第37話 きつねみみの少女、兄と対峙する
後方でも交戦が始まっているころ、最前線ではモンブランがキリマと接触していた。
彼は荒れ狂う獣として現れ、自らが妹と呟いた相手を前にして敵意と牙を剥き出しにしている。唸り声が響き、彼と少女の周囲の空気を震わせている。
その様はとても正気を保っているものとは思えなかった。闘争本能に呑み込まれ、暴走している。
「あの、キリマさんですよね。私のこと、知ってるんですか?」
返事はない。モンブランの声は届いていない。すぐに襲いかかってこないだけ、わずかにモンブランのことを理解しているのだろうか。
しかし、記憶がなく彼の妹であることすらも定かでない少女が、理性を失い暴れ回ろうとする青年を説得して奇跡を起こすのは無理がある。
だとしたら、可能性があるのは一度撃破することだ。リーザとレイジとの戦闘で撃破された直後の彼は人の言葉を話せていた。
モンブランは仕方なく構え、戦いに向かう覚悟を決める。
彼に勝てないのは、先日の戦いでわかっている。しかし同時に、モンブランは自分のことを知りたかった。広い世界と自らの過去が見たいと飛び出してきたのだから、ただ生きているわけにはいかなかった。
モンブランの向ける闘志が宿った目に、キリマもついに戦闘態勢へと入る。力の込められた脚が大地を蹴りつけ、双方の爪が振るわれる。
攻撃の重さではキリマが圧倒的に上だ。ふたりの腕がぶつかりあった瞬間、モンブランの腕はあらぬ方向へと曲がり、骨が砕ける音が響く。
それを魔法で無理やり修復しながら、彼女は懐へ潜り込んだ。
幸いキリマの動きは圧倒的なスピードは持っていない。攻撃を叩き込むのならば難しくない。
だが、顎を殴りつけても相手は動じず、修復したての爪も駄目、渾身の頭突きでも効かなかった。攻撃したところ通じなければ意味が無い。
次の動きを考えている隙に、抱き締められて背骨が折れる。神経が直接傷ついて、一瞬にして下半身の感覚が失せていく。
たいていの人間はそこで動けなくなる。よって、モンブランはもはや邪魔ですらないと思われたのか、キリマは放り捨てた。
ありがたいことだった。モンブランは無理やり接合すれば動くことができる。レイジがそうしていたように、自らに回復魔法をかけ続ければいい。
脊髄が破壊され足が動くはずもないというのに、再び立ち上がったモンブラン。
全力で飛び上がり、首を傾げるキリマにかかと落としを決める。だがやはり単なる肉弾戦では威力がなさすぎる。相手の意識を揺らすことはできなかった。
足を掴んで振り回され、投げつけられた先で全身を強く打ちつけ、傷ついた内臓の悲鳴が口からの吐血となってあらわれる。
だがそれも修復し、モンブランはまたキリマに爪を立て牙を剥いた。
次のやり方がダメでも、また違う方法を試して失敗しても、彼女は傷を癒して縋りつく。
向かっていったところで結果は同じだが、どれだけ痛くとも立ち上がれば、彼を足止めすることはできる。方法はその間に考える。
辿るのは目の当たりにしたレイジの戦いだ。彼は魔王覚醒を用いることで、獣の魔王の『決して死なないための力』を引き出していた。
破壊されてもひとりでに治り、術者を地獄の果てまで戦わせる、まさに魔王の力だ。
魔王覚醒は接続によってその肉体に変革を与える。それは衣装の変化であり、体内の魔力体系の置換であり、そして身体が持つ武器の強化である。
あの刃となった爪がモンブランにもあれば。
「私にはこれしかできない……けど、私にはこの魔法がある」
モンブランの使う回復魔法は、傷を治すものだ。
この世界の魔法をかじったことのある者なら、相手の生命力を活性化させ、壊れた細胞を作り直して傷口を塞ぐ、という原理を聞いたことがあるだろう。
だとしたら、こうは使えないだろうか。本来自分にない細胞を作り、自らにつなぎあわせ、新たな自分の器官とする。
あるいは自らの身体を作り替え、新たな武器を与える。
少なくともモンブランは聞いたことがないやり方だ。人智を超えた魔王覚醒を、人間が魔法で真似できるはずはない。
でも、試してみなければわからない。
「あの暴走の力を貫く鋭さを……風穴を穿つ矛を」
ただ直感的にもとに戻すのではない。本来とはかけ離れた姿を自ら作るのだ。必要とされる集中力と魔力はいつもの何倍にも膨れ上がる。
だが、細く長く息を吐いているモンブランの尾では、小さな泡のような肉塊から始まった急激な肉体の生成が行われていた。
毛に覆われていたはずの尻尾は彼女の望む通りに鋭く、幾重にも折り重なった銀色の矛へと変わっていく。
そうして槍の塊となった尾を新たな武器として、モンブランはキリマへと向かっていった。薙ぎ払おうと繰り出される蹴りを飛び越えて、投げつけられた岩を尾で払い除け、接近は少女のほうが速い。
兄妹であるかもしれないふたりの、何度目かの戦闘が始まる。
今度は訳が違う。魔力を帯びた尾の刃は天使の力さえも貫き通し、彼の皮膚をも切り裂くことができるのだ。
仮に爪で受け止められても、彼女には更なる肉体改造の魔法があった。硬質の殻を作り拳に纏わせ、相手の腕に叩きつければ爪も砕けた。
今まで攻撃を避ける必要すらなかった相手が突如変化を習得し、キリマは対応が追いつかないままに圧倒され始める。
迎撃は打ち破られ、反撃は回復される。
キリマの傷は増えていき、モンブランは傷を刻まれてもすぐに消えてなくなる。
形勢はすでに逆転していた。
「ごめんなさい、少し手荒にいきますね」
モンブランは再び魔法を使う。魔力が少女の尾に集い、変化をもたらす。
刃に包まれた槍だった尻尾は、纏うものを電撃へと変えた。
迸る雷をそのまま巻き付けたようなその尾は雷鳴を轟かせており、少女の金色の毛皮と白い肌を照らしていた。
キリマは暴走の力に任せて彼女の攻撃を止めにかかるが、捕らえようとしてくる腕と牙をすり抜け、モンブランは雷の尾を叩きつける。雷撃は彼の胴へと突き刺さり、皮膚を焦がして轟音を響かせる。
「『雷華ノ化粧・千年燃眩』」
天使の力による肉体の強化は、すべてを貫くように生み出された雷を止められない。全身を駆け抜ける衝撃に動きが止まり、背中の羽根は散り、膝から崩れ落ちる。
彼が倒れると、モンブランは自らの肉体に施していた変化を解き、キリマの身体を支えた。
「……我が妹、か。まさか、天使の力を打ち破るとは」
「教えてください。私の家族はいまどこにいるんですか?」
「わからない。人の国の奴らに売られて離れ離れになっていったっきりだ。
それに……お前の本当の家族は、見たことも無い。お前は、倒れていたところを拾われただけだ」
彼は兄だったが、それはモンブランが人身売買を生業とする輩に連れ去られる直前だけの出来事だった。
それ以前のことは知らず、モンブランの故郷と呼ぶべき場所は分からずじまいだ。
それでも、きっと共に過ごしている間は、本当の家族のように感じていたんだろう。
モンブランは傷だらけの彼に治療を施し、傷口を塞いでいく。
「いいのか? いまのお前にとって、我々は敵だろう」
「いいんです。これはただの兄妹喧嘩みたいなものですから」
少女は微笑んだ。その様が、きっと共に過ごしていたころの思い出に重なったのだろう。キリマもまた微笑みをみせ、モンブランの顎にそっと大きな手をやった。
そして、回復魔法が行使されているにも関わらず、彼の肉体は崩壊を始める。天使の力に肉体が耐えきれなくなったのだ。
「……そうか、もう時間か。
我が妹よ、獣の王に伝えてくれ。ヒトの支配を受けない世界を、皆が望んでいると」
モンブランは頷いた。そしてそれから、伝えなければならないことがあったと思い出す。
「あの、キリマお兄さん。
私の名前は──モンブラン、です」
もはや声を出すことすらままならず、光の粒子へと溶けていくしかない瞬間であったが、少女の言葉に彼は安堵の表情を浮かべる。
少女の名は、彼が最後に聞いた誰かの言葉だった。




