三章 第十三話「トゥルリムの啓示」
暗闇に閉ざされたロレッタが視界を取り戻したとき、そこには異様な光景が広がっていた。
ヴェルトモンド大陸の理を超えた、純粋な魔素質でのみ形作られた世界。赤、青、黄、緑、白、そして黒。俗にいう精霊色の輝きが、あるところでは泉の如く湧き立ち、あるところでは木立のように列を成す。重力も方位も忘れ去られた茫洋なる空間の中に、ロレッタはひとり佇んでいた。
上を見上げれば流星のように尾を引く魔素が緩やかな曲線を描いている。まこと不可思議な光景。周囲の環境を暫し観察したロレッタの脳内には、かつてジェナから聞いたとある伝説が浮かんでいた。
「精霊界……闇を除いた六大精霊が唯一顕現することを許された精神空間。通称は六霊の庭。でも、どうして? 私は六霊守護でも何でもないというのに」
その問いに対する答えか。瞬きのうち眩い閃光がロレッタの眼前で煌めいたかと思いきや、直後、周囲の景色は再び一変していた。
それまで何もなかったはずの空間に、さながら遺跡のような白い建造物が乱立し、中央には開けた場所が出来上がっている。そしてその広間とロレッタとを繋ぐアーチ状の橋。これも精霊色が取り入れられている。突如として現れたそれらは、他ならぬロレッタの到来を今か今かと待ち構えているようにも見えた。
厳かな静寂に包まれていた辺りにはいつしか、風が空を切るような音と、水面を水滴が打つような音が混在し、さながら神秘的な調べとなっていた。恐らくはこの空間に満ちた魔素が今しがたの変貌で複雑に結合し、地上で言う大気の役割の果たしているからこそ、失われていた聴覚も復活したのだろうか。摩訶不思議な精神世界とはいえ、この地の法則は現実世界のイメージというものをふんだんに反映しているようだ。ロレッタは冷静に分析を進めながら、誘われるが如く目の前に現れた広間へと向かった。
ロレッタが足を踏み入れると、またしても景色は移ろう。眩い光と共に、広間の外周に六つの玉座が現れた。それは等間隔に並べられ、彼女が立つ中心部を威圧感を伴いながら囲っていた。背の高い榻背にはそれぞれ宝石が埋め込まれている。
六大精霊のモチーフ。火のゼルカン、水のトゥルリム、風のセレ、土のガレウス、光のルシエル、闇のベルムント。その中でもガレウスの黄金の玉石は光を失い、ベルムントの漆黒の輝石に至っては酷くひび割れていた。それに敢えて意味を持たせるのなら、一年前に魔人ディアマントのオリジナルである人間に壊滅させられた土の聖域と、古代において他の精霊と袂を分かった闇精霊をそれぞれ暗示しているのであろう。
目まぐるしい環境の変化にあっても、ロレッタの心はどこまでも凪いでいた。事ここに至って、誰が彼女を精霊界に召喚したのか、その真相が疾うに理解できていたからである。
紺碧の玉座に目を向ける。そこにはいつの間にか、蒼い輝きを纏った少女が腰掛けていた。
いとけなき身体つき、海を閉じ込めた溌溂な瞳、新雪のように白く華奢な手足に、開花を待つ蕾を思わせるあどけない貌。
総じて神聖さを感じさせるが、両足を空に投げ出しているその姿勢はどことなく退屈を覚える子供らしく。
「……ちょっと、遅いんだけど? このわたしを待たせるなんて、それでも曲がりなりにもシスターなんでしょ? 少しはしゃんとしなさいよこのすっとこどっこい!」
「…………」
ロレッタは愕然と落胆が抑えきれず、静かに両の目を一度閉じてみた。そして一瞬の後に再び開ける。そこには変わらず激昂する少女の姿があるのみであった。
この場に少女が現れた、それが指すところは考えるまでもなく一つにおいて他ない。ヴェルトモンド大陸を創世した偉大なる六柱の精霊、彼女こそその一柱である水精霊トゥルリムだとは。先ほど言葉を交わしたときと同じ、微かな虚無感がロレッタの心に去来する。
しかし、今はそのようなつまらない感情に囚われている暇などないのも事実であり。ロレッタは憮然とした態度で先を促すことを決意した。
「この状況、一体どういうことなの? 私は、マリグノの変化の術を受けて精神を肉体から切り離された。……残された肉体で酷いことも沢山してしまった。それでも、私は――」
「敬語」
「は?」
「質問をする前に敬語を使いなさいよ。誰を相手にしてると思ってるの? わたしは偉大な偉大な六大精霊、海と冬の化身、水精霊トゥルリム様なのよ? 人間とは格が違うってわけ。だからまずは、首を垂れて敬いなさい!」
玉座から下りてトゥルリムが口を開く。その語調はどこまでも得意げで、到底尊敬できるものではなかった。あくまでも、ロレッタからすると。
彼女は向かってくる小さな精霊に不満を露わにしながらも、しかし心根を入れ替えて対応する。過去の憎悪に塗れた自分を、水の精霊の前でなら洗い流せる気もしたのだ。
「申し訳ございません。これからは丁寧な言葉遣いを心掛けます。代わりにいくつか私の疑問に答えてくださると大変助かるのですが」
「ふふん、いいわよ。ただし順番に、一つずつにしてよね。いっぺんに聞かれると疲れちゃうから」
薄い胸を精一杯張るトゥルリムに形ばかりの感謝を示すロレッタ。
終始この調子でゆくとなると少々気後れするが、外の事態はかなり深刻である。気ままな精霊を相手に、ロレッタは急いで思考を巡らせた。
「まず、どうして私が六霊の庭に? 六霊守護であるジェナの話によると、精霊様との交感はその一族にしか為しえない御業だと」
「あんたを召喚できたのはその体質が関係しているの。昔あんたに施されたという人間を超えるための研究……マリグノの狂気によってあんたの肉体は普通の人間に比べて精霊に近しい性質を持った。心臓から純粋な魔素を放出し、それに呼応して超人的な魔力を扱えるようになった。この出会いは、言わばその副産物というわけ」
「……なるほど。マリグノが精霊の遺物を手にした時に、私の意識に干渉したということですね」
「あのときは本当に危なかったのよ? もう少し接触するのが遅れれば、あんたの意識はヴェルトモンドの大気に含まれる魔素と完全に同化して、二度とは元に戻らなくなっちゃうところだったんだから」
げに恐ろしいことをトゥルリムは当然のように言ってのける。自らが消失していた未来を思うと、ロレッタの中にも精霊に対する幾ばくかの感謝の念が芽生えた。
礼を述べ、ロレッタは矢継ぎ早に湧いて出た想いをトゥルリムにぶつける。
「トゥルリム様、私は何としても現実世界に戻らなくてはなりません。グレンが、エルキュールが、ブロニクスの街が。大きな危機に瀕しています。何か、何か手はないのでしょうか?」
今度の問いは、すぐに答えられることはなかった。
トゥルリムはそれまでの意気揚々とした態度が嘘のようにきつく目を閉じ、悩ましげに何度も唸っていた。
「……正直に言うと、難しい状況ね。あんたの精神はわたしのほうでどうにかしてあげられるけど、現実の肉体のほうには干渉できない。わたしたち精霊はもう過去の存在。ベルムントのやつは別として、わたしたちは基本的にこの箱庭を離れることはできないの」
「そんな……」
「希望があるとすれば、あんたの言うグレンって男かしら。今あんたの本体と熱心に戦っているみたいだけど、勝負に勝つことが出来れば埋もれてしまったあんた本来の意識を取り戻すことができるかもしれない」
「……なら、今の私に出来ることは何もないってことなの?」
遥かに下に敷いた想定よりさらに酷い惨状にロレッタはひとり呻く。
グレンと氷の魔人ロレッタの力比べとなると、圧倒的に後者のほうが優勢だと考えられる。単純な魔力量の関係を見ればわかることだ。
トゥルリムに導かれ、新たにした贖罪の意志が、絶望的な状況を前に再び萎んで凍り付きそうになる。
再びあの暗闇に戻るのか、はたまた今度こそ自分の価値を見出せぬまま命を失ってしまうのか。恐怖がロレッタの身体を縮こませるが、目の前の小さな精霊は、そっと彼女の震える手を握った。
「落ち着きなさい、愛しい人の子。たとえ座して待つのみしか道がなくとも、漫然と過ごすか毅然と過ごすかでその後の未来は変わってくるものよ」
「トゥルリム、様……」
「――って、昔ゼルカンが言ってたわ!」
「……他人の受け売りですか」
どうやらその有難い弁は自身のではなく、炎の武人と謳われた大精霊のお言葉らしい。
思わず項垂れるロレッタだったが、それでも緊張した己の心に熱が灯るのを確かに感じていた。
折角の邂逅。このまま打ちひしがれているか、積極的に情報を求めるかで、現実に戻ることができたときの成果は大きく異なるであろう。
結局のところ、ロレッタに残された道は一つしかない。ならば一歩一歩を大きく、そして堂々と。
「まだ聞きたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「当然。そのためにここへ招待してあげたんだから」
「私とグレンの他……六霊守護のジェラールさんの命を奪ってしまったことはこれから償う方法を探すしかないのでしょうが、マリグノに攻撃されたエルキュールに関してはまだ存命の可能性があります。実際のところ、彼は……?」
「ブリューナクに貫かれたあいつのことね。……まあ普通なら、即死かしら」
「…………」
「こら、そんな暗い顔しない。言ったでしょ? 普通ならって。あいつは特別な生まれをしたこの世で最も純粋な魔人。ベルムントの最高傑作であるあいつなら或いは、生きている可能性もあるかもしれないわ」
「最高傑作……最も純粋な?」
エルキュールが魔人であることは既知のこと。しかしトゥルリムの言い回しには聞きなれない語があまりに目立つ。
ヴェルトモンドに生息する魔物がすべて、闇精霊ベルムントの僕だということは光精霊ルシエルの説だったが。
このトゥルリムの言葉は、それとも少し異なる意味合いを持つようにも思えた。
「むかし仲が良かった頃、ベルムントに聞いたの。あいつはわたしたち精霊とは異なる生命を創造することを目指していた。曰く、魔人エルキュールは闇の器と呼ばれる存在になることを望まれていたらしいわよ。それがどういう概念かまでは分からないけど」
以前からただの魔人ではないと思ってはいたが、まさかそこまで大層な宿命を背負っていたとは。古の精霊が支配する時代、その逸話も気になるところではあるものの、エルキュールに関してはこれ以上トゥルリムも情報を持ってはいないようであった。彼の安否については、もはやその潜在能力に期待するほかないだろう。
となると現状で把握しておくべきことは残り少ない。
異相のマリグノ。ロレッタの宿敵にして、今回の事件の黒幕についてである。
「遺物を手にした魔人というのは、王都でのディアマントの例を見れば精霊の呪いを受けるもの……だというのになぜ彼女はブリューナクを意のままに操ることができたのでしょう?」
「それは単純な話。ベルムントが魔物に刻んだ因子、あんた達人間が言うイブリス・シードを体内から除去したからよ。まあ、そのせいでマリグノはある種の制約を負うことになったわけだけど」
「制約?」
「半永久的に続く寿命の放棄。汚染能力を失ったあいつの命は、せいぜい長く見積もっても五年もない。わたしたち精霊から見れば悲しくなるくらい短い生だけど、それでもなお、あいつは自分の目的を達成するんでしょうね」
果たしてその目的は。続けて問い詰めてみるも、「そんなのわたしが知るわけないじゃない」と冷ややかに一蹴される。
「さて、湯水のように溢れだしていた質問もいよいよ打ち止めといったところかしら? ……はあ、久々に頭を使ったから何だか疲れちゃったわ」
可愛らしく欠伸を零しながらいそいそと玉座に戻っていこうとするトゥルリム。ロレッタは慌てて彼女の腕を掴んでそれを引き留めた。なんと一方的な打ち切りか、話はまだ終わっていないというのに。そのまま腕をぐいと引っ張ると彼女は露骨に嫌そうな声をあげた。
「ちょっと引っ張んないでよ! もう眠いのー!」
「世界の危機なんです、もう少し真面目に答えてください!」
「もう十分答えてやったでしょ! わたしはルシエルとかと違ってそんな優しくないの!」
「元々はといえば貴方がたのお仲間であるベルムントが撒いた種ですよね? 解決に協力してくださる理由はあるはずです!」
「う……それは、そうかもしれないけど! これ以上のことはわたしだって知らないわ! 六大精霊って言っても、所詮は過去の存在。ヴェルトモンドは、もう今やリーベとイブリスの世界なんだから」
トゥルリムの身体から発せられる水の魔素が微かに悲哀を帯びる。
古代において絶大な力を有し、豊富な知識と経験を得てしても、もはや現実世界からは隔絶されてしまっているその儚さ。無力感と諦念を滲ませる口調は勝気な水精霊には似つかわしくないほどしおらしかった。
やはり、いくら知恵を絞ろうとも六霊の庭に閉じ込められている現状ではもうどうしようもないのか。ロレッタの胸の内にも負の感情が蔓延り始めた、まさにその時のことだった。
『――さっさと起きやがれ! この寝坊助がっ!』
「……!」
声が、宙を渡った。微弱な熱を伴った、されど確かな激昂が。
懐かしく、聞き覚えがあり、そして、かなりやかましい。
「グレン、まさか貴方なの……!?」
魔素に満たされた六霊の庭の中空が、鮮やかな紅蓮の炎で満たされる。空気は震え、静謐なる空間に亀裂が入る。
それは。
ただ一人カエルレウムに残り戦い続けた男が懸命に叫ぶ、囚われたロレッタへ捧ぐ純粋な祝福のようであった。
「……時が来たようね」
「トゥルリム様……?」
「外で暴れているあんたの肉体の力が弱まっているのよ。今なら、あんたの精神は強固な氷の牢獄を破ってそこに帰ることができる。あの赤毛の騎士サマのおかげでね」
「……! 外に、出られる?」
「ええ、わたしも今度こそお役御免と言ったところかしら。やっぱり現実世界で起こることは同じ現実に生きる者が解決するべきだわ」
そう言って背を向けるトゥルリム。玉座にちょこんと座りなおした彼女はひとつ欠伸をすると、それから何か思い出したかのようにあっと声を漏らした。
「そうそう。ルシエルがジェナとかに託した精霊の力、ベルムントの封印を施すための権能だけど。わたしの水の力はあんたに授けることにしたから。せいぜいわたしのいちばんの使徒として頑張ることね。いいかしら、ロレッタ?」
肘掛けに腕を乗せて頬杖をつくトゥルリムが、初めてその名を口にする。ロレッタは暫し呆然としたが、やがては鋭い決意を全身に漲らせ、新たにした覚悟を以て首肯を返した。
ジェナが持つ光の権能、そしてトゥルリムと交感したことでロレッタに引き継がれた水の権能。闇の封印を再構築するために必要なのは、これで残りは三つとなる。それはエルキュールらデュランダル特別捜査隊にとって何より大きな進歩であったが、今のロレッタにとってはもっと個人的な拠り所として有難いように思えた。
六霊の庭の中央には、先ほど空間に走った亀裂が広がり、紅く煌めく巨大な裂け目と化していた。
それは門であると、ロレッタは思った。自らが再出発するための、大切な仲間が懸命につないだ贈り物であると。
ゆっくりと裂け目に手を伸ばすロレッタ。宙の傷とでも言うべき断面に触れた瞬間、彼女の精神は精霊界を離れ、心地よい熱に誘われてヴェルトモンドへと引き戻されていったのだった。