二章 第二十九話「とある手記」
『このまま暗闇に拘束するのも忍びないものでな。私から貴様に、ささやかな贈り物をさせてもらった』
このヘクターの言葉の真意を理解するのにそう大した時間もかからなかった。
洞窟内をライトで照らしつつ探索していたエルキュールが発見したのは、洞穴の間に設えられた意味ありげな鉄扉。
鎖と錠で閉ざされた鈍色の扉は塵を被って随分と古ぼけた様子だったが、エルキュールの魔人としての知覚を以てすれば、それが定期的に手入れされた秘所であると容易に断定できた。
覚えのある光の魔素。
鉄扉周辺に立ち込めるそれは、ちょうど先ほどエルキュールを閉じ込めたあの結界を彷彿とさせる。
しかし錠も鎖もあるのだから、普通であればこの先の侵入を禁じるという意志はそれだけで果たせそうなものだ。
どうやらこの残滓を見るに、奥に封印させられし何かとは、エルキュールの想像以上に重大な何かであるらしい。
「――その重大な何かも今となってはこの扱いか。いったい彼は何を考えている?」
大した労もなく外れた禁に、エルキュールは眉を顰めた。
誰の仕業かは理解できる。
あのバンダナの偉丈夫、ヘクターだ。別れ際の言葉は恐らくこのことを指していたに違いない。
問題は、何故こんなことをしでかしたか。それに尽きる。
エルキュールが閉じ込められているこの場所がどのような意味を持つ場所なのか。どうしてわざわざここに閉じ込めたのか。奥に行けば把握することも叶うだろう。
そんな確信めいた予感があった。
念のため魔法的な罠の有無を魔素感覚で分析したのち、若干錆びついたその鉄扉に手をかける。
振動。戸が開くと同時に舞う砂埃を、魔人であるエルキュールはものともしなかった。
鉄塊が居座っていた境界線のその向こう側は、なおも洞穴が奥に続いているようだが。
一つ、決定的に以前の景色と異なる点があった。
「書架? 石と砂と暗闇だけが広がるこの場においては、とにかく不釣り合いな代物だな」
かつてヌールの自宅や図書館で書物にはよく慣れ親しんでいたエルキュールも、洞窟内での読書というのは経験がなかった。
環境的にも到底落ち着ける場所でないし、そもそも光源の観点から言って活字を追うには間違いなく都合が悪い。
これら書物を単に娯楽のためだけにここに置いているのだとしたら、その人物はなんという酔狂の持ち主だろうか。
と、ここを偶然に発見したのであれば、エルキュールはそのように俗な感想しか抱かなかったかもしれない。
しかしこの場所、この時間、この状況には必ずすべてに意味がある。
彼がこの緊急事態に拘束されたのも、怪しく立ち並ぶ書物たちにも、そこに通じる禁が破られていたのも。
やはり、意味があるはずだ。
ただでさえ狭い洞窟内は両端に書架がずらりと並んでおり、通るだけでもかなりの手間を要する。
エルキュールはまず手近なところから一冊本を取り出し、ライトで明かりを確保しつつ慎重に中を検めてみることに。
表題には古式魔法概論とあった。
古くより続く魔法体系について記されたものであるらしく、次のような注意書きが赤字で裏表紙に追記されている。
『禁書につき、隠し書庫からの持ち出しは法度。閲覧には当代イルミライト当主の認可を得ること』
洞窟の出口にはエヴリンの力による結界が貼られているので前者については気に留める必要もないが、後者については少しこの先の判断を躊躇させられた。
だが相手も相手で仮にもデュランダルに属する「人間」を詳しい説明もなしに拘束しているのだ。
状況を都合よく利用したエルキュールは、取りあえず目についたそれを読み進めることにした。
内容を把握するのにそれほど時間はかからなかった。
と、言うよりも。その内容というのはエルキュールがかつて愛用していた市販の魔法書に酷似していた。
恐らくは、同じ系統にあるもの。察するにいま市場にある魔法書はこれを元に編纂されたものであるようだ。
意外な発見。だが然して重要な情報でもない。
きっと外れくじを引いてしまったのだろう。
エルキュールは間もなくそれを棚に戻そうとするが、視界の端に興味深い記述を捉え、その動きを止めた。
「……イプノティズモ」
複合魔法と呼称される区分に位置づけされる草魔法の章。
聞き覚えのあるその名は、説明を読む限り対象の認知を歪め記憶にまで介入することができる恐ろしき魔法であるようだ。
そしてその項には丁寧にも赤の下線が引かれており、かつての持ち主の興味も透けて窺い知れた。
「記憶、禁書……どこかで……」
朧げだったエルキュールの違和感は、次第にその形を確かなものに変える。
なんということはない。
ここに書かれている事象は、ほんの二週間前にエルキュールも直接目にしていたのである。
王都の動乱を引き起こした要因、あのマクダウェルの側近が持っていた魔動機械もこれとちょうど同じ権能を有していた。
一部の騎士団と都民の記憶を操り、街を奇襲するための布石とした、あのアマルティアの謀略である。
「エリックが用いていた義眼型の魔動機械。確か事件前のジェナも禁書がどうとか言っていたな……」
ここはいわば六霊守護が管理する秘密の書庫。
精霊がヴェルトモンドに実在していた時代より積み重ねられてきた知識の集積である。
つまり、およそ一般的な暮らしを送る人間にはここに書かれているようなことはまずお目にかかれない内容だと言えよう。
アマルティアは一体どれほどの情報網を有しているのか。
思索に耽るエルキュール。
その時、彼が持つ書物からふとした拍子に何か滑り落ちた。
慌てて拾い上げてみれば、変哲もない紙片。
古い書であるから破れてしまった頁かとも思ったが、違う。
紙片には無骨な字でメモが認められていた。
『貴様が知るべき情報は、書架の最奥に』
エルキュールの意識にまたしてもあの偉丈夫の顔が浮かぶ。
こちらの状況を見透かし、操ろうとするその文言からその意図もある程度は推測がつく。
この軟禁の一件、どうやら単なる敵対心によるものでも過剰な秘密主義によるものでもないようだ。
黙って従うしかないのが癪ではあるが、エルキュールは指令通りに書架の並ぶ道を奥へ奥へと進んでいく。
行き止まりまではすぐだった。
薄暗い岩壁に似つかわしくないサイドテーブルの上に、臙脂色の装丁の本が目立つように置かれている。
さあこれを読みたまえと、主なき声がエルキュールを誘う。
片手で持つには少し大きいそれを、エルキュールは丁寧に手繰り寄せると、注意深く中を観察した。
これだけ手の込んだ仕掛けで誘導したのだ、中にはさぞ重大な何かを隠しているのだろう。
しかしそんなエルキュールのささやかな驕りに、瞬く間に翳りが射す。
なんということはない、中身は単なる日記であった。
筆者は男性と思しく、朴訥な書体からはその性格が窺えるが。それ以外は極々普通な内容。
田舎で暮らし、魔法学者として生きた青年の、取り留めもない記述がつらつらと並んでいるだけの。平凡な――。
「……違う」
流石に二度も間違えるエルキュールではなかった。
日記に登場し始めたとある名前が、この日記の真価をありありと知らせる。
アメリア・イルミライト。
それはジェナの母親にして、今なお健在だったならば現代の六霊守護になっていた女性の名であった。
記述によるとそのアメリアと日記の筆者は、数十年前のサノワの街にて出会い、やがて恋仲にまで発展したようだ。
その後も日記のページを捲るたび、二人の関係性というのは飛ぶように変わっていく。
恋人、夫婦。第一子を出産してからは父親と母親。
魔人であるエルキュールからしてみれば決して到達できない領域の話であったが、その温かな暮らしぶりは確かに彼の心を擽った。
色褪せた紙面の中、すくすくと成長する男性とアメリアの子。
しかしこの安穏の日々も永久ではない。
イルミライト家に仕えるチェルシーから聞いた話によれば、十三年前にアメリアとその夫は突如として行方を晦ませてしまう。
その時期の記述内容を辿れば、あるいはその謎深き失踪事件も、ジェナとエヴリンらとの間にある確執も紐解けるやも知れない。
薄い望みを抱きつつ、エルキュールは該当のページを漁っていく。
そして。
「――――」
目当ての情報を探し当ててからも、エルキュールは暫く呆然としていた。そこに書かれていた真実はあまりに凄惨で、当事者である彼女たちへの同情を禁じ得なかった。
光に包まれていたソレイユを蝕んだ暗黒。それこそが、この不可解な事態の根底に存在していたものだ。
ようやく立ち直ったエルキュールは、手にしていた日記をそっと元に戻した。
今となっては、この薄暗い洞穴には何の用もない。
もはや闇に閉ざされ、ただ囚われの身に甘んじているわけにはいかなかった。
爛々とした琥珀色の双眸がエルキュールの行く先を射貫く。
白く淡い輝きを湛えた魔法障壁。エヴリンの力による結界。
洞窟とルミナス山の外部とを繋ぐ半透明のそれは、複雑な曲線が面に描かれ、神聖ささえ感じる強大な魔力によって維持されている。
並の人間では、まず突破は不可能。
優れた魔法の才を持つあのジェナでさえ、以前はエルキュールの力を借りて一時的な穴を開くので精一杯だった。
並の、あるいはヴェルトモンドに存在するほとんどの人間にとって。
やはりこの結界を突破するのは不可能だと思える。
しかし、果たして魔人相手ならばどうだろうか。
エルキュールは結界の前に手を翳し、胸にあるコアに強く意識した。
「人払いをしてクレテ感謝しよう、ヘクター。おかげでコノ力も存分に扱エル……」
巧妙に形作られたヒトとしての器に亀裂が入り、イブリス特有の魔素質がエルキュールの体表面を覆う。
彼が忌み嫌う力、魔人の本質。
その屈辱を受け入れてでもこの先に進まければならなかった。
着込んでいた外套の上からでもはっきりと分かるほど、胸にあるコアが強烈な光を放つ。
溢れる黒き波動は奔流となり、エルキュールが念じるたびにその翳した掌に集約されていく。
ヒトと比べて圧倒的な魔力を保有する魔人であれば、この結界を力技で破壊できるかもしれない。
「エヴリン……あなたが強光で全てノ真実を眩ますというのナラ。闇から生まれ出デシ我こそ、それを示シテ見せよう」
その魔人が凝縮した魔素の塊を放ると、結界は目も焼かれるような眩い明光と共に砕け散った。
障壁の崩壊によって阻まれていた外部の冷気が、白い光の魔素を伴って洞穴内部に流れ込んでくる。
先ほどの魔力の衝突による爆発と、煙る山腹の霧の中、ヒトの形を取り戻したエルキュールは悠々と雪積る地面を踏みしめた。
しかし無事に脱出を果たしたとて、聖域の魔素異常と侵入したミルドレッドに対する動きがどうなっているのか、今のエルキュールに知る術はない。
逡巡をみせるエルキュール。されど間は一瞬であった。
「あちらにはグレンとロレッタがいる。きっと上手くやるだろう」
どちらも性格に不安定なところはあるものの、真面目で冷静な気質がある。
突然のエルキュールの失踪に少なからず動揺はあれど、問題なく対処できるはずだ。
問題はジェナやエヴリン、あるいはドウェインやヘクターなどのイルミライト関係者たちに、如何にして接触するかどうかということ。
洞窟の中で得た情報について、エルキュールは彼らに厳しく詰問しなければならなかった。
そして己が為すべきことを新たにすると、陽を覗かせるルミナス山の頂を目指して歩き出したのだった。