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66 鏡の向こう側。境界のこちら側と、向こう側。

 鏡の向こう側。


 境界のこちら側と、向こう側。


 私らしく。自分らしく。


 しばらくして、萌は朝の薄明かりの差し込む自分の部屋の白くて大きなベットの中に、上半身だけ起こした。ちゅんちゅんと、窓の外では雀が二羽、鳴いていた。

 萌は今見ていた夢の内容を、漠然とだけど、……忘れることなく、ちゃんと覚えていた。(その証拠に、萌はずっと泣いていた)

 その夢の中で、あの人の姿が最近よく見る夢と同じように、新谷翔くんに変わってしまったことも覚えていたし、そして、そのあとで、その新谷翔くんの姿が、もう一度あの人の本当の姿に変わったことも、……ちゃんと覚えていた。

(それだけじゃなくて、萌はずっと忘れていた事件の当日のいろいろな出来事や、細かい記憶を、まるで封印が解けたかのように、いろいろと思い出すことができた)

 明るい日差しの差し込む窓をぼんやりと見ながら、ベットの上で萌は、そんな自分が忘れていた、いろいろな大切なことを考えてみる。


 あの場所は、本当にあった場所なのだろうか? それとも、ただの萌の空想した架空の世界にすぎないのだろうか?

 ……たぶん、それはきっと、ただの記憶の混雑であり、最近出会った新しい記憶である新谷翔くんの映像が、萌の昔からよく見る夢の中に映像処理の結果、新しいイメージとして紛れ込んだように、それはきっとただの萌の願望であり、萌の望んだ世界(つまり夢の世界のことだ)の映像であり、……出来事にすぎないのだと思った。

 あの場所はきっと、楽園ではない。あの人のいる天国ではないのだ。(あの場所にあの人はいない。あの人は、もっと、ずっと遠い場所にいる)

 ……でも、それでも、萌はなんだか、あの人にきちんとありがとうって言えたような気がして、あの人にきちんと、ずっと言いたかったさようならを言えたような気がして、……あの人にもう一度、本当に会えたような気がして……、すごく、すごく、本当に心が安らぐような、そんな『幸せな気持ち』になった。

(それは、本当に久しぶりに萌が実感する幸福という感情だった) 


 ありがとう。ありがとう。……ありがとう。……くん。

 本当に、本当に、……どうも、ありがとう。

 萌は思う。

 ……私は、あの夢のおかげで、救われました。あの夢のおかげで、あなたのおかげで、私はこれからも生きていけます。みんなと一緒に、みんなが知っている私として、みんなの中にいる今まで通りの私として、あなたの知っている早川萌として、これからも私の人生を生きていくことができます。

 ……それが嬉しい。それが本当に、本当に嬉しいんです。……私は本当に幸せ者です。……本当にどうもありがとう。……くん。

 萌はにっこりと朝の日差しの中で笑った。

 たくさんの涙のあとをぬぐいながら、萌はきらきらとした光の中で、笑うことができた。

 それから萌は、……私はもっともっと強くなろうと思った。 


 みんなが知っている、どんな人生の困難にも打ち勝つことができる、子供たちが憧れるスーパーヒーロー(正義の味方)のような、あるいは、ニーチェの言う超人のような(だけど、それは孤独な人間、あるいは新しい神様のことではない)そんな実際には、どこにも存在していないような透明な存在である、架空の物語の主人公のような、そんな人間になろうと思った。

 そんな人間に変身しようと思った。そんな私に生まれ変わろうと思った。(あの人の分まで、自分が幸せになろうと思った)


 それが、たとえどんなに大変なことでも、私がこれからも『この世界の中で、みんなと一緒に生きていくためには』、そうしなければならないのだと涙を拭った萌は、笑っている萌は、いつもの泣いてばかりいる自分とは違って、強く、強く、本当にそう思うことができた。

(それが今の自分ならできると思った。そう信じることができた。それがすごく嬉しかった)

 萌はにっこりと満足そうに笑うと、白くて大きな自分のベットから抜け出して、自分の大きな部屋を出て、一階にある大きな洗面台の前に向かった。

「頑張れ。私」

 数分後に、洗面台の大きな鏡の中にいる一人の弱々しい(きっと、この子は一人ではなにもできないのだ。ずっと一緒にいた、私自身が一番よく知っている通りに)十八歳の一人の少女に向かってそう言った。

 すると大きな鏡の中にいる一人の少女は、鏡の前にいる早川萌にふてぶてしい笑顔で、にっこりと笑いかけてくれたのだった。

 萌はそんな鏡の中にいる少女に負けないように、こちらもにっこりと満面の笑みで笑いかけてから、大きな鏡のある洗面台の前をとんとんと足音を立てて早足であとにした。


 これからも毎日を、こうしてきちんと笑って生きていくために。

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