二章 第二十四話「ソレイユの姫」
結界を超えたその日の夜、暦の上ではセレの月24日のこと。
遂に一行は、霧曇るソレイユ村を彼方に望んだ。
不気味でもあり、神秘的でもある様相。
この霧もまた、サノワにあった魔素異常と同じ類だと思われたが、ジェナ曰くただの夜霧であるとのことだった。
どうやらあの結界の中は外気中の魔素も正常に保たれているようだ。魔獣が惹かれて集る恐れも、今のところはないだろう。
長時間の登山で疲労していたグレンも、いつも厳しい態度のロレッタでさえも、目と鼻の先にある目的地に顔を綻ばせていた。
それに対し、久々の帰郷となったジェナの相好は酷く険しいもので。すぐその横を歩いていたエルキュールだけが彼女の様子に気づいていた。
「そこ行く者たちよ、何者か!」
ようやく村の入口に差し掛かったというところ。
鋭い男の声が、霧煙る小夜の静寂を割いた。
長槍を携えた者たちを幾人か従え、額に布を巻いた長身の男が前方より近づいてくる。
如才ない出で立ち、熟練した武人思わせる鬼気に、前方のグレンらが警戒を示す。
「ここはヴェルトモンドに六つある聖域が一、アルギュロスを擁する地である。部外者の進入は――」
認められない。そう紡がれるはずだった言葉は。
「いいえ。それは違いますよ、ヘクター」
後ろから割ってきた一人の少女によっていとも容易く封じられた。
亜麻色の髪、白のケープコート、見慣れた背。
されど、彼女のあれだけ澄ました様子は、エルキュールにはまるで馴染みがなかった。
同じく驚いているグレンとロレッタの間を通り抜け、彼女はヘクターと呼ばれた男の前に立った。
後ろに控えた長槍の兵士にまでその姿を見せつけるように、堂々と。
ヘクターとその取り巻きにも動揺が走る。
「まさか……! なぜ……」
信じられないものを見たと身体を硬直させるヘクター。
しかしすぐに平静を取り戻すと、あろうことかその場に片膝をついて。
「――お帰りなさいませ、姫様」
確かな敬意を込めてそう告げた。
そこに立っていたのは、今までエルキュールらと旅を続けてきた少女ではなかった。
精霊に傅く一族。末席といえどその任に与る、高貴なる御方であったのだ。
ソレイユへの立ち入りを許されたエルキュールらは、ヘクターの案内のもと村の中を歩いていた。
取りあえずはここの責任者である当代六霊守護へのお目通りを許されたため、兵の監視のもと彼女らの住む屋敷へと向かっている次第だ。
ジェナの存在のおかげで話が早く進んでいるのは重畳であるが、移動するこの間は特にやることもなく。
ヘクターと共に淀みなく足を運ぶジェナを尻目に、エルキュールはつれづれに視線を彷徨わせた。
山沿いに立ち並ぶ白石の住宅。山上から流れる川から引いてきた水路や、柵に囲われた牧場のような施設。
規模はそこまで大きくないが、充実した生活基盤がそこには築かれていた。
山麓付近で見てきた光景とはまるで違う。アルクロット中腹一帯は、平和そのものといった絵を描いている。
「連絡が途絶えたというだけで、そこまで急を要する事態でもないのか……?」
気の抜けた感想が浮かぶが、すぐにそれを思考の外へと追いやる。
ジェナは、ここまでソレイユと連絡が途絶えたことはないと言っていたのだ。
サノワであった魔素異常がアルギュロスに関係しているという見解も、ソレイユの内と外を隔絶していたあの結界の存在も。
尋常ではない。
やはり何かしらの問題が発生していると見るべきだろう。
しかしそれら問題は、六霊守護であるジェナの祖父母に話を聞けば自ずと明らかになることばかりで。
いまエルキュールが考えを巡らせても仕方のないことだった。
あっけなく達した終点。いよいよ所在がなくなったエルキュールの思考は、これまで敢えて意識的に考えないようにしていたある方向へと移ろっていく。
先頭を歩いているジェナとヘクターが足を止める。
エルキュールは人知れず溜息をついた。
「あの、あなたは……本当に、本当に姫様なんですかい?」
「よかった……! もう修行を終えられてご帰還なされたのですね……!」
村人と思しき壮年の男女がジェナのもとへと寄ってくる。遠目でも分かる弾けんばかりの笑顔だった。
似たような輩はこれでちょうど十人。その度に、こうして移動を中断させられている。
すぐ前にいたグレンが、居心地悪そうに頭の後ろで手を組んだ。その隣のロレッタも、あからさまに欠伸を漏らす。
エルキュールは、周りにソレイユの兵の目があるというのに大した度胸だと思った。
「エヴリン様もドウェイン様も、今となっては随分とお年を召されてしまったが……姫様という希望の光さえソレイユにあれば、我々も日々を安らかに生きられますでしょう」
「ええ、ええ。本当に、有難いこと。姫様、この度は本当にお疲れさまでした。正式にお役目を継がれる日が待ち遠しいですわ」
ひたすらに向けられる感謝と崇拝。
ソレイユの民たちの反応は概ねこの二言で片づけられるものだった。
やはりその身分からだろう。ジェナ・イルミライトという少女は、随分と慕われているようだった。
それだけに、直々に挨拶に来られるとこうして時間が削られてしまうが、その点に関してはエルキュールも気にしていなかった。
恐らくグレンやロレッタも聞けば同じように言ったはず。
つまり、ここで彼らが難色を示している理由は――。
「マシューさん、ロモーラさん。頭をお上げくださいませ。このジェナの心血は、元よりソレイユの存続にのみ注がれるべきもの。私は後継者としての役目を果たしているに過ぎないのですから」
向かってくる住人一人ずつ丁寧に言葉をかけるジェナ。
見慣れない超然とした態度は、貴人として相応しい振る舞いではあったが。普段の爛漫たる性格を無理やりに押し付けているようにも見えて。
要するに。そのくすんだ輝きを、エルキュールはこれ以上見たくなかったのだ。
「失礼。姫様はこれより、イルミライト当主に謁見される予定なのだ。疾く道を開けるように」
ヘクターが諫めるこの光景も、もはや飽きるほどに繰り返されたもの。
「申し訳ございません。目的地へは程なくして到着しますので、もう暫くのあいだ辛抱されていただけると」
「……了解だ」
「……そう」
困惑の上から貼られた微笑み。
ジェナの急激な態度の変化は、ものの見事にグレンらにも適応されていた。
それは今までの打ち解けた関係とは何だったのか、と疑いたくなるほど鮮やかに。
というのもそれは、ここがジェナの実家であるからだろうか。
それとも六霊守護の後継という立場を周囲に示す必要があるからだろうか。
いずれにしろこの急変ぶりには驚かされたが、納得のいく説明はなかった。
結界を越えてソレイユに辿り着いてからヘクターらが乱入し、結果ここまで連れてこられたのも、全てが急な事だったのだ。
今回の魔素異常を解決する、そしてこの件にアマルティアが関わっている可能性を調査するという目的には、この上なく近づいている現状だとはいえ。
己には制御できない何かが確実に動き始めているという自覚に、エルキュールは不安を覚えていた。
「ったく、あいつはどういうつもりなんだか……なあ、エルキュール」
「俺に聞かれてもな。……だが、彼女はここに至るまでの道中、何かを思い詰めていた。最初は単に故郷を案じていたのだと思っていたが……」
思い起こされるのは、ジェナと初めて出会ったアルトニー森林でのこと。お互いの目的を語り合い、共に協力関係を築くに至ったあの日。彼女はその身に似つかぬ翳りを見せていた。
一つは、闇魔法に対する度を超えた執着。
優れた魔術師であるジェナが唯一適性に恵まれなかった属性だが、それに欠けていたとしても彼女の将来にさほど影響があるとは思えなかった。
そして二つ目に、祖父母に対する異様な冷酷さだ。
それについて語る時だけ、ジェナの声は闇を孕んでいた。言いつけ通りに修行に明け暮れているようだが、ひょっとするとこの師弟関係には以前から何か問題があったのかもしれない。
最初にこれら可能性に気づいたときは、あまり他人の内面に踏み込むまいと思っていたエルキュールだったが――。
「何やら心当たりがあるみてえだし、やっぱこの件はお前に任せるか」
「……グレン、またそれか。この前は了承したが、事情がより表に顕れた今となっては、セレの導きの風は君の方に吹いていると思うのだが」
「はあ? ……まあ、確かにオレとジェナは、ある意味では同じ貴族の枠組みに入ってるっつってもいいけどよ。あいつにかける言葉なんざオレにはねえって」
「なるほど。君は自分に課せられた役割よりも、自分の中にある正義を信じた。その結果、一部のオルレーヌ貴族は良い方向へと意識改革されたわけだが、君自身は多くの罪の意識を抱えることにもなった。その功罪が、君を躊躇させてしまっているのだな?」
「へいへい、丁寧に解説どうも。将来は学者でも目指すつもりか? 非の打ちどころがない完璧な分析だったぜ」
「……頼むから拗ねないでくれ。俺はそんな経験豊富な君だからこそ彼女を導き、今回の任務を遂行できると考えただけだ」
「ほう……珍しく、ってかお前がそこまで熱くなってのはディアマントと戦ったとき以来か。なんだよ、やっぱり適任なのはお前のほうじゃねえか、エルキュール」
「む、だからそれはどういう理屈で――」
「気になる女のために助けになりたいっつう、純粋な感情こそが何より大事だって意味だ」
グレンとの会話はそれきりだった。
エルキュールの追及を逃れるように彼は歩調を早め、今度はひとり黙々と歩いていたロレッタを揶揄い始めた。
煩わしいと怒声を滲ませる者に、それを飄々と躱す者。
そうして言い合うなかで、理解しがたい現状により動揺した心を慰めているようにも見えた。
「……全く。そこまで他者に対して気を配れるというのに、どうしてわざわざ不完全な俺に託すのだろう」
自意識が芽生えてから約十年。
家族とだけ関わっていた世界から離れ、こうして王国を旅するようになってからは、まだ一月も経っていない。
エルキュール・ラングレーという魔人は所詮はその程度の存在だった。
多くのヒトが当たり前のように獲得してきた知識や経験、あるいは感情や思考。
そのどれもが真似事で、完璧には程遠い模造品である。
そんな自分の何がここまでグレンの信頼を集めたのか、今のエルキュールにはどうしても分からなかった。
分からない。だがそれでも。
「何故だろうな。いくら多少の親近感を覚えているとはいえ……六霊守護のしがらみに首を突っ込むなど、俺には過ぎた行いであるはずなのに」
あの少女の力になれることを、確かに嬉しく思っている自分がいた。
随分と離れてしまった背を見ながらエルキュールは思う。
デュランダルに任された任務はもちろん。ジェナとソレイユ村の間に感じた違和感も、到底見過ごせはしないものだと。