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黒き魔人のサルバシオン  作者: 鈴谷凌
三章「フェスタ・デル・ヴェント~癒えぬ凍傷~」
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三章 第九話「変拍子」

 ヴェルトモンド大陸において、六霊守護の肩書とは最も威厳のあり誉れある称号だとされている。火のルブルム。光のイルミライト。闇のゼクスター。世界に六つのみの、民に謳われる一族。

 そのうち水を司るアルタマール家の現当主であるジェラールは、しかしこの崇高な任を密かに忌み嫌ってきた。

 生まれたことより課せられた宿命は、彼から多くのものを奪ってきた。魔法や体術の鍛錬は、友人との遊びの時間を。地位ある家柄は、各地を駆ける自由を。自らが仕える水精霊は傍若無人な性格で以て、己の聖域を粉骨砕身の覚悟で守ることを求め続けた。

 仕事に忙殺され続ける人生だった。補佐官である妻を病気で亡くしてからは、たった一人の娘とすら関わる機会を持てないでいた。それでも子供は聞き分け良く育った。そんな彼女の殊勝さが、時おりジェラールの不甲斐なさを煽りもした。

 水の聖域はトゥール海の先にある離島に位置する。栄えたブロニクスの街とは距離があり、次第に世情にも疎くなっていった。

 肉体、精神ともに、枯れる一方の毎日である。

 斯くして内心で自らの運命を呪いながらも、ジェラールがこの任を放棄したことはただの一度もなかった。

 ヴェルトモンドに生きるリーベは精霊の恩寵であり、聖域の魔素濃度を平常に保つことこそ世の安寧に繋がるのだと彼は信じていた。

 魔力に魅入られし魔物を排除し続けた。水精霊トゥルリムに祈り続けた。ブロニクスという街が好きだった。そこに根付く者たちも。そして他の六霊守護に務める一族を、心の底より尊敬していたから。

 実直なるジェラール、今年で齢は五十となった。そしてそれと同じだけの年月を六霊守護として過ごしてきた。概して苦節の日々であった。だが、やはりそれだけの時間を捧げれば、相応の自負というものも生まれる。

 この最期の瞬間、ジェラールの胸の内に自らが歩んだ道に対する後悔はなかった。


「アァァァ――!」


 それは何の前触れもなく。無惨に一つの尊い命を啄んだ。

 氷の魔素を湛えた忘我の魔人。水色の魔素質で形作られた剣は瘤だらけの右腕と融合を果たし、ジェラールの胸を完膚なきまで刺し貫いていた。患部は凍瘡と血痕に塗れ、赤を帯びた臓器が傷口から滴り落ちる。

 水の聖域カエルレウムの防御は、この瞬間、まさしく重大な危機に瀕していた。


「がはっ……すまないな、ミレーヌ……お前にこの重責は早すぎるというのに……」


 水の宮殿を形作る紺碧の石壁に背を預け、己が娘に思いを馳せるジェラール。間もなく、精霊の元へと旅発つ。

 ザート・セレの月、14日。風霊祭も後半へと差し掛かろうという頃であった。







 同日。ブロニクス中心街、アルタマールの屋敷にて。

 当主の娘、ミレーヌ・アルタマールは不吉な予感に苛まれていた。

 それは単に怖気がした、というような曖昧なものではない。

 自らの首にぶら下げた精霊色のネックレスから、突如として紺碧の光が生じたからである。

 父曰く、その明滅は水精霊トゥルリムの涙。悲愴の発露であり、この光が放たれた後には、いつも決まって厄介なことが起こったものである。

 弟の流産。病床に伏した母親の死。ならば、今回は如何ほどか。


「まさか、父ちゃんの身になにか……?」


 ミレーヌの父であるジェラールは、この風霊祭の時期カエルレウムにて祈祷を捧げているはず。そして水の宮殿には、街の外壁には及ばないものの警護の者が確かについているのだ。

 滅多なことは、そうそう起きない。

 しかし。そうそう起きないことが、今日に限って起こる可能性もあることを、ミレーヌは微塵も否定することができなかった。


「ま、まずはデュランダルの兄ちゃんたちに連絡や……!」


 不滅の剣の理念を掲げる彼らとはこの屋敷で共に食卓を囲んだ仲である。堅い気質の王国騎士団に比べれば、まだ相談しやすい相手だった。

 今まさにクロエ殿下の護衛をしている最中のジェナはこの場に来れないらしい。いの一番に屋敷の広間へ到着したエルキュールはミレーヌを案じながら落ち着いた声色で告げた。

 それから暫く、ブロニクス一帯のブラッドフォードの騎士を統率していたグレンが部下へその任を預けると、慌ただしい様子でアルタマール邸へと駆け付けた。


「ロレッタは? まだ来ていないのか?」


 話は全員揃ってからという知らせを聞き、グレンは着込んだ赤の装束を頻りにはためかせながら苛立たしげに声を上げる。

 ミレーヌの消沈とした面持ちが事の重要さを訴えかけている。時は一刻も無駄にできない状況であることは誰の目からしても明らかであった。

 そんな猛る烈火を諫めながらも、エルキュールもまた扉の方に視線を投げる。


「実は昨日の夜更け、ロレッタは行き先を告げぬまま部屋を出ていったんだ。最初は手を洗いにでも行くと思って見過ごしていたんだが、いつまで経っても戻ってこなくてな……街中を捜してみたものの、結局見つけることは叶わなかった」


「……マジかよ。一体どこほっつき歩いてんだあの馬鹿……!」


 後悔を滲ませるエルキュールと、心配を極限まで爆発させるグレン。

 時間がいたずらに過ぎゆく中、ミレーヌがもう一度ロレッタに連絡しようと魔動通信機に手を伸ばしかけたところで、徐に広間の両開きの戸が音を立てて開いた。

 入室してきたのは水色の髪を横で一つに結んだ怜悧な少女。今しがた皆の憂慮の的になっていたロレッタ・マルティネスその人であった。


「ごめんなさい。少し遅れてしまったみたいね」


 一同の注目を浴び、ロレッタは申し訳なさそうに肩を縮こまらせて謝罪した。

 聞けば個人的に外の魔物と戦っていたとのこと。グレンもエルキュールもその言葉に眉を顰めたが、この場での追及はせずに視線をミレーヌへと戻した。

 ミレーヌはようやく場が整ったことにすっかり安堵した。もうこれ以上は、幼い彼女には耐えられそうもなかった。


「みんな、ウチを助けると思て頼みを聞いてくれへんか? 父ちゃんの、六霊守護の危機かもしれないんや……!」


 所々つっかえながらもミレーヌは懸命に話した。自分が下げているネックレスと水精霊トゥルリムの逸話。父ジェラールがひとり聖域で祈祷を捧げていること。そしてこの激動の時代に由来する、決して看過できない仄暗い予感を。

 離島にあるカエルレウム内部は、密室の中の密室といえる環境である。もしそこで何かがあっても、すぐ外に漏れることはない。

 ミレーヌの嘆願に、他の三人は神妙な態度で思案を巡らせた。デュランダル特別捜査隊は、騎士団に付随する形でクロエ殿下の護衛任務の最中にある。恐らくは勝手な行動をしてしまうことを懸念しているのだろう。彼らの顔は険しいものだった。

 もしや、断られる。ひとたび湧いて出たミレーヌの不安は、しかし現実とは異なった。

 最初に面を上げたロレッタが、子供をあやすようにミレーヌの頭をそっと撫ぜる。


「安心なさい。今なら私たちも手は空いているし、貴女が案内してくれれば聖域に行くのも吝かではないわ。殿下のお守りはジェナに任せているし……構わないでしょう、エルキュール?」


「……? あ、ああ。確かにロレッタの言うとおりだ、ミレーヌ。それに俺たちのもう一つの目的については以前話しただろう? 精霊に会うつもりなら、どのみち聖域を訪ねる予定だった。まあ、トゥルリムとの交感にはジェナの能力が必要なのかもしれないが……」


 何か含みのある物言いではあったが、エルキュールも、そして黙していたグレンもまたこの件を了承してくれた。

 斯くして一行は水の聖域カエルレウムの地を目指すことになった。麗しのブロニクスに垂れこめる暗雲を払うために。




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