二章 第三十三話「ブラスト」
「あの馬鹿シスター……これが終わったらただじゃ済まさねえ……!」
態度が急変したロレッタを追うグレンが幾度目かの愚痴を零す。
本来ならばミルドレッドの気配を感じた時点で付近に散っているソレイユ戦士団を召集する手筈だったが、彼女のせいで予定が大幅に乱されてしまった。
これで万が一にも目標を逃がしてしまえば、折角のグレンの決断も水の泡に帰してしまう。
それは彼にとって、何があっても許し難い結末であった。
「……いや、そうじゃねえ……そうじゃねえだろ、グレン・ブラッドフォード!」
地を蹴る足にいっそう力が込められる。
ここで問題なのは、イルミライトに従うほかない己の自尊心が傷つけられたことでも気に食わないロレッタに振り回されたことによる憤慨でもない。
「エルキュールやジェナが自由に動けない今、オレが誰よりも周りを警戒するべきだってのに……!」
普段は冷静な分、グレンもロレッタの安定感に甘えていた節があった。それ故の怠慢であり、この結果なのだ。
グレンは、己が許せなかった。信頼のおける友に対し無力のままでいた自分を。
だが幸か不幸か、罪を贖うことについては、グレンもよく知るところであった。
たとえ多くの過ちを犯しても、この手から零れ落ちるものをただ眺めていてはいけない。
手を伸ばせば掴める可能性が一縷でもあるのなら、手を差し出さない理由などない。
故にグレンは走り続ける。自分に失望しながらも。憤怒に身を焦がしながらも。
それこそが、彼の宿命なのかもしれない。
がむしゃらに駆け、やがて暗い視界が開ける。洞窟を抜けて雪舞う山道に辿り着いたグレンは辺りを見回す。
ここまでの一本道でロレッタと出くわさなかったということは、彼女はこの先の何処かにいるはずなのだが。
「天候が良くねぇ上に広いな……いったん人手の到着を待つか?」
ルミナス山を捜索している付近のソレイユ戦士団とは、ロレッタの失踪も含めて既に連絡を済ましている。
逸る気持ちはあれど、この悪環境を鑑みるに万全を期した方が良さそうだ。
そんなグレンの冷静な思考を嘲るように。それは訪れた。
「……っ!?」
空気を切り裂くかのように鋭く、騒音を伴う空気の流れ。
周囲の木立を揺らし、降雪を巻き上げながら通り過ぎていくそれを、グレンは下半身に力を入れてどうにか耐え忍ぶ。
「今のは……」
魔素感覚に乏しい彼にも感じられるほどの凄まじい魔力。奇しくも数刻前に触れたばかりの感覚に、再び背筋を凍らせられる。
間違いなく、この近くにミルドレッドがいる。さらに魔法を放出している状況だとすると、緊急性は一気に跳ねあがる。
そして今の状況から見るに。戦闘態勢にある彼女と敵対している人物とは、自ずと数が絞られるわけで。
「――ロレッタ!」
最悪の可能性に思い至った途端に、グレンは行動を開始していた。
もはや慎重さを気にしている余裕などなく、先ほどの魔法の放出点をどうにか足を使って特定しようと試みる。
警戒を徹底しながら木々を抜け、雪化粧した岩肌を踏破し、凍てついた湖を望む頃になってようやく。
ようやく、目的の人物に巡り合えた。最悪の光景を伴って。
水色の髪の少女は、いつもグレンに生意気な態度をとる彼女は、あの威勢のよさが嘘のように湖畔で倒れている。
その傍らには、緑光を湛えし暴風の魔人の姿。彼女はたっぷりと余力を残した様子で、倒れ伏す少女を見つめていた。
何が起きたかなど、言うまでもない。
事の真相に気づいたグレンは、冷静に、恐ろしいほど冷静に、両手で構えた銃大剣へ魔力を込めはじめた。
剣身に刻まれた術式が術者の意志に応え、銃砲には魔を灰塵とせし灼熱が宿る。
完全に不意を衝いた一撃。そこには戦闘に長けたグレンの敏腕が如実に顕れていたが。
「――なんて杜撰な魔法」
「……っ!?」
音を殺して放出した魔法は、魔人に命中する直前、不自然にその軌道を上に変えた。
実際にはそんなことはないはずだが、少なくともグレンの目にはそう映った。
「ふむ、これも見えないようですわね。どうやらアナタはこの子に比べて随分と魔素感覚に乏しいようで」
「……お前がミルドレッドだな。目的を吐け。ついでにそいつから離れろ」
振り向きざまに揺れるドレスすらも魔人の余裕を飾り、彼我の実力差を感じさせた。
それでもグレンは内心の動揺を気取られないよう平静を取り繕う。魔法の才はさておき、武術の心得ではまだ食い下がる余地があるのだから、下手に臆病になるのはかえって不利を決定づけてしまうだけだろう。
「その折れない闘志、ヒトの身でありながらなお賞賛に値しますわ。要求に関しましては……折角の怒気を以てして、ワタクシに無理やり聞かせるというのは如何かしら?」
「見え透いた挑発は魔獣用か何かか? まさかそんな文句で人間様を煽っているつもりじゃあないよな?」
時間を稼ぎながら周囲を落ち着いて観察する。
ロレッタに関しては見る限り一命を取り留めており、汚染の兆候も見られない。しかしこの寒い山中で放置し続けるのも好ましくはない。
グレンの心境としてはすぐにでもあの魔人を排除してロレッタの安全を確保したいところだが、できれば増援が来るまではこちらから手を出すのは避けたかった。
悔しいが、あのミルドレッドはグレン一人で相手するには手に余る存在なのだ。
今はただ、この均衡が続けばよい。慎重なグレンの作戦は、されど冷酷なる魔人には響かなかった。
「……訂正致しますわ。アナタは強く、そして賢い。ワタクシを討つだけの策を持っていらっしゃる。ならば、ここはニンゲン様のルールに則り、ひとつ取引をしましょう」
「なに……? おい、まさか。待て……!」
グレンが動き出すよりも早く、ミルドレッドは風の魔素で刃を象り、倒れ伏すロレッタに差し向けた。
「見ての通り、ワタクシはこの子を汚染していませんし、命も取ってはおりません。そして……蝶を捕らえる蜘蛛の巣の如く、ワタクシの置かれている状況もまた厳しいもの」
「あんた、まさか――」
「ひひひ、察しの良い殿方は好きですわ。即ちワタクシの命と、この子の命。二つに一つ、アナタに選んでいただきましょう」
結局のところグレンは侮っていた。
ロレッタがいま一命を取り留めているのは、もしかしたら彼女とミルドレッドの間に何かしらの関係がある故のことだと。つまりはここで下手に命を奪うことはしないと。
かつてディアマントとグレンに関係があったように、彼女たちにも浅からぬ因縁があることは、ロレッタの急変を思えばある程度は推測できる。
あるいは、グレンは幾らか賢すぎたのかもしれない。
だからこそ推論に頼った手練手管で主導権を握ろうとして、今こうして直接的な手段を許してしまった。
増援は間に合わない。
直ちにこの場で選択しなくては、この魔人は容赦なくロレッタの首を断ち、イルミライトの包囲網を切り抜けるため抗争を始めるのだろう。
「さて、グレン・ブラッドフォード。かつてワタクシたちの同胞に下したアナタの正義は、此度はどのような決断を生むのでしょうね?」
「ちっ……また間違えちまったようだな、オレは」
紅炎騎士の名代として、彼女たちの仲間として。これではあまりに不甲斐ない。
嫌な気分を押しとどめて、グレンは瞬時に思考を巡らせた。
「そいつには手を出すな。そしてもうこの地で妙な動きをするな。これがオレにできる最大限の譲歩だ」
「……ええ、結構ですわ」
斯くて、契約は成立した。
ミルドレッドは一瞬悲しげな笑みでロレッタを見つめた後、向けていた風の刃を解いた。
その表情が何を意味するのかグレンには知る由もないが、とにかく彼女もこれ以上戦う気はないようだった。
「では、ご機嫌よう。……ああ。ですが一つだけ付け加えておきますと、今回に限ってはワタクシどもも被害者ですのよ? あくまで視察のつもりでしたのに、あの秘密主義の六霊守護サマに容赦なく来られて」
「そうかよ。オレはお前らもあいつらも嫌いだがな。いいからさっさと失せてくれ」
「……ひひひ、アナタといいこの子といい……ヒトの持つ情というのは難儀なものですわね?」
皮肉めいた言葉を残し、ミルドレッドは自らの身体を風の魔素と同化させると、一陣の風となって去っていった。
ゲートとは一味違う転移魔法。つくづくあれと本気でやりあう未来があったかと思うと、気が遠くなるグレンであった。
「ったく、それにしても……」
取り残されていたロレッタのもとに駆け寄り、まずはその詳しい状態を診る。
グレンが考えていた通り、そこには汚染や命に関わる傷はなく、ただ気を失っているに過ぎないようだった。
否、それどころかではない。
ロレッタの肉体には切り傷ひとつ見当たらず、気絶に至った要因は魔力の使用過多による衰弱と見られた。
つまり、あのミルドレッドは迫りくるロレッタに対し防御に徹するのみで、一切反撃をしていなかったということだ。
「お前らの間に何があったってんだ、クソ……」
ひとまず木陰にロレッタを寝かせたグレンは適当な地面に火を熾すと、幹に背を預けて愚痴を零した。
これ以上アルクロット山脈で悪さをすることがないとはいえ、アマルティアの危険性を知る身としてはできるならここで捉えておきたかった。
エヴリンの無理を呑み、不本意ながら要求通りに動いてきただけに、圧し掛かってくる落胆と失意は大きい。
「……そう言えば、視察とか言ってやがったな、あいつ」
気を紛らわせるために思いついたのは、ミルドレッドが漏らした去り際の言葉。
六霊守護の本拠地にリスクを承知で忍び込んで来るほどだ。真っ先にグレンが考えたのは、六大精霊が残した遺物が保管されている聖域のこと。
しかし――。
「どうにも腑に落ちねえな」
遺物は確かに強力だが、土精霊ガレウスの遺物をその身に取り込んだディアマントの末路を思えば、これほどのリスクを負うのは理解しがたいこと。
それならば聖域への用件はまた別のものということになるが、生憎エヴリンの情報統制のおかげでこれと言った推測すらできない現状だ。
「……まあいいさ。魔人は追っ払ったんだ、これであいつらも守りたい秘密とやらを守れるだろうさ」
後はロレッタが目覚めてから情報を聞き出し、余力があればエルキュールの行方も探る。
今後の方針を定めたグレンは、不意に訪れたこの暫しの休息に身を任せることとした。