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君のいる明日  作者: ほろほろほろろ
31/34

告白

 あたしの中で、日に日に不安が募っていくのがわかる。

 朝、登校したばかりのあたしは、いつもそうしているように自分の席で文庫本を広げていた。しかし、その目は印刷された文字をまるで追っていない。どこか遠くを、あたしは見つめていた。

 ガラガラッ、と教室のドアが不意に音を立てて開かれた。あたしはそのドアの方へ反射的に振り返る。教室にクラスメイトが入ってきたのだ。その子は「寒い寒い」と言いながら、寒さに背中を丸めたままストーブの前へと進んでいく。その姿を無意識に追っていくと、ストーブの前には同じく暖を取ろうとするクラスメイトで一杯だった。

 はぁ~、と心の中で溜め息を1つつき、そのまま視線を文庫本へと戻す。やはり文章を読まないまま、ページを繰っていく。その作業を淡々と続けていると、不意に肩に誰かの手が置かれた。

「おはよっ、御嶋」

 顔を上げて振り向くと、そこには寒さに頬を赤くした加山くんが居た。あたしは自然と口許が緩んだ。

「おはよう。あはは、今日も寒いね~」

「おう、そうだな……」

 それだけ言うと、加山くんはあたしから目を逸らしてしまう。でも、あたしに何か言いたい事があるのか、加山くんは自分の席へ行こうとはしない。

「どうしたの? 何か話しとか?」

 そうあたしが促すと、加山くんは頭を掻きながら答えた。

「ああ、いや。話……と言うか、ちょっと心配になって」

「心配? 誰を?」

「星乃と……それと、お前のことも」

「あたしも?」

 入院している怜佳ちゃんを心配するのはわかるけど、どうしてあたしのことを気にかけることがあるのか。

「お前さ、最近元気ないみたいだから……」

 加山くんは、あたしの前の空いている席に体を横にして座り、首だけをこちらに向けてくる。

「前の、文化祭の日も、そんな顔してた。心ここに在らずって感じの顔だ」

「あはは、やだな。あたしそんな心配されるくらい深刻そうな顔してたんだ」

 あたしは頬に手を当てて、恥ずかしそうに顔を隠すジェスチャーをする。しかし、加山くんはそれを全く気にも留めずに訊いてきた。

「もしかして、星乃の病気ってヤバいやつなのか?」

「……」

 加山くんが、じっとあたしの目を見据えてくる。どうやら真面目な話らしい。

「……わからない」

 そう、あたしにはわからない。

「よく見舞いに行くだろう?何か聞いてないのか」

「うん。病気のこと訊くの、ちょっとデリカシーがないかなって」

 だからあたしは、怜佳ちゃんの抱えてる病気について全く知らない。

「お見舞いに行くとね、怜佳ちゃん、いつも笑顔で迎えてくれるんだ。まるで病気なんて知らないみたいに。話してても体のどこかに悪いところがあるような素振りもないし。ほら、前怜佳ちゃんが入院した時、先生は『持病の発作だ』って言ってたでしょ?あの時は一週間で退院したし、今回だってきっとすぐ退院できるよ」

「……そうだと、いいんだけどな」

 加山くんはそう言ったきり、何か考えるように黙り込んでしまった。

 怜佳ちゃんの病気、か。3学期の初日の帰り道での出来事を思い出す。急に怜佳ちゃんが崩れ落ちて、胸を押さえて必死に苦しみを堪えているようだった。あれが、怜佳ちゃんの持病の発作なのかな。あんな苦しそうな思いを、怜佳ちゃんはこれまでずっと体験してきたんだろうか。

 でも、大丈夫だよね? 発作って言っても、命に関わるほどのものじゃないよね? 前に怜佳ちゃんが入院したときも、担任は『命に関わる病気じゃない』って言ってたし。だから、この長い入院期間だってきっと大事を取ってのことなんだろう。もしかしたら、その発作を少しでも抑える治療をしてるのかもしれない。

 そういえば、怜佳ちゃんが入院してどれほど日にちが経ったんだろう。ふと、そんなことを思った丁度その時、教室のドアが開かれ、担任が姿を現した。

「お前ら~、今日は集会があるぞ~。体育館へ移動しろ~」

 集会? はて、そんなものがあったかと思い、黒板に書かれた日付を見る。そこには『2月1日』の文字。ああ、今日は月初めだから、朝に全校集会があるのか。そう思ったところで、あたしは怜佳ちゃんが倒れてからもうすぐ1ヶ月が経とうとしていることに気が付いた。


「あの、御嶋さん?」

 真っ白なキャンバスに向かうあたしに、後ろから部長が控えめに声をかけてくる。あのことについての話だろうと思いながら、あたしは部長と向かい合った。

「なに? 部長」

「えっと、今週末の展覧会に出展する絵のことなんだけど…」

 ああ、やっぱり。

「いろいろ準備もあるし、できれば木曜日までに仕上げて欲しいんだけど……」

 あたしは自分のキャンバスへ振り返る。下書きさえ終わってない、白いだけの紙が目の前に広がる。

 制作を始めたのは冬休み明けから。他の部員たちは次々に自分たちの作品を仕上げて行った。そして残るはあたしだけ。それも未だに白紙だ。そんなあたしの様子を見かねたのだろう。何度目か分からない忠告を、今日も部長はしてくれる。

 別に作品制作を怠っていたわけじゃない。これまでの約一ヶ月間、数枚くらいは描いた。けど、どれも納得のいく絵にはならなかった。あたしの中の何かが、あたしの絵を曇らせる。だからあたしは、まだ自分の絵を完成できずにいる。

「ごめんね。期限には必ず間に合わせるから……」

 あたしの言葉を半信半疑に思うのか、部長は僅かに眉をひそめる。あたしは申し訳なく感じながら、下書き用の鉛筆を筆箱へしまう。

「部長、今日は、もうこれで……」

 今日も進展は無かった。これ以上続けても、これまでと同じように胸を張って出展できる作品はできないだろう。あたしは帰り支度をしながら、部長にこれで帰るという旨を伝える。部長はきっと、内心では怒ってるか、呆れてるかしてるだろうけど、それを表に出さずに、

「そう、わかったわ」

 とだけ答えた。

 後片付けが終わり、美術室から出ようとしたところで、また部長に声をかけられた。

「御嶋さん。今日も、友達のお見舞いに行くのかしら」

「……うん、そのつもりだけど」

 人の放課後の用事を気にするとは、相当部長はあたしが作品を描かないことに焦っているのかもしれない。それに、怜佳ちゃんのお見舞いを理由に部活を休むことが結構あるから、それも気に食わないのかも。そんな時間があるなら絵を描けってね。でも、ごめん。今のあたしには満足のいく絵が描けないんだ。

 そう心の中で謝っていると、部長は意外なことを言い出した。

「そう……。とても仲の良い友達なんでしょう? その入院している子。心配よね。それも大分長い間入院しているし……。それじゃあ、絵もなかなか描けないわよね」

 部長はもしかして、絵を描けないあたしを怒るでもなく、むしろ心配してくれているのか? この人は普段はポーカーフェイスなところがあるから、表情からはよく考えが読み取れないんだよなあ。

「わたしもそうよ。何か心配事だったり、悲しいことがあったりすると、絵を描けないことがままあるの。だから、御嶋さん。わたし、あなたの気持ちがよく分かるわ」

 部長は何かを思い出しているかのように遠くを見つめている。もしかして、部長にも今のあたしと同じような境遇の頃があったのかもしれない。やがて部長は視線をあたしへ戻し、そしてにこっと笑った。

「だから、別に部活のことで気に病む必要はないわ。もし期限に間に合わなくっても、それは仕方が無いことだから。じゃあ、お疲れさま」

「お、お疲れ様……」

 そう言うと、部長は自分のキャンバスの元へと戻っていった。あたしは少しの間その姿を眺めて、美術室を後にした。


 帰り道を歩く途中、あたしの頭は怜佳ちゃんのことで一杯だった。いや、このところずっとそうだった。

 もしかしたら、怜佳ちゃんはあたしを置いて行ってしまうんじゃないか。またあたしは、大切な人に置いてかれてしまうんじゃないか。そんな不安が、あたしを苦しめた。その不安から逃れようとするように、帰途につくあたしの足は駆け足になっていた。

「こんなんじゃダメだ!」

 寮に着いたあたしは、自室の洗面台の鏡の前で頬を両手でぴしゃりと叩く。ちょっと自分に喝を入れるつもりだったけど、思いの外強く叩きすぎてしまった。すこしひりひりと傷む頬を手でさする。

「きっと、怜佳ちゃんはだいじょうぶ。それに怜佳ちゃんだって約束してくれたんだ……」

 臨海学校での出来事。夕日の真っ赤できれいだったあの浜辺で、怜佳ちゃんはあたしに約束してくれた。あたしの側にずっと居てくれるって、約束してくれたんだ。

 だから大丈夫、心配はいらないと、根拠もないことを自分に言い聞かせる。しばらくして心が落ち着くと、あたしは怜佳ちゃんのお見舞いの支度を始めた。


 通い慣れた道を抜け、もはや顔なじみとなった看護婦さんとお見舞いの手続きを済ませ、あたしは今怜佳ちゃんの病室の前にいる。

『お前さ、最近元気ないみたいだから……。心ここに在らずって感じの顔だ』

 ふと、今日加山くんに言われたことを思い出した。そんなひどい顔を怜佳ちゃんに向けて、要らぬ心配をかけてもいけない。あたしはひとつ深呼吸をして、精一杯の笑顔を作ると、病室のドアを鳴らした。

「……どうぞ」

 入室の許しを得たところで、あたしは目の前の引き戸を開いた。そこでまず目に入ったのは、怜佳ちゃんの笑顔だった。

「こんにちは、御嶋さん。来てくれて嬉しいなあ」

 そんな混じりけの無い笑顔と声に迎えられ、あたしは怜佳ちゃんのベッドへと近づいていく。

「こんにちは、怜佳ちゃん。今日も元気そうでよかった。ああ、そうだ。学校のプリント預かってるよ」

 ベッド脇のイスに腰を落ち着かせ、鞄の中からプリントを数枚引き出して怜佳ちゃんに差し出す。怜佳ちゃんは一言「ありがとう」と言ってそれを受け取り、流し読みしていく。

「そっかあ。もう2月なんだね……」

 プリントを眺める怜佳ちゃんは、不意にとう呟いた。横から怜佳ちゃんの見ているプリントを見ると、毎月の初めに配布される、いわゆる校内新聞みたいなものだった。書かれているのは先月の出来事などが主だと思うけど、詳しくは知らない。あたしはこの手の配布物には興味がなく、全く読んでいないのだ。

「もうすぐ、入院して1ヶ月か……」

 プリントの束を隣の台にまとめて置くと、怜佳ちゃんは少し遠い目をしながらまた呟いた。

「1ヶ月も入院したんじゃあ、退院した後の勉強が大変なんじゃない? まあ、その時はあたしが分かんないとこ、教えてあげるよ」

「ふふっ、そうだね。その時はよろしくね」

 冗談のつもりで言ったのに、普通に返されてしまった。怜佳ちゃんのことだから入院中でも自分で勉強くらいはしそうなものだけど。

 そうか、怜佳ちゃんが入院して1ヶ月か。また、忘れていたいやな不安が頭を過ぎった。

「ん? どうしたの? 御嶋さん」

「え?」

「ちょっと浮かない顔してる。もしかして、なにか心配事とか?」

 まさかあたし、変なこと思い出したせいで笑顔が崩れちゃったかな。あたしは雑念を振り払い、再び笑顔でそれに答えた。

「ううん、なんでもないよ」

「……」

 怜佳ちゃんは何も言わなかった。その代わりに、怜佳ちゃんは掛け布団を剥いで、ひょいっとベッドから起き上がった。あたしは思わず驚いて声を上げてしまった。

「えぇ! ちょっと、起き上がっていいの!? 安静にしてたほうがいいんじゃ……」

「いいの。前にも言ったでしょう? こう見えて結構元気なんだから。それよりさ、御嶋さん。ちょっとお散歩しない? 屋上とか。いい眺めなんだ」

 そう言いながら上着を羽織り、スリッパを履くと、怜佳ちゃんはあたしの返事を待たずにあたしの手を引いていく。あたしも、それにただ従っていくように怜佳ちゃんの斜め後ろを歩いて行った。


 冬真っ盛りということもあって、屋上はやはり寒かった。あたしは何枚も重ね着してるから暖かいけど、怜佳ちゃんは病院で着る服の上に一枚厚手の上着を羽織っているだけ。あたしは、怜佳ちゃんが体を冷やして風邪でも引きはしないかと途端に心配になった。あたしは着ている上着に手をかけながら言った。

「怜佳ちゃん、寒くない?あたしの上着貸そうか?」

「ありがと。でも大丈夫」

 視線をこちらに向けるとこなく、彼女はそう答えた。断られたならこちらも無理にとも言えない。でも、せめて寄り添うくらいは……。

 あたしたちは、よく町が見渡せるベンチを選んで、2人身を寄せ合って座った。背の高いフェンスのすぐ手前には花壇が設けられていたけど、季節のせいか何も植わっていなかった。随分と殺風景な屋上から、夕日に赤く染まる町を2人で眺めていた。

「そいえば、御嶋さん」

 しばらく経って、怜佳ちゃんが唐突に尋ねてきた。

「もうすぐだったっけ、展覧会。もう出展する絵は描けたの?」

「ああ、えっと……」

 あたしはつい口ごもりながら、

「展覧会は今週末の土日にやるんだけど、その……まだ絵は描けて、ないんだ」

「え、そうなの?」

「うん、まだ白紙……」

 こちらを真っ直ぐに見つめてくる怜佳ちゃんと、あたしは目を合わすことができない。それは、提出期限間近なのに下書きすら終わっていないことを暴露したことへの恥ずかしさからか。

 ああ、怜佳ちゃんはあたしのことを、全く不真面目なやつだと笑うだろうか。

 そんなあたしの心境をよそに、怜佳ちゃんは『なるほど』と何かを納得したみたい。

「ああ、だから御嶋さん、ずっと浮かない顔してたの?」

「え……?」

 途端に既視感を覚える。そういえばちょうど今日、加山くんから『元気のない顔してる』みたいなことを言われたばかりだった。それにしても、あたしってそんなに顔に出るのかな?

「あ、あはは。そうなんだよね。中々いいのが描けなくって。どんなのを描くかってのはもう決まってるんだけどね……」

 いざ筆を、鉛筆を持って描こうとすると、急に筆の穂先が狂いだす。頭の中の余計な感情が、あたしの思い出にもやをかけるんだ。

 寒さにではなく、恥ずかしさに小さく縮こまるあたしのとなりで、怜佳ちゃんは小さく呟いた。

「そっか、今週末の土日、か」

 すると怜佳ちゃんは、おもむろに立ち上がり、フェンスの方へと2、3歩進む。手を後ろで結び、怜佳ちゃんはこちらを振り返ることなく、しかしあたしにはっきりと聞こえる澄んだ声で話し出した。

「御嶋さん。私、あなたに1つ謝らなくちゃいけないことがあるの」

 謝らなくちゃいけない? あたしに? どこにも心当たりが見当たらない。いや、もしかしたらあたしが忘れているだけで、過去に何かあったのかも。もしそうなら、別に今更謝るなんてしなくても水に流すのに。

 怜佳ちゃんはそのままくるりと体をこちらに向ける。その顔は、どこか申し訳なさそうで、視線は下を向いている。そして、怜佳ちゃんはゆっくりと口を開いた。

「私ね、ずっと御嶋さんに嘘ついてた」

「うそ……?」

「うん。御嶋さんはさ、私の病気のこと、どこまで知ってるの?」

 怜佳ちゃんの病気についてはほとんど知らない。唯一知ってるのは、担任から聞いたことだけ。あのときの担任の言葉を空を見上げながら思い出す。

「怜佳ちゃんの持病、なんだよね。昔から持ってるってやつ。偶に発作とかが起こるけど、死ぬような病気じゃない、ってことくらいかな」

「そう、きっと担任の先生からそう聞かされたんだよね」

「そ、そうだけど……」

 もしかして、担任の言葉に怜佳ちゃんの言う嘘があるというのか?だとしたら、どれが……。も、もしかしてっ。

 あたしの胸の鼓動が早くなる。何か、いやな予感がしてたまらない。怜佳ちゃんの言葉を聞いてはいけないと、あたしの勘が囁いてくる。しかし、それとは裏腹に、あたしの体はピクリとも動かない。聞きたくないのに、耳を塞ぐこともできない。

「実はね、私……」

 怜佳ちゃんは俯いたまま、あたしに告げた。

「……余命宣告、されてるんだ」

「っ……」

 あたしは、何も言えなかった。まるで考えが浮かんでこなかった。銅像のように固まってしまったあたしに構わず、怜佳ちゃんはその先を続ける。

「私ね、この学校に来る前まではしょっちゅう入院してたんだ。発作を抑える薬とか、鎮痛剤とかを打つためにね。そんな生活を何年も続けてたから、私、分かってたんだ。病気がどんどん酷くなってることも、薬の量が多くなってることも。いつか、この病気で死ぬんだってことも。それで、一年前の丁度二月の半ばくらいの時期だったかな、そのときの病院の先生に言われたんだ。あと生きられるのは、1年くらいだって」

「い、1年……。それって」

 もうすぐじゃないか……!

「私ね、それを聞かされたときは、それでもいいかなって思ってたの。だって、この病気のせいでずっと病院と離れられないし、発作だって辛かった。どうせこんな人生つまんないって思ってたから。

実はその後、助かるかもってことである手術を紹介されたんだけど、断っちゃった。成功する望みが薄かったからね。

それでね、どうせ残り少ない人生なら、自分のやりたいことやろうと思ったの。私、ずっと普通の学生生活に憧れてたから、私のことを誰も知らない新しい学校で残りの学生生活をやり直そうと思ったの」

「ちょっ、待ってよ。わかんない。あたしわかんないよ。どうしたの怜佳ちゃん、急にそんなこと言い出して。ねえ、さっきまでの全部冗談だよね? あたしをびっくりさせようってんでしょ。そ、そうはいかないんだから」

 あたしは立ち上がり、声を震わせる。怜佳ちゃんの言葉にまったく理解が追いつかない。怜佳ちゃんは一体何を言っているんだ。怜佳ちゃんは依然として下を向いたままで、垂れた前髪に隠れて表情を読み取ることができない。

「ううん、冗談なんかじゃない。全部ほんとのことなの」

 目を伏せたままそう答える怜佳ちゃんの声は、どこか悲しみの色を含んでいるような気がした。

 そうか、怜佳ちゃんは冗談なんか言っていない。さっきまでの言葉は本当のことなんだ。あたしはそう認めざるを得なかった。

 でも、それが本当のことだってことは……、

「駅前のクレープ、また一緒に食べに行こうねって約束したよね? あれって嘘だったの?」

「……」

「ううん、それだけじゃない。いろんなとこ行ってたくさん思い出作ろうねって言ってたじゃない。それも嘘だったの?」

「……」

「……臨海学校の二日目の夕方。あの真っ赤な浜辺で怜佳ちゃんがあたしに言ってくれた言葉も、全部嘘だったの?」

「……」

 怜佳ちゃんはだんまりを決め込み続ける。それはつまり、肯定ってことなのか。

 そんな……!ずっとあたしの側にいるって言ってくれて、すごく嬉しかったのに。それまで一人だったあたしに心を許せる友達ができたって、そう思っていたのに。それも、嘘だったんだ……。

 あたしはぐっとくちびるを噛んだ。怜佳ちゃんに裏切られていた。実際は怜佳ちゃんのほうが辛いはずなのに、そんな気持ちが先行して悲しみがどっと込み上げてくる。いつの間にか、あたしの頬には涙が伝っていた。

「御嶋さんと過ごした学生生活は、とっても楽しかった」

 怜佳ちゃんは不意にふっと顔を上げた。彼女は背が低いから、自然とあたしを見上げる形になる。しかし、いつもだったら上目遣いのかわいらしい怜佳ちゃんが、今回は固い決意でも持ったようなきりっとした表情を向けてきた。怜佳ちゃんは続ける。

「あまりに御嶋さんとの毎日が楽しかったから、いつからか自分の病気のことも、置かれてる立場も忘れるようになってたの。これからずっとこんな毎日が続くんじゃないかとも思ったわ。これまでのしがらみは一切無かったことにして、ただ毎日の夢に耽っていたの。だから、その中で交わした約束は全部私の本心。今でも、御嶋さんといろんなところにお出かけしたい、もっとたくさんの思い出を作りたい、これからもずぅっと御嶋さんと一緒に居たいって思ってる。それだけはお願い、信じて欲しい。

それでも、嘘をついていたことは変わらないよね。だって、叶いもしない約束をしてたんだから。御嶋さん、ごめんなさい……。本当は分かっていたはずなのに、甘い幻想にかまけるばかりでちっとも現実と向き合うことをしなかった私が悪かったの」

 いつしか、怜佳ちゃんも泣いていた。その涙は後悔からか、それとも罪の意識からか。何にせよ、あたしにはそれだけでもう十分だった。

 分かったよ、怜佳ちゃんの気持ち。だからもう、自分を責めないで。悪かっただなんて言わないでよ。あたしは、怜佳ちゃんの気持ちが本物だったってことだけで十分だから。

 あたしは今の気持ちを伝えようと口を開いた。が、何故か声が出なかった。まるで、発声方法を忘れてしまったかのように。怜佳ちゃんはさらに言葉を続けた。

「でもね、ずっと夢ばかりは見られなかった。やがて何度も『現実』を突きつけられた」

 怜佳ちゃんの入院はこれで2回目だ。怜佳ちゃんの言う『現実』とは、つまりこれのことだろう。病院暮らしの毎日。運命付けられた死。

「そのときね、私、初めて生きたいって思ったの。発作に倒れて、自分の死を身近に感じた時、頭の中に浮かんだのはいつでも御嶋さんと過ごした日々の光景だった。それを思い出す度に、私の中で『生きたい』って感情が強くなったの。一年前までは空っぽだった私が、今ではこんなにも思い出と感情に満たされてる。それは全部、御嶋さんがくれたものなんだよ。御嶋さんのおかげで、私は初めて『生きたい』って思えたの」

「れ、怜佳ちゃんだって……!」

 怜佳ちゃんだって、たくさんのものをあたしにくれた。初めてだったんだよ? ずっと一人きりだったあたしの殻を開けてくれた人は。あの時から、あたしの日常もがらりと変わった。それまでモノクロだった世界が色付いて見えるようになった。怜佳ちゃんが、あたしを変えてくれたんだよ。

 あたしの必死な思いは、しかし遂に言葉になることは無かった。そんなあたしを見て怜佳ちゃんは僅かに口元を緩めると、あたしの方へ一歩だけ進んだ。

「私ね、手術受けることにしたんだ」

「……それって、確か一年前に紹介されたってやつ……?」

「うん。成功率は低いみたい。だけど、何もしなくてもどうせ死んじゃうんだし、少しでも可能性があるなら、受けてみようかなって」

 それを聞いた途端、自分の表情が明るくなるのが分かった。怜佳ちゃんが助かるかもしれない。怜佳ちゃんともっと一緒に居られるようになるかもしれない。小さな希望の光を見つけたような感覚だった。

「それで、その手術を受けるのって、いつ?」

「……今週末の、土曜日」

 今週末の、土曜。丁度うちの美術部が出展する展覧会が開かれる日だ。

「私ね、御嶋さんの描く絵がすごく好きなの。だから、手術が終わったら必ず展覧会に行くからね。絶対、どっちかの日には御嶋さんの絵見に行くから」

 怜佳ちゃんは真っ直ぐな眼差しをあたしに向ける。あたしは……。

「うん、待ってる。あたしの最っ高の絵描いて待ってるから」

 そのあたしの言葉を聞くと、怜佳ちゃんはにっこりと微笑んだ。お互いの涙は既に乾いていた。

 町や空は赤から黒へと染まっていく。空には、綺麗な三日月が浮かんでいた。

「御嶋さん」

 屋上に設置された灯りに照らされた怜佳ちゃんの顔は、ほんのり赤みを帯びていた。

「なあに?」

「私ね……御嶋さんのこと、大好きだよ」

「ふふっ、あたしだって、怜佳ちゃんのこと大好きだよ」

 何を言い出すかと思えば。だって怜佳ちゃんは、あたしにとっての一番の友達なんだから。

 怜佳ちゃんは目を細めながら微笑みかけてくる。でも、あたしにはそれがどこか悲しそうに見えた。

「御嶋さんっ……」

 怜佳ちゃんが再びあたしの名前を呼ぶ。その瞬間、怜佳ちゃんはあたしの懐へと入り込んできた。突然のことにあっけにとられていると、そのまま怜佳ちゃんはどんどんとあたしに顔を近づけさせていく。そして……。

「……」

「……ッ!!」

 あたしの左頬に怜佳ちゃんのくちびるの感触が伝わる。やわらかくて、冬の冷えた夜には温かな感触だった。

 やがて怜佳ちゃんはあたしの頬からくちびるを離し、一歩二歩と後ずさる。そして後ろに手を回し、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

「さすがにちょっと寒くなってきちゃった。そろそろ戻ろっか」

「う……うん」

 半分魂の抜けたような状態のあたしは、そう頷くことしかできなかった。


 体が少し火照っているのを感じながら、暗く寒い夜の道を進んでいく。自室に辿り着く頃には、その火照りも大分取れていた。それにしても、

「もぅ、急にあんなことするんだから……」

 左の頬に手を当てる。まだここに、あの感触が残っているみたいだった。まだ鮮明に思い出せる。怜佳ちゃんのやわらかく温かいくちびるの感触……。

 それを思い出した途端に体がまた熱くなり始めた。あたしはぶんぶんと頭を振って余計な思考を振り払う。

「……とりあえず、お風呂入ろ」


「ふぅぅ~~」

 体を洗い終わり、張りたての湯船に浸かる。2月の寒さに冷え切った体が、芯まであたたかくなっていく。やっぱ冬のお風呂は格別だ。

「……」

 今日の怜佳ちゃんの言葉を思い出す。怜佳ちゃんが重い病気を患っていたこと。もうそんなに長くは生きられないこと。その病気を治すための手術の成功率が低いこと。それらが、あたしの両肩にずっしりとのしかかってくる。

 そして、脳裏にあの記憶が過ぎる。心の奥底に封じたはずの記憶が蘇ってくる。

「遥くん……」

 自然とあの人の名前が口から漏れた。湯船の中は温かいはずなのに、あたしは自分の体を抱きながら何かに怯えているかのように震えていた。

「もう、出よう」

 あたしはやがて耐え切れなくなり、湯船から出て風呂場を後にしようとする。そこでふと、浴室鏡に映る自分と目が合った。

「……ヒドい顔してる」

 鏡の中のあたしは暗く貧相な顔つきで、何か重い病でも抱えているのかと思うほどだった。あたしは鏡の正面に立ち、こちらを見つめてくる自分を見つめ返した。

「はは、あははっ」

 鏡の中の自分と互いに見つめ合っていると、途端に笑いがこみ上げてきた。ひどく乾いた笑いだった。

「あたしは結局、あの日から何も変わってなかったんだ」

 あの出来事から、過去のトラウマから、ただ逃げ続けていた。怜佳ちゃんの優しさに甘えてただけで、立ち向かうことなどまるでしてこなかった。

 怜佳ちゃんが居てくれる。その安心感の上にあぐらをかいていた結果がこれだ。あたしは今、大切な人を失う恐怖に震え、それでいて何か行動を起こす勇気を持たない。あたしはずっと、臆病者だったんだ。

「……今度は、怜佳ちゃんのことを忘れるつもりなのか? これまで遥くんに対してそうしてきたように」

 鏡に映る人に、そう問いかける。返事は無い。ただ、その人もあたしに同じことを問いかけてくる。

「これからも、そうするつもりなのか? 辛い現実から目を背けて、忘れたと思い込んで、これからも生きていくのか?」

 鏡の中の人があたしを睨みつけてくる。あたしは答えられず、だんまりになる。

「所詮、お前のその気持ちは忘れられるくらい軽く薄っぺらなものだったってことか」

 ……違う。

「お前はいつだってそうだった。失うことを恐れて、傷つくことに怯えて。他人に合わせるばかりで、自分から行動を起こそうとはしなかった。克服しようとはしなかった。お前は辛い出来事からただ目を逸らしていただけだった」

 ……あたしは。

「お前はどうせ変わらない。何かを変える力も、立ち向かう勇気も持たないお前が、ただ幼く臆病なだけのお前が、これまでの自分を変えるなんて出来はしない。お前は一生、その醜い性分を抱えて生きていくんだ」

 ……っ!!

 気付けば、あたしは鏡に拳を打ち付けていた。顔を上げると、びくともしない鏡越しに、その人は泣いていた。

「あたしは……怖いよ。怜佳ちゃんを失うかもしれないって思うと、堪らなく怖くなる。でも、怜佳ちゃんのことを忘れるのはもっと怖い。4月から重ねてきた怜佳ちゃんとの大切な思い出を易々と忘れられるなんて、そんなの考えただけでも恐ろしい。もういやなんだ、こんなことを繰り返すのは……」

――なら、あたしはどうするつもりだ? あたしに一体なにができる?――

「決まってるよ、そんなこと」

 鏡と真っ直ぐに向き合う。それに映るあたしは、先ほどとは打って変わり、晴れやかな顔つきをしていた。

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