□ 奇妙な夜 □
J−10はそれから自室に戻り、身の回りの整理などして荷物を小さなリュックに纏めると、あとはホバーボードの整備をしていた。
Jはどうすることも出来ずに、もう空になったコーヒーカップを両手で抱えながらずっとその壁際に座ったままだった。
やがて夜が深まり、街灯の明かりも落ちると、少年はベランダの窓を大きく開け放った。
少し湿った風がJの髪を揺らす。
また雨が降るのかもしれない。
「さぁ、行こうかな」
少年は進み出す。ただ前方を見据えたまま、振り向くことさえ忘れたように……
Jにはその後ろ姿を見送る事しか出来なかった。まだ、少年の言った言葉が理解出来ないでいたから。
――理解してはいけないような気がしたから
手にしたホバーボードを器用にくるりと回して、少年はぽつりと呟いた。
「――いつか、会いに来てもいい?」
「そんなこと……あたしに聞くことじゃないじゃない。だいたい、J−10が出て行ったら、あたしどっか別の部屋に移されるかもしれないし……」
少年は笑って、言ったことは実行するタイプだよ、などとのたまった。
夜の太陽――月も、今夜は生まれたばかり……月齢0。
そうして、夜が好きだと言った少年は、その闇に身を溶かす様に軽やかに飛び出した。
ホバーボードは音も無く空を滑り、誰も越えたことのない壁へと向かう。途中、ただ1度大きく円を描くようにターンして――
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「――全く、前代未聞だよ。この時代になって『神隠し』でもあるまいし」
「……神隠し?」
新居に案内を受けながら、少女は背の高い作業着を着こんだ年配の男性に微笑みかけた。
「昔――もう、ずっと昔に使われていた言葉で、彼のように突然消息が……」
「知ってます。授業でやったもの」
「おや。古典社会かい?」
「ええ……そう」
くすくすと可笑しそうに笑いながら、少女は鍵が開けられるのを待っている。
「あたし、苦手で――」
軽やかな金属音が響き、電子ロックのランプが赤から緑へと変わった。
男性は薄いカードを少女に渡し、つられたような笑顔でどうぞ、と言った。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げて礼を言うと、少女は少々緊張しながらカードを差し込む。
もう振り返らなくてもあの男性が離れていくのが解る。
「――神隠し……壁隠しの方が正しい……かな」
目の前にひらけた新しい住まいは、いつかきっと訪ねて来るであろう少年の為に空けておくスペースが、少しも困ることなく広がっていた。
□ FIN □
お付き合い有難う御座いましたm(__)m
出来ればまた別の作品で。