二章 挿話③~アヤ~「六霊に傅く主」
「あっ、スープ、冷たくなっちゃった」
それから暫くして。
アヤは椀に口を付けて嘆いた。暦の上では春とはいえ、夜が近づきつつある今は随分と冷える。反省しながら味の落ちた汁を一息に飲み干す。
少し前にリゼットは再び持ち場へと戻っていて。炊き出しを、特に食事を求める人の数は、時間とともにピークを迎えつつあった。
せっかくの料理だったが、致し方あるまい。ここはさっさと片付けて自室に戻ったほうがよいだろう。
椀を片付けようと立ち上がったアヤ。指定された場所に容器を戻しつつ、彼女はふと母の教えを思い返していた。
端的に纏めると『愛するものがあっての強さ』であり、それこそが尊敬する家族とアヤ自身とを分ける最大の違いであると。
とても腑に落ちる説明だったと思う。しかし、だからこそ一つだけ疑問を覚える点があったのも確かだ。
即ち。
「……兄さんは今、なんのために戦っているのかしら」
家族を離れた兄に思いを馳せる。ヌールが襲われるまでアヤたちのためだけに戦ってきたであろう彼は。今まさに何を思っているのか。復讐、憎悪、失望。悪しき感情に心を支配されてはないだろうか。
リゼットには打ち明けるのを避けたものの、今日の失態にはそうした不安も確実に関係していた。
ソーマは騎士団の伝手を使えばエルキュールの現況を探ることも可能だと口にしていたが。あのように別れとも言えぬ別れを経たことを考えると、現実が何も変わらないまま再会したとてすぐに破綻するのは目に見えている。
ならば今のアヤにできることとは。やはりアマルティアが台頭するこの世界のため己を鍛える他ない。あの稽古のときのような自惚れと慢心を捨て、一方的に守られる存在という殻を破り捨てなくてはならない。
「おや、アヤ殿。今晩はもうお帰りですかな?」
覚悟を新たに決め帰路につこうとしたところを後ろから呼び止められる。甲冑を脱ぎ、騎士装束に身を包んだ禿頭の男性。ここヌールの騎士を束ねるニコラス・バーンズ隊長であった。
ここへ来る前も、ヌール伯邸で開かれる定例会議にて顔を合わせたばかりなのだが。わざわざアヤを呼び止めた彼の表情は、単に挨拶を交わしたいだけではないことを物語っていて。
先ほどリゼットと座っていた長椅子を示し、ニコラスと共に腰掛ける。
「その、ニコラス隊長。なにか伝え忘れたことでもありましたか?」
まず思い浮かぶのはやはりあの会議での議題だ。中でも衝撃だったのはヌールの襲撃に続くミクシリアでの一件。ヌール伯とマクダウェルの裏切りや、秘密裏に動いていたアマルティアの狡猾さ、そしてその魔人が所有していた精霊の遺物についても。
事が事であるため、ヌールを防衛する騎士と協力者である一部の人間にしかまだ周知されていない事実。ニコラスはここで改めて、その口外を控えるよう約束させる気なのだろうか。
未だ未熟の身でありながらアヤは思案を巡らせる。
しかし、よほど張り詰めた態度であったらしい。対するニコラスは真面目な顔を作ってはいたが、身を固まらせる彼女に緊張を解くように促す。
「あの件に関して某から言うことは何も。話というのは、先日アヤ殿から報告があった、ラングレー邸に忍び込んだとされる不審人物についてであります」
今度は別の意味で身を硬くするアヤ。その件が起こってから既に一週間が経過していたが、犯人が捕まるだとか手がかりが見つかるだとか、特に音沙汰もなかった。
家財道具を盗まれていた形跡もなかったため、アヤ自身も今まですっかり失念していたことだった。
しかしそれを今になって掘り返すとは。何か重大な発見があったのだろうかと、期待やら不安やらがアヤの胸中に渦巻く。
その心の機微を知ってか知らずか、ニコラスは声を細めて告げた。
「期待させてしまったなら申し訳ありませんが、犯人が明らかになったわけではございませぬ。ただ、アヤ殿が証拠として提出した黒い繊維……その詳しい分析が完了しましたのでな。一応、お伝えしておこうかと」
アヤたちの家に入ったと思しき人物はその身を黒衣に包んでいた。窓の付近に落ちていたその繊維は、状況から考えると、その人物が現場から逃げる際に残した形跡であるというのが、アヤとリゼット両方の見解であった。
「その推察は正しいでしょうな。この繊維に含まれる魔素について専門家に調べさせたところ、確かにこれは衣服の一部、それもかなり特殊な素材が扱われているとのことで」
「特殊な素材……もしかして、そこから犯人の所属とかが分かったりしたんですか?」
「いえ、そこまでは。ただその素材の元となった綿が、ごく限られた環境でしか繁殖しない種でして。オルレーヌやカヴォードではまず取り扱っていないものであるらしく」
「二大国でない……するとスパニオかエスピリトで作られたものということになりますね」
「左様。ですがスパニオに住む亜人の服飾は人間のものとは趣が異なりますが、素材の点でいえば然程違いが見られないのが一般的ですぞ」
「それは、つまり――」
淀みのない会話が不意に途切れる。
周りがやけに騒々しいのは、単に炊き出しに集う人が増えたからというわけではなさそうだ。
「人が集まってるのは向こうの西門へと続く道のようですな」
ニコラスの言う通り、その方を中心に騒ぎは広まっている模様。
それにしても人々の視線がかくも好奇に満ち、そこかしこにどよめきの声が上がっているのは些か妙である。
魔獣の襲撃、ないしはそれに似た厄介ごと。アヤの脳裏には立ちどころに暗い予想が浮かび、やがてこの喧騒の正体を確かめずにいられなくなってしまう。
ニコラスと共に密度の上がった人ごみを掻き分け、先へ。そこには意外な光景が二人を待ち受けていた。
刺さるような衆目の中にいたのは、慌てた様子で駆けつけた見回りの騎士でも、外で傷を負った同胞の姿でもなかった。
たった一組の男女。端的にいえばそれだけ、それだけが、この場にいる全て人間の視線を捕らえて離さないでいたのだ。
一人は陽に照らされた清流の如き髪に、無骨ともとれる白金の鎧を身につけた女性。そして怜悧さを漂わせる面立ちと、腰に差した細剣は、注目の的になるのも頷けるほど様になっていった。
しかしその一方で男性の方といえば。一見すると全盛を過ぎた白髪交じりの熟年といった風体であるが、豪奢な白衣と宝冠を纏った様はその者が明らかに只人ではないことを物語っていて。
「……っ」
傍目に見ているだけにもかかわらず、アヤはその圧倒的な雰囲気に気圧されていた。
「どうして、こんなところに教皇様が……?」
その誰かの言葉に。アヤは自らに生じた畏怖と、その根源にあった理由を理解した。男の宝冠に印された六霊の紋章が、ようやく頭の中で意味を結んだのだ。
遍くヴェルトモンドに知れ渡る六霊教。国境を越え、拠点と信者を擁する大陸最大にして唯一と言ってもいい宗教団体。
アヤたちの目の前にいるその男の名は、アルフレート・O・ゼクスター。六霊教の首長であり、闇の聖域アートルムダールを守護する六霊守護の一族、そして大陸南西のエスピリト霊国を治める国家元首の名でもあった。
「グラジウス。これはまた随分と驚かれてしまいましたね」
「……当然のことかと存じます。陛下はご自身が持つ影響力を少々見誤っておられる」
「ふふ、お恥ずかしい。愚僧も世俗に対する見識を深める必要があるようですが……さて」
グラジウス、と呼ばれた女性より一歩前に出た教皇アルフレート。顔に張り付いた微笑みはそのままだというのに、対する者を悉く平伏させるような威光は程度を増したように感じられる。
どこから、どうして。突発的なこの状況に、誰しも疑問を覚えていたはずだが、誰も口を挟むことはできなかった。
「急な訪問となってしまい、大変申し訳ありません。現在このヌールの地を管理する者と少しばかりお話したく参じた次第でして。どなたか案内していただけないでしょうか?」
依然として、柔らかな物腰のアルフレート。
アヤの隣に立つニコラスの行動は早く、周りのどの者よりも先に事の経緯を理解すると進んで教皇の前に立った。
「某がここの暫定的な統治者であります、ニコラス・バーンズです」
「ああ、貴方が。愚僧の名はアルフレート・ゼクスター。こちらの女性は六霊教枢機卿の一人であるグラジウス。例の事件のため王都を訪れた折、この街の惨状について耳にいたしました。故に六霊教の長として慰問に行かねばと思ったのです」
「教皇様が直々に訪ねてくださるとは、誠に恐悦至極でございます」
アルフレートの目的を知ってか、はたまたその身分に似合わない丁寧な所作を気に入ったのか、ニコラスの表情が柔和なものに。そして周りの群衆の目も、好奇や不安から、畏敬や感激といった風に変わる。
「しかし、申し訳ないことに某たちの方も準備が整っておらず……教皇様とその付き人殿におかれましては、ひとまずヌール伯邸のほうで旅の疲れを癒されてはいかかでしょう」
「お気遣い感謝致します。ですがその前に、せっかくこの場には多くの方が集っていらっしゃるようですし、幾許かお時間を頂けないでしょうか? 傷を負ってしまった無辜の民に、伝えるべき言葉あるのです」
全身を覆う白衣の内から片手を掲げると、アルフレートは民衆の前に立ち、向けられていた視線の全てに微笑みを返した。
「ヌールの皆さん。この度は悲惨な事件に巻き込まれてしまい、暗く重い絶望に苛まれていることかと存じます。教皇として、六霊守護の一角として、災禍を未然に防げなかったことをまずはお詫び申し上げます」
悲痛に顔を歪ませ、腰を折るアルフレート。教皇ともあろう人物が頭を下げているという事実に、民衆はすっかり恐縮していたが。
傍に控えるグラジウスは、腰の低い主の姿に呆れを滲ませながらも微笑みを崩さずにいる。どうやらアルフレートという人間は、元来こうした気質の持ち主であるらしい。
「ですが、どうか生きることを諦めないでいただきたい。逆境にあったとしても、どうか精霊の祝福は貴方達と共にあることをお忘れなきよう願います。エスピリト霊国の統治者として、王都やヌールの復興を全力で支援し、魔物の脅威が拡大せしこの状況もきっと打破することを誓いましょう」
天に両手を掲げ、語るその姿は、まるで後光が差しているかのようで。
「――このアルフレート・O・ゼクスターの名にかけて」
そうして彼が話を締めくくる頃には、群衆から疑念や不安といった感情は消え失せ、ある種狂気的な熱がその場を包んでいた。
「……」
しかし、その渦の中でアヤだけは。
「どうして」
湧き出た感情を無視できないでいた。
この地の世話になっている者としてはあるまじき思考であろうが、教皇のような人物がこのような片田舎をわざわざ訪ねてくるというのは、やはり奇妙なことのように感じられるのだ。
もちろん慰問の気持ちはアヤにとっても有難い。王都の件を収集するためミクシリアに来た、そのついでだとしても。
しかし。エスピリトが位置する大陸南西と、ヌールがあるオルレーヌ北部では、全くの逆といっていい位置関係。決して寄り道感覚で歩める距離ではない。
それでもこうして足を運んだということは、その労に釣り合う何かがあるということで。
「八年前のあの日、アザレア村の惨劇を無視したあなたが、どうして今更――」
突如として現れた教皇、そして途中になってしまっていたニコラスとの会話。
エスピリトを巡る奇妙な符号に、アヤは昔年の傷が疼くのを感じた。