二章 第二十七話「陥穽 前編」
イルミライト家の寝殿から少し離れた屋敷の一室で。
久々に柔らかい寝具で眠れたグレンはすこぶる機嫌よく朝を迎えた。
運動を終えて適当に水浴びを済まると、携帯していた食料を貪る。
干し肉や、凍らせた果実。どれもブラッドフォードを飛び出してからは重宝した、グレンにとっては愛用の代物だ。
それに加え、今回の旅ではエルキュール経由で手渡されたデュランダル謹製の魔動収納機が、なかなかに良い働きを見せていた。
おかげで平時よりも多くの物資を手軽に持ち運べる。
その効果は、今後もデュランダルの任務とは関係なしにこの利便性には与りたいものだと、邪な考えが脳裏を掠めるほどであった。
なお、昨夜の時点で朝の食事を給仕するという申し出は丁重に断っていた。
六霊守護、エヴリンとドウェインの老夫婦は、未だ信用に足らない。
飄々としているようで用心深いグレンは、彼女らに対してあまり隙を見せたくはなかった。
「おう、朝は早いんだな」
時間を持て余したので、廊下に出て外に広がる庭園を眺めていると、同じようにロレッタも顔を出してきた。
気まぐれに挨拶してみる。返って来たのは、まるで苦汁を舐めたかのように不快そうな面。
尋ねれば。
「朝起きて最初に見たのがよりによって貴方の顔なのよ? こんな感情にもなるのも当然でしょう?」
生意気な言い草。せっかくの上機嫌も瞬く間に霧散する。
そして、必然的な沈黙。もちろんここで話を終えてもよかったが。
グレンはこの際、前から感じていた疑問をぶつけてみることにした。
「お前の人となりは、これまでの経験を通じて少しは分かってきたけどよ。どうしてオレがそこまで嫌われるのかは一向に理解できねえんだよな。お前に何かした覚えもねえぞ?」
「……そうなのかしら」
「あん?」
「覚えがないだけで、本当は私に無礼を働いた可能性もあるかもしれないわよ?」
「は……? お前と会ってまだ二週間とちょっと。それにその大半はずっと戦ってたしよ……」
「なら、その二週間より前だったらどう?」
繰り返される問い。グレンはますます混乱した。
前とはなんだ。
王都に来る前ならばその時はエルキュールと行動しており、それ以前となるとカヴォード帝国で一人旅の真っ最中であった。
一体ロレッタはいつのことを指しているのか考えていると。
彼女はその様子に満足したのか、珍しく口を開けて笑った。
「……馬鹿ね、ぜんぶ冗談よ」
「な、お前なあ……!」
臨時とはいえ同じくデュランダルの一員として活動する身になったのだからと、歩み寄る姿勢を見せたのがそも間違いだったか。
このロレッタという女は、珍しく殊勝なグレンを虚仮にすることで、何よりの愉悦を得ているに過ぎなかったのだ。
危うく思い出したくもない家出時代の黒歴史を自ら掘り起こしてしまうところであった。
すっかり意気消沈。
されどこの後に待ち受けていることを思えば、過度に浮ついた気分は邪魔でしかなかっただろう。
そう考えると、意外にも悪くないかもしれない。
グレンは自身のこの前向きさをとことん愛してみることにした。
「あ、グレン様。ロレッタ様も。お早うございます」
白い祭服を着こんだチェルシーが二人の前に静かに現れ、相も変わらず恭しく頭を下げた。
ただ、朝は苦手なのか。淡い青を湛えたその髪は後頭部に寝癖がついていた。
人見知りなうえに、詰めが甘い性格なようだ。
「おはよう。客人の前だからかしら。随分と素敵な髪型ね」
毒々しい態度の彼女とは大違いだなと、ほくそ笑む。
が、同時に。
恥ずかしげに頬を染めるチェルシーと意地の悪い笑みを浮かべるロレッタを眺めるうちに。
グレンは奇妙な既視感に襲われていた。
まるで以前にも、こうした経験があったように感じられる。
あれは少女だった。控えめで、虚ろな目をした少女。
その少女に、当時貴族というものにほとほと嫌気のさしていたグレンは。今のロレッタのように軽口を言った覚えがある。
だが、なぜ今になって。そんなことを。
「ちっ、オレもここに来てからなんか調子を狂わされてるな……」
ジェナといい。エルキュールといい。
力のある者が悩み苦しむ様を見て知らぬ間に引きずられていたようだ。
切り替えねば。ここは誰よりも冷静に。
デュランダル捜査隊の中でグレンは一番の年長者であるのだから。
「――んなことより。あんたが来たってことは。そろそろあっちの準備も整ったってことでいいんだな?」
「あ、はい。寝殿の方でエヴリン様と姫様がお待ちです。よろしければご案内いたしますが……」
「それは有難いけどよ。まだエルキュールの奴が起きてこねえんだ」
「エルキュール様でしたら今朝は目覚めがよろしくなかったようで、準備にまだ時間がかかるとヘクター様が仰ってました」
「ヘクター? ああ、あのバンダナを巻いた野郎か……確かソレイユ戦士団とかいう部隊を束ねている男だったよな?」
どうしてそんな男がわざわざエルキュールの状況を気にするのか。
疑問に駆られて尋ねると、チェルシーは恥ずかしそうに頬を赤に染め。
「え、えっと、その。殿方の部屋にいきなり入るのはどうかと思いましてっ! む、無防備な姿とか、お着替え中に出くわしてしまったらどうしようとか……!」
まるで恋する乙女かのような表情で捲し立てた。
「あー……そうか」
要するに。彼女はソレイユという狭い世界しか知らず、若い男に対する免疫がなかった。
どうしようかと右往左往していたところにそのヘクターという男が通りかかった、ということだろう。
「……ええと。エルキュール様もすぐにヘクター様の案内のもと向かわれるということですのでっ。わたしたちは先に行って待つということで……!」
「へいへい。分かったっての」
あまりこの生娘に無理させるのは忍びなく、ここは大人しく彼女の提案に従うグレンだった。
寝殿内は、やはり厳かな空気に包まれていた。
奥に控えるエヴリンは超然と縁側に座るこちらを睥睨し、感情の読み取れないジェナの表情も相変わらず。
重苦しい沈黙がどれほど過ぎたか。グレンは呆れたように口を開いた。
「……それで? エルキュールはいつになったらやって来るんだ?」
なおも沈黙。エヴリンは答えない。チェルシーは席を外されている。
ならば、と。
グレンは縁側から外に通じる道を塞いでいるソレイユ戦士団へと視線を移した。
「この物騒な奴らはなんだ? こいつらを束ねるヘクターも、いつも六霊守護にべったりなドウェインも。さっきから姿を見ないんだがそれは?」
徐々に苛立ちが加速し、語尾に熱が宿る。
兵たちは木偶のように佇むばかりで、丸きり反応はなかった。
話にならないと、ロレッタが鼻を鳴らす。
これでは八方塞がり。
一体何が起こっているのかと疑問が限界まで募る中、救いの手は意外なところから差し伸べられた。
「――彼は、ここには来ませんよ」
一瞬、自分に声をかけているのか判断に困ったグレンだったが。
聞き慣れない声色、澄ました素振りの張本人に嫌な予感を感じつつ尋ねる。
「どういうことだ、ジェナ? エルキュールが来ないってのはどういう意味だ?」
「言葉通りの意味ですよ、グレンさん。デュランダル特別捜査隊隊長のエルキュール・ラングレーはこの場には来ない。なぜなら――」
その少女は。
感情の見通せない、酷く曇った瞳で語り始めた。




