二章 第十九話「飛空」
魔素異常の見られるアルクロット山脈に向かうべく集った、エルキュールら一行と騎士団長補佐のナタリア。集合地点であるミクシリア西門にて落ち合い、互いに挨拶も済ませたのだったが。
「そういえば、どうして西門に集まったんだ? 目的地であるアルクロット山脈は王国の南東……つまりは逆方向だろ?」
グレンの問いにロレッタが頷く。馬車を使うにしろ、徒歩にしろ、陸路を使うなら東門のほうに集合したほうがいいのは明らかなこと。
そしてそれは、エルキュールにとっても同じく疑問であった。この場所を指定したナタリアに説明を求める。
「みなしゃん、そげん目で見て……まさかウチが誰だか忘れたんですと?」
可愛らしく指を立て、自身の背を示すナタリア。薄い桃に彩られた両翼が、主張をするようにぱたぱたと揺れた。
「アルクロットまで飛んでいくと言うんですか? 俺たち四人は飛べない以上、到着にかなり差が出てしまう気が……」
「エルキュールしゃん、冗談ば言ってる場合じゃなか。もちろん全員ウチが背に乗っけて行くけん、安心しとってくださいね!」
エルキュールは唖然とした。
亜人であるナタリアが、これとは別の鳥の姿に変身できることは知っている。しかし、今のこの子供のような姿をしている彼女を見ていると、不安に駆られるのも仕方なかった。
「そう。確かにあの姿なら、四人くらい乗せられるのかもね。……少し窮屈な思いをすることになりそうだけれど」
だが実際にその姿を見たことのあるロレッタが言うからには特に問題はないのだろう。エルキュールはこれ以上の反論しなかった。
「…………大丈夫。ちょっと予定は乱れたけど、いつかはこうなるって分かってたんだから」
が、それとは別に。
この間、一言も口を利かすに俯いていたジェナの様子に、再び心配の念が湧き上がってくるエルキュールであった。
空を飛ぶ、という感覚はこれほどまでに爽快なものだったのかと。エルキュールは状況も忘れ暫し感慨にふけっていた。
いつもなら仰ぎ見るだけの蒼穹も今は手が触れるほど近く、緑色の大地は果てしなく遠い。
上空、吹きすさぶ風はより冷たく感じられ、どんどんと後ろに流れていく景色が心を高揚させる。
最初にしていた心配は杞憂だったようで、エルキュールらを乗せるナタリアは幼い少女の姿から立派な大鳥に変貌し、悠々と空を駆っている。
桃色がかった白い羽毛は温かく、その見た目も可愛らしいことに変わりないのだが。
「とてつもない速さ……これが亜人の真の力……」
「ああ。俺たちを乗せている以上、大きく揺れないよう気を遣っているはずだろうに。これなら三日、いや順調に行けば二日で到着する勢いだ」
ロレッタとエルキュールは、隠されたナタリアの能力に感心し。
「これだけ毛が柔らけえならいよいよ眠れそうだな」
二人の反応に「風情がない」と嘆きつつ、グレンはいつものよう軽口を叩く。
「な、そう思わねえか、ジェナ?」
グレンはついでになおも浮かない表情のジェナに話を振ってみたが、やはり芳しい反応は返ってこなかった。
エルキュールら三人は顔を合わせ、一斉に押し黙る。
誰も口にはしなかったが、ジェナの不調の原因についてはここにいる誰もが大よそ見当がついていた。
これより向かうアルクロット山脈及びソレイユ村は、彼女にとっては故郷と呼べる場所だ。それが今、原因不明の魔素異常に侵され、関係者との連絡も途絶えてしまっている。
当代の六霊守護である祖父母とは少し確執があるようだが、それでも家族や村の知り合いを心配に思っているのだろう。
「……やはり凄いな。これだけ高いと、大陸の果てにあるトゥール海までよく見える」
エルキュールは、敢えて目的地とは逆の方角に広がっている海原を指さした。
ヴェルトモンド東端のリーム海と同じく、水の大精霊に由来する名を持つ大海は、太陽の光を反射し眩く照り輝いている。
「……本当だ。白く光ってて、とても綺麗……」
ジェナも身体を反転させて景色を望むと、驚いたように息を漏らした。その双眸に、若干の活力が戻る。
エルキュールの前に座っていたグレンとロレッタも器用に振り向くと、広大な景色を見渡した。
「確かに上空からオルレーヌを見下ろすなんて機会、今まではなかったことね。自然との調和が信条の、オルレーヌらしい風光明媚な光景だわ」
街道や街は十全に整備されているが、王国の豊かな自然はこうして俯瞰してこそよく分かる。
ジェナの機嫌が幾ばくか回復したのを確認し、エルキュールは改めて今回の事件について考えてみることにした。
王国最高峰と呼ばれるアルクロット山脈、その中腹に位置するソレイユ村は、光の聖域アルギュロスを管理するイルミライト家の庭である。
麓に駐屯している騎士団を考慮してもかなりの戦力が割かれているはずだが、現在は異常な量の魔素が溢れており人の出入りは難しい状況。
一つ奇妙なことなのが、彼の地には実力者が揃っているにも拘わらず、数日経った今でも異常が続いているということ。
余程規模が大きいのか、それとも何者かの作為があるのか。精霊とアマルティアの関係を思うと決して油断はできないだろう。
「――ってことがあってな。なあ、エルキュールはどう思うよ?」
「……はぁ?」
と、不意にグレンから声がかかる。
どうやらロレッタやジェナと会話していたらしいが、生憎と物思いに耽って話を全く聞いていなかった。
惚けるエルキュールに、グレンはわざとらしく溜息をつく。
「おいおい、聞いてなかったのかよ。オレがブラッドフォードに引き取られる直前、木箱に詰め込まれてあそこに見えるソンドリオ川を流れていたって話だ」
聞いても全く要領を得ない話に、エルキュールはますます困惑した。
「グレン君のルーツのお話をしていたんだよ。グレン君のお父さんが言うには、グレン君がその川を流れていたところを見つけて、家に連れ帰ったらしいの」
「聞いてもないのにこの馬鹿が勝手に語りだしただけ。川を見て思い出したからって」
「……なるほど」
二人からの補足にエルキュールもようやく理解を示す。
「それにしても、普段はあまり自分を曝け出さない君が自分語りをするとは……これもセレの悪戯か?」
「別にそんな不思議じゃねえだろ。ただまあ、家に戻ってから昔のことを考える機会が多くてなぁ……ブラッドフォードに迎え入れられる以前はどうしてたか、とか考えたりもすんだよ」
「……無鉄砲で衝動的な貴方にはとことん似合わないわね」
「オレが過去を顧みるのがそんなに悪いか⁉ ……ったく、なんでお前はいちいち突っかかって来るんだか……」
あの事件を乗り越え、グレンも少しは変わったらしい。ロレッタとの関係もまた、外面には見えない部分で変容しているように感じられる。
目的地に移動する道すがら、一行の雰囲気は、すっかり雑談に興じる流れとなった。
「でも確かに、自分について知ることは、なにより大事なことかもしれないな」
「だろ? エルキュールは流石、よく分かってるじゃねえか。オレの相棒をやってただけのことはある」
「相棒? エル君とグレン君って、そんなに熱い関係だったっけ?」
話題は自ずと、来るべき未来から過去へと移ろった。
エルキュールにとっては思い出すのも恥ずかしいヌールでの出来事だったが、自らを戒め前に進むためには丁度いい。
ヌールでの出会いや、そこで起こった体験をジェナたちに聞かせる。
「酒にガレを費やして魔獣狩りを手伝ってもらうなんて、とんだ阿呆もいたものね」
「し、仕方ねえだろ。あの時は帝国でのディアマントの件があって、オレもちょっと荒れてたっつうか……それにあれは見るからに怪しい動きをしてたエルキュールを見定めるっていう、隠された目的もあってだな……」
「でも結局は誤解だったんでしょ? エル君は単に目立ちたくなかっただけで、魔獣と戦っていたのも大切な人のためだったんだし」
「ぐっ……おい、エルキュール。お前、オレが不利になることばかり話してんじゃねえよ!」
「全て事実なんだから仕方ないだろう。ただ、少しだけ君の心象に配慮するなら……ヌールを旅立ってからは、俺も君には随分と助けられた。ただ酒癖とガレ遣いが悪いだけの男ではないということだ」
「……お前といいロレッタといい、話すたびにオレを悪く言う決まりでもあんのか?」
誓ってそのような悪辣な決まりはない。とはいえ、これ以上揶揄うのは無粋であるのも確かなこと。
自らに報復されるのを嫌ったのか、珍しくロレッタが話題を逸らした。
「そういえばヌールと聞いて思い出したのだけれど。昨日のセレの月の19日、王都を発ったばかりの教皇アルフレートがヌールの街を探訪したらしいわ」
「教皇が……?」
意外な名前が登場し、エルキュールは思わず聞き返す。隣に目を向ければ、ジェナもまた複雑な視線を送っていた。
彼は王都事件が終息した後、大精霊ガレウスの遺物であるシャル―アの処遇を巡り、ミクシリアでの会議に出席していた。
その後の流れでは、すぐにエスピリトに帰国するものだと思われていたが。
「そうなんだ。教皇様も、ヌールで起こった悲劇に心を痛めていらしたのかな。わざわざ訪ねるくらいだもん」
「……私にはそれだけのことだと思えないけれどね」
「へえ、何か含みがある言い方じゃねえか」
「流石の私も教皇を無暗に悪く言ったりはしないわ。ただ彼がその座に就いた当初は、自国の管理が甘く魔獣の勢いが盛んだった歴史もあるから。アマルティアがいる現状で長いあいだ本拠を留守にするのは得策ではないのかしらって思っただけ」
「その時代は丁度アートルムダールの戦役が重なって、教皇の交代が起こった直後だったから。一時的にうまくいかなかったのは仕方がないような気もするけど……」
「まあ、そうね。外から見れば、そうなのかもしれないわ」
少しだけ、本当に少しだけ、ロレッタは寂しそうに呟いた。
そこから滲む思いに、エルキュールは彼女が自身と同じものを背負っているのだと悟った。
魔獣との因縁、そして失われた故郷。明確な符号はないが、あの日のエルキュールたちはひょっとすると同じ国で暮らしていたのかもしれない。
「そうだ……今ここにいるみんなは、全員生まれ故郷を無くしているんだ」
ふと、何かを考えていたジェナが顔を上げる。それは誰にも聞かせるでもない言葉であり、自らを鼓舞するような力強さを秘めていて。
「……頑張らなくちゃ。目を背けちゃいけないんだ」
一人、覚悟を決めたようなジェナ。その態度からは、少し前までの沈んだ様子は見られない。
気分転換になればと思っての行動が、どうやら意図せず彼女に力を与えたらしい。
エルキュールは邪魔をしない程度にジェナの様子を確認すると、それまで背を向けていた山脈方面を望んだ。
依然としてそれは遠くに聳えているものの、その威容は圧倒的だった。高く天を刺す峰と、鋭い稜線。そして何より、山麓と山腹にかかる白い靄が、幻想的な光景を生み出している。
「しかし妙だな。山雲ならもっと上のほうに生じるはずだが……」
「……あれは雲じゃなくて、高濃度の魔素による瘴気だと思うよ」
疑問をそのまま口にしてしまったことを後悔する間もなく、ジェナからの説明が入る。
「大丈夫だよ、エル君。心配なんかしている場合じゃないって、おかげで気づけたから」
向かい風、亜麻色の髪をはためかせながら少女は笑う。その表情は高空の冷気に負けず劣らず凛としていた。
「ナタリアさん、目的地まであとどれくらいで着きますか?」
「あはは、気合入っとるみたいばってん、ソレイユ村まではまだまだたい。途中で休憩もするけん、少なくてもあと一日はかかりますよ」
「あう……」
出鼻を挫かれ、ナタリアの背に座りなおすジェナ。どうにも締まらない顛末に、一同の空気が和んだ。
そして、それからはまた他愛のない時間が過ぎたのだが。
半日が経った夜、突然ナタリアが減速した。
「みなしゃん、あれ!」
「……っ!」
続けざま発せられた言葉。魔人であるエルキュールにはその意味がすぐさま理解できたが、周りの反応を待って押し黙ることにした。
どんどんとナタリアが下降し地面に近づくにつれ、ようやく他の者にもその様子が見て取れるほどになった。
「明かりが点々と……宿場町のようだけれど」
「違え、よく見ろ! 明かりに交じって変な白い靄が立ち込めている。そして微かに聞こえてるのは……」
「魔法の爆発音だよ! きっと、魔素につられた魔獣と戦いになって……!」
ジェナたちの予測はほとんど当たっていた。下降の勢いを増していくナタリアの体躯も、黙々と戦意を研ぎ澄ますエルキュールの姿も、緊急事態の到来を裏付けていて。
魔素異常の地を目指す中で現れた、同じく魔素が立ち込める宿酒場。決して看過できない共通項ではあるが。
「推論はともかく。誰かが危険に曝されているのなら、まずはそれを助けなくてはな」
エルキュールの言葉に一同は頷くと、寒空を突っ切って大地へと降り立った。