三章 第七話「亡き者に捧ぐ鎮魂」
ザート・セレの月、12日。
ブロニクスよりやや外れた小さな廃村に、ロレッタとエルキュールの二人は派遣されることになった。クロエ殿下と風霊祭を守護するための一環として、この地に確認された魔獣を殲滅することが目的の一つであった。
その村は数年前に魔獣の襲撃に遭い捨てられた土地で、踏みしめる大地には人の手が介在するわけもなく、周囲には野草が荒れ放題に伸びていた。かつてはここも農作が盛んだった。しかし今この地を覆う土壌といえば、古い人の血と溶け落ちずに残った魔獣の骸を吸って、無惨な腐敗が進んでいる。
崩れ落ちた瓦礫を掻き分け、ロレッタは廃村のなかを注意深く観察した。今回の魔獣はさほど力も強くないという聞こえである。されど彼女の瞳に一縷の油断もない。必殺の意志が宿っていた。
村の中央の広場には堆く積もった石屑の山があり、間もなく二人はそこをたむろしている鰐型魔獣を発見した。平たい体表面に黒の鱗が隙間なく詰められ、規則的な配列の歯に守られた口腔の奥には魔獣特有のコアが金色に輝いて鎮座している。
数にして四。魔素感覚を凝らして個々の力を探ってみるも、やはり聞いていた通り大した魔獣ではないように見える。これならロレッタ一人でも事足りたことだろう。彼女は薄く鼻を鳴らし、左手に装着した魔動手甲に目を向けた。
魔力を込めれば切っ先に刃のついた鎖が伸ばされ、敵を捕縛するロレッタの獲物。白銀の金属光沢を発するその具合を確かめながら、敵の隙を如才なく窺う。
昼下がりの太陽のもと、周囲の魔素を吸いつくして満腹といった様子の魔獣は、そのいずれもが緩慢な動きをしていた。
易い相手である。
ロレッタは後ろに控えていたエルキュールに合図を送ることもなく、まず目の前で呑気に欠伸をしている鰐型に攻撃を繰り出した。手甲から伸びる鎖が、大きく露出した口腔の中にあるコアを砕く。一切の慈悲もなく命を絶たれた仲間の惨劇に、他の魔獣からの耳障りな悲鳴が灰色に淀んだ空気を次々と震わせた。
残った魔獣らは敵意を剥き出しロレッタに襲い掛かってくるが、元々水棲の鰐をオリジナルとしたその魔獣は、陸地では愚鈍そのものといえた。軽々と敵の突進を躱したロレッタは右腕を掲げて周囲の魔素に意識を巡らせた。
「――コンジェラシオン!」
水と土の魔素を複合させて生まれた氷魔法が、迫りくる鰐型を容易く氷塊に変える。大きく牙を開いたその躍動的な体勢を見るに、氷像としての価値はまずまずだろう。目の前で氷結する魔獣を背にして、振り向きざまにロレッタは指を打ち鳴らした。途端に、それまで魔獣だったものが音を立てて砕け散る。体内に隠していたコア、弱点を曝け出さないその生存戦略も、氷漬けにしてしまえば意味をなさなかった。
根幹部を失い身体が消えかかっていく魔獣の姿をロレッタは視界に留めようともしない。後方で武器を構えたエルキュールだけが、その劇的な最期を始終見届けていた。
「ロレッタ、お疲れさま。相変わらずの手際だったな」
「別に。貴方の無能ぶりには及ばないわ」
横に結んだ髪をふわりと揺らすロレッタ。得意げなのを悟られたくなくて、不必要なまでに言葉に棘が宿る。
魔人であるくせに、不器用に笑みを浮かべるエルキュールの姿が見るに堪えない。
光の聖域を訪ねた折に互いの秘密に触れあった今となっては、冷静沈着なロレッタと言えど、彼との適切な距離感が分からないでいた。
ロレッタの目的は魔物を駆逐することにある。その規則に沿えば、彼を一刻も早く消し去るのが正しい行いだといえよう。
しかし、時に人間よりも人間らしい彼の態度を見ていると、どうしても決心が鈍ってしまうのも事実だった。
だからこそ「貴方を殺すのは最後にする」などとらしからぬことを口にしてしまった。即断即決のロレッタにあるまじき矛盾の心。
斯く悩んでいるゆえに、近ごろの彼女はどこか漫然とした態度を律せずにいた。平時は憤怒を滾らせていたが、今では心虚ろな場面が目立つ。良くない兆候であった。
その変心には、同じく光の聖域でもたらされた、あの邂逅も大きく関係していた。
魔人ミルドレッド。旧い呼び方をすれば、ミルドレッド・マルティネス。それはロレッタに唯一残された肉親にして、世界を脅かす魔人集団の一員の名であった。
彼女との戦闘に敗北を喫した別れ際、薄れゆく意識のなか告げられたことがある。
『風霊祭の最中、ブロニクスには近づかないことをお勧めしますわ。この激動の時代を生きながらえていたいのならば』
その言葉は、まさしく今この時この場所で何かが起こることを示唆していた。
もはやロレッタにとってエルキュールに付き合う義理などあったものではないのだが、その言葉があったからこそ、今回のクロエ殿下の件に乗ることを決めた節もある。
アマルティアは懲りずに人の世界に反乱をもたらそうとしている。予感を超越した確信が、ロレッタのなかに存在していた。
そうした心持ち故にだろうか。
ロレッタの体質に由来する特異な魔素感覚は久方ぶりに彼岸との共鳴を果たし、本来ヒトが聞くはずのない『声』を捉えてしまった。
『どうして……私たちがこんな目に……』
『ママ……脚が、脚がなくなって……』
『俺たちは奴らの餌なんかじゃない! 誰か! あいつらを殺せ! 殺せ! 殺し尽くしてくれ!』
ブロニクスの風霊祭の季節では、水の精霊トゥルリムの力が強まるとされている。そのことも、この幻聴が生じた由来となっていると思われる。
突如として刺激を埋め込まれ頭痛に苛まれたロレッタは、こめかみに手を当て呻きながら喘ぎを漏らした。
その様子を心配と不審の目でエルキュールが見つめる。恐らく魔人である彼とはいえ、この声まで聞こえるとは考えにくいだろう。
さて、どう言い繕ったものか。
「ロレッタ、どうした? 先ほどの戦闘の影響が残っていたのか?」
「……うるさい」
「悪い。ただ、それでも言わせてくれ。今の君はよほど気分が悪そうに見える。何か助けになれないだろうか」
「貴方、私に疎まれてるって自覚してる? それでも首を突っ込んでくるなんてやはり人間の常識を知らないのね」
「そうかもな。だが俺にとっては嫌われることは大した障害ではないんだ。君の意を理解してなお、俺は君の助けになりたいと願っている」
どうしてこの魔人はここまで純粋になれるのか。
ロレッタと同じく、闇に堕ちている者であるはずなのに。穢された運命を歩むはずの身であるのに。
理解が及ばない。この魔人に向けられる不快感は、単に彼が魔物であるという理由では説明がつかなかった。
漆黒も磨けば照り輝く。魔に潜む善性は、ちょうどそれと似ているように思えた。
ロレッタは諦めた心地で呟く。彼に対し秘密などもはやあってないようなものであるし、話さなければ解放のときも望めなそうもなかった。
「ここに残留した魔素が、怨嗟の声となって私の意識を蝕むの。きっとかつては人間だったモノ。私の体質は時おりそれと繋がることがある。今回のもそう。魔物を恨む声が、私に彼らを討てと駆り立てるのよ」
マリグノの実験を受けたあの日からだ。声がロレッタを囲むようになったのは。実の父と母、そして同じ施設で暮らしていた者たちの嘆きの言葉が、彼女が最初に聞いた言葉である。
悪を挫け。決して赦すな。一つ残らず滅ぼせ。
姉と二人でこの世に残されてから、心が安らぐことなどなかった。小さい葉に姉と肩を寄せ合い雨を凌いだときも。辛うじて手に入れたカップケーキを二人で分け合ったときも。
声はロレッタを闘争に導いた。それは巡り巡って、ロレッタからたった一人の姉を奪うという結果を生んだ。
何があろうと忘れもしない。忘れることなどできるはずもない。そしてロレッタの罪を洗い流してくれるのは、もはや闘いの道にこそ残されていないのだ。
「どうすれば君の痛みは癒えるのか。何か心当たりがあれば聞かせてくれないか?」
「……魔素が消えれば、あるいは。でも別にこんなのは放っておけば直に――」
「魔素だな。分かった。俺が魔人としての力で吸い取ってみよう」
衰弱したロレッタの身体を労りながら、エルキュールは中空へと片腕を伸ばした。
彼の胸にあるコアが怪しく煌めくと、荒れた土地から沸き立つように光の粒が舞い上がった。
火の魔素に宿る憤怒。水の魔素に付随する悔恨。風の魔素に誘われた細心が、悉くエルキュールの身体へと吸収されていく。
それに伴ってロレッタを脅かす霊魂の力は弱まっていった。
「……すごい」
思わず呆けたような声を漏らすロレッタ。このような現象は今まで経験がなかった。
「どう、やったの? 私も魔素を魔法に変換してみたり、色々試していたのにそんな芸当はできなかったわ」
「……さあ。ただ想像してみただけだ」
腕を下ろしたエルキュールは自身の胸に手を置いて答える。
「彼らの痛みがどのようなものだったか。苦しみに苛まれて、志半ばで消えていった気持ちを。そして魔素が巡り、新たな生命として祝福を受けた暁には、今度こそ喜びに満ちた道を歩いてほしいと。そう願いを込めてみたりもした」
「それって……」
「これは俺が魔物と戦う理由でもある。奪わせたくない。相手から奪うだけなのを肯定したくはない。君も六霊教に関係する人間なら、一度でいい。共に祈ってみないか?」
温かくも慈愛に溢れた感情。それは手を伸ばした方が触れるのを躊躇ってしまう、そんな儚さすら感じさせる思いであった。
この時に至るまで、考えもしなかった。憎悪に身を委ねるのではなく、博愛を貫こうとする在り方を。そんな所業が果たして可能かさえも。
エルキュールの根幹にあるのは、グレンの正義やジェナの使命感にも異なる狂気的なまでの純心である。
そのことを、ロレッタはこのとき初めて痛感していた。それから己に対する確かな恥も。
彼女はエルキュールの言葉に従い、そして昔日より忘れていた願いを胸にした。
それはこの地で無惨な死を遂げた者への、ここまで閉ざしてきた自らの運命への祝福であった。




