二章 第三十六話「憤怒と憐憫と」
エヴリンが施した結界を破壊し、自らに掛けられた拘束を脱したエルキュールは、迷うことなくルミナス山の山頂を目指していた。
あの隠れ書庫で見つけた手記に刻まれていた、ウィルフリッド・パレットの恐るべき探究の歴史。
それから歪んでしまったイルミライト一族の在り方と、この地を脅かす魔素異常の元凶。
エルキュールの目的と言えば、即ち聖域アルギュロスに封印させられている獅子魔獣マルティコアスを討伐すること。
そしてこの一連のイルミライト一族に纏わる騒動を外部に公表するよう、エヴリンに提言することも辞さない覚悟であった。
このまま全てを隠蔽し続けることは、イルミライトの名を受け継ぐものにとって莫大な心労を延々と負わなければならないことを意味する。
当然その末席にあるジェナも例に漏れず、彼女の純粋な意思というのは必然、責務と秘密という枷に閉ざされることになるだろう。
エルキュールはそれを黙って見過ごす訳にはいかなかった。
それは決してグレンから依頼されたからではない。
人を人として扱わぬウィルフリッドの行為も、それを無きものにしようとしているエヴリンの傲慢も、自らの運命をただ黙って受け入れようとしているジェナの怠惰にも。
エルキュールは憤慨していた。せっかくヒトとして生まれたのならば、同じくヒトに生まれた者を頼るべきではないのか。それが果たしてヒトの世に疎い魔人の浅はかな考えだったとしても、この歩みを止める理由にはならない。
山頂にまで至る道に漂っている光の魔素は、以前のサノワの街に比べて大分落ち着いている。
恐らくはジェナとエヴリンが聖域を目指しながら魔素異常を除去して行ったのだろう。
魔人としての力を一次的に解放し、感覚が鋭敏になっている今、エルキュールは周囲の魔素から常人では考えられないほどの情報を得ていた。
道中の魔素に対して、頂上部から感じられる魔素だけは未だに桁違いの濃度を誇っている。
即ちその地点こそが、目指すべき聖域のある場所なのだ。
さながら霊に憑かれた人の如く、黙々と歩を進めるエルキュール。その淀みない調子が、ふとぎこちないものへと変わる。
降雪と霧が阻む中、エルキュールの視界には確かにこちらへと向かってくる人影が映し出されていた。
完全に歩行を止め、全身を巡っているコアと魔素質の働きを極限にまで抑える。
人影が近づくにつれ、その全貌が明らかになる。
二人組。大柄な方が、ぐったりと項垂れた小柄な方を懸命に支えながら歩いている。
そもそも猛者しか立ち入ることのないこの辺境に、よもや迷い子などいるはずもない。
立ちどころに湧いて出たエルキュールの疑問は、すぐさま驚きと、ささやかな納得感を伴って氷解した。
「――ヘクター。それに、あの亜麻色の髪は……」
その呟きが聞こえた訳ではあるまいが、件の人影がこちらに気づいた様子で駆け寄ってきた。
「……本当にあの結界を抜けてくるとは。やはり貴様はエヴリン様が警戒するだけの存在だったということだな」
「果たしてそんな無駄口を叩いている場合なのか? あなたがわざわざ残してくれた手がかりのおかげで、今この地で何が起こっているのかは把握しているつもりだ。それに――」
エルキュールは厳しい表情から一転、悲しそうに眉を顰めて視線を移した。
ターバンを身につけた手負いの男から、華奢な身体つきがますます心配になる、哀れなほどに衰弱しきった少女へと。
「ジェナの身に一体何があった? あなた達がソレイユの闇から俺を遠ざけたのは、無論その力を抜きにしても解決できる目途がついていたからではないのか?」
「ああ、本当に。ソレイユ戦士団の筆頭として、六霊守護様を支えきれなかったのは慙愧に耐え――」
「言い訳を聞くつもりはありません。あなたがいま知っている情報を端的に述べてくれればいい」
急かすエルキュールに、ヘクターは悔しげな面持ちで語りだした。
エヴリンらの力によって聖域に封印されていた魔獣マルティコアスの討伐を果たしたこと。
その抜け殻から現れたアメリア・イルミライトに酷似した正体不明の人形の存在。
そしてミルドレッド捜索のための指揮をドウェインに引き継いだヘクターが聖域に駆け付けるや否や、気を失ったジェナを安全な場所に逃がすようエヴリンに頼まれたことを。
また、これまでの道中に判明した事として、ロレッタ・マルティネスに変調が起こり、結果として魔人ミルドレッドを逃がすことになったと。
聞いているだけで気分が悪くなる悪報の数々に、エルキュールはこの上なく辟易としていた。
自らが現場に赴いていれば全て上手くいっていたなどと宣うつもりはないが、それでも現状は良い方向へと向かっていたはずだろう。
「……恥ずかしながら、これまでの無礼を承知したうえでまだ貴様に頼まなければならないことがある」
「ジェナのことだろう。構わないが、その前に一つだけ質問させてほしい」
「私に答えられることなら何でも答えよう」
「俺を軟禁したあの場所について。ソレイユの裏の事情を俺に知らせるよう仕向けたのは、あなたの独断でのことだろうか」
聖域の魔獣とウィルフリッドの罪。あの手記がなければ、今頃エルキュールは何を為せばいいのかすら分かっていなかったはずだ。
確かめるような問いに、ヘクターは首肯する。
「――やはりそうか。おかげで助かった。さて、あなたも早くエヴリンと合流しなければならないのだろう? ここは俺に任せて先に行ってください」
「感謝する、デュランダルの……いや、エルキュール・ラングレー殿。姫様のことを頼む」
ヘクターから受け渡されたその身体は、本当に脆く、儚い印象を伝えてくるもので。
彼がアルギュロスへと戻っていく背中を見つめながら、エルキュールはこの労しい少女にどう接してやるべきか考えていた。




