二章 第四十四話「綻びが歪みとなりて」
「……やっぱり迂闊だったなぁ」
屋敷から山道を下って暫く。ソレイユ村に到着したジェナは人の寄り付かない隅の林に紛れて溜息を零していた。
原因というのは、ジェナが見つかるたびに巻き起こった村民たちの手厚い歓迎である。激しい激闘を経たジェナが目覚めたことが村中に知られると、そこはもう宴のような騒ぎであった。
聖域内での一連の出来事は、現時点において村民の間には伏せられているものの。ジェナが正式な後継者となったこと、そして聖域で生じていた何某かの異常を解決したことは既に広まっていて。
ジェナは今の今まで歓喜に浸る村民たちの応対を迫られていたのだ。いつもの次期六霊守護としての顔ではなく、一人の少女として打ち解けた態度で接したこともその人気に拍車をかけていたようにも思う。
かつてない状況に混乱するジェナだったが、持ち前の社交術で何とかこれをやり過ごし、ひと時の安らぎを得るに至ったのであった。
「でもまた表に出たら騒ぎになりそう……まだエル君たちに会えてないのに」
一息ついてから呟くジェナの顔色は芳しくない。ロレッタにしても、エルキュールにしても。言うべきことは数えきれないほどだったが、陽は刻一刻と陰っている。春の季節であるセレの月だと言え、日没までは間もないだろう。
こんなことになるならグレンに彼らの居場所を詳しく聞いておくべきだったと。ジェナの思考がいよいよ実のないものへと移ろっていたところに。それは突如として起こった。
局所的な魔力の爆発。村とは正反対の方角、ルミナス山の上層部に至る山道の方からであった。距離はさほど遠くない。
もし、これが自然由来のものであれば。聖域アルギュロスに近いこの地では、空気中における魔素の活性化は珍しい現象ではないが。
「それにしても前兆もなしに。いや、そんなことよりもっ……!」
死闘を経て、ルシエルとの交感を果たしたジェナの魔素感覚は、はっきりと先刻の異常を捉えていた。
それは闇の魔素の奔流だった。光属性ならまだしも。この地ではまず有り得ないことであった。
ジェナの胸中に、一気に不安が込み上げてくる。幸いにして震源地は村との反対の方角。人目を避けて確かめに向かうには都合がよかった。
「アマルティア……? いや、おばあ様の千里眼があるこの地でもう悪事を働こうとは考えないはずだけど……」
念のため杖を手に取り、ジェナは深緑の林を駆け抜ける。生まれた時から山で育った彼女は、凹凸の激しい地面を物ともせずに進んでいく。
そのとき再び魔力の爆発を感知した。やはり闇の魔素。魔素の爆発的活性というのは単純なものなら物理的な被害をもたらさないが、魔法のように特定の指向性を持たせたものなら話は別である。
断続的に活性化する魔力から、それが人工的な産物だと判断したジェナは歩調を緩めた。相手が敵だった場合、気取られてはいけない。エルキュールらとの旅を通じて、ジェナの戦術というのもより磨きがかかっているようだった。
木立に身を隠し、慎重に術者の特定を試みる。目と魔素感覚を凝らしてさらに状況を探ろうとしたその刹那、遠くで足音が鳴った。慌てて身を引くジェナ。
音は軽く弾むようである。走っているのだろう。それも徐々にこちらに近づいてきている。その向かう先にはソレイユ村があり、必然、ジェナの次の行動とは――。
「止まってっ!」
疾走する影の行く先に飛び出し、その経路を身を以て塞ぐ。次いで杖を前に構えれば、件の人物は弾かれたように動きを止めた。
先ほどまで起こっていた闇の魔素の爆発。その元凶であるかと思われたが、果たしてこの少女がそのようなことをするだろうか。
露わになったその風貌を認め、ジェナは頭を捻った。
「……ロレッタちゃん?」
何と言うことはない。人影とはジェナが探し求めていた少女であった。ミクシリア教会に属するシスター。愛想が悪く皮肉屋ではあるが、その実世話焼きなジェナの友人にして、心強い味方でもある。
しかし、そんな彼女は。今しがたこちらに向かってきた彼女は今。
「どうして、泣いているの……?」
「――っ! こ、これは……」
まるでジェナの指摘に初めて己が涙を流していることを自覚したかのようなロレッタ。赤く腫らした双眸を指で拭い、そのあとはいつもの凛然な顔つきに戻っていた。
だが。それが無理やり作った面であることなど、今まで自己の真実を隠し続けてきたジェナからすれば容易く筒抜けであった。
その荒れた心に寄り添うためジェナは彼女の肩に触れようとしてみたが、差し出した手に返って来た急な痛みに戸惑う。
手を、振り払われた。ロレッタに。ここまでの拒絶は、経験がない。
暫し呆然とするジェナ。ロレッタが先を行こうとする。止めなければ。
振り返ってその腕を取り、こちらに身体を向かせる。その有無を言わせぬジェナの態度に、ロレッタは深く息をついた。
「どうしたの、一体向こうで何があったの?」
「どうして向こうで何かがあったと決めつけるのかしら」
「この旅の間、あなたが私の前で涙を見せたのは、悪夢にうなされている時くらいなんだから」
「……いつの間に寝相を盗み見ていたなんて。正式に六霊守護になったらそういうのは卒業したほうがいいわよ」
相変わらずの毒舌、ジェナは安堵した。ロレッタは確かに、心の底では安心している。表面に出ているのは言わば彼女の甘えの部分なのだ。
取りあえず、彼女の手を握って気分を落ち着かせる。冷たい、酷く冷たい肌である。単に体温が、という話ではなく、人として持つべき何か温かみのようなものを落としてしまったかのようであった。
数刻後すっかり元の調子に戻ったロレッタは、ジェナの手を、今度は優しく振り解いてから告げた。
「貴女、この辺りの魔力を辿ってここまで来たのでしょう? その源なら向こうにいるだろうから、確かめたいのなら確かめにいけばいいわ」
「……知っている、ということはロレッタちゃんも何か関わっているのかな」
「さあ。それも含めてあれに聞けばいいんじゃないかしら。私は気分が悪いから先に屋敷に戻るわ」
「私が送っていこうか?」
「結構よ。今は一人になりたいし、そしてそれは、きっとこれからも……」
横にまとめた水色の髪を揺らし、ロレッタは歩き出す。しかし数歩行ったところで足を止め、振り返らずにこう続けた。
「ミルドレッドの件はごめんなさい。かつて彼女の妹であった私が仕留めるべきだったのに、力が及ばなかった。ジェナたちにはとんだ迷惑をかけたわね」
「……ロレッタちゃん。思い詰め過ぎなくていいんだよ、休みたいときは休んで。また後でたくさん話そうね」
それ以上の掛けるべき言葉は、今のジェナには見つけられなかった。その堅氷の如き心を溶かすには、ジェナの言葉は良くも悪くも優しすぎたのだろう。
いつか、その闇に近づけるとしたら、それは。
遠くなっていくロレッタの背を見えなくなるまで見送ってから。ジェナもまた歩き出した。反対側、件の魔力が渦巻いていた方へ。
ここでロレッタと出会った時点で、ジェナは自分の中に生じた嫌な予感を消し去ることができないでいた。
闇の魔力。涙を流すロレッタ。そしてグレンから聞かされていた言葉。もしジェナの推測が全く当たっていたとしたら、一刻も早くロレッタを追うべきなのだろうが。
ロレッタはきっと先ほど起こったであろう事件を胸に秘めるはず。あの様子を見たジェナには確信があった。
林を少し進めば、じきに開けた場所に出る。それはその奥のひと際大きな木立に凭れるように倒れていた。
くすんだ空のような灰色の髪に、穏やかな夜を思わせる黒衣。世に疎まれる身分にありながらも、その純心さは誰よりも強く。矛盾の中で足掻く彼は、ジェナにとっては一つの言葉で言い表せない特別な者であり。
「……エル君」
世界に仇なす叛逆者にして、世界に与する守護者であるエルキュール・ラングレーは。かつてないほど弱々しい様で。
頭が白くなり、鼓動が速くなる。ジェナは駆け足で彼に近寄ると、胸元が消失している着衣に目を向けた。
そこには黒き魔素を散らす、宝石の如き輝石が。魔人の心臓とも言うべきコアが、無惨に顔を覗かせていた。