入院
10月に入って2週間。あれほどしつこかった暑さはようやく収まっていき、今度は冬の足音が聞こえ始めていた。
制服と一緒に木々も衣替えを始め、赤、黄、橙へと、鮮やかにその葉を染めていく。そんな並木の下を進み、あたしは学校へと向かう。
今日は週初めの月曜日。そのせいか、周りの生徒たちの顔はちょっと憂鬱そうだ。
不意に吹いた風が、木々の枝から紅葉を攫っていった。
「うぅ、さむっ」
気温はそれ程低くはないけど、やはり風に吹かれると少々肌寒い。あたしもみんなみたいにブレザー着てこればよかった。
とは言え、この短い通学路だ。それを抜ければ風を凌げる校舎が待っている。
「そうだ、走れば暖かくなるかも」
そう思いついたあたしは、小走りになって学校へと向かって行った。
「?」
自分の教室に近づく。けれど、いつもは聞こえてくる賑やかな声が今日は聞こえてこない。もしかしてまだそんなに人が登校してないのかな?
ガラガラッ
あたしが教室の引き戸を開ける。すると、あたしは普段と違う雰囲気を感じた。
いつも通り、クラスにはこの時間に登校している人はみんないた。でも、いつもみたいに楽しくおしゃべりしている場合じゃないといったように、みんなどこか気まずそうに声小さく話すばかりだった。
一体何があったのかと訊いてみたい気もするけど、まだ怜佳ちゃんは登校していない。朝が苦手なせいか、彼女が来るのはいつも最後のほうなのだ。
仕方ないので、自分の席で教科書などの整理をする。それが終わると、見計らったように誰かがこちらへ近づいてきた。出浪さんだ。
「ねぇ、御嶋さん。聞いた?」
聞いたって何のことだ? もしかして、このクラスが今微妙な雰囲気になっているのはそのことが関係しているのか? だとしたら、一体あたしの知らないところで何が起きたのだろう。
「聞いたって、何かあったの?」
そう聞き返すと、出浪さんは言い渋るように俯いて口をパクパクさせた。しかし、やがて決心がついたのか、真っ直ぐにあたしの目を見てこう告げた。
「星乃さんがね、病院に運ばれたんだって」
出浪さんの話によると、昨日の夕方、部活から帰ってきたある女子生徒が、寮の中から担架で誰かが運びだされているのを目撃したそうだ。周りに数人の野次馬が集まっていて、その子もそれに混ざっていた。よく見てみると、担架で運ばれている人が怜佳ちゃんだったとのことだ。
その話を聞いてまもなく、担任が教室に到着した。まだHRには早い時間だったが、教室には怜佳ちゃん以外のみんなは既に集まっていたので、担任の号令でHRが始まった。担任もクラス全体の空気から何かを察しているようだった。
担任がいつものように淡々と連絡事項を挙げていく。それを聞くみんなは、どこか緊張した面持ちだった。それはきっと、怜佳ちゃんについての話があると思っていたからだ。
そして、そのときはやって来た。
「どうやら皆はもう知っているみたいだが、星乃が昨日、近くの病院へ搬送された。実は、星乃はある持病を抱えていてな、今回の入院はその発作によるものだ。その持病は命に関わるものではないが、今回の発作が思いのほかひどく、念のため様々な検査をする為、入院する形となった。一週間ほどで退院する予定だそうだ」
ここで一呼吸置いて、
「連絡は以上だ。解散」
この日のあたしは、酷く動揺していたらしい。それはもう、加山くんや出浪さんたちに何度も心配して声をかけられる程に。
自分でもその通りだと思った。授業中の先生の言葉はほとんど聞いていなかったし、昼ごはんの弁当も全く喉を通らなかった。
頭の中は、ずっと怜佳ちゃんのことで一杯だった。怜佳ちゃんは何らかの持病を患っていて、しかもあたしにそれを隠していた。
担任はその病が死に至るものではないと言っていたし、今回はその発作が普段より酷いから入院したとも言っていた。でもそれは、裏を返せば、怜佳ちゃんは日ごろからその発作に耐えているってことだ。
発作が全く辛くないなんてことあるはずない。もしかしたら怜佳ちゃんは、その苦しみを隠しながら、あたしに笑顔を向けていてくれたのかもしれない。だとしたら、あたしは……。
不安が増大していく。怜佳ちゃんが側にいないだけで、手の届く場所にいないだけで、もう二度と触れられないんじゃないかという恐怖に駆られる。
あたしは居ても立ってもいられなかった。終礼を知らせるチャイムが鳴り担任の解散の号令を聞くと、あたしは誰よりも早く教室を抜け出していた。
一心不乱に廊下を駆け、校庭を抜け、病院へと続く道を進んだ。
時間にして5分もかからなかっただろう。川沿いの並木の下を走るうちに、すぐに、目的の市民病院が見えてきた。
真っ白な引き戸の隣には『305』の数字。ナースセンターで教えてもらった番号だ。その下には『星乃怜佳』の文字。どうやら共用ではなく個室のようだ。
間違いない。この部屋の中に怜佳ちゃんがいるんだ。
「……」
あたしは、躊躇っていた。
ここまで来て、やっとあたしは徐々に冷静さを取り戻していた。
つい何も考えずにここまで来てしまったせいで、お見舞いの品なんて物のことをすっかり忘れていた。このまま怜佳ちゃんの病室に入って「あまりに心配だったから何も持ってこないで来ちゃった、てへっ」なんて言ったら笑われちゃうだろうか。
今からでも遅くはない。怜佳ちゃんは甘いのが大好きだったはずだから、近くのスーパーなりで何か甘いものでも買ってこよう。
そう思い立って、歩いてきた方向へ向いたときだった。
カラカラカラッ、と静かな音とともに、305号室の引き戸が開かれた。驚くあたしの横には、薄い水色の病衣に身を包んだ怜佳ちゃんが立っていた。
「わわっ、御嶋さんかぁ。びっくりした~」
「あ、えっと……」
「もしかして、お見舞いに来てくれたの? 嬉しいなぁ。さっ、入って入って」
「わっ、ちょっ」
そう言いながら、怜佳ちゃんは病室の中へとあたしの手を引いていく。あたしは抵抗できず、怜佳ちゃんの後に続いた。
病室の中に入ると、怜佳ちゃんは壁際に置いてあった背もたれのない丸いイスを自分のベッドの脇へと移動させた。
「どうぞ、座って」
「う、うん。ありがと」
促されるままそのイスに座ると、怜佳ちゃんもベッドの縁に腰掛けた。
「まさか来てくれるなんて。ほんとに退屈してたんだ。ここってなんにもないから」
そう愚痴を言いながら、浮いた足をパタパタさせる。
よかった、怜佳ちゃんが元気そうで。あたしは心の中で胸を撫で下ろした。けど、手ぶらで見舞いに来たことへの後ろめたさからか、怜佳ちゃんのほうからついつい目を背けてしまう。
部屋をぐるりと見まわす。南方には白いカーテン付きの窓。その際にはベッドが置かれ、枕元の壁沿いには小さめの物入れとテレビがある。
「さっきも、暇だったから病院の中、散歩しようと思ってたんだ。そしたら、御嶋さんが来てくれて」
「暇って、テレビがあるのに?」
さっき見つけた小さいテレビを指さしながら訊く。
「ん~そうなんだけど、面白そうな番組やってなかったから」
「そっかぁ。まあ、平日のこんな時間だし」
外が暗がるにはまだ早い時間だ。こんな時間にやってる番組なんかは、確かにあたしたちには面白くないものばかりだろう。
「ってか、それで散歩って。大丈夫なの? ベッドで大人しくしてたほうがいいんじゃ」
「あ~、御嶋さんもみんなとおんなじこと言う~。私は元気だよ。ほら、この通りピンピンしてる」
そう言いながら、怜佳ちゃんは途端に立ち上がり、さながらボディービルダーのようにポーズをとり始めた。それがあまりにも可笑しくって、あたしは思わず吹き出してしまった。
「なにそれ。あはははっ」
「ふふふっ」
しばらくそうして笑いあっていた。本人の言葉通り、怜佳ちゃんはむしろいつも以上に元気そうだった。
窓越しに見える空が黒色に染まっているのに気が付いたのは、それから大分後のことだった。
「もうこんな時間か。そろそろ帰らなきゃ」
壁に掛けられた時計を見てびっくり。もうすぐ面会時間の終わる時間だった。
「そっか、残念……」
怜佳ちゃんは寂しそうに顔を俯かせる。
「また来るから。次は……ちゃんと何か持ってくるから」
「あはは、ありがと。でも何も持ってきてくれなくてもいいよ? さっきも言ったけど、私は御嶋さんがお見舞いに来てくれたことがとっても嬉しかったんだから」
「そう言ってくれると、あたしも助かるよ。じゃ、またね~」
「うん、また~」
怜佳ちゃんに向けて小さく手を振ると、あたしはそのまま病室を後にした。
真っ白な廊下を歩いていく。あたしの靴音が、コツコツ、と響く。それ以外の音は聞こえない。まるで、この建物には誰もいないかのよう。
怜佳ちゃんはこれからしばらく、ここで寝泊りするんだ。それも一人で。
あたしはふと思う。こんなにも清潔感に溢れ、静謐に満たされたこの建物の夜を。怜佳ちゃんはあの部屋で一人、一種の不気味さえ感じるようなこの空間に閉じ込められるのだ。人々の言葉も、喧騒も届かないこの空間に。
今なら怜佳ちゃんの気持ちが分かる気がする。一人で居るのは、やっぱり悲しいものだから。
ああ、そうだ。次に来るときは何か甘いものを持っていこう。怜佳ちゃんは甘いものが大好きだからな。きっと喜んでくれるはず。それで、すこしでも怜佳ちゃんの寂しさを和らげられるのなら。
廊下を抜け、待合室を通り過ぎる。病院から出ると、涼しい風が吹き抜けていった。空は既に真っ暗だった。
思いの外長居してしまったなぁ。今日やらなきゃいけない数学の宿題があるのに。
そんなことを考えながら、何気なく怜佳ちゃんの病室のほうへ目をやる。怜佳ちゃんの病室があるであろうその一帯は、どの部屋も灯りがともってはいなかった。




