表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君のいる明日  作者: ほろほろほろろ
30/34

入院生活 2

 私が初めて入院したのは、幼稚園の頃だった。私の病気が発覚したのも、そのときだった。

 それから、私は入院と退院を繰り返していた。特に小さかった頃は我慢というものを覚えていなかったから、小さい発作が起こる度に私は大泣きしては、病院のお世話になっていた。

 小学校のころは、退院して登校するたびに「学校をサボれてうらやましい」とクラスメイトから言われた。中学校のころは、周りから気の毒そうな視線を浴びせられて、敬遠されることが多かった。高校に入ると、誰もが私に注意を向けることがなくなった。

 私も、みんなと同じ『普通』になりたかった。一緒に楽しく話したり、休日には友達と出かけたり、恋をしたり。みんなにとっての『普通』な生活を、私も送りたいと思っていた。

 でも、それは叶うことはなかった。病院で過ごす時間のほうが長かった私にとって、学校のみんなとの間の溝は決して埋まることはなかった。小学校でも、中学校でも、友達は誰一人としてできなかった。


 高校一年の2月のことだった。ある日突然、病院の先生から話があると言われて呼び出された。その場には、私の両親も一緒だった。私たちがその場に揃うと、先生はとても言い辛そうに、静かに口を開いた。

 その時私は、はじめて余命宣告と言うものを受けた。残り、1年ほどの命だと言われた。

 私は、「そっか」くらいの感想しか持たなかった。小さい頃から病を抱え、病院生活の続く人生だ。今更死ぬことに恐怖などは無かった。

 両親は泣いていた。お母さんは私の肩を抱いて、静かに鼻をすすっていた。お父さんは先生に「何かこの子が助かる方法はないのですか?」と、必死に問いかけていた。先生は続けた。「ある手術を施せば、病気を治せるかもしれない。けれど、この手術は患者に大変大きな負担がかかるため、成功率は極めて低い」と。

 両親はそれでも、私にその手術を受けるようしきりに勧めた。「何もせずに死を待つより、僅かにでも可能性があるのなら試してみよう」と。けれど、私は決してそれに頷かなかった。私には1つだけ、ある思いがあったから。

 この私に、1年という時間が残されているのなら、それを、他のみんなと同じように『普通』に過ごしてみたい。それが、私のせめてもの願いだった。生きたいとは思わなかった。死ぬことも怖くはなかった。ただ、他の人にとっての『普通』を、一度だけでも味わいたかった。

 私は両親と病院の先生にお願いした。来年度の4月から一年間、普通の高校生として過ごしたい、と。もちろん、駄目だと言われた。体が発作で辛いのに、どうやって授業を受けたり、運動したりするんだ、と。それでも私はめげなかった。「発作は我慢するから」と、何度も頼み込んだ。

 2月の終わり頃、遂に私の思いは実を結んだ。お母さんが「あの子の最後の頼みだから……」と言って、私の味方になってくれたのだ。それでお父さんも折れ、病院の先生も渋々認めてくれた。

 そして、私は次の春から今の高校へ転入することになった。この高校を選んだ理由は、近くに大きな病院があったから。もしもの時に備え、病院が近くにあるというのは先生が出した絶対条件だった。


 私の、初めての普通の学生生活が始まった。

 あまり期待なんてしてなかった。ずっと病院に篭っていた私が、みんなに馴染めるとは思えなかった。でも、もしかしたら、と淡い期待くらいは持っていたのかもしれない。

 そんな微妙な気持ちを抱いていたあの日。高校の始業式の日に、私は御嶋さんと出会った。

 凛々しくて、すらっとしてて、さらさらとした長い黒髪の良く似合う彼女は、方向音痴で右も左も分からなかった私に優しく声をかけてくれた。困り果てていた私に救いを手を差し伸べてくれたのだ。

 完全に一目惚れだった。だから、彼女と同じクラスだと知った時はこの上なく嬉しかった。しかも席がすぐ近く。「これからたくさんお話して、たくさん御嶋さんと仲良くなるんだ」と思いながら、これからの生活に胸を躍らせていた。

 それからの私の学校生活は、自分が想像していたものよりも遥かに充実したものだった。毎日御嶋さんと話しをしたり、御嶋さんと一緒にお昼を食べたり、御嶋さんと一緒に下校したり。これまで病室の中で憧れるだけだった普通の学生生活が、こんなにも身近に感じられることに感動すら覚えていた。

 それだけじゃない。私の憧れの生活を御嶋さんと一緒に過ごせたことが、何よりも大きかった。

 御嶋さんは、不思議な人だった。眉目秀麗。肌は透き通るように白く、すらりと伸びる指先の動きは彼女の繊細さを表しているようにも思える。そんな期待を裏切るかのように、体育の時間になると彼女の様子は一変。ありとあらゆる種目で女子のトップを占める程の運動能力を見せた。

 美しく、スポーツ万能な彼女はクラスの枠を超えて男女問わず人気だった。多くの男子が彼女の魅力に惹かれ、多くの女子が彼女のようになりたいと憧れた。まあ、当の本人はそれを自覚していなかったみたいだけど。

 そんな御嶋さんが誰かと話すとき、決して彼女は『自分』を表に出さなかった。他のみんなは気付いていなかったみたいだけど、微笑む彼女の目は全く笑っていなかった。それを見て一層、私は彼女に惹かれていった。他の誰にも見せない表情を、この私だけに向けてほしい。そんな気持ちに私は突き動かされていた。

 それからも、本当にいろんなことがあった。桜並木の下を歩いたり、雨の日にきれいに咲くアジサイを見たり。ずっと夢見てた海にも初めて行くことができた。いつもは病室の窓から眺めていた夕日が、外で見るとこんなにも胸を打つものだと知った。すべてが新鮮で、私にとってかけがえの無い思い出となった。そして、その思い出の中には必ず御嶋さんの姿があった。

 こんな日が永遠に続くと信じて疑わなかった。発作の痛みなど、とうに忘れていたから。

 しかし、私の思いとは裏腹に、甘い夢は長くは続かなかった。去年の秋の、文化祭前日のことだ。忘れていた発作が、痛みが、突然私を襲った。私は思い出した。自らの運命を。自分に残された時間の少なさを。

 そして私は再び、こうして閉ざされた病室の中へ引き戻された。もう、以前のように自由に外を歩くことは許されなくなった。私の望んだ『普通』の生活は終わりを告げた。


 目を閉じれば、あの御嶋さんと過ごした眩しい日々の光景が目の前に蘇ってくる。そして、その日々を思い出すたびに、胸がたまらなく苦しくなる。それが、発作の痛みなんかよりもずっと辛かった。

 私は、御嶋さんのことが好き。だからきっと、あの日々を思い出すたびに辛い気持ちになる。もうあの頃には戻れないって分かってるから。大好きな御嶋さんと、もう二度と『普通』の生活を送れないって分かってるから。

 彼女と一緒に過ごした日々はあんなにも幸せだったのに、それが今では私の心を蝕んで止まない。私はこの辛さに耐えられなかった。だから私は、この苦しみから逃れるために、ある行動を起こした。それが、加山くんと組んだ同盟の活動だった。最初は御嶋さんとの約束を守れないことへの罪滅ぼしのつもりだった。でも、それは全くの嘘だったと今なら分かる。私は、御嶋さんを好きな気持ちを諦めたかったのだ。御嶋さんにとっての私の代わりなら、別に他の女の子の友達でもよかった。それなのに、私は加山くんを御嶋さんの恋人同士にしようと、彼の思いを後押しした。私は、きっと御嶋さんが他の誰かを好きになれば、私の気持ちも諦めがつくと思った。そうなれば、この胸の苦しみも自然に消えると思ってた。けれど、私の予想通りにはいかなかった。例の計画は成功。御嶋さんと加山くんは今や恋人同士だ。それなのに、私の胸の中から苦しみが消えることはなく、むしろ強まるばかり。私は結局、御嶋さんを諦めることが出来ないでいた。


 気が付けば、私の両目から涙が溢れていた。患者衣の袖でそれを拭っていく。しかし、一向に止まる気配がない。拭っても拭っても、涙は止めどなく零れていく。

 私が今の高校へ転入するまでは、病院の先生の余命宣告通りに私は死ぬんだと思っていたし、それで良いとも思ってた。あの頃の私は、何も無かった。空っぽだったから。

 でも、今は違う。発作に苦しんで、自分の死期を近くに感じる度、御嶋さんの顔が脳裏にチラつくのだ。私はまだ死にたくない。御嶋さんともっと、ううん、ずっと一緒に居たい。そんな思いが日に日に募っていった。

 涙を湛えた目に夕日の赤がしみる。泣くのを堪えようと、無意識にベッドシーツを掴む手に力が入る。

 コンコンッと、不意にドアがノックされた。はっと我に返った私は、急いで目元の涙を拭って笑顔を作る。

「ど、どうぞ」

 ドアの向こうにいる誰かへ呼びかける。静かに引き戸が開かれた。

「こんにちは、怜佳ちゃん」

 小さく手を振りながら、御嶋さんは笑顔を向けてくれた。私も笑顔でそれに答えた。

「こんにちは、御嶋さん。来てくれてとっても嬉しい」

「そんな、大袈裟な」

 照れたようにはにかむ御嶋さん。その手には紙袋を提げていた。私がそれを見ていることに気が付いたのか、御嶋さんはその袋を挙げて言った。

「これ? これはね、怜佳ちゃんへのちょっとした贈り物だよ。あたしね、看護婦さんにどんな贈り物がいいか相談して、買ってきたんだ。じゃ~ん」

 御嶋さんの元気な声と共に紙袋から取り出されたのは、紫色の花と透明な花瓶だった。花は良く見れば、一本の茎に小さな花がたくさん咲いている、藤みたいなものだった。花には詳しくないから、本当はどんな品種かわからないけど。きれいな花だと思った。

「わぁ~、ありがとう」

「あはは、喜んでもらえて嬉しいよ……まあこれ、造花なんだけどね」

「造花?」

 御嶋さんは透明な花瓶にそのまま花を生けて、ベッドの脇の台に置いた。

「そう。理由は忘れちゃったけど、生花は良くないって言われたから、代わりに造花にしたんだ。まあ、造花なら枯れる心配も水換えの手間もないし」

 造花、か。確かに、実際に手で触れてみると植物じゃないって分かる。けど、見た目では区別がつかなかった。こうして隣に置いておくと、この花のいい香りが漂ってくるかのようにさえ思える。

「それにしても」

 御嶋さんはベッド脇のイスに座り、ぽつりと呟いた。

「食べ物の贈り物がだめだなんて……」

 御嶋さんは心配そうな目をしながら、私の顔を覗き込む。私は尚も笑顔を崩さずに答えた。

「そんな、心配することじゃないよ。ただ、ほら。病院だとあんまり運動とか出来ないでしょ? それなのに甘いお菓子とかパクパク食べてたら体に悪いって、病院の先生が。だから、別に調子が悪いとかじゃないよ」

 もちろん嘘だ。病院の先生や他の人たちからも、そんなことは言われていない。これがもし短期入院だったら、この前の秋の時のように御嶋さんの好意に甘えていたことだろう。しかし、今回は違う。きっと、私はもう退院はできないだろう。もちろんこのことは御嶋さんには言っていない。そうとは知らずに,毎日でないとは言えお見舞いの度に何か貰ったんじゃ、御嶋さんに悪い。だから私は、食事制限されてると嘘をついた。それに、その好意に報いる機会も、私には残されてはいない。

 だから、嘘がバレませんようにと祈りながら、私はせめて気休めの言葉を送る。

「私は大丈夫、心配しないで? でも、ありがと」


 私のお見舞いに来てくれるときの御嶋さんは、いつもの御嶋さんだった。3学期の始業式の日の、奥まった御嶋さんの面影はどこにも無かった。私の好きな、御嶋さんのままだった。

 私はそれが嬉しかった。だってそれは、御嶋さんはこの病室の中では加山くんのことを考えていないってことだから。私だけを見ていてくれてるってことだから。でも、それと同時に苦しくもあった。御嶋さんが私もことを見てくれるほど、思ってくれるほどに、発作とは違う苦しみが胸の内に広がっていく。

 わかってる。ここでは御嶋さんは私だけを見てくれる。けど、御嶋さんにはもう加山くんという彼氏がいるんだ。病院の外じゃ、きっと私のことよりも彼のことで頭が一杯だろう。私の、御嶋さんを好きな気持ちは報われないって分かってる。こんな、横恋慕みたいな気持ちは捨てなきゃいけない。それなのに……。

「あ、もうこんな時間か……」

 御嶋さんのその呟きにはっとする。外を見ると、もう空は真っ暗だった。時間はそこまで遅くはないけど、さすがに冬の間は日が短い。

「はぁ、もっと話したいことがあるんだけどな。学校じゃ会えないから……」

 御嶋さんは名残惜しそうな顔を向けて立ち上がる。

「じゃあ、また来るね。部活が忙しいから、前みたいに毎日は来れないと思うけど……」

 やめて、そんな目で私を見ないで。そんな顔をされたら、私……。

「うん、ありがと。また来てくれるのを待ってるから」

 ますます、あなたと別れるのが辛くなる。もっともっと、あなたが恋しくなるの。

 離れていく御嶋さんの背中を見送る。白い扉の向こうに彼女の姿が消えていく。心の中に、ぽっかりと穴が開いたような感覚を感じた。

 それから少しして、再びドアが叩かれた。まさか御嶋さんが戻ってきたのかと思ったので返事をしようとするが、その前にドアが開かれた。

「お、お母さん……」

 安心と落胆の混じったような声が漏れた。ドアの向こうに私が見たのは、仕事帰りの様子のお母さんだった。でもどうしたんだろう。今日はお母さん、お見舞いに来るって言ってなかったのに。

「ごめんね、急に来ちゃって。仕事が早めに片がついたものだから、ちょっとあなたの様子を見ていこうと思って」

 お母さんは柔らかな笑みを浮かべ、ベッド脇のイスに座る。

「症状、ひどくなってない? 今も痛む?」

 お母さんは私の手を優しく包みながらそう訊いてくる。とても、心が休まる気持ちになる。

「大丈夫だよ。なんにも変わってない」

「そう……よかったわ」

 幾度となく交わされたやり取りを、今日も繰り返す。そして決まって少しの沈黙が訪れるのだ。

「そういえば」

 お母さんは思い出したように口を開いた。

「さっき、ここに来る途中、廊下で御嶋さんに会ったわよ」

「え、御嶋さんに……」

 驚いた。けど、少し考えれば不思議でもない。御嶋さんはついさっきこの病室から出た。そしてその少し後にお母さんがここに来た。それなら、御嶋さんがここから丁度出るところをお母さんが目撃していることだろう。

「御嶋さんって、あなたが言っていた仲の良い友達だったわよね? 少しお話したけど、とても良い子そうだったわ。それにお見舞いにまで来てくれるなんて。良い友達が出来てよかったわね」

「うん……」

 そうか。お母さんに御嶋さんのことを話したことはあったけど、二人が直接会うのは今日が初めてだったのか。それも、今日2人が会えたのも、お母さんの仕事が早く終わって私のお見舞いの時間ができたから。全くの偶然だった。

 自然と口許が緩んだ。御嶋さんが褒められてるのを聞くと、私も嬉しくなってくる。そうだよ、御嶋さんは私の自慢の友達なんだ。私の人生で初めてできた友達。そう、友達なんだから……。

「あら、それは……」

 そう言うとお母さんはイスから立ち上がり、ベッド脇の台へと歩み寄っていく。お母さんの視線は、御嶋さんがくれた紫の造花へと注がれていた。

「ああ、これね、今日御嶋さんが持ってきてくれたの」

「あら、そうなの。とてもきれいなライラックの造花ね」

「ら、らい……何?」

 何か初耳な単語が聞こえてきた。私は、造花の花びらを撫でるお母さんに聞き返した。

「ライラック。この花の名前よ。今は季節が違うけど、春が来ればとってもきれいな花を咲かすの」

「そうなんだ」

 お母さんって花に詳しかったんだ。そういえば、家の庭の花壇にいくつか花が植わっていたような。あれは、お母さんが植えたんだろうか。

「怜佳……」

「なに?」

 お母さんをベッドから見上げる。お母さんは紫色の花に手を添えながら、その目はどこか遠くを見つめている。

「よかったわね……」

 小さく、そう呟く。すぐ隣にいる私にもほとんど届かないほどに。それは、私に直接向けた言葉じゃなくて、独り言のようにも思えた。

 ひとしきり花を愛で終わり、お母さんはイスへと戻ってきた。イスに座るなり、お母さんは「ところで」と話を切り出した。

「ところで、御嶋さんには……話してあるの?」

 お母さんは顔はこちらへ向けているけど、その目は少し伏せている。この質問をするのが心苦しいのだ。

 お母さんの言う『話』とは、もちろん私の病気のこと。私に残された時間のことだ。すこし面と向かって答えにくく、無意識に視線が下を向いてしまう。

「ううん、まだ話してない」

「そう……」

 お母さんはそう答えただけで、他に何も言わなかった。再び沈黙が訪れた。

「ああ、そうだわ。りんごを持ってきたの。食べる?」

 この沈んだ雰囲気を一新しようとするように、一際明るい声でお母さんはそう訊いてきた。手には、鞄から取り出した真っ赤なりんごと果物ナイフ。多分仕事場から病院までの道すがらに買ってきたんだろう。

「うん、食べる」

 久しく甘いものにありつけていない私にとって、りんごはとても魅力的なスウィーツだった。お母さんはりんごを回しながら器用に皮を剥いていく。皮が剥き終わると、それを八等分に切り分け、紙皿に盛ってくれた。

「はい、どうぞ。それと、爪楊枝も」

「ありがと。いただきます」

 渡された爪楊枝をりんごに刺して、半分ほどを齧る。すると、途端に酸味の中のほのかな甘みが口いっぱいに広がっていく。ああ、おいしい。こんなおいしいりんごを食べたのは久しぶりだなあ。

 確か前に食べたのは、去年の秋だった。御嶋さんが私のお見舞いの時に持ってきてくれたのだ。普段から料理を全くしない御嶋さんが、目の前でりんごを切り出したのを見た時はほんとにハラハラしたのを覚えてる。

 切り分けられたりんごは形が不揃いだったし、見ていてきれいではなかった。それでも、あのりんごはとてもおいしかった。それはきっと、あれが普通のりんごではなかったからだ。あれは、御嶋さんが私のことを想って切ってくれた、特別なりんごだったから。

 そんな過去のことを思い出し、また、頭の中が御嶋さんのことで溢れていく。

「怜佳……どうしたの?」

 お母さんの呼びかけに私ははっとなる。いつの間にか口の中のりんごは既に無い。私は食べかけのりんごが刺さったままの爪楊枝を持ちながらぼーっとしていたらしい。

「あ、ううん。ちょっと考えごとしてた」

 頭の中の御嶋さんを振り払い、笑顔を作る。すると、目の端から何かが頬を伝っていくのを感じた。

「あれ……?」

 手の甲でそれを拭う。涙だった。さっきまで止まっていたはずなのに。

 一度溢れると、もう止まらなかった。まるでダムが決壊したように、私は嗚咽まじりに涙をこぼした。

 お母さんは何も言わず、私にハンカチを渡してくれた。私が流れつつける涙をそれで拭う間、お母さんは私の頭を優しく撫でてくれた。


 やがて、泣き疲れた私に眠気が忍び寄ってくる。重くなる目蓋をなんとか持ち上げ、お母さんを見上げる。それに気付いたお母さんは、またも優しい笑みを向けてくれる。

「落ち着いた?」

「……うん」

「そう、よかった」

 お母さんは安心したようにそう答えると、荷物を持って立ち上がった。

「じゃあ、お母さん、そろそろ行くわね。あ、このりんご、どうする? 食欲がもし無いなら片付けるけど」

「お母さん、ちょっと話したいことがあるの」

 私はお母さんの言葉を無視して言った。お母さんは気分を害されたといった様子もなく、もう一度イスに腰掛けた。

「なにかしら?」

 お母さんはさっきまでの笑顔は崩さないまま、真っ直ぐに私と向き合う。きっと、真面目な話をするのだと察してくれたんだろう。

 私は目を閉じて、自分の気持ちを確かめる。私は、御嶋さんのことが好き。叶うなら、ずっと一緒に居たいくらい好き。私はこれまで、これは所詮儚い夢だと思っていた。叶わない夢だと勝手に思い込んでいた。だから私は、自分のこの気持ちを誤魔化そうとしたんだ。

 でも、結局誤魔化すことはできなかった。御嶋さんのことを想うと、涙があふれて仕方なくなる。私はこの気持ちを捨てることができないんだ。

 だから今日、私は1つの決断をする。一度大きく深呼吸をする。

「私……手術、受けようと思う」

 それを聞いたお母さんは驚いたように目を見開いた。でも、次の瞬間にはどこか安堵したような笑顔を浮かべ、目には涙が光っていた。

「そう、分かったわ。明日にでも、先生と話し合いましょう」

 そう言うと、お母さんは今度は私の体を抱きしめた。それがあまりに心地良くて、私の意識はそのまま夢の中へと誘われていった。

 1年前の私には、死んで惜しいものはなかった。けれど、今は違う。私は生きたいと思った。あの人と一緒に歩んで生きたいと思った。だから、その未来が叶う可能性が少しでもあるのなら、私はそれに縋り付こう。

 たとえあなたの一番になれなかったとしても、それでも私は、あなたと居られるなら、それで……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ