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冷血聖女はリキャストタイムが見えているようです ~処刑されてやり直したので、今世は聖女を辞めて斥候になります~  作者: コーンバターの魔法隊


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第1話 冷血聖女は処刑される



王都中央広場へ続く石畳の大通りは、普段なら市場へ向かう荷車や買い物客、荷物を抱えて店と店の間を走り回る奉公人たちで混み合っている。道沿いには露店が軒を連ね、昼前ともなれば商人たちの呼び込みが途切れることもない。


 けれど今日、大通りの中央には荷車も露店もなく、通行人すら一人もいなかった。


 両手を身体の前で拘束されたエレアーデは、左右を王国兵に挟まれながら、その不自然なほど広く空けられた道を歩いていた。正面には王都中央広場があり、そのさらに奥には、今日のために組み上げられた木製の処刑台が見えている。


 大通りの両側には腰ほどの高さの柵が設けられ、その向こう側を王都の住民たちが埋め尽くしていた。商人や職人だけではない。幼い子供を抱き上げている母親もいれば、仕事着のまま駆けつけたらしい男たちもいる。広場を囲む建物では二階や三階の窓という窓が開け放たれ、そこから身を乗り出して処刑台を見ようとしている者までいた。


「冷血聖女!」


 群衆の中から男の怒声が飛んできた。


 それをきっかけに、それまでざわめいていただけの人々から次々と声が上がる。


「治せたのに見殺しにした女だ!」


「アルアリア様とは大違いだ!」


「聖女の名を汚した人殺し!」


 罵声が左右から重なっても、エレアーデは歩調を変えなかった。反論することも、声を上げた者を睨み返すこともない。かといって俯いて耐えているわけでもなく、背筋を伸ばしたまま、まっすぐ処刑台へ視線を向けている。


 処刑台までは、およそ四十歩。


 大通りを区切っている左右の柵までは三歩ほどあり、護送の兵士は自分の左右に一人ずつ、その数歩後ろをさらに二人がついている。処刑台の周囲には六人。群衆が興奮して柵を越える事態に備えているのだろう。広場の外周にも武装した兵士が一定の間隔を空けて配置され、群衆だけでなく周辺の路地にも注意を向けていた。


 逃げるつもりなどない。それどころか、拘束された状態でこの人数を相手に逃走できるとも思っていない。それなのに、エレアーデの目は自然と兵士の人数や立ち位置、柵までの距離を拾ってしまう。


 昔から、こんなものばかり見ていたわけではなかったはずだ。


 少なくとも記憶に残っている幼い自分は、王都の大通りへ連れてこられれば兵士の配置など気にも留めず、露店に並んだ菓子や色鮮やかな髪飾りへ目を奪われていた。人混みを歩くときだって、誰がどこに立っているかより、隣を歩くアルアリアとはぐれないよう手を握ることの方が大切だった。


 いつからだろう。初めて訪れた場所では出入口を確認し、人を見れば人数を数え、何かが起きれば位置と距離を測ることが当たり前になったのは。


「人殺し!」


 今度の声は、すぐ左側から飛んできた。


 エレアーデは足を止めないまま、声のした方向へわずかに顔を向けた。


 柵の最前列に、五十代ほどの女性がいた。目元を赤く腫らしながらも涙は見せず、両手で柵を握り締めてエレアーデを睨みつけている。その隣には二十代ほどの若い女性が立っており、こちらは口元を手で覆いながら泣いていた。


 見覚えがあった。


(……あの方々でしたか)


 第三野戦治療所へ運び込まれた兵士の家族だ。


 負傷兵への面会が許可された日に、一度だけ顔を合わせたことがある。母親と妻だったはずだ。兵士本人の名前も、負傷箇所も、運び込まれたときの状態もエレアーデは覚えている。


 けれど、それを口にしたところで何になるのだろう。


 彼女たちにとって重要なのは、冷血聖女と呼ばれる女が息子や夫の名前を覚えていることではない。家族が戦場から帰ってこなかったという結果だけが、これからも残り続ける。


 エレアーデは二人から視線を外し、再び前を向いた。


 処刑台へ続く五段の階段は、もう目の前だった。


 護送兵の一人が先に階段を上がり、もう一人がエレアーデの上腕を支える。両手を拘束されているため、足を滑らせれば受け身を取れない。死刑囚とはいえ、刑の執行前に階段から転落して怪我をさせるわけにはいかないらしい。


 兵士に支えられて五段の階段を上がりきると、それまで群衆に遮られていた広場全体が見渡せた。処刑台へ姿を現したエレアーデを見ようと、人々が一斉に首を伸ばしたことで、押し殺されていたざわめきが再び大きくなる。


 その正面だけは一般の民衆から柵で区切られ、王族や高位神官のための席が設けられていた。


 そして、そこにアルアリアがいた。


 かつてエレアーデと同じ日に聖女となり、同じ神殿で学び、同じ戦争で負傷者を治療してきた幼馴染。今では《慈愛の聖女》と呼ばれ、身分を問わず傷ついた者へ手を差し伸べる女性として王国中から敬愛されている。


 その隣には、婚約者である王太子が立っていた。


 アルアリアは泣いていた。


 エレアーデと目が合った途端、胸元で組んでいた両手に強く力が入り、握り合った指先が白くなる。一歩だけ身体を前へ出し、今にも区画を飛び出してこちらへ駆け寄りそうになったが、王太子がすぐに肩へ手を添えると、それ以上進むことなくその場に留まった。


「アルアリア様……」


 群衆の中から、先ほどまでの罵声とはまるで違う声が聞こえた。


「お優しい方だ。あんな女のために、まだ泣いていらっしゃる」


「最後まで幼馴染を見捨てられないのね……」


 アルアリアを気遣う声が広がっていく。


 処刑される自分へ向けられた罵声にも、幼馴染へ向けられた同情にも、エレアーデは何も答えなかった。


 やがて処刑台の端へ一人の役人が進み出る。手にしていた巻物を広げると、一度だけ広場を見渡してから、数百人の群衆にも届くよう腹から声を張った。


「元聖女エレアーデ。王国戦時治療規定への重大な違反、聖女としての治療義務放棄、および故意に治癒を行わなかったことによる複数名の死亡――」


 罪状が一つずつ読み上げられていく。


 エレアーデは静かに目を伏せた。


 並べられている内容のすべてが、誰かによって作られた嘘というわけではない。


 自分は、治療できる負傷者を治療しなかったことがある。


 それは紛れもない事実だった。


 裁判で何度も取り上げられた第三野戦治療所での一件についても、今さら否定するつもりはない。あの日、誰を診て、誰を待たせ、誰に術式を使ったのか。何年経とうと忘れられるものではなかった。


 役人の読み上げる声を聞きながら、エレアーデの意識は、血と薬品の臭いが染みついたあの日の治療所へ戻っていった。


     ◇ ◇ ◇


 第三野戦治療所として使用されていた建物は、本来なら軍需物資を保管するための倉庫だった。


 前線の後退に伴って急遽治療施設へ転用されたため、内部には病院らしい設備などほとんどない。物資を積み上げるために作られた広い床へ簡素な寝台を可能な限り並べ、それでも場所が足りなくなると、壁際や通路脇へ毛布を敷いて負傷兵を寝かせていた。


 軍医や衛生兵たちは狭くなった通路を休む間もなく行き来している。誰かが寝台から呻けば近くの衛生兵が振り向き、その横を新しい担架が通り抜ける。入口が開くたびに外の冷たい空気と泥の臭いが入り込み、それさえ血や消毒薬、汗、湿った包帯の臭いにすぐ飲み込まれた。


「次の負傷者を!」


 軍医の声が響くと、入口近くで待機していた二人の衛生兵が一人の兵士を連れてきた。


 兵士は自分で歩けていたものの、左腕を右手で強く押さえている。軍服の袖は肘の近くから裂け、布地の下から流れた血が指先を伝って床へ落ちていた。


「聖女様、お願いします!」


 衛生兵に呼ばれたエレアーデは、直前まで診ていた負傷兵から離れ、男の前へ移動した。


 傷だけを見て判断はしない。まず顔を確認し、名前を呼んで返事ができることを確かめる。意識は明瞭で受け答えにも異常はなく、呼吸が乱れているのも痛みと緊張による範囲だった。ここまで自力で歩いてきたことを衛生兵へ確認したあと、押さえられていた腕を慎重に見れば、出血量こそ多く見えるものの、今すぐ生命を脅かすような動脈性出血ではない。


 その診察をしている間にも、エレアーデの視界には治療所の誰にも見えない文字が浮かんでいた。


《止血》 使用可能

《小治癒》 再使用まで 02:18

《大治癒》 再使用まで 18:42


 数字は、彼女が負傷兵を診察している間にも一秒ずつ減っている。


 エレアーデは傷口から視線を上げ、隣で指示を待っている衛生兵へ顔を向けた。


「まず圧迫止血を続けてください。出血が落ち着いたら傷口を洗浄して、清潔な布で保護を」


「え?」


 衛生兵は治療道具を取りに動きかけたところで足を止めた。エレアーデが両手を負傷兵へ向ける様子がないことに気づき、戸惑ったように彼女の顔を見る。


「治癒術式は使用しません。通常処置へ回してください」


 今度は負傷兵自身も目を見開いた。自分の腕を確認したあと、エレアーデの両手へ視線を落とす。


「聖女様、もしかして……もう魔力がないんですか?」


「いいえ。魔力は残っています」


「だったら、治してもらえるんですよね?」


 男の声には安堵が混じったが、エレアーデは首を横に振った。


「この傷であれば、適切に止血して処置すれば生命に危険はありません。治癒術式を使わなくても対応できます」


「でも、痛くて……」


「痛みがあることは分かっています。鎮痛処置については軍医に確認してください。治癒術式は別の負傷者のために残します」


 負傷兵は納得できない様子だったが、エレアーデはそれ以上立ち止まらなかった。治療所の入口ではすでに次の兵士が待っており、一人へ説明している間にも別の患者が増えていく。


 次に連れてこられた兵士は、左右から衛生兵に肩を貸され、右脚をほとんど地面につけられない状態だった。


 寝台へ座らせると、軍医が軍靴を慎重に外して患部を確認する。右の下腿部は腫れ始めており、触診された兵士が歯を食いしばった。


「骨折だと思われます。聖女様、治癒をお願いします」


 軍医からそう告げられ、エレアーデも負傷兵の前へ膝をついた。皮膚を突き破って骨が露出している様子はなく、末端の色や温度にも大きな異常はない。軍医と確認を取りながら、今すぐ治癒術式を使わなければ生命が失われる状態ではないと判断する。


「副木で固定してください。移動時には患部へ体重をかけさせないように」


 立ち上がりながら指示すると、軍医が眉を寄せた。


「聖女様、治癒は?」


「こちらも後回しにします」


 その言葉が聞こえた瞬間、それまで呻き声や足音、器具の音で騒がしかった周囲の空気がわずかに変わった。


 近くの寝台で治療を待っていた兵士たちが、こちらを見ている。先ほど腕を負傷した兵士も、衛生兵から圧迫止血を受けながらエレアーデを見つめていた。


「後回しって……いつまで待たせるんだ?」


 少し離れた場所から誰かが呟いた。


「魔力は残ってるんだろ?」


 別の兵士も声を上げる。


「聖女様!」


 骨折した兵士をここまで運んできた仲間が、我慢できなくなったように一歩前へ出た。


「こいつを治してやってください。歩けないんですよ。部隊だって人が足りない。明日には前線へ戻らなきゃならないんです!」


 エレアーデは立ったまま男を見返した。男の声が大きくなったことで、周囲の衛生兵たちも作業をしながら二人の様子を窺っている。


「だからこそ、今は動かさないでください。固定したあと、安静にさせます」


「だったら治してくださいよ! 治せるんでしょう!」


 男はエレアーデの両手へ目を向けた。


 魔力切れなら納得できたのだろう。


 けれど、先ほどエレアーデ自身が魔力は残っていると言った。それなのに聖女が治癒を使おうとしない理由が、彼には分からない。


「使うことはできます」


 エレアーデは否定しなかった。


「ですが、今この方には使いません」


 その返答で、男の表情に浮かんでいた困惑が怒りへ変わった。


 以前のエレアーデなら、ここでまた説明していたかもしれない。


 実際、何度も説明しようとしたことはあった。


 自分には、術式を一度使用してから次に同じ術式を使えるようになるまでの残り時間が見えている。《大治癒》を一度使えば、次に使えるようになるまで長い時間が必要になる。魔力そのものが十分に残っていても術式は発動せず、魔力瓶で消費した魔力を補充しても、その待ち時間だけは短縮できない。


 最初にそのことを軍医へ説明したとき、返された質問を今でも覚えている。


『その数字を、我々にも確認できるのですか?』


 確認できない。


 エレアーデにしか見えないからだ。


 神殿で術式検査を受けても原因は分からず、他の聖女たちへ尋ねても同じ表示を見た者はいなかった。術式を使用してから再使用できるまで何となく間隔があると感じる者はいても、エレアーデのように残り時間が数字として見える者はいない。


 証明する方法のない数字を根拠にして、聖女が独断で負傷者の治療順位を決めている。


 周囲には、そうとしか見えなかった。


 それでも最初の頃は理解してもらおうと説明を続けた。だが戦場で何度同じ問答を繰り返しても、他人には見えないという一点で話は止まってしまう。


 だからエレアーデも、次第に説明しなくなった。


 誰を先に治療するべきかを正しく判断し、生き残る兵士を増やしていけば、いずれ結果から理解される。


 その頃のエレアーデは、本気でそう考えていた。


「重傷者! 道を空けろ!」


 治療所の入口から鋭い怒鳴り声が響き、エレアーデを問い詰めていた兵士も反射的に振り返った。


 衛生兵たちが人を退かせながら、一台の担架を運び込んでくる。


 乗せられていたのは若い兵士だった。腹部へ押し当てられた布はすでに大量の血を吸い、担架の布地にまで赤黒い染みが広がっている。顔からは血の気が失われ、衛生兵が名前を呼んでも瞼がわずかに動くだけだった。


 近くにいた軍医がすぐに駆け寄り、腹部の状態を確認する。


「腹部損傷! 意識低下、脈も弱い。このままでは持たない!」


 その言葉を最後まで聞くより早く、エレアーデは骨折した兵士の前から離れていた。


「こちらへ。寝台を空けてください」


 先ほどまで治療を拒否していたときとは明らかに違う迷いのない声に、衛生兵たちが反射的に動く。使用中だった器具を端へ寄せ、空いた寝台へ担架を横付けすると、複数人で重傷者の身体を移した。


 エレアーデは寝台の横へ立ち、兵士の腹部へ両手をかざす。


 視界に浮かんでいた表示は、すでに切り替わっていた。


《大治癒》 使用可能


 迷う必要はなかった。


 両手の間に淡い光が生まれ、術式が展開されるにつれて光の範囲が兵士の腹部から全身へ広がっていく。先ほどまで治癒を求められても断り続けていた聖女が、今度は誰に尋ねることもなく大規模な治癒術式を使用した。


 血で濡れていた腹部の傷が閉じていく。


 浅く不規則だった呼吸が、少しずつ深くなる。


 軍医が脈を取り直し、張り詰めていた表情をようやく緩めた。


「……これなら助かる」


 その言葉を聞いても、エレアーデは安堵するより先に視界へ浮かんだ数字を確認した。


《大治癒》 再使用まで 19:59


 数秒前まで《使用可能》だった表示が切り替わり、残り時間が一秒ずつ減り始めている。十九分五十九秒が十九分五十八秒になり、さらに十九分五十七秒へ変わっていく。


 もし次の瀕死者がこの十九分の間に運び込まれたとしても、《大治癒》は使えない。


 だから、腕の裂傷には使わなかった。


 骨折にも使わなかった。


 二人とも痛みはある。治療を受けたいのも当然だ。けれど適切な処置をすれば待つことができる。


 今、寝台に横たわっている兵士には、その時間がなかった。


 エレアーデにとって違いはそれだけだった。


 けれど治療所にいる者たちは、エレアーデと同じ数字を見ることができない。


 彼らの目に映ったのは、腕から血を流している兵士を治さず、骨折して歩けない兵士まで後回しにしたあと、三人目として運び込まれた男だけには迷わず奇跡を使った聖女の姿だった。


     ◇ ◇ ◇


「――以上の行為について、被告エレアーデ本人も、治療可能な状態でありながら意図的に治癒術式を使用しなかった事実を認めている」


 役人の声が耳へ届き、エレアーデの意識は血の臭いが充満していた治療所から、王都中央広場の処刑台へ引き戻された。


 目を上げれば、あの日の治療所とは比較にならない数の人間が自分を見ている。


 役人は手元の巻物から顔を上げると、エレアーデへ身体を向けた。


「裁判において問われた際、そなたは『治療可能でありながら、意図的に治療を行わなかったことがある』と認めた。相違ないな?」


「相違ありません」


 エレアーデが静かに答えると、それまで役人の読み上げを聞いていた群衆が一斉にざわめいた。


「自分で認めたぞ」


「やっぱり人でなしじゃないか」


「アルアリア様なら絶対にそんなことはしない」


 怒声が再び広がっていく。


 それでもエレアーデには、否定する理由がなかった。


 あの腕の傷に治癒術式を使わなかったのも、骨折した兵士を後回しにしたのも事実だ。その後も同じような判断を何度となく繰り返し、通常処置で待てる者には待ってもらい、今すぐ術式を使わなければ命を失う者を優先した。


 その判断で助かった者はいる。


 それでも間に合わなかった者もいる。


 どれほど考えて術式を割り振っても、すべての負傷者を救うことなどできなかった。


 だからこそ、限られた治癒術式を誰に、いつ使うのかを決める必要があった。その判断そのものが間違っていたとは、処刑台へ立たされた今でも思っていない。


 ただ、自分にも間違いがあったとすれば別のところだ。


(結果さえ出せば、いずれ理解される。そう思っていたことでしょうか)


 他人には見えない数字を自分だけが知っている。


 ならば自分が正しく判断すればいい。


 そう考えてしまった。


 けれど、自分しか知らない情報を誰にも共有できなければ、集団の中では存在しない情報とほとんど変わらない。自分が何を根拠に患者を選んでいるのか分からなければ、周囲から見てそれが合理的な判断なのか、気まぐれな選別なのかを区別する方法もなかった。


 そのことに気づいた頃には、もう遅かった。


「エレアーデ……」


 罵声の間から、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。


 役人の声ではない。


 エレアーデが顔を上げると、王族席にいたアルアリアが二、三歩ほど前へ出ていた。王太子も咄嗟に片手を伸ばしたが、今度は彼女の肩へ触れる直前で止めている。


 アルアリアの頬には、何度拭っても消えなかったのだろう、涙の跡が何本も残っていた。目元も赤く腫れ、普段なら人前では整えている表情を取り繕う余裕すらない。


「どうして……」


 掠れた声だった。


 けれど広場を埋めていた群衆は《慈愛の聖女》が話し始めたことに気づき、先ほどまでの罵声を少しずつ止めていく。広場が静かになるにつれ、アルアリアの小さな声も処刑台まで届くようになった。


 アルアリアは胸元で両手を握り締めたまま、エレアーデから目を逸らさなかった。


「昔のエレアーデは、こんな人じゃなかったよ」


 エレアーデは返事をしなかった。


 アルアリアはそれでも言葉を続ける。


「覚えてる? 私が木から落ちたとき」


「……覚えています」


 あまりにも昔の出来事なのに、その光景は不思議なほど鮮明に残っていた。


 二人とも、まだ聖女という言葉を自分たちの将来と結びつけてもいなかった頃だ。


 庭にあった木へ二人で登り、アルアリアが足を滑らせた。落ちた高さは大したものではなかったものの、膝を地面で擦りむき、皮膚の上へ血が滲んだ。それを見た幼いアルアリアは怪我そのものより血に驚き、声を上げて泣き出した。


「エレアーデ、私より泣きそうな顔してた」


 アルアリアは涙を指で拭いながら、ほんの一瞬だけ昔を懐かしむような笑みを浮かべた。


「私が『痛い』って言ったら、エレアーデまで顔をぐしゃぐしゃにしてた。どうしよう、どうしようって言いながら、覚えたばっかりの治癒を使ってくれたよね」


 エレアーデの脳裏にも、そのときの光景が蘇る。


 泣き続けるアルアリアの膝へ両手をかざし、何度も傷が消えたか確認した。それでもアルアリアが泣き止まないものだから、どうすればいいのか分からなくなり、最後には隣へ座って手を握った。


「傷が治ったあとも私が泣いてたから、ずっと手を握ってくれてた。『もう痛くないよ、大丈夫だよ』って何回も言ってくれた」


 アルアリアは一度言葉を切った。


 視線を隣へ向ける。


「私ね、殿下にもその話をしたことがあるの」


 王太子はアルアリアと目が合うと、話を覚えていることを示すように静かに頷いた。


 以前、その思い出を聞かされたときのアルアリアは、今のように泣いてはいなかったのだろう。自慢の幼馴染について語る少女の話として、王太子も微笑ましく聞いたはずだ。


「エレアーデは、本当はすっごく優しい子なんだって。私の自慢の幼馴染なんだって、殿下にもずっと話してたのに……」


 最後まで言い切れず、アルアリアの声が震えた。


 王太子が今度こそ彼女の肩へ手を置く。アルアリアはその手を振り払わず、支えを求めるようにほんの少しだけ身体を王太子の側へ寄せた。


「なのに……あんなに優しかったのに、どうしてこんなふうになっちゃったの……?」


 堪えきれなくなった涙が、アルアリアの頬を伝った。


 広場のあちこちから、彼女につられたようにすすり泣く声が聞こえてくる。


 群衆から見れば、冷血な罪人になってしまった幼馴染を、それでも最後まで見捨てられない慈愛の聖女なのだろう。王太子から見ても、おそらく同じだ。幼い頃からの友人を信じ続け、昔の優しさを誰よりも覚えていたのに、最後にはその友人から裏切られてしまった心優しい娘。


 実際、アルアリアは優しかった。


 少なくとも、エレアーデが知っているアルアリアはそうだった。


 誰かが泣いていれば自分まで悲しそうな顔をし、怪我をした者がいれば放っておけない。戦時中の治療所でも、目の前に苦しんでいる負傷兵がいれば、アルアリアは迷うより先に治癒術式を使っていた。


(アルアリアには、見えていなかった)


 エレアーデの視界にだけ浮かぶ数字。


 術式を使った瞬間から始まり、次に同じ術式を使用できるようになるまで減り続ける残り時間。


 アルアリアはそれを知らなかった。


 アルアリアだけではない。他の聖女も、軍医も、神官も知らない。だから目の前に治せる人間がいるのなら、魔力がある限り治療するべきだと考えるのも当然だった。


 エレアーデは、そのことでアルアリアを恨む気にはなれなかった。


 ただ、幼馴染の言葉を聞いているうちに、胸の奥へ別の疑問が浮かんでくる。


(確かに――昔の私は、もっと簡単に泣いていましたね)


 アルアリアが転んだだけで、自分の膝まで痛くなったような気がした。


 知らない子供が泣いていれば、事情も分からないのに胸が苦しくなった。


 怪我人を見つければ、傷の程度を確認するより先に駆け寄り、大丈夫かと何度も尋ねていた。


 それなのに、いつから変わったのだろう。


 負傷者を見た瞬間、その痛みを想像するより先に出血量を確認するようになったのは。顔色を見て意識状態を確かめ、呼吸の乱れを観察し、自力で歩けるかどうかを判断して、誰を先に治療するべきか考えることが当たり前になったのは。


(……戦場を経験したからでしょう)


 エレアーデは、長く考えることなくそう結論づけた。


 それ以外の理由など思いつかない。


 戦場では、一人の負傷者のために一緒になって泣いている時間はなかった。十人の負傷者がいれば十人全員を診なければならず、十人全員を同時に治せないのなら、誰を先に治すか決めなければならない。


 助けたいと思うだけでは人は助からない。


 何をすれば助かるのかを考えなければならない。


 それを何年も繰り返した結果、自分はこうなったのだ。


 エレアーデは、そう信じていた。


「時間だ」


 背後から低い声が聞こえた。


 刑の執行を担当する兵士が、役人から合図を受けていた。


 アルアリアの肩が大きく震え、王太子の手を振り切ることこそしなかったものの、再び処刑台へ向かって一歩踏み出そうとする。


「待って……お願い、待って!」


「アルアリア」


 王太子が今度は彼女の両肩を支えた。


「でも、エレアーデが……このままじゃ、エレアーデが……!」


 王太子は口を開きかけ、それでも何も言えずに閉じた。


 裁判はすでに終わっている。


 刑も正式な手続きを経て確定し、今日ここで執行される。アルアリアが王国の聖女であり、王太子の婚約者であったとしても、泣いて頼めばこの場で覆せるものではなかった。


 エレアーデは二人から視線を外し、静かに目を閉じた。


 自分でも意外なほど、恐怖はなかった。


 死ぬという実感そのものがまだ追いついていないのか。それとも、恐怖に身を任せるための感情まで、長い戦争の中でどこかへ置いてきてしまったのかもしれない。


 目を閉じれば当然、処刑台も群衆も見えなくなる。


 それでも、いつもの表示だけは暗くなった視界の中に残っていた。


 前日、拘置所で指先を小さく傷つけた際、止血のために使用した治癒術式。その再使用までの時間が、こんな場所でも変わらず減り続けている。


《小治癒》 再使用まで 00:03


(こんなときまで、見えるのですね)


 ほんの少しだけ可笑しく思った。


 自分があと数秒で死ぬというときに、自分より律儀に時を刻み続けている。


 表示が《00:02》へ変わった頃、アルアリアが何かを叫ぶ声が聞こえた。続いて《00:01》になり、兵士が背後で動く気配がする。


「エレアーデ……!」


 最後にはっきり聞き取れたのは、幼馴染が自分の名前を呼ぶ声だった。


 そして数字がゼロになる。


《小治癒》 使用可能


 表示が切り替わった、その瞬間。


 エレアーデの意識は途切れた。


     ◇ ◇ ◇


「エレアーデ?」


 肩に何かが触れている。


「エレアーデってば。ねえ、どうしたの?」


 身体を何度か揺さぶられ、エレアーデは沈んでいた意識を引き上げられた。


 聞き覚えのある声だった。


 けれど、何かがおかしい。


 つい先ほど処刑台の下から自分を呼んでいた声より、ずっと高い。それに、泣き続けて掠れていたはずの声が、今は驚くほど明るく幼かった。


 エレアーデは重い瞼をゆっくり開いた。


 最初に目へ入ったのは処刑台でも、自分を見上げる群衆でもない。


 目の前に、一人の少女がいた。


 長椅子へ座っているエレアーデの前に少し屈み、心配そうに顔を覗き込んでいる。


 エレアーデは何度か瞬きをした。それでも少女の姿は消えない。


「……アルアリア?」


「そうだよ? どうしたの、エレアーデ?」


 少女は自分の名前を確認されるとは思っていなかったらしく、きょとんとした顔で首を傾げた。


 幼い。


 あまりにも幼い。


 処刑場で涙を流していた《慈愛の聖女》ではない。王太子の婚約者として隣に立っていた女性でもない。


 エレアーデの記憶の中にしか、もう存在しないはずだった少女時代のアルアリアが、手を伸ばせば触れられる距離にいる。


「さっきからぼーっとしてるよ。緊張してるの?」


 アルアリアは眉を下げると、エレアーデの額へ手を伸ばした。小さな掌をぴたりと当て、次に自分の額へも触れて温度を比べている。


「熱は……ないと思う。気持ち悪い? 神官様、呼んでこようか?」


「いえ……大丈夫です」


 反射的に答えながらも、エレアーデは自分の額に残った手の温度を意識していた。


 夢とは思えない。


 エレアーデは恐る恐る視線を落とし、自分の両手を確認した。


 小さい。


 処刑台へ上がるまで嵌められていた拘束具はどこにもなく、手首に縄の痕もない。長年にわたって治癒術式を使い続け、戦場と治療所を行き来してきた大人の手ではなく、まだ成長途中だった頃の細い指が目の前にある。


 首元へ触れてみても、当然ながら傷などない。


 そこでようやくエレアーデは周囲を確認した。


 白い石材で造られた壁。壁際にいくつも並べられた木製の長椅子。高い位置にある細長い窓から午前の光が差し込み、磨かれた床の上へ明るい帯を作っている。廊下では白い法衣を着た神官たちが書類を抱えて行き来し、奥の扉が開くたびに候補者らしい少女と家族が呼び込まれていた。


 知っている。


 この場所を、エレアーデは知っている。


 忘れられるはずがなかった。


「本当に大丈夫?」


 アルアリアが再び顔を近づけてくる。


 その瞬間、エレアーデの視界の端に見慣れた文字が浮かんだ。


《小治癒》 使用可能


 思わず息を呑んだ。


 目を閉じてみる。


 もう一度開く。


 表示は同じ場所に残っている。


 処刑される直前まで自分の視界に浮かんでいたもの。いつから見えるようになったのかさえ、今となってははっきりしない数字だけが、この不可解な状況でも変わらず存在している。


「今日だよ!」


 エレアーデが答えないことを緊張のせいだと思ったらしく、アルアリアは空気を変えようとするように両手を合わせた。先ほどまで心配そうだった顔が、一転して期待に満ちた笑顔になる。


「今日、聖女選定の日だよ。ずっと待ってたんだから!」


 その言葉を聞いた瞬間、エレアーデの胸が強く脈打った。


 アルアリアはそれにも気づかず、長椅子の隣へ腰を下ろすと、エレアーデとの距離を詰める。


「私たち、きっと一緒に聖女になれるよ。そうしたら神殿でもずっと一緒だし、一緒に勉強して、一緒に困ってる人を助けられるんだよ!」


 処刑場で聞いた声とはまるで違う。


 自分との未来を疑うことすら知らない声だった。


 エレアーデは改めて周囲を見回した。


 この待合室。


 自分が着ている候補者用の白い服。


 窓から入る光の角度。


 廊下を行き来している神官たち。


 そして、隣で聖女になったあとの話を嬉しそうに続けている幼いアルアリア。


 記憶の断片が、一つずつ現在の光景と重なっていく。


(……戻ったのですか?)


 ただ若返ったのではない。


 聖女選定の日。


 エレアーデとアルアリアが同じ日に選ばれ、その後の人生すべてが始まった日へ戻っている。


「エレアーデ、アルアリア。次はこちらへ」


 廊下の奥から神官の声が聞こえた。


「あっ、呼ばれた!」


 アルアリアは勢いよく立ち上がったが、すぐには先へ行かなかった。数歩だけ扉の方へ進んでから、まだ長椅子に座ったままのエレアーデがついてきていないことに気づき、くるりと振り返る。


「ほら、行こ、エレアーデ!」


 そう言って、迷いなく手を差し出した。


 エレアーデは、その小さな手を見つめた。


 第一の人生なら、考える必要すらなかった。


 アルアリアが手を差し出せば握る。それが二人にとってあまりにも当たり前だった。


 けれど今は、処刑台の下から自分を見上げていた大人のアルアリアの顔が脳裏に浮かぶ。


『昔のエレアーデは、こんな人じゃなかったよ』


『あんなに優しかったのに……どうして、こんなふうになっちゃったの……?』


 その言葉を聞いた直後に、自分は死んだ。


 それでも、エレアーデは目の前の少女と処刑場のアルアリアを完全に重ねることができなかった。


 このアルアリアは、まだ何もしていない。


 自分を《冷血聖女》と呼んでもいなければ、治療を拒否した理由を疑ってもいない。王太子の婚約者でもなく、慈愛の聖女ですらない。


 ただ、幼馴染と一緒に聖女になれることを心から楽しみにしている少女だった。


 エレアーデは一度だけゆっくり息を吐き、それから差し出された手へ自分の手を重ねた。


「うん!」


 アルアリアは嬉しそうに笑うと、離れないようにするためか、そのままエレアーデの指へ自分の指を絡めた。


 その温かさを感じながら、エレアーデも長椅子から立ち上がる。


(ええ。行きましょう)


 二人を呼んだ神官が待つ廊下の奥には、第一の人生で自分たちを聖女として選んだ者たちがいる。


 同じ神殿で、同じ日に、同じ幼馴染と手をつないで、同じ場所へ向かって歩いている。


 何も変わっていないように見える。


 けれど、一つだけ決定的に違う。


 エレアーデはもう、この先に何が待っているのかを知っている。


 アルアリアに手を引かれながら神殿の廊下を歩き、聖女選定の間へ続く大扉が見えてきたところで、エレアーデは静かに決意した。


(ですが――今度は、聖女にはなりません)


 アルアリアの手を振り払うことはしなかった。


 幼馴染を憎んでいるわけではない。


 ただ、同じ人生をもう一度歩くつもりだけはなかった。


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