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黒き魔人のサルバシオン  作者: 鈴谷凌
三章「フェスタ・デル・ヴェント~癒えぬ凍傷~」
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三章 第六話「熱風乙女」

 茹る熱気の中、白い薄布を一枚纏ったジェナのしなやかな肢体を一筋の汗が滴り落ちる。上気した頬から細い首筋、形のいい胸から柔らかな太ももに垂れ、木板で組み立てられた部屋の床を断続的に濡らす様を、どこか呆然とした心地でジェナは眺めていた。

 湿気と熱気に当てられ頭の働きが鈍麻していき、備えつけられたベンチにだらしなく身体を預ける。

 帝国式熱気浴、通称サウナ。オルレーヌより北にある炎の帝国カヴォードでは、あえて身を刺す熱に身体を晒すという奇特な文化があるらしい。

 クロエとの射的勝負に負け、その要望に沿わなければ、ジェナもわざわざこんなところへ足を運んだりはしなかっただろう。寒冷なアルクロット山脈に住んでいたジェナにとって、蒸し暑い空気は得意ではなかった。

 サウナ室の隅にある魔動ストーブは絶えず火魔法を放出し、室内の温度を高温に保っている。魔術師の端くれとして暫くの間その働きを観察していたジェナだったが、じきに耐えきれず、上体を起こして目の前のクロエに視線を投げた。

 ジェナと同じ布に身を包み、両足を小さく畳んで座るクロエは、瞳を閉じてこの熱気を楽しんでいる様子。

 王族である彼女に便宜を図らって専用の個室を用意してもらったのもあるだろう、素肌を晒しているにもかかわらず思いのほか落ち着いているように見受けられた。

 先の勝負のこと、エルキュールのことに続き、ここでも劣等感を煽られたジェナはそっと溜息を零してしまう。

 それを敏感に察知したのか、クロエの紺碧の瞳が徐に開かれた。


「あら。ジェナさんはサウナがお嫌い? それでしたら無理にお付き合いいただかなくとも……」


「い、いえ。これしきのことくらい。光の六霊守護として逃げるわけにはいきませんからっ」


「……確かにこのサウナは六大精霊、火のゼルカンの修行が起源となっていますが。現代のサウナは単なる娯楽の一環だと伺っています。決してご無理はなさらないで?」


 眉を下げ、心配そうにこちらを気遣うクロエに思う。

 なるほど。普段の悪戯っぽい一面とのギャップこそ、彼女が世の男たちを魅了している要因であるようだ。

 そしてその色香で、あのエルキュールとも瞬く間に仲を築いていったのだろうか。

 熱で浮かされたジェナの思考は、次第に理性を失っていった。


「本当に可愛らしい方ですのね。ジェナさんは。ですから、思わず揶揄ってしまいますの」


「どういう、ことですか?」


「お好きなのでしょう? エルさんが」


「ええ、それはも――って、違うっ! そんなんじゃありませんっ!」


「隠さずとも良いではありませんか。わたくしには初めてお会いしたときからお見通しですよっ?」


 隙の無い攻撃と共にクロエが勢いよく距離を詰めてくる。

 ジェナは身を捩って顔を両手で覆った。この頬の熱は、もはや部屋の高温のせいだけではなかった。

 まさかこの密室状況を作り上げてジェナに詰め寄ることが目的だったのか、だとすればこのクロエ、王族ながら中々の小悪魔的存在であると言わざるを得ない。

 だがその心理分析もこの場ではまるで意味をなさない。やがては肩を掴まれ、顔を覗かれてしまう。そうなるとジェナに抵抗の術は残されていなかった。


「……えっと、自分でも惚れやすいなぁと思うんですけど。彼の事情を知ってから、ついつい目で追ってしまうと言いますか……」


「まあまあっ! そうなんですの!? もう少し詳しくお聞かせ願いますか? わたくし、同年代の女性とこうした話に興じる機会に恵まれなかったもので」


「わ、わかりましたから。そんなに身を乗り出さないでください。服がはだけてしまいます……!」


 高揚したクロエを抑えつつ、ジェナはエルキュールとの出会いを語って聞かせた。

 アルトニーの森林で初めて出会い、その闇魔法の才能とヒトを守りたい純粋な意志に惹かれたこと。

 イルミライト家の役割に雁字搦めになっていたところを、疎まれても他者を愛し続ける彼の在り方によって救われたこと。

 彼が魔人であることは流石に口にできなかったが、今までの旅で共に過ごした時間を、簡単にかいつまんで話した。

 好奇心旺盛なクロエは両目を輝かせ、二人の物語に耳を傾けていた。その素直な反応に気を良くし、ジェナは次第に雄弁になっていく。


「私に闇魔法を教えてくれているときはですね、エル君の声がいつもより少しだけ高くなるんですよ。きっと言い方がきつくなりすぎないように彼なりに配慮してくれていると思うんです。私は座学が苦手なんですけど術式を覚えるまで何遍でも教えてくれて。授業が終わったあとはわざわざハーブティーを淹れてくれるんです。それがまた絶品で本当に趣味が良いなと――」


「あ、あの、ジェナさん……?」


「その反面、戦っているときは凛々しくて。ハルバードを片手で振るいながら多彩な闇魔法を巧みに操ってですねっ。私も魔術師として魔法には明るいつもりですけど、彼の持つ魔素感覚には思わず目を瞠ってしまいますよね!」


「あ、それは少し分かります。ブロニクスに至るまでにエルさんの戦いぶりを拝見しましたが本当に華麗で――」


「ですよねっ! あとは人との距離感に悩みがちなところが可愛くて。本当は優しいのにそれを表に出すことを恥ずかしがっているといいますか、人と近しくなりすぎることでその人を不幸にしてしまうんじゃないかって気を回しすぎるところも……」


「……あはは。フォンターナ家の娘として、エルさんについてもっと知るべきだとは思っていましたが。これは予想以上に深い沼であったようですね」


 捲し立てるジェナにやや引き気味になるクロエ。

 無意識の内に形勢は逆転していたのだが、最後までそのことに気付かないジェナであった。





 ブロニクス中心街。帝国式熱気浴施設『カローレ』前にて。

 サウナを利用しているクロエとジェナを軒先で待ちながら、エルキュールは風霊祭に胸を弾ませる人々に目を向けていた。

 屋台で軽食を摂る者。小躍りしながら道を行く者。精霊を模した工芸品を見繕う者。

 王女であるクロエの訪問で高揚した様子の民たちの様子が、街のそこかしこに表れている。その光景の尊きを目に焼き付けながら、エルキュールは暇を持て余していた。

 本来ならば祭りに参加される殿下を護衛するのが現在の任務なのだが、その対象は大胆にも日中から風呂を楽しんでいる。エルキュールも共にと誘われはしたものの、魔人であることを隠すために極力肌を晒さないようにするのが彼の流儀であった。

 そうなると仕事中にもかかわらずこのように空白の時が生まれてくる。

 最初は魔法書でも読もうとした。しかしこの清々しい晴天と潮を運ぶ海風の中にあっては、紙の書籍は相性が悪い。昔から物を大切に扱うように教えられてきたエルキュールは、この状況で愛読書に無理はさせたくなかったのだ。

 ゆえに出来ることと言えば人間観察、これ一つに尽きた。

 向かいから歩いてくるカップルの交際年月をその立ち居振る舞いから推測してみたり、屋台の店主の誘い文句を暗唱できるほどに聞きこんでみたり。

 サウナ店の前で人を不躾に見つめる黒づくめの男あり。自らを客観視しては軽く自己嫌悪に陥ってみたりもした。

 眠ることを知らない魔人であるエルキュールは、人より長い一日を過ごすため暇つぶしの方法もよく熟知している。

 クロエとジェナの長湯に負けじと、湧き出てくる退屈を紛らわせていく。そんな折のことだった。


「よう、エルキュール。暇で暇で仕方ねえって顔だな?」


「……グレンか。そういう君は腹立たしくなるほど楽しそうだ」


 深紅の髪を無造作に揺らしたブラッドフォード家の名代は、片手に串焼きを数本携え、もう片方にはどこで売っているのかもしらぬ瓶詰の酒を握っていた。

 非番である彼がどう過ごそうが自由なのだが、ここまで奔放にいられると口悪く言いたくもなる。

 グレンはエルキュールの隣に並ぶと壁に背を預け、片手で器用に瓶を呷った。果実にも似た酒気が辺りに漂う。


「ブロニクス地酒、レズンだ。この辺りで取れたブドウ酒を蒸留して作られた代物だそうだぜ。お前もひとつどうだ?」


 塩で味付けされた魚の姿焼きを頬張りつつ、器用に懐からもう一本の瓶を取り出すグレン。

 エルキュールは酒を嗜まない。それくらいグレンも承知しているだろうが、それでもなお勧めるといういうことはそれだけの美酒なのだろうか。もしくは酔いが回って正常な判断ができていないか。

 何れにしろ、エルキュールは暇を持て余している。ならばこれを機に酒を試してみるのも悪くないことのように思えた。

 よく冷やされているのか、瓶を受け取ると手袋越しでも冷感が伝わってくる。コルクによる蓋を開けて香ってみると、果実の芳しき匂いがエルキュールの疑似嗅覚を刺激した。

 隣のグレンを真似てみて、勢いよく瓶を傾ける。厳密に言えばエルキュールに味を感じることはできないが、そこに含まれる芳醇な魔素の絡み合いはエルキュールの渇きを見事に満たした。


「気に入ったか?」


「……悪くは、ない」


「もう少し素直になれよ、病みつきになりそうだろ?」


「果実の香りはいいが、どことなく鼻を刺すような匂いがどうにも慣れない」


「そいつが酒の醍醐味だぜ。これから付き合いで呑むこともあんだろ。親しんでおいて損はないはずだ」


「そういうものかな」


 酒に含まれているというアルコールが魔人に作用するとは考えにくい。それでもいまエルキュールの気分が確かに高揚しているのは、恐らく隣にいる気のいい友人のお陰なのかもしれない。

 期せずして生まれた余暇ではあるが、存外楽しい時間であった。エルキュールはもう一度瓶に口をつけてからグレンに向き直った。


「それで? 君がわざわざ声をかけてきたということは俺に何か用があるんだろう? 勿体ぶらずに話してくれ」


「おいおい、エルキュール。せっかくお前と酌み交わす機会だってのに情緒も何もあったもんじゃねえ」


「君は思いのほか真面目な人物だ。大方いまも遊んでいるように見えて街の防犯を努めていたんじゃないのか?」


「……ったく、相変わらず可愛くない野郎だな。まあ概ね正解だ。お前に一つ言っておきたいことがあって来た」


 廂に隠れた太陽を見上げながらグレンは声低く続けた。


「お前は近ごろクロエ殿下やジェナにお熱なようだが、その他にも気にかけておくべき奴がいるって話だ」


 その言い方には少し不満を覚えたエルキュール。しかしグレンが真面目な表情を保っていたために、追及は控えて思案を巡らせることにした。


「……アマルティアや魔物のことは言わずもがな。君が指しているのはロレッタか?」


「ソレイユ村での一件以降、あいつのお前を見る目がどうにもきな臭い。お前らの間に何があったかは知らないが必要ならオレだって――」


「ああ。ありがとう、グレン。よく周りに気を配ってくれて。でも……」


 彼の気遣いはありがたい。ただそのことはエルキュールの秘密に大きく関わっている。

 成り行きでジェナやロレッタには明かしてしまったが、本来ならばこれはいたずらに打ち明けるような話ではないのも確かなのだ。

 いくらグレンが相手とはいえ、軽はずみに踏み越えるわけにはいかない一線であった。


「彼女は悪い人間ではないと信じている。彼女は少しだけ、自分が抱える罪に苦しみすぎていると、そういう風に俺は思う」


 アルクロットの森で垣間見た、ロレッタの驚異的な魔力を思い返す。

 あれは恐らく、只人が独力で到達できる領域にはない。十中八九、後ろ暗い過去に由来するものだとエルキュールは推測していた。

 自然界には存在し得ない氷の魔素。それを発する彼女の身体にはいったいどれだけの魔法が施されてきたのだろう。

 人体に魔法術式を埋め込むような、中世の侵襲的な方法が採られたとは考えたくないが。その身にはきっと、想像も絶する負荷が掛かっているに違いなかった。


「優しすぎて。穢された自分を肯定したくて。世界を呪うしかなかった。俺とは異なるが、どこか親近感を覚える在り方だ。だからロレッタとの関係は折を見て改善したいと思っている。心配だろうが見守ってくれるとありがたい」


「……そうかよ」


 ロレッタの魔力についても内に秘めなければならない約束だ。

 エルキュールの抽象的な説明に、グレンは文句も言わずに頷いた。


「これまでのお前のプレイボーイっぷりを信頼して、ここは生暖かい目で見守ってやるとするか!」


「プレイ……はあ、まったく。どこをどう見たらそういう表現が出てくるんだ?」


「惚けんなよ、今だって両手に花な状況なんだろ? 羨ましい限りじゃねえか」


「そんなことはないと思うが……」


 それまで張り詰めていたグレンの語気はやがていつもの軽やかな調子に戻っていて。

 真剣な雰囲気はすっかり霧散し、それから二人は他愛のない雑談に花を咲かせた。

 妙に疲労困憊した気配のジェナとクロエが戻ったのは、これより数刻後のことである。



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