第2話 私は聖女にはなりません
聖女選定の間へ続く大扉は、エレアーデの記憶に残っているものと何一つ変わっていなかった。
白い石材で造られた扉の表面には、王国で信仰されている女神と、その周囲へ集まる人々の姿が浅く彫り込まれている。扉の左右には神殿騎士が一人ずつ立ち、候補者以外が不用意に中へ入らないよう見張っていた。
「エレアーデ、行こ」
隣から声をかけられ、エレアーデは扉から視線を下ろした。
アルアリアがまだ手を握っている。
第一の人生でも、二人はこうして手をつないだまま、この扉の前まで来た。
当時のエレアーデは緊張していた。自分に聖女としての適性がなかったらどうしよう、アルアリアだけが選ばれたらどうしようと考えていたはずだ。
けれど今は違う。
扉の向こうで何が行われ、どのような結果が出るのかまで知っている。
そして何より、結果がどうであれ、聖女になるつもりはなかった。
「候補者二名、入室してください」
扉の前にいた神官が声をかけると、神殿騎士たちが左右から大扉を開いた。
アルアリアがわずかに握る力を強くする。
エレアーデはその手を振り払わず、一緒に選定の間へ足を踏み入れた。
高い天井を持つ円形の部屋だった。
壁沿いには女神や歴代聖女を描いた宗教画が並び、その中央には魔力適性を調べるための白い祭壇が設けられている。祭壇の上には透明な水晶板が置かれ、その周囲には術式を構成する細かな文字が幾重にも刻まれていた。
祭壇を囲むように高位神官が三人。
少し離れた机には、王宮から派遣された役人が二人座っている。その隣では若い神官が記録用紙を広げ、候補者の氏名や検査結果を書き込む準備をしていた。
エレアーデは部屋へ入ってから、ゆっくりと彼らを見渡した。
(……同じですね)
中央の祭壇も、その脇に立っている高位神官も、王宮から派遣された役人も覚えている。
第一の人生と同じだった。
もっとも、向こうは当然エレアーデを知らない。神官の一人が手元の名簿を確認すると、二人を祭壇の前へ並ばせた。
「それでは聖女候補選定に伴う魔力適性検査を始めます。緊張する必要はありません。祭壇へ手を触れ、こちらから指示があるまでそのままにしていてください」
「はい!」
アルアリアが元気よく返事をする。
エレアーデも小さく頷いた。
神官は二人の顔を順番に確認したあと、名簿へ視線を戻す。
「まず、アルアリア。こちらへ」
「はい!」
名前を呼ばれたアルアリアは、エレアーデの手を離した。
祭壇へ向かって二歩ほど進んだところで一度振り返り、少し緊張したように笑う。
エレアーデは何も言わずに頷いた。
それだけで安心したのか、アルアリアは祭壇の正面へ立ち、神官から指示されたとおり右手を水晶板へ置いた。
直後、水晶板の内側に淡い光が灯った。
最初はアルアリアの掌ほどの範囲だった光が、ゆっくりと外側へ広がっていく。祭壇へ刻まれていた術式文字にも次々と光が移り、やがて白を基調とした柔らかな光が祭壇全体を包んだ。
記録係の神官が慌てて筆を動かす。
「基礎魔力量、基準値以上。聖属性との親和性……高。治癒術式への適性は――」
途中で言葉が止まった。
高位神官の一人が身を乗り出す。
「これは……」
別の神官も祭壇へ近づき、表示された術式を確認した。
「かなり高い。近年の候補者の中でも上位でしょう」
「これほど明確に治癒系統へ偏るとは……」
神官たちが小声で確認し合う間、アルアリアは祭壇へ手を置いたまま、不安そうに彼らを見ていた。
「何か、悪かったですか?」
「いいえ。逆です」
最も年長の神官が、安心させるように表情を緩めた。
「非常に優秀な結果ですよ。これほどの治癒適性があれば、聖女候補として申し分ありません」
「本当ですか!?」
アルアリアの顔が一気に明るくなる。
祭壇から手を離す許可をもらうと、真っ先にエレアーデを振り返った。
「エレアーデ!」
自分が褒められたというのに、その表情には誇らしさより喜びの方が強かった。
次はエレアーデの番だ。
自分にこれだけの適性があったのだから、きっと幼馴染も選ばれる。
そう信じ切っている顔だった。
エレアーデも第一の人生で、同じ笑顔を見たことがある。
「少し待ちなさい」
祭壇を確認していた神官の一人が、アルアリアを呼び止めた。
アルアリアはエレアーデのところへ戻ろうとしていた足を止める。
「はい?」
「いえ……異常というわけではありません」
神官は祭壇に残った魔力反応を調べながら、わずかに首を傾げた。
「ただ、少し珍しい馴染み方をしていますね」
「馴染み方?」
アルアリアが聞き返す。
隣にいた高位神官も確認したが、やがて大きな問題ではないと判断したのか首を横に振った。
「聖属性への親和性が高い者には、通常とは異なる魔力反応が現れることがあります。現時点で問題視する必要はないでしょう」
「そうなんですね」
アルアリアはよく分かっていない様子ながらも、悪い結果ではないと分かるとすぐに笑顔へ戻った。
エレアーデも、そのやり取りを特別なものとは受け取らなかった。
第一の人生でも、アルアリアは高い治癒適性を持っていた。
後には《慈愛の聖女》として、自分より遥かに多くの人々から敬愛されることになる。
今さら、その力を疑う理由などなかった。
「次。エレアーデ」
「はい」
名前を呼ばれ、エレアーデは祭壇へ向かった。
アルアリアとすれ違う。
「大丈夫だよ」
アルアリアが小声で言いながら、エレアーデの腕へ軽く触れた。
「エレアーデなら絶対大丈夫だから」
「……ありがとうございます」
エレアーデは祭壇の正面へ立った。
第一の人生でも、ここへ立った。
当時は心臓の音が神官たちに聞こえるのではないかと思うほど緊張していたが、二度目となれば恐怖はない。
右手を水晶板へ置く。
ひんやりとした感触が掌へ伝わった直後、水晶板の内側から光が広がった。
アルアリアのときほど強くはない。
それでも祭壇へ刻まれた複数の術式文字が反応し、神官たちが検査結果を確認していく。
「基礎魔力量、基準値以上。聖属性への親和性あり。治癒適性も……十分高いですね」
記録係が結果を書き留める。
高位神官も満足そうに頷いた。
「アルアリアほど極端ではありませんが、こちらも聖女候補として十分な適性があります。これほどの候補者が同じ日に二人現れるとは珍しい」
別の神官が感心したように言う。
「やはり二人とも、正式な聖女候補として――」
エレアーデは、その言葉を聞きながら祭壇の光を見つめていた。
結果そのものに驚きはない。
第一の人生でも自分には高い治癒適性が認められ、それを理由にアルアリアとともに聖女へ選ばれた。
ただ、記憶の中にある結果と比べると、ほんのわずかな違和感が残った。
(……以前は、もう少し高かったような気がしますが)
正確な数値まで覚えているわけではない。
何年も前の検査結果だ。
処刑されるまでの間に数え切れないほどの術式検査を受けたため、別の記憶と混ざっている可能性もある。
エレアーデは深く追及せず、祭壇から手を離した。
「エレアーデ!」
検査が終わるのを待っていたアルアリアが、すぐに駆け寄ってくる。
両手を取られ、エレアーデの腕が勢いよく上下へ揺れた。
「やったね! やっぱりエレアーデもすごかった!」
アルアリアは自分の検査結果を聞いたとき以上に嬉しそうだった。
「私たち、本当に一緒に聖女になれるよ!」
第一の人生でも聞いた言葉だった。
あのときのエレアーデも、きっと同じように笑った。
一緒に聖女になれる。
一緒に神殿で学べる。
一緒に困っている人を救える。
それが嬉しかった。
エレアーデは、目の前で無邪気に笑っているアルアリアを見つめた。
一瞬だけ、別の顔が重なる。
処刑台の下。
王太子の隣で涙を流しながら、自分を見上げていた大人のアルアリア。
『昔のエレアーデは、こんな人じゃなかったよ』
それでも、エレアーデの胸に怒りは湧かなかった。
目の前のアルアリアはまだ何も知らない。
ただ、ずっと一緒だった幼馴染と、これからも同じ道を歩けることを喜んでいる。
だからこそ、言わなければならなかった。
「アルアリア」
「なに?」
笑顔のまま、アルアリアが首を傾げる。
エレアーデは握られている自分の手へ一度視線を落とし、それから幼馴染の目を見た。
「ごめんなさい」
アルアリアの笑顔が止まった。
「……え?」
ちょうどそのとき、高位神官が二人へ向き直った。
「では、両名には正式な聖女候補として今後の教育課程について説明を――」
「申し訳ありません」
エレアーデが言葉を重ねると、神官が話を止めた。
アルアリアも、まだエレアーデの手を握ったまま動かない。
「どうしました?」
神官に問われ、エレアーデは姿勢を正した。
「私は、聖女候補を辞退します」
それまで紙を擦る音や筆を走らせる音がしていた選定の間から、一斉に音が消えた。
記録係の神官は筆を紙へつけたまま止まり、王宮から来ていた役人の一人も顔を上げる。高位神官たちはすぐには意味を理解できなかったのか、互いの顔を見合わせた。
「……何と?」
「聖女候補を辞退します」
聞き間違いではないことを示すため、エレアーデはもう一度はっきり告げた。
隣から手を引かれる。
「エレアーデ?」
アルアリアの声には、まだ怒りすらなかった。
ただ、何を言われたのか理解できていない。
高位神官の一人が祭壇の検査結果へ目を向ける。
「待ちなさい。あなたには十分な治癒適性があります。聖女となれば神殿から専門的な教育を受け、王国のためにその力を役立てることができます。これは非常に名誉ある――」
「承知しています」
エレアーデは相手の説明を否定しなかった。
「神殿でどのような教育を受けるのかも、聖女がどのような役目を担うのかも理解しています。それでも辞退します」
「理由を尋ねても?」
別の神官が慎重に問いかける。
エレアーデは一瞬だけ答えに詰まった。
処刑されるから。
その答えを口にすることはできない。
これから戦争が起こり、自分は負傷者の治療順位を巡って批判され、最後には《冷血聖女》と呼ばれて処刑される。
そんなことを説明したところで、信じる者はいないだろう。
「……自分の適性について、改めて考えたいと思っています」
結局、そう答えるしかなかった。
神官は納得していない様子だったが、本人が拒絶している以上、その場で強制的に聖女へ任命するわけにもいかなかった。
「分かりました。ただし、これほどの適性を持つ者が辞退する例は非常に珍しい。後日、改めて意思確認を行う可能性があります」
「承知しました」
エレアーデが頭を下げる。
その隣で、アルアリアだけが何も言わずに立ち尽くしていた。
◇ ◇ ◇
「待って!」
選定の間を出て廊下を進み始めたところで、背後から足音が追ってきた。
エレアーデが振り返るより先に、袖を強く掴まれる。
「どうして!?」
アルアリアだった。
先ほどまで検査結果を喜んでいた笑顔は完全に消えている。眉を寄せ、エレアーデの袖を掴んだまま離そうとしない。
「聖女にはならないからです」
「それは聞いたよ!」
廊下を歩いていた神官が、思わず二人を振り返った。
普段のアルアリアからは珍しい大声だった。
けれど本人は周囲から見られていることにも気づいていない。
「だから、どうして聖女にならないの!?」
「アルアリア、声が――」
「だって!」
エレアーデが落ち着かせようとしても、アルアリアは袖を握った手にさらに力を込めた。
「ずっと一緒にやろうって言ってたじゃん!」
その言葉に、今度はエレアーデが黙った。
「聖女になれたら一緒に勉強しようって言ったよね? 一緒に人を助けようって話したよね? 私、今日だってずっと楽しみにしてたんだよ?」
「……はい」
「昨日だってそんな話してたじゃん!」
正論だった。
エレアーデにとっては、第一の人生が終わった直後だ。
けれどアルアリアにとっては違う。
昨日まで同じ未来を語っていた幼馴染が、一晩で突然その約束を取り消した。
アルアリアからすれば、何が起きたのか分からなくて当然だった。
エレアーデは、自分が第二の人生を始めたことで、アルアリアまで第一の人生の続きを生きているかのように考えかけていたことに気づいた。
目の前の少女には、何の記憶もない。
「何かあったの?」
怒っていたアルアリアの声が、今度は少し弱くなる。
「私に言えないこと?」
「ありません」
「じゃあ、なんで?」
袖を掴んでいた手が少し緩んだ。
アルアリアは怒っているというより、今は不安そうだった。
「私、何かした?」
「していません」
「だったら、どうして急に……」
エレアーデは答えを探した。
昨日までの自分なら、確かにアルアリアと一緒に聖女になるつもりだった。
それを変えた理由を、第一の人生について触れずに説明することは難しい。
「考えが変わっただけです」
「昨日から今日で?」
「……そうなります」
「そんなの変だよ」
アルアリアは即座に返した。
それも当然だった。
エレアーデはしばらく黙り込み、廊下の窓から差し込む光へ視線を逸らした。
何をするかは、まだ決めていない。
ただ、聖女として同じ人生を繰り返すつもりはない。
「私にも、ほかにできることがあると思ったのです」
ようやく言葉を選んで答えると、アルアリアは袖から手を離した。
「聖女より大事なこと?」
「大事かどうかではありません」
エレアーデは首を横に振る。
「人を助ける方法は、聖女になることだけではないと思ったのです。私は……違う場所から人を助けたい」
「違う場所って、どこ?」
すぐに聞き返された。
けれど、その問いに答えられるだけのものをエレアーデ自身がまだ持っていない。
「それを、これから考えます」
「まだ決めてないの?」
「はい」
アルアリアの顔に、今度は本気で理解できないという表情が浮かんだ。
進路すら決まっていないのに聖女候補を辞退したのだから、無理もない。
「……変なの」
アルアリアは小さく呟いた。
それからエレアーデの顔を何度か見たものの、もう答えが変わらないと悟ったのか、それ以上は追及しなかった。
◇ ◇ ◇
神殿を出たあと、エレアーデは一人で王都の大通りを歩いていた。
アルアリアとは途中で別れた。
普段なら二人で帰るところだったが、今日はアルアリアにも神殿側から今後の説明が残っている。正式に聖女候補となった以上、これから受ける教育や神殿での生活について家族を交えて話をする必要があるらしい。
第一の人生では、自分もあの場に残っていた。
神殿から渡された聖女候補用の資料をアルアリアと一緒に読み、どの授業が難しそうだとか、同じ部屋で勉強できるだろうかとか、そんな話をしながら帰った記憶がある。
今度は一人だった。
けれど、不思議と寂しいとは感じなかった。
それよりも、アルアリアから投げかけられた問いが頭から離れない。
『違う場所って、どこ?』
聖女にならない。
それだけは決めた。
では、自分は何をするのか。
エレアーデは歩きながら、第一の人生で自分が見てきたものを思い返した。
第三野戦治療所。
第五野戦治療所。
戦線が王都へ近づいたあとに設けられた臨時救護院。
場所が変わっても、見ていたものはほとんど同じだった。
泥と血に汚れた担架。
腕を失った兵士。
片脚を引きずりながら運び込まれた兵士。
目を覆った布を外すことができなくなった兵士。
仲間の肩を借りなければ歩けない者もいれば、治療所へ到着した時点ですでに呼びかけへ反応しない者もいた。
エレアーデは、彼らを治療した。
誰を先に診るかを決め、どの術式を使うか判断し、リキャストが終わるまで別の処置で時間を稼いだ。
それでも救えない者はいた。
(……私は、何も知らなかった)
エレアーデの足が少しだけ遅くなる。
第一の人生では、負傷兵が運ばれてくれば、その傷を見ることだけに集中していた。
だが、その傷がどこで生まれたのかを知らない。
なぜその部隊は壊滅したのか。
なぜ退却が遅れたのか。
敵がどこから現れたのか。
味方は敵の接近を事前に把握できなかったのか。
増援はなぜ間に合わなかったのか。
負傷者が五十人運ばれてきた日も、百人を超えた日もあった。
けれど治療所にいたエレアーデが知っていたのは、最終的に何人が運び込まれ、何人を救えて、何人を救えなかったのかという結果だけだった。
彼らが負傷するまでの過程は、ほとんど何も知らない。
治療所へ担架が到着したときには、戦場で起きた出来事はすでに終わっている。
(第一の人生では、怪我をした人をどう助けるかばかり考えていました)
それ自体が間違っていたとは思わない。
目の前に負傷者がいる以上、治療する者は必要だ。
ただ、今度はもう一歩前を見てみたい。
(なぜ、その人は怪我をしたのでしょう)
敵の攻撃を受けたから。
それだけでは答えにならない。
なぜ攻撃を受けたのか。
敵を発見できなかったのか。
地形が悪かったのか。
伝令が遅れたのか。
撤退命令が届かなかったのか。
補給が途絶えたのか。
敵魔術師の存在を把握できていなかったのか。
もし、その原因をもっと早い段階で知ることができたなら。
治療所へ運ばれてくる人数そのものを減らせるかもしれない。
そこまで考えたところで、エレアーデは自分の知識が治療所の中へ偏りすぎていることにも気づいた。
軍隊がどのように動くのか。
誰が敵を見つけるのか。
地形をどう判断するのか。
部隊同士がどうやって情報を伝えるのか。
第一の人生で聖女だったエレアーデには、詳しいことが分からない。
分からないのなら、学ぶしかない。
そう考えながら歩いていると、大通りの一角に人だかりができていることに気づいた。
掲示板だった。
王宮からの布告や商会の求人、職人の募集などが貼り出される公共掲示板で、何人かの若者が紙を覗き込んでいる。
その中に、王国軍の紋章が入った大きな募集告知があった。
エレアーデは足を止めた。
王国軍新規志願者募集。
募集されている職種が、その下へ並んでいる。
一般歩兵、騎兵、魔術兵、衛生兵、伝令兵、斥候兵。
最初に目が止まったのは、やはり衛生兵だった。
治癒適性がある。
第一の人生で何年も負傷者を診てきた経験もある。
聖女という立場を離れても、人を治療する道を選ぶのであれば、最も自然な選択だろう。
それに前線で直接戦う兵士と比べれば、少なくとも役割としては自分の経験に近い。
けれど、募集要項を読み進めようとしたエレアーデの視線が止まった。
(……それでは、同じですね)
衛生兵になれば、負傷者を治療する。
負傷したあとに運ばれてきた者を診る。
第一の人生と立場は違っても、自分が見るものは大きく変わらない。
エレアーデは少し下へ視線を移した。
そこに《斥候兵》という文字があった。
任務内容について簡単な説明が添えられている。
主力部隊に先行して行動し、敵情を確認すること。
周辺地形を調査し、安全な進軍経路や撤退経路を確認すること。
敵部隊の位置、規模、行動を観察し、得られた情報を味方へ持ち帰ること。
必要に応じて伝令や警戒任務にも従事すること。
エレアーデは、その文章を最初からもう一度読んだ。
(部隊より先に、戦場を見る……)
第一の人生で自分がいた場所とは、ほとんど反対だった。
戦闘が終わったあと、傷ついた者が運ばれてくる場所ではない。
戦闘が始まる前に、これから何が起こるのかを探す場所。
もちろん危険はある。
それどころか、敵の近くまで行かなければならない斥候は、聖女や衛生兵より遥かに危険な仕事かもしれない。
しかも、エレアーデには斥候として必要な知識が何もない。
地図の読み方も、野外で痕跡を見つける方法も、敵に発見されず移動する技術も知らない。
それでも、視線を外すことができなかった。
(知りたい)
第一の人生で、何度も疑問に思った。
どうして今日は、こんなに多くの負傷者が来るのだろう。
どうして昨日まで話していた兵士が、今日は担架で運ばれてくるのだろう。
どうして治癒術式が間に合わないほど、一度に人が傷つくのだろう。
治療所の中からは、その答えを見ることができなかった。
エレアーデは募集告知に記されている王国軍の志願窓口を確認すると、その場所を覚えて掲示板から離れた。
◇ ◇ ◇
翌日。
王国軍の募集窓口は、神殿とはまるで違う空気に包まれていた。
華美な装飾はなく、石造りの建物の中には長机と椅子が並べられている。壁には王国軍の組織図や募集要項が貼られ、志願者らしい若者たちが番号を呼ばれるのを待っていた。
エレアーデも受付で渡された書類へ必要事項を記入し、順番を待った。
「次、エレアーデ」
名前を呼ばれ、担当官の前へ座る。
四十代ほどの男だった。
担当官はエレアーデが提出した書類を上から順番に確認していたが、経歴欄の途中で目を止めた。
「エレアーデ……昨日、神殿の聖女選定を受けていますね」
「はい」
「結果は?」
「聖女候補として認定されました」
担当官が書類から顔を上げた。
「それで、なぜここに?」
「辞退しました」
「……辞退?」
聞き間違えたと思ったらしく、男が眉を寄せる。
「はい。聖女候補を辞退しました」
「治癒適性がなかったわけではなく?」
「適性はあるそうです」
「適性があって、認定されて、それを辞退した?」
「はい」
担当官はしばらくエレアーデを見たあと、もう一度書類へ視線を落とした。
理解することを一度諦めたらしい。
「……まあいい。志願そのものに問題がなければ、こちらとしては受け付けます」
男は書類の別の欄を確認する。
「治癒適性あり、聖属性への親和性あり……それなら衛生兵志望ですね?」
「いいえ」
担当官の筆が止まった。
「では魔術兵?」
「違います」
今度こそ男が完全に顔を上げる。
「……何を希望しているんです?」
エレアーデは昨日、掲示板で見た募集要項を思い出した。
まだ、自分が斥候に向いているとは思っていない。
むしろ向いていない可能性の方が高いだろう。
第一の人生で身につけたのは、負傷者を診て治療の優先順位を判断する技術ばかりだ。野外行動も、敵情偵察も、地図の読み方も知らない。
それでも、知らないからこそ学びたい。
負傷者が治療所へ運ばれてくる前に、何が起きているのかを。
「斥候兵を希望します」
担当官は何も答えなかった。
エレアーデは返事を待つ。
数秒ほど経ってから、担当官は手元の書類へ目を落とした。
聖女候補認定。
治癒適性あり。
聖属性への親和性あり。
そこからもう一度エレアーデ本人へ視線を戻す。
「…………斥候?」
「はい」
「あなたが?」
「はい」
「聖女候補ですよね?」
「辞退しましたので、現在は違います」
担当官はしばらく黙り込んだ。
それから小さく息を吐き、志望兵種の欄へ何かを書き込む。
「分かりました。斥候兵志望として受理します。ただし、希望したからといってそのまま配属されるわけではありません。基礎試験と適性検査があります」
「承知しています」
「体力も見ますよ」
「……努力します」
その答えに、担当官が初めて少しだけ眉を上げた。
「そこは『自信があります』ではないんですね」
「ありませんので」
正直に答えると、担当官は困ったような顔で額を押さえた。
「本当に、どうして斥候なんだ……」
小さく漏らした声は、エレアーデにも聞こえていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、神殿ではアルアリアが今後の聖女教育について説明を受けていた。
机の上には授業予定や神殿での生活規則を記した資料が何冊も積まれている。
本来なら、隣にはエレアーデもいるはずだった。
アルアリアは何度目か分からないほど隣の空席を見た。
神官から説明を受けても、どうしても集中できない。
やがて部屋へ別の神官が入ってきて、担当者へ何事か耳打ちした。
その中に幼馴染の名前が聞こえ、アルアリアはすぐに顔を上げた。
「エレアーデがどうかしたんですか?」
神官たちが顔を見合わせる。
「いえ……軍への志願手続きをされたとの連絡がありまして」
「軍?」
アルアリアは椅子から半分立ち上がった。
驚きはしたものの、すぐに一つの可能性へ思い至る。
「治療するため?」
聖女にはならなくても、人を助けたいと言っていた。
ならば軍の衛生部門で負傷者を治療するつもりなのかもしれない。
それなら、まだエレアーデらしい。
しかし神官は首を横に振った。
「衛生兵ではありません」
「じゃあ、魔術兵?」
「それも違います」
アルアリアは眉を寄せた。
「じゃあ……何?」
神官は手元の報告書を確認してから答えた。
「斥候兵を希望されたそうです」
アルアリアは何も言わなかった。
斥候。
敵より先に動き、危険な場所へ入り、敵情を調べて味方へ報告する兵士。
治療とは、どう考えても結びつかない。
昨日まで自分と一緒に聖女になると言っていた幼馴染が、聖女を辞退した。
人を助ける別の方法を探すと言った。
その翌日には軍へ行き、治療兵ですらなく斥候を希望している。
アルアリアは机の上に置かれた聖女教育の資料と、自分の隣にある空席を交互に見た。
しばらく考えても、答えは一つも浮かばなかった。
「…………なんで?」
その疑問に答えられる者は、神殿には誰もいなかった。




