三章 第十一話「異相のマリグノ」
水の聖域カエルレウムにて。
エルキュールを屠ったロレッタの姿をした何者かは、底意地の悪い笑みを浮かべながらグレンを見据えていた。
今しがたもたらされた情報を辛うじて咀嚼しながら、彼は先ほどまで対峙していた氷魔人を横目に窺う。
この呆然と立ちすくむ魔人こそがロレッタ。従って目の前のロレッタは、ロレッタではない。言葉にすれば簡単だが、その実はやはり受け入れがたいものである。
「おっと、自己紹介がまだだったね。ボクはマリグノ。あんたたちが求めてやまないアマルティア幹部の一人だよ。まあ、そんな大層な肩書を名乗っているけれど、ザラームやミルドレッド、ディアマントなんかと比べるとボクはぜんぜん非力でさ。今回はこうして一つ、芝居を打つことにしたってわけ♪」
「アマルティア……マリグノ……お前、エルキュールとロレッタに何をしやがった!」
「そこで寝ている魔人については見れば分かるでしょ? 水精霊の遺物ブリューナクに敗れ、あえなくその命を散らしちゃった哀れな男だよ。あんたがもっと早く気付いていれば、状況は変わっていたかもしれないけどね」
「こいつが簡単に死ぬわけねえだろ、いい加減なことを言うんじゃねえぞ! それに何だ、エルキュールが魔人だと? ふざけやがって! こいつはな家族との幸せな未来のために、戦いが嫌いなくせして魔物と向き合っているような男なんだ! こいつを侮辱することは、オレが断じて許さねえ!」
「ふ、ふふ、あはははっ! 本当に傑作だよ、グレン・ブラッドフォード! 見た目からして頭が悪そうには見えたけど、まさかここまでの大馬鹿者だったなんて! いいよ、信じてくれなくても。人の意思がどうであれ、真実も結果も変わりはしない。幻想に溺れて死にたいのなら、是非ともそうすればいいよ」
水色の髪を掻き上げ、精霊の遺物たるブリューナクを振り回すマリグノの姿は、その幼稚さとは裏腹に、まるで猛き蒼海を具現化したかの如き威容であった。
本人は非力だと形容したが、如何にグレンと言えど遺物を手にした今のマリグノには一人では歯が立たないだろう。
グレンは狂気に陥りそうな自我を懸命に保ちながら、悔しげにマリグノを睨みつけるのが精一杯であった。
「ふふ。従順なのは好ましいね。そこまでしてロレッタについて知りたいんだ? 仕方ないなぁ……そこでぼうっとしている彼女はね、ボクが魔法で変化させた紛い物の怪物さ。元々ボクの実験で体組織が魔素と近しくなっていた彼女は変化の魔法と親和性が高いんだ。代わりに空いたロレッタの役は同じく変化したボクが務めた。中々の演技だったでしょ? だって大事な大事な仲間同士だってのに、最後まで気付かなかったもんね? こんなに可笑しなジョークってそうそうないよ、あはははっ!」
マリグノの言葉におぞましい呻き声を上げる氷魔人は、彼女の話を肯定しているようにも見えた。
情報はさながら濁流、すべてを呑み込まんとするうねりを孕み、ひたすらにグレンの理解を拒んだ。
その正体が魔人だというエルキュール。過去に実験体として弄ばれた挙句に怪物へと変貌させられたロレッタ。
信じたくはなかったが、状況から考えて、少なくとも後者に関しては認めざるを得ない。
グレンは絶望と無力感から、思わず天を仰ぎそうになった。しかしすんでのところでマリグノから注意を逸らさず、今この時に自分が為すべきことを懸命に考え続けた。
「……それで? お前の目的はなんだ? 精霊の遺物を手にしたとしても、魔物であるお前は王都でのディアマントのように呪いに身を滅ぼすことになるんじゃないのか? 分不相応な力は得てして不幸を招くモンだ」
「ふん、そんなの対策済みに決まってるでしょ。ボクはあいつと違って長年にわたり、闇精霊の眷属たる魔物と他の精霊に纏わる呪いについて研究してきた。遺物に宿った精霊の残滓を克服する方法を。魔物を魔物たらしめるのはその内に眠る汚染因子だ。それは魔王ベルムント様の祝福だけれど、五属性の精霊は正にそれに目を付けた。だからボクは自ら、人々を汚染するという権能を捨てたんだよ。イブリスの持つ永い寿命と引き換えにね」
「イブリス・シード……汚染を行うための因子は、お前らにとって種の存続に関わる代物のはずだ。それを投げ出してまで力を求めて何になるってんだ!?」
「威勢がよくなってきたね、グレン・ブラッドフォード。その虚勢に免じて聞かせてあげようか。ボクの崇高なる正道について……」
マリグノがブリューナクを虚空に放ると、その聖槍は蒼き粒子となって掻き消えた。恐らく遺物との同化を完全に果たしたのだろう。魔素質で構成された遺物を魔素に還元することは、今の彼女にとって容易いことなのだ。無論、それを再構成することも。
仄暗い広間では視界が不明瞭で、音も反響してたちまち濁る。グレンはマリグノの一挙手一投足、そしてその言葉の末節すら逃さぬよう意識を目の前へと張り巡らせた。
「ボクはこの世界を愛しているんだよ。美しき峰々、心洗われる湖水、豊かな森林を。全ては偉大で、畏怖すべき魔素の集合だ。そしてそこに生きるボクたちは、それに足る存在でなければならない。より高次の次元へと至らなければならないのさ」
「……何が言いてえ」
「分からない? 弱い者はそれだけで原罪を背負っているんだ。それなのに持たざる者たちはボクたちアマルティアの存在すら忘れ、精霊だの風霊祭だのと馬鹿騒ぎに興じている。ボクから言わせれば不要な人種だ。強き者が強きを生み、そしてより優れたイブリスとなる。これこそが世界のあるべき秩序。理想郷ってものでしょ?」
独断で人の価値を測り、世界を魔に陥れる。
マリグノの言説は、どこまでもグレンと相容れないものだった。
「あんたは強いから、まあ……合格だね。命は取らないであげる。ただブロニクスに生きる数万のリーベにはこの世界の礎となってもらう。さっき手に入れた神聖なるブリューナクで以てね。あいつらもきっと本望だろう。何てことはない、敬愛する精霊と同じ場所に逝けるのだから」
「そんなこと、オレが黙ってさせるとでも? これ以上の悪行は、法を司るブラッドフォード家の人間として断じて許さねえっ!」
「ふふふ、旧時代の法ではボクを縛ることはできない。それにあんたは大事なことを一つ忘れてるよ」
マリグノが示した先には、これまで苦しげに呻いていた氷魔人、ロレッタの姿が。研究によって体質が変化した身体からは氷の魔素が垂れ流しとなっており、落ち着いていてなお尋常ではない魔力を放っていた。
マリグノが指を鳴らすと、魔人の身体がひときわ大きく輝き、谷底に眠る怪物のようなけたたましい咆哮を上げた。
「ちっ……おい、てめえ何いいように操られてやがるんだ! 目を覚ませロレッタ!」
「無駄だよ。精神を司る水の魔法……ボクの変化の術は、対象の心すらも作り変えてしまう。知能を剥奪された人間は自分が何者かさえ認識できないんだ」
マリグノはブリューナクを再び虚空から取り出すと、その切っ先にグレンを捉えながらゆったりと距離を詰める。
「ボクがカエルレウムから出るまでそこを動かないでよね。あんただってあの魔人のようにはなりたくないでしょ?」
「……んなこと言って、か弱い奴らしか相手にしたくねえだけだろ」
「いいね、その熱血さ。大嫌い。……今はせいぜいお仲間同士で遊んでいればいい。ブロニクスを殲滅した暁にはたっぷり相手してやるからさ」
広間を後にしようとするマリグノを、グレンは銃大剣による一撃で阻もうとしたが――。
対する精霊の遺物ブリューナクの威力にその身体から弾き飛ばされてしまう。
グレンは焦燥を禁じ得なかった。いまここで問題なのは、決して相手が有している力だけでない。今のマリグノはロレッタの姿をしている。つまり、エルキュールやグレンがそうであったように彼女の敵意に気付くことが難しい点が問題であった。聖域の外で待っているミレーヌも、クロエ殿下を守っているだろうジェナやシオンを始めとする王国騎士団も。
どうしてもこのすり替えの件を伝えなくてはならなかった。倒れた身体を起こして食らいつこうとするも、マリグノの背は悠々と離れて次第にはその姿すら見えなくなってしまう。
追い縋ろうにも、叶わない。グレンの目の前には暴走するロレッタと倒れ伏したエルキュールの存在があった。それらを放っておくには、彼女たちと旅をしたこの濃厚な一か月は彼にとって少々重すぎたのだ。
「エルキュールはまだ死んじゃいねえ。ロレッタも呼びかければ意識を取り戻すかもしれねえ。こんな細い可能性に醜く縋りつくなんざ情けねえが、それこそオレが歩むべき正義の道だ……!」
簒奪の意思を取り戻した魔人と真っ向から対峙し、グレンは絶望に震える己が身体に力を込めた。