22.辺境伯
エスカ・ベーメンド・シャニーと呼ばれる一帯は不毛の地だった。
丘陵と荒地がちぐはぐに組み重なり、盆地に流れこむべき水源は嫌がらせのように聳える岩山に逸らされている。緑といえば、やけに細い樺がちらほらと固まっている程度だったという。
オリッセンネリーに吹く冬の風はまずここで溜まるのだそうだ。ウェルデリアの上空を通り過ぎ、イデンスに届く前に一度ここで留まる。
雪の量は少ない。だが吹雪く。そしてなによりも寒い。運よく晴れた日の朝ならば、宙に輝く氷の粒を拝めるだろう。鼻が凍りつくのと引き換えに。
古い民族の言葉で無人野に落ちる冬。
オリッセンネリー島において、最も厳寒の土地である。
この地を拓き土を耕し人の住める街を作り上げたのは初代ウェルデリア大王カシュラフクト一世の時代。
ケンデスネリーからの侵攻により、女王国オーリスデウスがこの地を奪ったのは女王バルバウィの頃。
イデンス公国が独立する際、女王国はオリッセンネリー島の領土を丸まる差し出すかたちとなった。当然、かの地も公国のものとなる。
結果として公国は、このさして旨みの無い土地を、しかし防衛の要となる土地をウェルデリアから守らねばならなくなった。
「なにせ無駄に広大なエスカだ。小競り合いの繰り返しで、もはや前線などどこからどこまでなのかもわからなくなった。休戦協定を結んだ今ですら油断すればすぐにちょっかいをかけてくるのがあの国だからな。往時はそりゃ苦労しただろ」
パテリコに講釈を頼んだのはわたしだけど、すでに耳が貫通しかけていた。申し訳ない。
ぽっくりぽっくり進む荷馬車に揺られながら、道中で摘んだ木苺を味わう。ちょっとすっぱい。
村を発って二日。たまたま行き当たった隊商が荷馬車の空きでよければ乗せてくれるというのでお世話になった。公国の東から戦火を避けてこちらまでやって来たのだそうな。
行き先はコルプトー・アメン。エスカ――つまり、名誉辺境伯領の中心街だ。あるいは、北部辺境すべての中心地と言ってもいい。
パテリコという人は、どうも知識を晒すことが好きな性質である。
この辺についてちょっと教えて、と頼んでみればそれはもう講談師のように語り始めた。ニエンシャは、川が少なくて水源確保が難しい、というくだりのあたりで寝た。
意外にもジギエッタは興味深そうに――表情からはぜんぜん読み取れないけど――その話を聞いている。なんだろう、社会科とか好きなタイプ?
「元々、北部辺境はザヘルン家の持ち場だったが――まぁこれはお前のほうが詳しかろうな。影なら周辺貴族についても教育されただろ?」
結局、彼女はわたしのことをクロワルチェの影武者みたいなものだったと結論づけたらしい。うーん、違うんだけど、もう面倒くさいしそれでいいや。
「いやーそれが、辺境伯についてはあんまり……デュータス君にはちょくちょく会ったことあるんだけどさ」
「名誉辺境伯二世を君付けとか偉そうな奴だな。ともあれその、デュータス・ウルスロスの父親のことだ。ドルトニー・ウルスロス。士爵の身分から辺境伯に成り上がったのは有名だが……二十年くらい前の話だったか」
エスカの地は代々、ザヘルン家が辺境伯として統括していた。厳しい土地柄、時に維持し時に減らしながら、少なくともイデンス国興の頃から名を残す程度には領地を切り盛りしてきた。
転機は二十年と少し前。
これまで小競り合いに終始してきたウェルデリアが、唐突に一斉攻撃を仕掛けてきた。当初は代替わりによる勇み足と思われたが、効果は覿面だった。
秋の終わりが近い季節だったのもよくなかった。冬の備えにこちらは当然、あちらの国だってまともに軍備を整える暇など無いはずだったのだ。ウェルデリア新王は戴冠前から計画していたのだと言われるが、定かではない。
領地深くまで押しこまれ、ザヘルンの当主はあっさりと戦死した。息子もほどなく死んだ。近隣から応援に出た諸侯もいたが、散り散りになるままである。
エスカはそのままウェルデリアに奪われ――奪還され――るかと思われた。そうなれば、次はイデンス本国が攻められる。
直近の小領に、ドルトニー・ウルスロスという騎士がいた。領地も持てない一代士爵である。
彼は辺境各地を回りながら、敗残した騎士や兵を纏めつつ抗戦を続ける。巧みに身を潜め、ウェルデリアの伸びきった戦線を的確に突いた。
エスカに落ちる冬は彼に味方した。
例年より少しだけ早い厳冬が、侵攻軍を襲う。ザヘルンの最後の意地も彼を助けた。撤退に際し主要地を焼く蛮行は、間違いなくウェルデリアの兵を疲弊させた。
とはいえウルスロスの抵抗軍も条件は同じ。
彼が勝利したのは神の思し召しにほかならない。であれば、神が彼を祝福したように、余も応えねばならぬ。
ウェルデリア軍がエスカから撤退したという報を聞いた当時の公爵は、一騎士の働きをそう評したという。
新たな辺境伯爵位が叙された。
戦上手だけで辺境は治められない。運がよかっただけの若造に何ができるか。国内貴族からやっかみと共に軽んじられた辺境伯は、数年のうちに見事に土地を復興させ、対ウェルデリアの防衛網を完成させた。
休戦協定が結ばれたのは、それからすぐのことである。
ドルトニー・ウルスロス辺境伯。ついたあだ名が名誉辺境伯。
「めっちゃ詳しい」
「そりゃお前、若い貴族の間じゃ有名な逸話だ。いや貴族だけじゃないな。野心を持っている国内の若者は誰でも憧れる。しばらく大きな戦も無かったから仕方ないが、本当なら私も……なんでもない」
「ふーん。デュータス君、偉い貴族のご子息さんにしてはなんかワイルドな感じだったけど、そんなお父さんがいるなら納得だな」
「いやていうかお前フラムンフェド家だろ? 息子だけじゃなく辺境伯にだって会ったことくらい――あぁいや、さすがにそれを影には任せないか」
「いまいち記憶に無いんだよなー。なんだろ、避けられてた?」
「悪い評判を聞かん人だから、クロワルチェなんて劇物には近づかんかったのかもな」
「げきぶつ」
たぶん正しい。
しかし何の因果かやって来ました北部辺境。お父さんはともかく、デュータス君は元気かなー。
他の令息令嬢はこちらにへりくだるか離れるかのどっちかだったしなー。特に力のある家の人たちはシルウィールちゃんと仲良くしてたから敵みたいな――というかまぁ敵だったけど――関係にしかなれなかったんだよなー。
でもなぜか彼だけはクロワルチェにも普通に接してきたんだよね。シルウィールの味方してたはずなんだけど。あんまり細かいこと気にしない人だったな。
ともあれ会うことはないね。曲がりなりにも辺境伯令息である。領内だろうと気軽に遭遇できるような立場の人じゃない。
メイリーンみたいに目の前で顔を向かい合わせるわけでもなし、ちゃんとコソコソしていれば身バレの心配なんてしなくていいだろう。
とりあえず、この辺はなにが美味しいのかなー。
◇◇
コルプトー・アメンの手前、小さな宿場町で隊商はいったん補給に入るということだった。
時間も遅いので、そこで一泊する。明日も馬車には乗せてくれるという。
いい人だねぇ、などとクロワルチェ――違った、クロエは言っているが、隊長が彼女のケツばかり見ていることに私は気付いている。不具だとか瑕疵があるだとかそういう女に欲情する男も多いので、そのたぐいだろう。
「ナー、ナニか人が集まってるゾ。見に行ってみないカ?」
なぜか未だに同行している東陸人がそう言ったのは、小さな食堂で晩飯を済ませて宿に戻るところだった。
厄介な人間を連れているのであまり妙な事に顔を突っこみたくないのだが、当の厄介者が興味津々になってしまった。なるべくコソコソするとかなんとか言っていたはずなのに。先日の村の件をまったく反省していない。
不本意ながら――非常に不本意ながら――宿に泊まる金すら無心している立場なので彼女らに従う。
街の端で何人かがカンテラを手に棒立ちしている。なにしてるんだこいつら。見やる先には荒地と岩山くらいしかないはずだが。
「山すそに邪霊が湧いてな。偶然に立ち寄った貴族様が対処してくださるって言うんだよ。止めたんだが……なもんで、こうして帰りを」
どうやらこの宿場町の代表者らしい壮年の男が言うには、その貴族は従者に邪霊の鎮静法を常に用意させているのだとか。
北部の特に雪深い場所では邪霊もよく湧く。勤勉な貴族――なんてものがどれだけいるか知らないが――ならば、そういうこともあろうか。
「ねぇねぇニエンシャ。そういえば邪霊ってなに?」
「コッチでは禍のコトそう言うんじゃないノ?」
「クシャってなに?」
「アー、ンー……言葉ちょっとワカンナイナ」
なんてことを連れふたりが言っていると、周囲の連中が急に歓声を上げた。
遠くに小さく揺れるカンテラの光が見える。どうやらお貴族様は無事に帰還したようだ。
現れたのはふたり。それぞれ馬に乗っている。ついでに装備もお奇麗だ。私の鎧が十は買えそう。
「――待たせたな! 邪霊はもはや跡形もない! これで心配は無用だ!」
「おお! さすがはデュータス様!」
ブーッ。
横にいたクロエが盛大に口を鳴らした。やめろ汚い。