43 解くべきもの(4章・終わり)
エドガルドは時折メアリのまなじりに触れ、涙を拭うかのような仕草をする。ゆっくりと髪を梳く撫で方で、耳に触れられると少しくすぐったい。
けれど、とても安心した。
誰かにこうして撫でてもらえるのは、こんなにも幸せなことだったのだ。
「……エドガルドさまの御手が、疲れてしまいませんか……?」
「自分が動揺しているときまで、他人を案じてどうするんだ」
エドガルドは少し呆れた声音で言いつつも、こんな風に続けてくれた。
「望んでもいないものを押し付けられた上に、それを羨んだ人間まで慮る必要は無い」
「……」
表向きは冷たい物言いに聞こえるものだ。けれどもそこに込められている感情が、メアリを労わるためのものだと知っている。
(望まない立場を与えられたのは、エドガルドさまもだわ。そして、それを奪われたと感じかねないお方もいらっしゃる)
これまでなかなか聞けなかった問い掛けを、メアリはそっと口にした。
「エドガルドさまの、お兄さまは……?」
エドガルドが目を眇めると、瞳の紫色が深みを増したように見える。
けれども彼はややあって、こう教えてくれた。
「何を考えているのか分からない。何を考えていようが、どうでも良いと言うべきか」
エドガルドの声音は淡々としていて、そこにさしたる感情は無かった。けれどもだからこそ、兄弟の間にある溝を感じる。
「お前が妹から奪ったと言うのであれば、俺こそ同様にあの男から奪っている。……だが、それだけの話だ」
エドガルドはそう言って、メアリの頬に触れる。
その手がとても心地良くて、思わずメアリからも擦り寄せた。こんなにも温かく感じるのは、エドガルドの手が治癒の魔力を帯びているからだ。
「エドガルドさま」
先ほど治癒してもらった肩は、少しの違和感すら消えている。あやしてもらえるのは幸せでも、必要以上に魔法を使わせる訳にはいかない。
「怪我はもう、治していただきましたが……」
本当は、まだ離れないでほしかった。
そんな浅ましい感情が、見抜かれてしまったのだろうか。エドガルドが中々手を離さずに、メアリに治癒を与え続けてくれる。
不思議に思ってそっと見詰めれば、エドガルドはなんでもないことのように言った。
「先ほどから、ずっと不安そうな顔をしている」
「!」
自分でも認識していなかった感情に、エドガルドだけは気が付いてくれていた。
エドガルドは、温かな手でメアリの頬を撫でながら、囁くように小さく紡ぐ。
「ほら。……動揺が深いなら、一度眠れ」
「う……」
先ほどは寝るなと言ったのに、今度はメアリの寝かし付けをするつもりのようだ。
治癒魔法に安眠の効果は無いのだが、寝台の上で温かくては、眠くなってしまっても仕方が無い。
「大神殿や聖国の人間が、お前から何かを奪う気でいるのなら。――俺は、手段を選ぶつもりはないぞ」
(……私のために、憤って下さっている……)
そのことにお礼を言いたいのに、眠りの海に沈んでゆく。
温かな幸福だけが心に織り重なり、もう一度嬉しくて泣きたくなった。
(エドガルドさまが、愛おしい)
彼の方へと手を伸ばせば、繋ぎ返してくれると分かっている。
(……だからこそ、私は)
そうすることが出来なくて、メアリは目を瞑った。
(魅了魔法を解いて、このお方を解放しなくては――――……)
***
眠りについたメアリの髪を、エドガルドの指が名残惜しそうに掬う。
「……呪われた俺のことを本気で案じ、治癒したいとまで言い出すのは、世界中を探してもお前くらいだ」
起こさないようにメアリの髪を梳くその手は、まるで壊れやすい宝物に接するかのようだった。
「『救われた』などと、そう断ずるのも」
「……ん……」
彼はそのまま、眠ったメアリには決して聞こえない言葉を呟いた。
「本当に、ろくでもない魔法を掛けてくれた」
指で掬ったその髪に、エドガルドは恭しく口付ける。彼が目を伏せると、紫色の双眸に暗い影が落ちたように見えた。
「――俺はどうあっても、お前のことが愛おしい」
***
「――ふふっ! 夜会のための素敵な支度が出来ましたわ。お姉さま」
聖国の神殿で、ニーナはくすくすと笑いながら呟いた。
蒼白になったクリフォードが、ニーナに手を伸ばそうとする。けれどもその手は力無く落ちて、代わりに震えた声が言った。
「ニーナ。君は、本当に……」
「当然でしょう? これくらいのことが出来なくては、筆頭聖女は名乗れませんもの」
ドレスの裾をふわふわと揺らし、ニーナは天真爛漫に微笑む。
「お姉さまに証明するのが楽しみです。私こそがあなたよりも、聖女に相応しいのだと――……」
【第1部最終章へ続く】




