幕間「氷塊に閉ざされた記憶」
家族でも親でもない人間の手によって全てを管理された人生。それこそ私が産声を上げた瞬間に始まった世界であり、唯一にして絶対の規則であった。
「実験体番号091――至急、実験準備室へ」
両親に名づけられたロレッタという名前は、ここでは単なる記号の価値さえ認められない塵に等しかった。彼女らにとって必要なのは血と肉に形づくられた物質的な身体のみ。アナウンスに呼ばれれば、従う。持つべき意思もまた、それだけで良い。
実験準備室と呼ばれる場所には、いつも白衣を着た小柄の女性が私を待っていた。
名は後で知ることになる。マリグノ、私の手によって命を絶たれる者の一人。もちろん、それも未来における仮定の話だが。
過去の私にとっては、己の存在意義と言い換えても良い人間だった。
「ふうん、少し眼の下に隈があるね。ボクの用意した栄養をきちんと摂取しているのかな?」
「……私は――」
「おっと、その口はキミが餌を体内に取り込むためだけに残してやっているものさ。気軽に開かれると困るね。口臭も酷いしさぁ?」
口を閉じて、頷いて見せる。
抗った先にあるのは廃番。「不良品をいつまでも手元に置いておく趣味はない」とは彼女の口癖であり、私はそんな価値観に不平を言うでもなく順応していた。酷いくらいに。
「……まあ、使えない程じゃないね。特異な来歴を持つ新入りながら、キミの素質は研究所の中でも指折りだ。期待しているよ、091番」
準備室で消毒を済ませた私は、彼女の背を追って実験室へ。部屋の中央に置かれた寝台に座らせると、マリグノが魔動計器を見ながら私に幾つかの飴玉を与える。
透き通る水色の、甘く爽やかな味。名前の方とは違って、こちらの内容物は今もなお深く知らない。
恐らく碌でもないものであったのは間違いないだろう。私の身に起きた変化と、その成果がもたらした彼女の末路を思えば。
「おかえりなさい、ロレッタ。今日も呼ばれていましたけど、何も酷いことはされませんでしたわよね?」
檻に閉ざされた部屋に戻ると、家族が私を出迎える。尤も、意の一番に声を上げる気力があったのは、専ら姉のミルドレッドをおいて他にいなかった。
若く、才気に溢れ、泥水のような環境に身を置いてなお輝いて見える彼女は、間違いなく私の憧れだった。
ミルドレッドが、姉が好きだった。四六時中において慕い、自由時間になるときまって遊んでもらっていたものだ。
「ねえ、姉さま? どうしてわたしたちはここにいるの?」
それは幼く無知であった私にとって尽きぬ悩みであったが、すぐに口に出すことはなくなった。姉が、遠くで愛おしげに私たちを見つめる父母が、問われるたびに果てしのない悲しみをみせるから。
閉じられた世界。私たちがどこかの内側に閉じ込められていることは、マリグノらの発言から察せられるものがあった。
外にも世界があるのなら、なぜ私はそこではなく、ここに居るのだろうか。
それは不平にも満たない、如何なる負の属性も持たない単なる疑問だった。
私は偏に純粋だった。マリグノが見せる闇も知らず、目的不明の実験にも従ってしまえる。
この世界の中では一等明るい性格だった私を、姉や父母はしばしば誇らしげに見つめていた。その視線が嬉しく、私も余計に求められるまま振る舞った。
あのとき彼女たちに妥協を与えたのは、他でもない、この愚かな私であった。
「091番の魔素吸収率には目を瞠るものがあるね。ここ暫くは彼女に特化した実験にしよっかなあ」
昼か夜かも分からぬある日の施設内にて。廊下を歩いていた私はマリグノと研究員の会話を偶然耳にした。
「他の実験体に比べても、数段上の適合状態を示しています。投与量を増やし身体に生じる変化をより詳細に観察するのがよろしいでしょう」
「ああ……全く。調達した実験体が身籠っていたときはどうしたものかと思ったけどさ。ボクって本当に運がいいよね。これも精霊様の導きかな?」
「楽しみでございますね。我々の悲願、イブリスの生態を模倣した超人類化の日にこれでまた一歩――」
「イブ、リス……?」
黙って盗み聞きしたことを咎められるのではないか。そんな思考は未知への好奇心によって容易く掻き消された。
無意識に割って入ったその少女に、怪訝と滑稽を湛えた眼差しがそれぞれ向けられる。
「091番! ここより先は実験体が立ち入っていい領域ではないっ! 即刻この場から――」
「まあまあ、堅いことはいいじゃん。この子にはこれから大いに役だってもらうんだからさぁ、多少は大目に見てやらないと……」
顔をマスクで覆った男を諫め、マリグノは私に向かって指を立てる。
「イブリスとは、ボクら人間とは違う成り立ちを持つ生命だ。ボクの目標とするところでもあり、あるいは君の未来でもあるんだよ」
「わたし……? 違う、生き物なのに。目標……?」
「うん。キミは分からないかもしれないけど、ここに居る者はみなその大望を叶えるための協力者なんだ。キミの姉も、両親もね」
「……そのイブリスになることは、いいことなんですか?」
「勿論そうさ。人間は非力な上に命も短い。そのくせ欲望は留まることを知らず、他の生命を傷つけることを厭わない横柄さ。ボクからすれば魔物という俗称なんて……ああ、これは言わなくていっか」
流れる言葉を意味深にせき止めて、マリグノは私の両肩に手を置いた。それから瞳を覗き込んでこう締めくくったのだ。「期待している」、と。
その日を境に、私が実験室に呼ばれる頻度は急激に増した。飴玉の量も大きくなり、マリグノらと過ごす時間も同様にして。
家族も、他の実験体も足繁く実験に向かう私を案じてくれたが、当の私はマリグノと交わした会話が常に思考を支配していた。
私は特別。ここに居るものはみなマリグノの役に立つためにいる。もし私がこの中でより傑出した存在になれば、家族や周りの者もさらに喜んでくれるだろう。生まれた頃より抱えた疑問も、その暁には綺麗に氷解するのではないか。
至った考えには微塵の疑いもなかった。
閉塞的だった自分の世界が鮮やかに延びていくように感じられ、ただただ全能感に浸っていたのだ。
この世界が狂い始めたのは、実験を受け続ける私の身体に異変が生じたときのことだった。
妙に寒く、身体が冷え、周りの熱という熱が私を遠ざけていくのを肌で感じる。風邪の類かと思い姉に診せるが、発熱や倦怠感は認められなかった。
意識も明瞭、この時点では然したる問題もなかった。いつもの如く呼ばれるまま実験に赴く。
実験室の寝台に腰掛け、忙しなく働く研究員を眺める。
しかし、寒い。悴む指に息を吹きかけてみるも、呼気そのものが冷たく効果がない。
私だけが異常をはっきりと自覚するなか行程は恙なく進んでいく。水晶に似た飴玉をマリグノから手渡され、口に含む。味は感じなかった。
明らかなのは、口腔を通り抜ける冷感。馴染みやすい感覚。冷えた身体でも仄かに知覚できるそれだけが、このときの私に確かな安心を与えていた。
「……え――?」
幾つの昼夜が巡ったか。異常はさらに悪化した。
草を編んで作られた簡素な寝具に寝そべっていた私は、起き上がることができない自身に驚愕していた。
まるで全身の血液が凍てついたかのような極寒に、私は初めて恐怖を感じた。
不可逆的変化。障害や疾患という言葉では表せない違和が、いま己の内において進行している。
寝床から動けないでいた私に一早く気づいたのは、やはり姉のミルドレッドだった。
「ロレッタ! そ、その身体は!?」
姉曰く、その時の私の状態は筆舌に尽くし難いものだったそうだ。
透き通る氷塊が服を破って至る所に露出し、私の肉体を侵食していた。それは光を放ち、鼓動の如く明滅し、凄まじい魔力を外部へと垂れ流していたのだ。四肢に関しては完全に血色が抜け落ち、水晶で精巧に象られた模造品の如くあったようだ。
近くにいた父母が、騒ぎを聞きつけた周囲の者が、横たわる私を取り囲む。
心配そうに、所在なさげに、怒りを堪えながら見下ろす視線を通じ、私は悟った。狭い世界で不自由に過ごしていながら、私は確かに、彼らによって愛されていた。それは私がこの世界で生まれた唯一の命だったから。誰にとってもの隣人だったからだ。
アナウンスが今日も鳴る。
けれど私は行けない。
すぐに白衣に身を包んだ者たちが檻の外までやってきた。
はやく、アレを――。
「091番、マリグノ様がお呼びだ。早く実験準備室へ向かえ」
飴が欲しかった。言われなくても。だからそれを言葉にしようとしたけど、喉が固まって上手く紡げない。
その間に、またしても不可逆な事態が起こってしまった。私の内ではなく、私の外の世界で。
「いい加減になさって! もう我慢の限界ですわ!」
始めはミルドレッド、次いで父と母。その後も名前を奪われた者どもの怒号が続いた。
「俺たちはもう大人しく閉じ込められるもんか!」
「こんな場所で生まれた子が可哀想よ! 誰しも広い世界を知る権利があるのに!」
老若男女が感情を爆発させる。定められた獄に反抗して。少女の未来を案じて。
「ねえ、この騒ぎはいったい何だい? ボクの可愛い091番はどうしたのかなー?」
やがてマリグノまでやってきて、事態は混迷を極めた。
餌を求める雛鳥のように際限なき叫び。萌芽し、統一された意思を砕いたのはたった一つの暴力であった。
悲鳴とともに、一人の男が倒れる。マリグノが放った銃弾によるものだった。
「みんな、数年にわたるお勤めご苦労。お陰でボクの研究は飛躍的な進歩を遂げた。この言葉の意味……ボクの下で飼われていたキミたちなら簡単に分かってくれるよね?」
数の暴力は、主従を逆転させるには至らなかった。もしそうであるなら、始めからこの関係は破綻していたことだろう。
為す術なく処理されていく元実験体たちに、姉の行動は恐ろしく素早かった。
「ロレッタ、逃げますわよっ!」
姉さま――。
父さまと、母さまは、いない。諦念を帯びた顔でマリグノらに飛びかかっている。私たちを逃がすためだ。他の者も同様。
彼らはきっと、仄暗い日々に鬱屈していたに違いない。均一的で寒々しい待遇に、色褪せた未来に。
だからこそ。ここで徒花と散ろうとも、自身の意思に従った反抗に対し、彼らは歓喜していたのかもしれない。私を、私たちを救おうとする使命感にその身体を突き動されるのを、まさに全身で以て肯定していた。
そう思われるくらいに、目の前の光景は印象的だった。
姉に引きずられながら、次々と倒れていく人たち。奮闘と怒号と殺戮は、やがて果てしなく遠くなっていく。
それからどのようにして研究所の敷地外へと逃げたのか、私は終ぞ知らない。マリグノの研究に対する執念ならば、実験体に軽々しく脱走を許すはずがないのだが。
共にいたミルドレッドのお陰だろうか。果たして私と同じく幼い少女であった彼女に、何を為せたのだろうか。
やはり、終ぞ知らない――。
「――……夢」
ロレッタが意識を取り戻すと、そこは見知らぬ室内であった。
よもや夢の中と同じく、何者かに閉じ込められたのかと一瞬思うが、どうにも違う。
そこは見慣れなくはあったが、知っている場所でもあった。
イルミライト家――ジェナの実家である屋敷の一角、ロレッタのため宛がわれた部屋だと、未だ朦朧とする思考のまま気づく。
ソレイユ村から少し外れた地にてエルキュールと相対してから真っすぐここへと戻って来たことは覚えているが、どうやら疲れが祟って床に布団を敷かぬまま寝込んでしまっていたらしい。
夢見が悪かったのは全身に張り詰める固い感触のせいもあるだろう。
しかし、ロレッタは知っている。あの頃の夢を今さらになって見てしまったのは、黒衣の青年エルキュール、もとい俗世に隠れ住む魔人のせいであると。
「……私と同じ存在かと、思っていたのに」
期待すれば、裏切られる。この世の摂理。
あの赤毛の青年についても、黒の魔人も、夢に見し追憶の日々も。
すべてロレッタの心を苛み、そして何事もなかったかのように通り過ぎてゆく。
――私の心はこんなにも泣いているのに。そのような言葉を、毎度噛み締めるように口内で閉じ込める。
この身を救うのは、そこに宿る意思と、力のみ。闘争こそが、自身の愚かさに蓋をする。
それこそロレッタの知る真実であったはずだ。起き上がり、軽く眩暈のする頭を抑えながら、彼女は鬼気を滾らせた。
「アマルティアも、エルキュールも、他のイブリスも。全てこの手で消し去る。そうしなければ、私は――」
この穢された身にも、世に尊ばれる価値が欲しい。
飢えた獣のような衝動を全身に巡らせ、ロレッタは部屋を後にした。
アルクロットを発つ日は、もう目前に迫っていた。