臨海学校 2
「……」
むにむに、むにむに
「んぅ……」
むにむに、むにむに
「…………?」
その日あたしは、やわらかな感触を全身に感じながら目を覚ました。未だに夢と現の間を彷徨いながらも、自分を包みこむこの包容力の正体は一体何なのかと、手でまさぐっていく。
むにむに、むにむに
「あっ、くすぐったいよ……」
聞き覚えのある声だ。それもすごく近くから聞こえる。あたしはその声をよく聞こうと顔を上げた。
「もぉ、どうしたの……?」
文字通り目と鼻の先に怜佳ちゃんの顔があった。それだけではない。あたしは、あろうことか怜佳ちゃんの布団へ入り込み、彼女に抱きつくような体勢になっていたのだ。
一気に心臓の鼓動が早くなる。全く状況が掴めない。
「怜佳……ちゃん。こ、これは……」
「どうしたの? 私の布団に入り込んだりして。こわい夢でもみたの……?」
怜佳ちゃんの人差し指があたしの目元から滴をすくった。そこであたしは、自分が泣いていることに気が付いた。
また眠っている間に涙を流していた。しかし、あたしがさっきまで見ていたであろう夢の内容を今回もまた思い出すことができない。
「よしよし……こわくないよ……こわく、ないよ……」
怜佳ちゃんがあたしの髪をやさしく撫でてくる。まるで、幼い子供をあやすように。
「よしよし……すぅ、すぅ」
そして、そのまま彼女は眠ってしまった。さっきまでは寝ぼけていたようだ。でも、あたしの髪を撫でる手は止まらなかった。
……とても安心する、こうして怜佳ちゃんの腕に抱かれていると。ずっと、こうしていたい。
「くー、かー、ん~ちょっとぉ……どこさわってんのよぉ……くー、かー」
「むにゃむにゃ……佳苗のわきばら~……むにゃむにゃ」
窓から差し込むのは月や星の光ばかり。まだ夜明けには時間がかかる。
あたしを再び眠気が襲った。自分の布団に戻らなければと思ったが、もっと怜佳ちゃんに包まれていたいという気持ちが、あたしにそうはさせなかった。
たったひと時の、ほんのいたずら程度のじゃれあいならば、怜佳ちゃんもきっと許してくれるだろう。
明け方
あたしが起きたとき、他の三人はまだ起きてはいなかった。あたしは怜佳ちゃんを起こさないようにするりとその体から抜け出した。
時計を見ると、ちょうど自分のいつも起きている時間だった。環境が変わっても習慣は変わらないみたい。しかし、それも一人暮らしならいいんだけど、今は集団生活。下手に音とかをたててみんなを起こしては悪い。それに電気をつけることも出来ない。自由が利かないのは案外窮屈だ。でも今更寝るのも気が引ける。なにより目が冴えてしまった。
仕方ないので、持ってきた文庫本の続きでも読むとしよう。ちょうど窓際には良い具合に朝日が差し込んできて、あたしの為に置かれたかのようにイスがある。あたしはまず布団を畳み、荷物から文庫本を取り出し、窓際のイスに腰掛け、朝日を背にそれを読み出した。
「朝っぱらから泳ぐとかありえなくない?」
あたしが文庫本を読み始めてから30分ほど経って、出浪さんと片岡さんも目を覚ました。出浪さんは朝から元気なようで、今もこうして今日のプログラムについての愚痴を片岡さんにぶつけていた。
「だって朝だよ? 朝はもっとこう……のんびりとしたいじゃん」
「なんじゃそれ」
「朝ってさ、起きたばっかで体動かないじゃん? だからいきなり体動かすんじゃなくて、徐々に暖めていってさ、そんで良い感じになったところで、さぁ、泳ぐかってなるじゃん?」
「お前の言ってることはよく分からん」
また出浪さんが愚痴を言ってる。やっとこの部屋がにぎわいを取り戻したようだ。
「お前はただ、自由に泳げないのが気に食わないだけだろ? もしこれから自由時間だったら絶対はしゃぎまわるくせに」
「そ、そんなことは……そうだよ! 何か悪いか!」
出浪さんは遊びたいだけらしい。
「ん……むぅ。おはよぉ~」
今の時刻は朝食の時間のおよそ15分前。大分遅れて怜佳ちゃんが目を覚ました。
「あ、星乃さんやっと起きた~」
「よかったね。あとちょっとでコイツが星乃さんを叩き起こすとこだったよ~。あいたっ!」
「ん~ありがとう~」
怜佳ちゃんはまだ寝ぼけているようだ。会話が微妙に噛み合っていない。確か前に、怜佳ちゃんは朝が苦手だって言ってたなぁ。
この調子なら、きっと昨晩のあのことは覚えてないな。
「怜佳ちゃん、布団とか片付けとくから、顔洗って来な」
「う~ん」
肯定か否定か区別のつかない返事をすると、怜佳ちゃんはふらふらと洗面台の方へ歩いて行った。
「んじゃ、わたしもそろそろ着替えよっかな」
「ウチも~」
そして、この2人は制服をそれぞれ手に取った。
「ってか、朝ごはん食べたらすぐ水着になって泳ぐのに、なんで制服に着替えないといけないの? ジャージのままでいいじゃん」
「あんた……彼氏に自分のジャージ姿を見せ付けたいの?」
「あっ、だから制服なのか! まさか先生たちはそれを見越して……!」
相変わらず息ぴったりの2人だ。
布団を片付け終わったあたしは、ふと窓から外を眺めた。今日も天気は快晴。絶好の海水浴日和だ。
そして今日は例の『自由時間』のある日でもある。あたしは柄にも無く、少し浮き足立っているのを感じていた。
午前中のプログラムの二つである水泳訓練とカヌー体験を終え、昼食も済ませたあたしたちは今、それぞれの部屋で次のプログラムに備えていた。
「ふっふっふ、遂に、遂にこの時が来たのだー!」
そして、今の出浪さんはこれまで以上にテンションが高ぶっていた。出浪さんは上半身が裸のまま、自分の水着を高々と掲げている。
「この日のために新調したこの水着、これを着てリョウといっぱい遊ぶんだー。あぁ、どうしよっかなぁ。砂浜で追いかけっことか~、水を掛け合ったりとかぁ~。あっ! サンオイルを塗ってもらうなんてのも定番だよね~」
「……」
片岡さんは、そんな様子の出浪さんをこれまで見たことないような険しい形相で睨んでいた。
「そっか~サンオイル塗って欲しいのか~。ちょっと来いウチが塗ってやる」
片岡さんは出浪さんの腕を掴むと、自分のサンオイルを持って備え付けの浴室へと無理やり引っ張っていく。
「ちょっ、何すんの、やめっ放して~。美希なんかに塗られたくない~。リョウに塗られたい~」
「お前、ほんとにそんなことして先生に見つかったら即生徒指導だぞ」
「ひぃっ、でもわたしはそんな脅しには屈しな、あ、ちょっと。え? まじで? いやあああぁぁぁぁ~~~!」
浴室から楽しそうな声が響いてくる。でもこれで、生徒指導の先生の厄介になる生徒が一人減ったのはよかった。しばらくその悲鳴は続き、やがて2人は浴室から帰ってきた。
「うぅ、ぐすん。わたし、汚されちゃった」
「あんな発想するアンタは元から汚れてたんだよ」
「わぁ、星乃さんかわいい~」
出浪さんは片岡さんを無視して怜佳ちゃんのところへやってきた。
「いやぁ~、魅せるねぇ~際どいねぇ~。なに? 男でも狙ってるの? あ、でもリョウはダメだからね」
「そ、そんな。私は別にそんなつもりは……」
急に褒められて恥ずかしがっているのか、怜佳ちゃんは顔を赤くしてモジモジとしていた。
怜佳ちゃんが着ているのはフリル付きの白ビキニだった。何と言うか、まぁ予想通りのチョイスだった。
「やっぱ胸が大きいって憧れるな~。わたしも星乃さんみたいにビキニ着てみたい」
「出浪さんも試してみればいいんじゃない? 彼氏さんもきっと喜ぶし、あたしは似合うと思うよ」
「……御嶋さん。小さい胸同士、わたしはあなたと分かり合えると思っていたよ。でも違ったのね」
出浪さんは急に芝居がかったような口調でしゃべりだした。
「胸の慎ましやかな者がビキニを着る。それすなはち己が恥を世に広むが如し」
「つまり自信がないのよ、こいつは。気にしないで」
出浪さんはさっきから隠しもしていない自分の胸に手を当ててしゅんとなってしまった。
「それよりさ、そろそろ時間だしさっさと着替えよう」
「なに? もうこんな時間じゃないか。早く着替えないと出遅れる~」
確かに、せっかくの海なのに遊べる時間が減るのはもったいない。あたしも早く着替えちゃおう。
ビーチバレーに遠泳、砂のお城制作にパラソルの下で昼寝。みんなが各々の夏の海を満喫している。中には、童心を思い出したかのように、生徒たちに交じってはしゃぐ先生達の姿も見える。
一方であたしは、みんなから少し離れたところで怜佳ちゃんの泳ぎの練習に付き合っていた。
「さっ、足浮かせてバタ足して~。大丈夫、手は放さないから」
「う、うん」
バシャバシャバシャッ
懸命に足を動かす怜佳ちゃんの手をそっと引いていく。
「良い調子良い調子。じゃあ顔も水につけてみよっか。いい? 水の中では鼻から息をはくんだよ」
「わかった。やってみる」
ブクブクブク……。
「ぷはっ」
「いい調子だよ。じゃあ、しばらく繰り返して水に慣れていこうか」
「は、はい!」
どうやらこの前言っていた、泳げないという話は本当だったようだ。現にこの目で見ているから分かる。動きが初心者そのものだ。バタ足は足を無駄に大きく動かすものだから、水しぶきは上がってもあれじゃ疲れるだけだし、顔を水につけるとそれが一層際立ってしまう。まだ水に潜るのが怖いんだろう。小学校や中学校で水泳の授業があったと思うけど、いままでどうやって乗り切ってきたのか。まさか全部休んできた訳ではないだろう。
「ぷはっ、はぁ、はぁ」
「いいよいいよ、じゃあ今度は、足をできるだけ水のなかで動かすように意識しようか」
「はい!」
バシャバシャバシャッ
そういえば、今日の午前中に水泳訓練があったけど、そのときもきっと苦労したんだろうなぁ。水難訓練ではグループ分けされていて、あたしと怜佳ちゃんは別々のグループだったから、彼女の様子は見ることができなかったのだ。
それにしても、ここまで泳げなかったとは。ここはあたしが、これからの為にもしっかり泳ぎを教えてあげなきゃ。やっぱり泳げないんじゃぁ海の楽しさも半減しちゃうし、ずっと浮き輪でぷかぷか浮いてるなんて詰まんないからなぁ。やっぱ海に来たら泳がないと。
「ぷはっ」
「うん、だいぶ慣れてきたね。じゃぁ次は手の練習をしようか。足はついたままでいいよ。はい、手を伸ばして、あたしの動きをまねして」
あたしはクロールの手の動きをしてみせる。それを見て、怜佳ちゃんはぎこちなくあたしの真似をして腕を動かす。
「こ、こうかな……?」
「そう、いいよ。これを3回繰り返すごとに息継ぎをするんだ。こうやって、顔を横に向けて……」
「うん、結構上達したね」
「ほんとに? でもまだ一人だとそんなに泳げないよ」
「ほとんどゼロから始めてこれなんだから、筋は良いと思うよ。それに、今日は初日なんだし。夏休み中も、もしよかったらプールとかで練習付き合うよ」
「ほ、ほんと?」
あたしは頷いた。
「ほんとだよ。じゃっ、今日はこのくらいにしよう。怜佳ちゃんも結構疲れたでしょ?」
「うん、もうくたくた。こんなに体動かしたの始めてかも」
「休んでおいで。向こうにベンチとかあったから」
「うん、そうする。御嶋さん、ありがとう」
そして怜佳ちゃんは去っていき、この場にはあたしだけが残された。
ザザァーン、ザザァーン
浜辺に波が寄せては引いていく。
遠くから聞こえていたみんなのはしゃぐ声も、夕日の差す今ではだいぶ落ち着いてきた。
真っ赤な夕日に、空も海もみんな染まっていく。あたしは一人、その景色をわけもなく眺めていた。
……どうしてだろう。この感じ、とても懐かしい。あの水平線へと沈んでいく夕日の赤も。肌に感じるやわらかな潮風も。つま先に触れる細波の冷たさも。あたしは、この光景を見たことがある。ふと、そう思った。
そっと目を閉じて、この感覚を頼りにその記憶を手繰り始める。
「……」
すりガラス越しに見るかのようにはっきりとしないあたしの記憶。でもそこには、今と同じように波打ち際にあたしは立っていた。
さらに意識を集中する。少しずつ記憶にかかったもやを払っていく。
やがてその光景は鮮明になっていった。記憶の中のあたしは、今のあたしと同じように、沈みゆく夕日を眺めていた。いつまでも、いつまでも、夕日ばかりを目で追っていた。
ザッザッザッ
そうしていると、誰かの砂を踏む音が遠くのほうから聞こえてくる。
ザッザッザッ
あたしは、この音の持ち主があたしのことを探しているのだと、そう思った。そして、それがあの人だということも。
足音はあたしの後ろで止んだ。あたしは何も知らないふりをして、あなたからの言葉を待った。
「こんなところにいたんだね、御嶋さん。探したよ」
「っ……!」
あたしは思わず驚いて振り返る。そこに立っていたのは怜佳ちゃんだった。
「こんな外れのとこでなにしてるの?」
何を……そうだ、あたしは……。
「夕日……夕日を見てたんだ」
「夕日かぁ。……綺麗だよね」
「うん……」
怜佳ちゃんとの会話が、あたしの記憶と重なる。あの人と怜佳ちゃんが重なっていく。
しばらくの間、お互いに口を開くことはなかった。ただ静かに、夕日の沈んでいく様を見ていた。
やがて夕日の赤は薄れていって、辺りを黒が覆い始める。
自然と記憶の続きが頭の中で再生された。あぁ、そうだ。ここであなたはこう言うんだ。
「そろそろ行こっか、もうそろそろみんなが集まる時間だから」
あなたは身を翻して来た道を帰っていく。あたしからどんどん離れていく。
「ッ……!!」
その言葉を聞いた瞬間、記憶の内容が一気に押し寄せてきた。
「どうしてあたしを置いて行くの?」
「約束したじゃない。ずっと一緒だって」
「お願い……一人にしないでっ……!」
「行かないでっ!」
「え? わわっ」
気が付けば、あたしは何かに駆られるように走り出し、怜佳ちゃんに縋りついていた。
「ど、どうしたの?」
怜佳ちゃんがあたしの髪を撫でながらそう問いかける。
「うぅ、ぐすんっ」
あたしは何も答えられずに、怜佳ちゃんのお腹に額を押し付けて泣いていた。
このまま怜佳ちゃんを放したら、またあたしを置いて行ってしまうんじゃないかって。そんな筈はないのに、でもそう考えたら、もう怜佳ちゃんから離れられなくて。
「もぉ、また泣いちゃって。今朝もそうだったけど、もしかして、何か怖いこととか、悲しい事とか思い出しちゃった?」
「ぐすんっ、ぐすんっ」
「話してくれる?」
怖いこと、悲しいこと。
あたしの過去
忘れていた。ううん、忘れていると勘違いしていた。
でもそれは、知らず知らずのうちにずっとあたしの心を蝕んでいて、今ではこうして怜佳ちゃんに縋らずにはいられない。
これまでは何ともなかったのに。自分を騙せていたのに。思い出したら止まらなかった。
「うぅ、えぐっ……あ、あたしぃ……」
「うん、聞かせて……?」
怜佳ちゃんに促され、あたしは嗚咽混じりに語りだす。
これは、あたしの物語だ。




