二章 第三十話「理想と幻想」
帰郷を果たしたとき、己がこの世で最も不自由な存在になることを、ジェナ・イルミライトという少女はとうに覚悟していた。
己が愛した魔法を単なる政治の道具へと堕とすことも、旅で芽生えた外界に対する好奇心に生涯蓋をすることも。
それがイルミライトとソレイユのためになるというのなら。唾を吐きたくなるような予定調和にも、抗うことなく従おうと心に決めていた。
「あのエルキュールという青年は危険な存在である。今回の聖域異常の間は彼奴をここから隔離せよ」
しかし。実の祖母から伝えられたその命令には。ジェナも素直に首を縦に振ることはできなかった。
なぜ、そのような意味のないことを。仲間を裏切るような真似をせねばならないのか。
ただでさえ彼は在りし日を想起させる、特別な存在だというのに。
反感の言葉は無限に湧き、固く引き結ばれた唇が怒りに震える。
対峙せしエヴリンは、そんなジェナの様子を見透かしたかのように続けた。
「再三言っていることだろう。闇魔法は我らに害をなす概念だと。屋敷にいてなおそれに執着するそなたにわざわざ修行の旅を課した意味……よもや忘れたとは言わせぬぞ?」
「……そのお言葉には賛同しかねます。私は生まれたころより慣れ親しんできたこの村を下り、日々を通じて見聞を広めてまいりましたが――」
アマルティアとオルレーヌを取り巻く現状から、才気ある多くの人間との交流。あるいは王都のミーティスパフェの、あの筆舌に尽くし難い美味しさに至るまで。
どれもが凝り固まった主観と性格を塗り替える、瑞々しい経験であり、得難い機会であった。
あの闇魔法の使い手との邂逅がその筆頭だ。
一見して寡黙で、無表情で、淡々と冷徹に魔獣を処理していく彼の実情は。歪みながらもさりとて健気な、不器用な愛情だと言える。
そのために鍛え抜かれた武術と魔法の数々に、ジェナは出会ってすぐに感服した。
人は見かけによらない。
幼い頃から悪だと教え込まれた闇魔法ですら、所詮は人が扱う一つの手段に過ぎないのだ。
やはり、あの父母と過ごした時間こそが理想であり、真実なのだと。
それを証明してくれた彼の存在は非常に有難いものだと。
ジェナは、この瞬間まで一片の疑いなくそう信じていた。
「……是非もない。ジェナ、そなたにはいつか告げなければならぬと憂慮していたことではあったが。まさか斯様な時になるとは」
ふと、相手を威圧するエヴリンの独特の雰囲気が和らいだ。
それはジェナを憐れみ、同情しているようにさえ感じられて、彼女は逆に戸惑ってしまう。
「此度の聖域の異常とアマルティアの侵入、それに伴う連絡の不通……どれも速やかに解決せねばならない問題であるとはいえ、そのどれもが根本の問題から逸している」
「根本……?」
「聖域を管理せねばならない我が役目を全うできなかったのも、ましてや魔人の攻撃を許してしまったのも。十三年前、アルギュロスに封じられたとある魔獣が遠因であるのだ」
十三年前。
ジェナにとっては、全てが狂い始めた日。理想が潰えた日。
両親の失踪、無味乾燥なる予定調和、その始まりに魔獣が関係しているのだとすれば。
それは果たしてどのような意味を持つのか。
激しい動悸に襲われながらも、ジェナは必死に真実を探す。
「そのように暗い顔をして……アメリアとウィルフリッドが件の魔獣に後れをとったと思ったか?」
「……い、いえ。お父様とお母様のような実力者が、そのような末路を辿るはずは――」
「ああ、その通りだ。あれらの失踪は魔獣の毒牙によるものではない」
と、背筋が凍るような悪しき予感は。
不安の種を撒いたエヴリン当人によって易々と砕かれた。
ならば、ひとまず安心だ。
息を吹き返したジェナに、エヴリンは心底冷たい目を向けて。
「そなたの父ウィルフリッドは禁忌とされる闇魔法を使役し、妻であるところのアメリアを魔獣へと変貌させた。我とドウェインは魔獣となった娘の成れの果てを鎮め、これを聖域に封じた」
「――――え?」
「禁を侵したウィルフリッドは刑に処され、彼の思想や研究に関しては外部に漏洩せぬよう徹底的に管理し、戒めとして代々六霊守護に語り継ぐこととした」
この老人は何を言っているのだろうか。よもや耄碌したのではないか。
現実感が薄らぐ意識を辛うじて保ちつつも、ジェナはその言葉を受け入れようとはしなかった。
その事実を認めるということは、あるいは彼女にとって死にも勝る苦痛だと言っても過言ではない。
しかしエヴリンが徐に差し出した臙脂色の書――ウィルフリッドの日記であるようだ――には先の言葉を裏付ける記述が散見されていて。
その筆跡は、間違いなく父のもので。
「……ぅあ、いやぁ……!」
「済まないな。本来ならばそなたが外に出ている間に、全てを片付けるつもりであった。未だ未熟な身である孫娘に重荷を預けてしまったことは詫びよう」
「な、なんで……今さら、そんな……」
まるで己が肉体が硝子と化し、砕け四散してしまったかのような、衝撃と自己断絶のなか。
話は振り出しに戻る。理不尽な選択が非力な少女に再び迫る。
「最も信頼のおけるはずだった肉親ですら、時にこのような惨い仕打ちをするものだ。ならばいかにして、あの怪しげな青年にこの件を任せられると言うのか」
「……で、でも、エル君はそんな悪質な力は持っていなくて……」
「友であるそなたにはそう見えるか? だがゆめゆめ騙されぬな。あれはただ腕の立つ戦士という言葉だけで片付けてはならない存在だ」
「な、なんでですかっ……!? それもお婆様の千里眼の賜物ですかっ!?」
頼むからこれ以上、傷口を抉るのはやめてくれ。
ジェナは激情のままに叫んだ。
当代六霊守護であるエヴリンの光魔法ビジョンは、千里眼と恐れられるほど正確に情報を掴む。
それを以てして、何かエルキュールを疑う要素を感じ取りでもしたのだろうか。短い間とはいえ傍で見てきたジェナの瞳は果たして曇っていたのだろうか。
それでも。頼むからどうか、これ以上は奪わないでほしい。
自分の心の拠り所を、未来への希望を。
再び、ジェナは反論の意志を宿す。
乾いた口内で唾を飲み込み、意を決して言葉を紡ごうとする。
「……なにが、見えたのですか? お婆様、いったい彼に何を……」
「何かを感じたのではない。むしろその逆……彼奴からはほとんど何も感じ取れなかった」
「え? じゃあどうして……」
「我をしてなお見通せなかった。それこそが異質であり、答えなのだ。連れ添いであるブラッドフォードからは圧倒的な闘志を、教会の小娘からは非凡なる魔力を感じたが……あの黒衣の青年からは全く力を感知できない。これがどういう意味か、分からぬそなたではあるまい?」
熟練の使い手でないにしろ、ヴェルトモンドに息づく人類はその身体のうちに多かれ少なかれ魔力を有している。
それを魔法等に応用できるほど魔素感覚に優れた者においても、逆に全く魔術的な心得がない者においても。エヴリンの感知能力はその効果を十全に発揮する。
これはアマルティアの魔人、ミルドレッドに対してですら例外ではなかったことだ。
「しかしそれが叶わなかった、つまりあの者は意図的に自身の魔力を抑えているということだ。世界に六人ほどしか存在せぬ、特別な魔術師の目を欺くほどの力量で以て」
「…………」
「理由など問題ではない。魔力を隠蔽して我が領地に近づこうとする輩がいる事実のみこそ肝要だ。ウィルフリッドの再来、そしてかつて賊の手に滅ぼされた土の聖域の二の舞だけは、なにがあろうと避けなくてはならぬのだから」
それ故の隔離であり、軟禁。
王都の民間組織デュランダルに属する彼を捕らえることは、政治的に考えても悪手と言わざるを得ないが。
それでもウィルフリッドの侵した罪を秘密裏に、かつ安全に処理するためには必要な措置だということはジェナも理解していた。
「……承知しました。お婆様の仰せのままに」
終ぞ導を失った少女は、暗澹たる面持ちのまま頷く。
彼女が実際にあの青年をおびき寄せたのは、これよりほんの数刻後のことであった。




