二章 第四十一話「六霊の庭」
ジェナの意識が覚醒したその時。彼女はそこが夢の中であることをはっきりと自覚していた。
奇妙な浮遊感のままジェナは自らの置かれた状況を俯瞰する。眼前に広がる景色は、どれも彼女の記憶にはないものであった。
光り輝く道、脇に聳える尖塔や遺跡。近しいところとしては聖域アルギュロスが挙げられるだろうが、その光の聖域を以てしても、この地の異常さを形容するには足りない。
ジェナが一歩踏み出せば、地面には白銀の波紋が広がり、魔素に似た粒子が辺りに舞う。
「ああ……魔素」
異質さの正体に気づいたジェナが納得の表情で呟く。
ヴェルトモンドの物質世界とは異なり、この地を構成するすべての要素は、純然たる魔素質で構成されていたのだ。
現実ではまずあり得ない。だからこそ、この世界は夢なのだろう。
不思議な光景を目にしながら、ジェナの身体はジェナの意識とは別に前進を始めていた。
ジェナはこの先に行かねばならぬのだと、何者かが告げているようである。
ともすれば不気味な現象。しかし彼女の心に不安はなかった。魔素質で創られた世界を、どこか浮足立った気持ちで歩んでいくジェナ。
光の魔素が時には道に、時には階となり、ジェナの行く先を示してくれる。
そうして輪郭が曖昧な不安定な景色にも目が慣れた頃。ジェナはいつの間にか巨大な広間が眼前に浮かんでいることに気づいた。
その広間の中心部は円状の地面が盛り上がる形で一段高くなっており、外周にはやけに榻背の高い六つの椅子が等間隔に並べられていた。さながら目に見えない円卓を囲っているかのように。
「あそこに、行かないと……」
全く論理的に下した判断だとはジェナ自身思えなかったが、だからといってあの広場に向かわないという選択も間違っている気がした。
彼女の望みに応じて、ジェナの立つ地点と広間との間に六色の線で織られた橋が架かる。
「この橋、精霊色なんだ」
それは六霊教で最も重要視されている六つの色彩。
赤、青、緑、黄、白、黒の六つを指す言葉にして、六大精霊の象徴でもあった。
この夢の世界は何かしら精霊と関りがあるのだろうか。相変わらずぼやけた思考で先に進む。程なくして、ジェナは広場の中央に辿り着いた。
それと同時に、抱えていた疑問も氷解する。
先ほど橋に見られた精霊色の結晶が、めいめい広場を囲む椅子の榻背に埋め込まれていたのだ。
あまりに象徴的な光景。
この椅子は玉座なのだろう。古の六大精霊のための。ジェナは直感的にそう考えた。
「でも、黒の結晶だけは割られているんだね……闇の大精霊、ベルムント様。確かにその扱いは六霊教の中でも異質なものだけど」
それとも、アマルティアの魔人が主と崇める魔王ベルムントと何か関係があるのだろうか。
所詮は自らの無意識が作り出した幻影だと思っていたが、ここまで意味ありげな空間を前に、ジェナの意識は次第に冴えていく。
自分は今、何か尋常でない体験をしているのだという自覚が沸々と湧いてくる。
「お待ちしていましたよ、ジェナ・イルミライト様」
その声は全く唐突にジェナの背後から発せられた。
ぐるりと外周の玉座を見回すと、そのうちの丁度一つに、白く輝く人影が腰掛けていた。
榻背にある結晶の色は、光精霊を表す白。即ちルシエルの座である。
当惑しながらジェナが近づくと、その人影の容貌もはっきりと見て取れた。
眩い白のドレスに身を包んだ少女。慈悲深き笑みを湛えた少女。
それはジェナが六霊守護として幼い頃から伝え聞かされてきた、光の大精霊の化身に瓜二つであった。
「ルシエル、さま……?」
「ええ。わたくしが六柱が一、光の大精霊ルシエルでございます。……驚かせてしまいましたか?」
席を立ち、悠々とこちらに向かってくるルシエル。
その体躯はジェナよりもほんの僅かに大きい程度だというのに、発するオーラは常人とは桁違いなもので。
押し黙ってしまうジェナに、ルシエルは申し訳なさそうに眉を下げた。
「この六霊の庭に来訪者が現れるのは、実に数百年ぶりのことですから。わたくしもつい、気分が高揚してしまいました」
ジェナの周りをゆったりと歩きながらルシエルは語る。確かに六霊守護の一族には精霊との交感能力があるが、直に言葉を交わせるようなものだとは思わなかった。
また何故いきなりルシエルと通じ合うことができたのか。エヴリンにしても、相応の儀式と聖域の特殊な力場を利用してようやく至る境地だというのに。
よほど不思議そうな顔をしていたのか、ルシエルはたいそう可笑しそうに笑った。
「聖域に封印された魔物を倒すため、貴女様はわたくしの遺物を行使したのでしょう? その遺物と一族の血の力が合わさり、この地への顕現を果たされた。わたくしと貴女様との出会いは必然だったのですよ」
「え、えっと、夢では……ないのでございましゅか……!?」
「くすくす……ええ。と言いましても、ヴェルトモンドに属する世界でもございません。ここは精霊界。貴女様の住む地とは別次元に存在するものなのです」
別次元。先のルシエルの言葉を借りれば六霊の庭。
詳しい事態は未だ呑み込めないが、とにかく聖杖カドゥケウスで魔法を放出したことが、ジェナがこの地に迷い込んだ遠因であるようだ。
平静を取り戻すジェナを尻目に、何を思ったのかルシエルはいきなり指を鳴らした。
それが引き金となって辺りは眩い閃光に包まれる。一瞬の空白。ジェナが再び視界を取り戻すと、広場の中心部にどこからともなくテーブルとティーセットが出現していた。
「宜しければ、少しお話に付き合って頂けませんか? ちょうど貴女様にもわたくしに訊ねたいことがあるでしょうし」
訊ねること。許されるものならそれは訊ねたいことだらけである。
ただ、その前に。
この目の前の少女が本物のルシエルだと分かった今。ジェナには告げなければならぬことがあった。
「既にご存じだと思いますが、この度の聖域における魔素異常について……一族を代表いたしまして深くお詫び申し上げます。禁忌を犯したことも、それを長い間ルシエル様の寝所に封じたことも。その件が外部に漏れることを嫌い、隠匿し続けたことも。全て、私が――」
「ジェナ。よいのです。ですからどうか、面を上げて?」
柔らかく、包み込むような感触に謝罪を止められる。
頬に、ルシエルの御手。子をあやすような口調に加え、その眼差しは一等優しい。
言葉を失うジェナに、ルシエルは続けた。
「アルクロットの闘いについては全て知っています。貴女様は罪人ではない。どうぞ胸を張って、これからはご自身の望む理想を追い求めてください。わたくしの光は、貴女様に纏わる全てを照らすことでしょう」
ジェナはこれ以上、謝意を口にすることはなかった。
ルシエルの御心は十分に理解できた。自らの征く道が彼女の意に背くことはない。一族に課せられた役割だからといって、過去の災厄の咎を抱える必要もない。
何たる聖性。己が一族が仕え続けてきた高き者は斯くも有難いものであった。
なればこそ。今が、先のルシエルの提案に応える時であろう。
ジェナは落ち着いた声色で告げる。
「ルシエル様。ヴェルトモンドは現在、未曽有の危機に瀕しています。その状況を打破するために、ルシエル様の知恵が必要なのです。聞き届けてくださるでしょうか?」
「ええ、もちろんです。愛しい子供たちの願いのためならば。さあさあ、席にお掛けになって? イルミライトの方とお茶会をするなんて、数千年の生においても貴重な機会なのですから」