私の背を押してほしいの」
滂沱は尽きた。悔恨に暮れる暇もなし。ロレッタには、極寒に晒されてなお進むべき道がある。
「マリグノの蛮行を止めたい。姉さまを過去の呪縛から解き放ってあげたい。ブロニクスの街を守りたい!」
「ロレッタ――」
「お願いグレン、今だけでいい。私の罪を赦して。正義を執行する権利をこの手に授けて……!」
懇願するロレッタに暫く気圧されていたグレンは、やがて草原を吹き渡る柔風のような笑みを浮かべた。
「……ったく。そんなものはてめえが願った瞬間に生まれるもんだ。全てから逃げ出したオレですら贖罪の機会を得られた。お前だってやれるぜ、ロレッタ」
「…………うん、ありがと。グレン」
王国の法を司る、ブラッドフォードの人間からの恩赦。それを有難く噛み締めたロレッタは、そっと彼の無造作な髪を撫でた。
二人の間に一瞬和やかな雰囲気が生まれるが、事態は急を要する。一転して真面目な顔をつくったグレンが、ふと何かに気付いたようにはっと息をのんだ。
「……! そうだ、諸々の危機もそうだが、あいつは……エルキュールはどうなった!?」
グレンは首だけを持ち上げて周囲の状況を探ろうとしたが、消耗しきった全身に力が入らないのであろう、軽く身じろぐだけで痛みに顔を顰める。ロレッタは再び水魔法を放出し彼に活力を与えると、その身体を支えながら立たせてやった。
ロレッタにとって、もう一人の特別。自らの救済の方法を授けてくれた、エルキュール・ラングレーを共に見つけ出すために。
だが薄暗い広間には、グレンとロレッタの他に地に伏したジェラールの亡骸が横たわるのみで、その姿はまるで闇に溶けてしまったかのように消えている。
「エルキュールの奴、マリグノが言うには人の世界に生きる魔人だったとか。……お前は、信じられるか?」
「ええ。私が知る限り、彼はヒトではなく魔人よ。研究によって生み出された紛い物の私なんかとは別の、この世で最も純粋なイブリス。トゥルリム様もそう仰っていた」
「……そうか。衝撃的すぎて頭が割れそうだが、唯一確かなのは、あいつは自分の身が危険だと知っていてなおオレを助けてくれたってことだ。ディアマントと決着をつける時だって、傍で見守ってくれた。人を汚染するような素振りもなかった、オレの目にはあいつは誰よりもヒトらしく映ってたんだ」
「そうね、それにジェナの家族とのしがらみを解くきっかけとなったのも彼。体質による幻聴に苛まれる私を癒してくれたのも。エルキュールは誰よりも、私たちを大切に思ってくれていた。だから……」
「とっとと見つけてやらねえとな。そしてぜんぶ丸っと解決したら、よくも今まで騙してくれやがったなって一発ぶん殴ってやる!」
「ふふ、痛そう。せっかくなら私とジェナのぶんもお願いできるかしら?」
「おう、任せとけ!」
努めて明るく振る舞いながら、二人は遺物が収められていた広間をくまなく探索した。けれども、やはりエルキュールの姿はどこにもない。確かにこの場にいたはずなのに。グレンは念のため部屋の外も探すことを提案した。ロレッタもそれに同意したが、シスターの端くれとして、一つ看過できない問題があった。
肩を貸していたグレンを壁に凭れさせ、血塗られたジェラールの骸の傍らに立つと、ロレッタは両手を胸の前で組んで瞳を閉じた。それから彼の魂が安らかに精霊の下へと旅立てることを心から祈った。時間にして僅か数秒。しかし、今まで魔獣の命を奪い傷つけることでしか他者に報いることを知らなかったロレッタからすれば、この捧げものは何より重い価値を持つ儀式であった。グレンはその様子を、まるで出来の悪い妹が清く成長を遂げた時のような、温かい眼差しで見つめていた。
それから再び二人寄り添って、今度は遺物の間の外に移動しようとしたそのとき。
蠢く闇が、入口の付近に蟠っていた。
「なんだ、あれは……!?」
「闇の魔素の奔流、まさか……!?」
暗闇に輝く漆黒が途轍もない魔力を伴い、霧の如く散逸した状態から徐々にある形を帯び始める。それは巨大な人型を象り、次第に明確な形を成した。
鳴動する黒い痣で全身を覆われ、胸元には闇の魔素の結晶たるコアが煌めく。瘤が肥大した四肢には血脈のような模様が表れ、銀髪に隠れた顔面にある双眸は月を思わせる琥珀一色に塗りつぶされている。
魔人。それもヒトの擬態を捨てた原初の姿である。さながら常夜の具現化、暴力の化身たる威容を誇り、圧倒的な存在を以てそれは佇んでいた。
「……グレン、ロレッタ……俺、ハ……」
「お前は……!?」
魔人特有の無数に反響する低い声で、突如現れし魔人は告げた。太古に失われし、その身に刻まれた真名を。
「思イ、出シタ……。俺ハ、闇精霊ベルムントノ善性……宵闇ノ、ナハティガル」