第49話 きつねみみの少女、なおも思い悩む
ひとり考え事をしているうちに、洗い場にはモンブランだけが佇んでいた。
りんぜもシルキィも傍らの少女たちと親しげに話していて、居心地が悪かった。
きっと彼女たちはいま仲を深めあっていて、モンブランはそこにいないほうがいい。間に割り込むなんてもってのほかだ。
だから、彼女は逃げるように露天風呂へ赴いたのだった。
「……こんなふうにひとりになるの、久しぶりでしょうか」
圭たちと旅をするようになってから忘れていた、世界に取り残された気分を思い出していた。
いつからそうだったのかわからないのに檻に入れられていて、自分を売り買いする大人の声がたくさん聞こえてきて。
今は草木が風にそよぐ音がまくしたて、モンブランに過去を思い出させようとする。
どうして、売られる前に過ごした幸せだったはずの日常を忘れてしまったのだろう。
どうして、本当の家族でも故郷でもないキリマたちのもとへ流れ着いていたんだろう。
何度も考えてきたそれらの悩みは、今度の一回で答えの出るものじゃない。
ラッキーに問いかけられて、サクラには拒否されて、モンブランはこうして閉じこもってばかりだ。
なにかしなきゃ。やるべきことを。私がやらなきゃいけないなにかを。
でも。そのなにかって、いったいなんなのだろう?
虚空に問いかける。
「そんなの決まっているでしょう」
返ってくるはずのない答えが聞こえてきて、モンブランは顔を上げ耳を疑った。さっきまでなかったはずの人影が、湯けむりに浮かび上がっている。
露天風呂に先客がいたのかと思ったが、魔王会議の間は他の利用客は現れないはずだ。湯けむりの向こうにいるのは、モンブランの知っている人間ではない。
否。出席者の誰とも当てはまらないそのシルエットは、人間のものではなかったのだ。
相手はモンブランのほうへと歩み寄り、その姿を見せた。
上半身は小さくかわいらしく、長い黒髪を垂らした少女のものだ。しかし、下半身はそうではない。漆黒の外骨格に、八本の脚。それは紛れもなく蜘蛛の身体だった。
虫の身体なんて聞いたことがない。ハーピーでもマーメイドでもなく、モンブランが知るすべての種族に当てはまらない。
さらには背中に備わる翼が彼女を天使の力を宿した者であると示しており、モンブランは身構えた。
そして、身構えたまま逃げ出せなかった。
恐怖が体を、興味が理性を抑えつけて、少女の言葉に耳を傾けようと差し向ける
「あまり警戒しなくてもよろしくてよ。貴女とお話がしたかっただけだもの。
それに、ここはとてもいい温泉ね。私、気に入ってしまうかもしれないわ」
器用に八本の脚のうちひとつで桶を掴み、蜘蛛の体にお湯を浴びる少女。モンブランのことを、額にも一対ある四つの瞳でじっと見ている。このまま吸い込まれてしまいそうな眼だった。
「……なんなんですか。私のやるべきこと、って」
少女が何者なのかよりも、モンブランは答えを求めた。求めずにはいられなかった。
彼女は考える素振りもなく、まるでモンブランのことをすべて見透かしているかのように微笑む。
「兄も、蕾の王も、あなた自身も……人と獣の交わらない国を作ろうと考えたでしょう。
出会わなければ悲劇は生まれない。貴女のすべきことは、それなのだわ」
獣族が治める国は存在しない。かつてあったのだと神話の中に語られるのみだ。
けれど、きっとその頃は売られる人々も引き裂かれる家族もいなかった。それはまさにキリマが望んだ世界で、モンブランが思い描く世界だ。
「だったら、私は──」
言いかけたそのとき、目の前を光の弾が通り抜け、蜘蛛の少女を吹き飛ばした。彼女はバランスを崩して温泉に全身が浸かると、窒息しかけながらなんとか立ち直り、光弾を放った者を睨む。
「こほっ、かはっ……もう、レディになんてことするのかしら」
「大丈夫か、モンブラン!」
駆けつけたのは、男湯にいるはずの圭たち四人衆であった。腰にはしっかりとタオルを巻いてあるが、上は裸のままだ。隣のお風呂から、異変を察知してやってきたのだろう。
圭が黒い剣を出現させ、魔王覚醒者たちも詠唱のため構える。
「今度はアラクネ系でかつ天使の力持ちか……モンブラン、あの子はなに族なんだ?」
「わ、わかりません。十種族に蜘蛛の身体を持った者なんていないはずです」
「マジかよ……とにかく下がってて」
モンブランをかばい、蜘蛛の少女との間に立つ圭。彼だけでなく、フェリアスも、レイジも、ラッキーも、天使の翼を持つ相手を敵とみなし、臨戦態勢の最中だ。呆然と彼女を見つめているのは、モンブランだけである。
「あなた、何者ですか?」
稲妻の魔力を指先に集中させ、すぐさま光弾を放つことができるようにしたうえで、フェリアスは蜘蛛の少女に尋ねる。少女は彼を睨みつけたままそれに答えた。
「レディを突然攻撃しておいて、礼儀がなってなくってよ。でもいいわ、教えてあげる。
私は女神様に仕える第二の天使、『糸天使ラジエル』よ。覚えておきなさい。
あぁ、貴方たちは名乗らなくてもいいわよ。これから殺す相手の名を覚えておくなんて、レディの脳細胞の無駄だもの」
ラジエルと名乗った少女は、翼に刻まれた『02』を見せつけるように広げて得意げに笑った。そして、挑発の手招きをし、圭たちの攻撃を誘う。
望むところだと真っ先に飛び出していくのはレイジだ。彼は病み上がりながらも爪を立て、ラジエルへ飛びかかっていく。
するとラジエルは大きく飛び退いて、その瞬間に尾部から糸の塊をいくつも吐き出した。
フェリアスは電撃、ラッキーは水流、圭は闇の魔力にてそれぞれ糸の塊を打ち消すが、レイジは空中で絡め取られてしまう。
「くっ、なんだコレは……!?」
捕まったレイジはラジエルの獲物とされる。糸を手繰って引っ張り上げられた彼は、いくら抵抗しても拘束が解けないままラジエルのもとへと運ばれていく。
そこへ蛸の触手が割り込んで、ラッキーの魔法によって作られた水の鞭が振るわれる。ラジエルは指先からの糸でそれを防いでみせるが、ラッキーは蜘蛛の身体に触手を絡みつかせて拘束してやろうとする。
「させないよ、八本足!」
「貴方も八本足じゃない、奇遇ね。でも、そのぬるぬるはレディとしていただけないわ?」
ラジエルが指を鳴らすと、先程ラッキーの鞭を防いだ糸の盾が爆発を起こして彼を吹き飛ばす。絡みついてくる触手は一瞬でも離れた隙に糸が巻かれ、吸盤が無力化されたことによって振り払われていった。
邪魔者を振りほどいたことで、彼女は手繰り寄せたレイジを抱き上げた。
フェリアスと圭はラッキーを心配しつつもラジエルへの遠距離攻撃を繰り返すが、ことごとく防がれ、ついにラジエルはレイジの首に噛みついた。
「この、レイジから離れろッ!」
すぐさま圭が切りかかったことにより、ラジエルはレイジから牙を引き抜いた。振るわれる剣を糸一本で止めてしまいながら、近づいてきた圭のことをじろじろと見つめて、余裕のある笑みを見せる。
「あら? ……ふぅん、私ってば運がいいわ。だって貴方を捕まえたら、お仕事完了だもの」
そう言ってレイジを乱暴に投げ捨てると、今度は圭を糸でくるもうとするラジエル。
しかしフェリアスの放った電撃に糸を焼き焦がされ、ラッキーの鞭も彼女を狙い、さすがに分が悪いと判断したのか不満そうに圭からも離れていった。
「レディ相手によってたかって……仕方ないわね、ここは撤退だわ!」
ラジエルはあたりに糸の塊を撒き散らし、圭たちがその対処に追われている隙に姿を眩ませる。
この場はなんとか切り抜けたようだった。
「モンブラン、怪我はないか?」
心配して圭が駆け寄ってきてくれる。モンブランはなにもされていない、平気だと伝えると、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「無事でよかった。にしても、偶然とはいえまさか──」
がらり。
扉が開けられる音がして、その瞬間に圭は言葉を詰まらせた。そういえば、ここは露天風呂である。当然、騒動があったなんて知らない少女たちもここを訪れる。
「圭くん? なんでここにいるのかな……?」
この後、男子連中が女湯侵入の罪で縛り上げられたということは、言うまでもない。




