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君のいる明日  作者: ほろほろほろろ
18/34

過去

 わたしが初めて絵を描いたのは、話すことができるようになってからしばらくのことだった。わたしはこの頃から活発で、両親の言いつけを破っては家中を歩き回っていた。

 ある日、いつものように親の外出中に家の中を探索していると、いつもは閉じていて背のまだ低かったわたしには開けられなかったトビラが、その日に限っては開いていた。

 その部屋に入ってみると、周りの棚には小さくて細長いようなものがたくさん並べてあって、部屋の真ん中には見上げるほどの大きな白い板が台に立て掛けてあった。

 この時のわたしは本当に子供で、恐れるものはなにも無かった。わたしは好奇心の赴くままに、その部屋を駆け回った。

 そうして遊んでいるうちに、わたしは床がベトベトしているのに気が付いた。床にはたくさんの小さくて細長いものが散らばっていて、その先っぽから何かベトベトするものが出ていたのだ。そのベトベトはそれぞれ色があった。赤や青、黄色に緑。なんて言うか分からない色もあった。

 わたしはそのとき、幼いながらに理解した。お母さんと一緒に見たことのあるテレビで、その中にいた人がこれを白い紙にベタベタ塗っていた。そうか! これは絵を描くためのものなんだ!

 わたしは部屋の真ん中に立て掛けてあった白い板を台がら引っ張って床に落とし、周りに散らばった絵の具で手をぐちゃぐちゃにしながら、それに絵を描いた。わたしが初めて絵を描いた瞬間だった。

 わたしがその絵を完成させた頃にお母さんか帰ってきた。お母さんはわたしが見当たらないことに気付くと、わたしを探し回り、そして遂にこの部屋へやってきた。

 わたしを見つけたお母さんは、その様を見てひどくわたしを叱りつけた。そして、ひどくわたしを心配した。

 ケガは無いか? とか。絵の具を飲み込んでないか? とか。念のためにこれから病院で観てもらいましょう、とか。

 そのあとすぐにお医者さんへ行ったけれど、ケガも無かったし、絵の具を飲み込んでもいなかった。

 その後病院から帰って家に着くとすぐに、わたしは疲れ果てて眠ってしまった。


 次の日から、お母さんはわたしに絵を教えるようになった。

 筆の持ち方に絵の具の混ぜ方。同い年の子が画用紙にクレヨンで描く絵を、わたしはキャンバスに筆を使って描いていた。

 いつしかわたしは絵を描くのが大好きになっていった。幼いが故に手先が不器用で上手ではなかったけれど、わたしはとにかくいろんな絵を描いた。公園の隅っこで咲いていた花や、お散歩中のワンちゃん。動物園で見た黒くて大きな動物。そんないろいろな光景たちを思い出しながら、家の中ではずっと筆を走らせていた。

 その頃から、他の人が思い出を写真に収める一方で、わたしはわたしの絵に思い出を残していた。


 わたしが小学校に上がる時、お母さんはわたしを絵画教室へ通わせ始めた。

 絵を描くのが好きだったわたしは特に反対もせず、土日で二時間ずつその教室で絵を描くことになった。

 でも、その教室の内容はわたしの思っていたものと大分かけ離れていた。

 毎回描くものにはお題があった。この彫刻をスケッチしなさい、とか。この静物を描きなさい、とか。この作品を模写しなさい、とか。それらを描くなかで、先生はわたしに事細かに上手に描くコツを教えていった。そのお陰か、わたしの絵は以前と比べて見違えるほどに上達していった。

 でも、わたしはつまらなかった。普段家で絵を描いているときはすっごく楽しいのに、この絵画教室ではそれが全く無い。わたしはその理由が分からなかった。

 わたしが小学校の中学年に上がった頃に、その理由は分かった。絵画教室で描く絵には思い出が無かったのだ。

 わたしの普段描く絵には思い出が詰まっていて、その絵を眺めてはその思い出に耽っていた。でも、教室で描く絵を眺めてもなにも感じなかった。それもそのはず。だって、教室で描く彫刻も静物も、ただそこにあるだけだから。何の思い入れも無いのだから。

 そのことに気が付いた瞬間、ようやくわたしは自分が単に絵を描くことではなく、思い出を描くことが好きなのだということを自覚した。

 わたしは絵画教室を止めたくなった。何の面白みもない絵を描くのは退屈だったから。しかし、わたしは教室を止めたいとは言えなかった。高い学費をかけてもらっているからという遠慮もあったけど、そのときのわたしはすでにお母さんの気持ちを知っていたのだ。

 お母さんは、わたしが初めて絵を描いた日から、よくわたしに自分の昔の話を聞かせた。自分は昔画家を目指していたこと。有名な絵の学校に通っていたこと。自分が画家として成功しなかったこと。

 そして、自分の代わりとして、わたしに画家として成功して欲しいということ。

 最後のは直接言われた訳じゃないけど、わたしには分かっていた。わたしの絵を描く姿を見るとき、お母さんの目はとてもきらきらしていた。まるで大きな宝石でも見ているみたいに。

 それからも、わたしの教室でのやることは変わらなかった。あれを描きましょうこれを描きましょう。単調で退屈な作業だった。わたしは、絵を自由に描けないことがこんなにも苦痛であることを知った。それでもわたしは、教室へ通い、つまらない絵を描き続けた。

 わたしの腕はメキメキと上達した。教室の先生もお母さんも、わたしを褒めてくれた。嬉しくはなかった。

 わたしの楽しみは、家でのお絵描きだった。学校での面白かったこととか、嬉しかったこととかを絵日記のように描いては、それを大事にとっていた。でも、ある日わたしがいつものように絵日記を描いていると、お母さんがこう言ったのだ。

「それじゃ上手にならない。お母さんの絵画集を貸してあげるから、それを模写しなさい」

 そして、お母さんは有名な画家たちの画集をドサッと山積みにして持ってきた。

 その日から、わたしの好きな絵は描けなくなった。


 学年が上がり、部活動が始まった。わたしは絵を描くことから少しでも離れたい気持ちと、昔ながらの活発な性格から運動部に入部したいと思っていた。

 でも、お母さんはそれを許さなかった。わたしの通う小学校には美術部はなかった。だからお母さんは、部活には入らず、その時間は絵画教室へ行きなさいと言った。

 わたしは我を通さなかった。お父さんに言えばなんとかしてくれると分かっていた。でも、お母さんはそんなわたしを見てはくれないと知っていた。『あの日』から、お母さんはわたしではなく、絵を描くわたしを愛するようになっていた。わたしはお母さんが大好きだったし、お母さんを悲しませたくなかった。だから、わたしはお母さんに従った。


 わたしの絵がコンクールで最優秀賞を取った。

 お母さんはまるで自分のことのように喜んだ。

 わたしの絵をたくさんの人が褒めてくれた。

 でも、わたしは嬉しくなかった。

 だって、その絵は空っぽだったから。


 わたしはこの生活を抜け出したかった。描きたくもない絵を描かされる、そんな生活を。

 何より、大好きな絵に苦しめられることがわたしには耐えられなかった。だからわたしは、中学へ上がる時にその思いのすべてをお母さんに訴えかけた。

 お母さんはひどく荒れた。どれだけお金をかけたと思ってるんだ。お前はこれからもたくさん絵の勉強をして、世界に認められる画家になるんだと。見かねたお父さんに平手を食らうまで、それは続いた。

 お母さんが落ち着いてから、わたしは言い放った。「画家になりたいなんて一言も言っていない。勝手に自分をわたしに重ねないで」と。お母さんは、「勝手にしなさい」と言い残したきりだった。

 わたしの通う中学校には美術部があった。けれど、わたしはバレー部に入部した。

 それからのわたしの生活は劇的に変わった。朝早く起きては部活の朝練に行き、日中は友達と他愛も無い会話を交わし、放課後は日が落ちるまでまた部活だった。肉体的には辛かったけれど、とても充実した日々だった。絵画教室も止め、あたしは自由に絵が描けるようになった。それが、あたしにとって一番の喜びだった。


 それは、2年生に進級したばかりの、桜満開の日のことだった。

 あたしは同じバレー部のある男の子に告白されたのだ。彼の名前は永瀬遥。とても爽やかでカッコイイと、同学年の女子たちには絶大の人気があった。

 あたしも、遥くんのことはカッコイイって思ってたし、自分も年頃な女子だったから恋愛にも興味があった。だからあたしは遥くんの告白を受けた。

 それから数日経った日のことだ。あたしが朝学校へ登校すると、女友達の数人があたしの机に押し寄せてきた。あたしは「おはよう」と挨拶をしたが、それを無視してその内の一人が声を荒げて「どういう事?」と言ってきた。何のことか分からないあたしは他の面々へ視線を向けると、みんな険しい顔を向けてきて、一人は顔を俯けて泣いていた。

 彼女たちの話はつまりこういうことだった。あの泣いていた子はずっと前から遥くんのことが好きだったが、あたしと彼が付き合っていることを知ってしまい、ひどく傷心してしまった。今すぐ謝って遥くんとは別れろ、と。

 あたしには全く理解できなかった。なぜ自分が責められるのか。遥くんはあたしのことが好きで、あたしはその気持ちを受け取っただけ。あたしから告白したわけでもない。そもそも、遥くんはあたしのことが好きで告白してきたのだから、こうして泣いている君には自分から行動しない限りチャンスは無かったじゃないか。受動的だった君が悪かったのだ。

 あたしがそのような事を言うと、みんな信じられないといった顔をし、泣いていた子はますます声を上げて泣いてしまった。


 あたしは一人になった。あれから特にイジメとかに遭うことはなかった。ただ変わったことは、あたしの友達だった人はあれ以降一切関わってこなくなったことだけ。

 遥くんにこのことは話さなかった。どうせ何も解決しないってことは明白だったから。

 でも、あたしは寂しかったんだと思う。

 友達を失くしたあたしは、その穴を埋めるように遥くんに甘えた。遥くんは嬉しそうだった。

 あたしは表情を偽ることを覚えた。遥くんにあたしの状況を悟られないように、遥くんに心配をかけないようにと。

 あたしは一層たくさんの絵を描くようになった。そのすべてに遥くんは登場した。あたしはいつでも、彼と一緒だった。


 時間はあっという間に過ぎて、気が付けば高校受験が迫っていた。あたしはこれまで絵と部活ばかりで、勉強はあまり出来るほうではなかった。一方で遥くんはそこそこ勉強が出来たので、あたしの志望校よりもレベルの数段高い高校を受験することになった。

 結果、あたしは今通う高校へ、遥くんも自分の志望校へ進学した。

 あたしと遥くんは別々の高校へ進学したけど、関係は続いていた。頻繁にメールや電話のやり取りをしていたし、週末にはよく一緒にデートもした。あたしはそれでも十分幸せだった。

 高校生活の中で、表情を偽る技術はとても役に立った。クラスメイトたちには愛想のいい顔で接し、上辺だけのものだと誰にも悟られることはなかった。友達を作ることはしなかった。友達は、もうたくさんだったから。


 それは、高校に進学してからの、初めての梅雨での出来事だった。

 部屋でいつものようにニュースを見ていると、あたしの地元で原付とトラックが交通事故を起こしたと耳に入ってきた。トラックの運転手は無傷。一方の原付の運転手は、打ち所が悪かったのかその場で死んだらしい。詳しい事故の内容は聞き流してしまったが、原付が雨でタイヤを滑らせてトラックにぶつかった、といったところだろう。

 その時、あたしは遥くんが最近原付の免許を取ったと言っていたのを思い出した。一応雨の日には注意するようにと、あたしは遥くんにメールを送った。

 それから、遥くんから返信が来ることは無かった。

 代わりに、遥くんの母を名乗る人が電話をかけてきた。なんでも、息子の葬式を挙げるから出席してほしいとのことだった。あたしは、訳も分からないまま承諾した。


 その日は、雨は土砂降りだっだ。

 原付に跨った遥くんはきついカーブへ差し掛かったところで横転、対向車線へ飛び出してトラックに轢かれたそうだ。

 遥くんは、あたしを置いて遠くへ行ってしまった。

 でも、全く実感が湧かなかった。

 メールを送れば、すぐに返事を返してくれた。金曜日の夜には、明日どこに行こうかと電話で微笑み混じりに話していた。遥くんと過ごす一秒一秒が、あたしの幸せだった。

 でも、それからもう二度と、その幸せを感じることはできなかった。

 友人を失い、恋人を失い、残ったのは、人との付き合い方を忘れた女が一人と、大量の思い出だけ。

 あたしは泣いた。これまでに描いてきた思い出たちを見ては泣いた。

 何日もの間泣き続け、遂に涙が枯れると、あたしは思い出を一枚残らず燃やした。

 思い出すことがこんなにも残酷なことなのだと、苦しいことなのだと、あたしは知った。だから、もう思い出さないようにすべてを灰にした。

 そしてあたしは、思い出を残すことを、絵を描くことを止めた。


「だ、だからお願い。怜佳ちゃんは、怜佳ちゃんだけはいなくならないで。もうあんな思いはしたくない。もう誰かを失うなんてまっぴらなの」

 あたしは更に強く怜佳ちゃんに抱きついた。他人への歩み寄る方法を忘れたあたしに、怜佳ちゃんは自ら踏み込んできてくれた。こんなあたしに出来た初めての友達。だから、もう離したくはなかった。

「辛かったよね、悲しかったよね」

 怜佳ちゃんは、あたしを抱く腕に力を込めた。

「大丈夫だよ、私は勝手にどこかへ行ったりしない。私も、御嶋さんとずっと一緒にいたいから」

 怜佳ちゃんはあたしから腕を離すと、片膝立ちになってあたしの目を真っ直ぐに見つめた。

「だから、私からもお願い。これから先も、あなたの隣に私を居させて?」

 その言葉を聞いた途端、あたしの目からはますます涙が溢れてきた。でも、さっきまでの涙とは違う、暖かい涙だった。

「ありがとぉ、ありがとぉ」

 また怜佳ちゃんに抱きついては、今度はそればかりを繰り返していた。


 あたしたち2人が集合場所に着いたときには、辺りはすでに真っ暗だった。

 もちろん集合時間には遅れ、担任から怒鳴られると覚悟していたが、あたしの顔から何かを察したのか、軽い小言程度で済んだ。それでも、あたしたちを探しに多くの先生たちが動いていたようで、後でお礼と謝罪をするようにと言われた。

 あたしたちが部屋へ戻ると、ルームメイトの2人が心配そうに駆け寄ってきた。余計な心配はかけたくないと思ってあらかじめトイレで顔を洗ってきたから、涙の跡とかはバレなかったと思う。

 あたしたちが無事だと分かると、出浪さんはまた軽口をたたいては片岡さんにどつかれていた。相変わらずの2人に、あたしたちは思わず笑ってしまった。


 ゆらゆらと揺れるバスの中、行きの道中ではあれほど元気だったのに、今は騒ぐ人は一人もいない。みんな疲れているのか、はたまた海と離れるのが悲しいのか。

 ともかく、これであたしは静かに読書ができる。あたしはバッグの中から文庫本を取り出そうとして、

「すぅ、すぅ」

 肩に重みを感じた。怜佳ちゃんは行きのときと同じように、あたしの肩に頭を預けて寝てしまった。これじゃぁ体を動かしたら起こしちゃうな。仕方ない、本を読むのは諦めて、あたしも寝ることにしよう。

 そう決めた途端、思い出したかのようにどっと疲れが体にのし掛かってきた。そういえば、今日の午前中も水族館で歩き詰めだったからなぁ。疲れてて当然か。

 だんだんと目蓋が重くなっていく。バスの揺れで眠気がさらに増していく。

「……むにゃむにゃ」

 怜佳ちゃんの寝顔をこっそり盗み見る。とても幸せそうな寝顔だった。怜佳ちゃんはどんな夢を見てるのかな……?

 あたしも目蓋を閉じて、ちょこんと怜佳ちゃんへ体を預けてみる。この体勢だと、より怜佳ちゃんを感じることができた。

 今日は、いい夢が見られそう……。

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