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後編

 午後一時四十五分。

 パリ装飾美術館。


 歴史ある建物の前には、すでに独特の熱気が漂っていた。石造りのエントランスには黒いスーツ姿の警備員が立ち、規制用の柵の外ではカメラを肩に担いだ報道陣らしき人々が忙しなく動き回っている。

 大きな一眼レフ。テレビ局のロゴが入ったマイク。ブランド名を口にしながら電話をしている女性記者。

 有名人だろうか、気さくにインタビューに応じ、写真や映像を撮られている。

 開演まではまだ時間があるというのに、現場だけはすでに戦場だった。


 ・・・本当に始まるんだ。

 結流(ゆきる)は無意識にショルダーバッグの肩紐を握り直す。隣を歩く土屋(つちや)さんは、そんな様子とは対照的に落ち着いていた。

 慣れた足取りで入口へ向かい、受付スタッフへ声を掛ける。


「Bonjour. Le mannequin Himuro Yukiru est arrivé.」

(こんにちは。モデルの氷室(ひむろ)結流(ゆきる)です。)


 スタッフは頷き、受付に置かれた端末を指差した。土屋がスマホを取り出し、画面に表示されたQRコードを機械へかざす。

 軽い電子音。

 だが、それだけでは終わらなかった。スタッフは分厚いバインダーを持ち上げる。

 一枚。

 また一枚。何十ページもめくりながら名前を探していく。

 やがて指が止まった。

 結流を一度見上げる。写真と本人を見比べるように視線を往復させると、小さく頷いた。

 首から下げる黒いパスを取り出す。


「C'est confirmé. Vous pouvez entrer.」

(確認できました。どうぞ、お通りください。)


 土屋さんが笑顔でパスを受け取る。


「Il ne parle pas français. Et seulement un peu anglais. Je compte sur vous.」

(この子、フランス語は話せないの。英語も少しだけ。よろしくお願いするわ。)


 スタッフがちらりと結流を見る。

 その視線に気付き、結流も慌てて頭を下げた。

「アンシャンテ」

 スタッフは少しだけ口元を緩めた。


「Enchantée.」

(初めまして。)


 営業用とも言える、控えめな笑顔。それでも、返してくれただけで少し安心する。・・・まあ、急に外国人が来たら、こうなるよね。

 結流は苦笑した。

「結流ちゃん」

 土屋さんがパスを差し出しながら、受付前で止まる。

「はい」

「言葉は忘れてないわね?」

「・・・まあ」

 自信満々とは、とても言えない。覚えたのは数えるほどの単語だけ。

 その返事を聞いた土屋さんは真剣な顔になる。


「いい? 本当に困ったら、黙って我慢しちゃ駄目」

 結流を見る。

「近くにいるスタッフへ、大きな声で伝えるの」

「はい」

「黙っていたら、そのまま進むわ」

 一呼吸置く。

「ここは日本じゃないから、誰も察してくれない」

 その言葉だけは、胸へ深く刺さった。

 日本なら誰かが察してくれる。でもここでは違う。困っている事を伝えなければ、誰にも伝わらない。


「・・・分かりました」

 結流はしっかり頷く。

「行ってきます」

 土屋さんは優しく笑った。

「私は何とか関係者席へ潜り込むから」

「はい」

 その一言だけで、少し心強かった。見ていてくれると思うだけで、少し安心できる。

 すぐに別の女性スタッフが近付いてくる。


「Suivez-moi, s'il vous plaît.」

(こちらへどうぞ。)


 結流は慌てて後を追う。

 重い扉を開けた瞬間、別世界が広がっていた。

 広いバックステージ。天井まで届く照明。一直線に並ぶ長いテーブル。その一席ごとに大きな鏡が置かれ、鏡の周囲には無数の電球が光っている。

 まるで映画で見た女優の楽屋だ。

 テーブルには番号。

 化粧水。乳液。メイクブラシ。ヘアブラシ。ドライヤー。アイシャドウパレット。ファンデーション。知らないメーカーの化粧品が整然と並んでいる。

 女性スタッフが一つの席を指差した。


「Votre place est ici.」

(あなたの場所はここよ。)


 鏡の横には、11と書かれた紙。

「・・・11番」

 結流は小さく呟く。

 更にスタッフが指を一本立てる。


「Tu passes en onzième.」

(あなたの順番は十一番よ。)


 意味は分からない。

 でも、11という数字を何度も指差している。・・・多分、順番かな。結流は素直に椅子へ腰掛けた。・・・待っていればいいんだよね。

 そんな事を考えていると、ぽん、肩を叩かれた。

「え?」

 振り向くと、先ほどのスタッフが笑顔で手招きしている。


「Par ici. Les vêtements sont là.」

(こっちよ。衣装がある場所へ案内するわ。)


 立ち上がり、後をついていく。部屋の奥には何本ものラック。色鮮やかな衣装が整然と吊るされ、一着ごとに布製のカバーが掛けられている。

 その中の一つ。

 11と書かれた札。更に、その上には昨日撮影したばかりの結流の写真が貼られていた。

「・・・これ?」


「Oui. C'est le tien.」

(そう。それがあなたのよ。)


 スタッフは服を軽く持ち上げる。


「Après le maquillage, tu l'enfiles. On vérifie une dernière fois. Ensuite, tu l'enlèves encore.」

(メイクが終わったら着て。最終確認をするわ。その後、一度脱いでもらうから。)


 ・・・分からない。

 でも、服を指差している。着るんだろう。そのくらいは理解できた。

 更にスタッフは別の場所へ案内する。床には色とりどりのテープが一直線に貼られている。そこにも番号が振られている。


「Tu vas marcher ici, avec tes vêtements actuels.」

(今着ている服で、一度ランウェイを歩くの。)


 なるほどリハーサルか。結流は何となく頷いた。

 再びメイク席へ戻る。


「Assieds-toi.」

(座って。)


 今度は別の女性がメイクパレットを抱えて近付いてきた。メイクさんだ。

 さっきのスタッフが小声で説明している。


「Il ne parle ni français ni vraiment anglais.」

(この子、フランス語も英語もほとんど話せないの。)


「Asiatique ? Chinois ?」

(アジア系? 中国人?)


「Je ne sais pas.」

(さあ?)


「On devra communiquer par gestes.」

(ジェスチャーで伝えるしかないわね。)


「Merci. Je viendrai si besoin.」

(お願いね。何かあれば対応するわ。)


 立ち去ろうとしたスタッフへ、結流は慌てて声を掛けた。

「メルシーボクー」

 スタッフが振り返り、優しく笑う。


「Je vous en prie.」

(どういたしまして。)


 その笑顔だけで、少し緊張がほぐれる。今度はいよいよメイクだ。

 結流は軽く頭を下げた。

「シル・ヴ・プレ。」

 挨拶だけは忘れない。メイク担当は笑いながら頷き、すぐ作業へ入った。ブラシが頬を滑る。目元へ大胆に赤いアイカラーが乗せられる。髪を霧吹きで湿らせ、ワックスで形を整え、前髪を細かく散らしていく。


 更に手を取られ、爪を一本ずつ確認される。

 深い赤。ワインのような色が丁寧に塗られていく。・・・衣装に合わせてるのかな。

 鏡越しにそんな事を考える。

 気付けば両隣にもモデルが座り、楽しそうに笑いながら会話を続けていた。フランス語、かな? 英語は、時々聞いた事があるような単語だけわかる。

 時折笑い声。

 羨ましい。こちらは会話にならない。

「・・・?」

「・・・!」

 ジェスチャー。

 頷く。

 笑う。

 またジェスチャー。

 それでも不思議と仕事は進んでいく。言葉はなくても、プロの動きには迷いがなかった。やがてメイク担当が鏡越しに微笑む。


「C'est terminé. Maintenant, va essayer ta tenue.」

(終わったわ。次は衣装を合わせてきて。)


 何と言われたのかは分からない。だが、隣のモデルが立ち上がり、衣装ラックの方へ歩いていく。

 ・・・服だ。きっと。結流も慌てて椅子を立ち、後を追いかけた。

 今はもう、考えるよりも周りを見て動く事が、この場を乗り切る一番の方法だった。


 衣装ラックの前へ行くと、周囲のモデルたちは迷いがなかった。声を掛け合う事もなく、それぞれ自分の番号の前へ立つ。そして、ごく自然な動作で私服を脱ぎ始めた。

 シャツ。パンツ。ジャケット。次々と脱ぎ、横のスタッフがハンガーにかけていく。ラックに吊るされた布製の大きな袋へは鞄やスマホ。

 ・・・あ。そう使うんだ。ようやく意味が分かった。

 昨日は衣装しか見ていなかった。布袋は衣装カバーかと思っていたが、違う。私物を入れるためのバッグだったのだ。

「なるほど・・・」

 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。結流も11の札が付いたラックへ向かう。すぐに3人のスタッフが近付いてきた。


「Par ici.」

(こっちよ。)


 1人が昨日と同じ黒いレザーハーフパンツを差し出す。結流は素早く私服を脱ぐと、スタッフが素早く受け取りハンガーにかける。ショルダーバッグは布袋へしまった。スタッフ達はそれを慣れた手つきでラックへ掛け直していく。

 無駄な動きが一つもない。まるで工場のライン作業のようだった。黒いパンツを履き終えると、次は例の花柄のシャツが運ばれてくる。


 昨日、一度だけ袖を通した服。

 ・・・いや。正確には、着せてもらった服だ。

「・・・」

 結流は苦笑する。やっぱり分からない。どこが袖で、どこが襟なのか。フリルが幾重にも重なり、布が複雑に交差している。

 考えている間もなく、スタッフが笑った。


「Ça va, on s'en occupe.」

(大丈夫。私たちがやるわ。)


 3人が同時に動く。1人が袖を広げる。1人が背中を整える。もう1人が襟元を直す。気付けば、ものの数十秒ほどで着替えは終わっていた。

 結流は鏡を見る。昨日と同じ服なのに、今日はさらに身体へ馴染んで見えた。

 周囲へ視線を向ける。

 10番。

 12番。

 隣のモデルたちも同じように3、4人がかりで衣装を着せられている。

 奇抜なジャケット。何層にも重なったスカート。肩から長い布が垂れたコート。どれも、一人で着る事など最初から考えられていないようなデザインだった。・・・私だけじゃないんだ。そう思うと、少しだけ気が楽になる。


 すると、スタッフの1人が箱を抱えて戻ってきた。

 中から取り出したのは、真っ赤なハイヒール。光沢のあるエナメル。やや太めのヒールは十センチ以上ありそうだった。

「・・・」

 結流は思わず固まる。これで歩くの? 本気で?

 スタッフは当然のように床へ置く。


「Essaie-les.」

(履いてみて。)


 ・・・履けって事だよね。もう逃げ場はない。結流は覚悟を決め、足を入れた。

 立ち上がる。

 ・・・あれ? なんだろう。違和感がある。

 歩こうとすると、足の甲が強く締め付けられる。

 痛い。かなり痛い。

 身長だけじゃない。足も大きい。日本でも靴探しには苦労してきた。

 でも、何て言えばいい?

 痛い。

 痛いって英語は・・・えっと・・・。


 ・・・ペイン?

 結流は小さく呟く。

「・・・ペイン?」


 誰も反応しない。スタッフたちは次の準備を始めている。

 あ。

 駄目だ。

 聞こえてない。

 本番で歩けなかったら、それこそ大迷惑だ。

 結流は大きく息を吸い込んだ。


「Pain!」

 腹の底から声を張る。バックステージ中の視線が、一瞬だけこちらへ集まった。

 ・・・恥ずかしい。

 でも今だけは、そんな事を気にしている場合じゃない。1人のスタッフが慌てて駆け寄ってきた。


「Qu'est-ce qu'il y a ? Où avez-vous mal ?」

(どうしたの? どこが痛いの?)


 何と言われたかは分からない。でも、聞き方と表情で理解した。結流はすぐに足を指差す。

「ここ」

 更に自分の足の甲を押さえる。

 スタッフは「ああ」と頷くと、小走りで部屋の隅へ向かった。棚から別の箱を2つ抱えて戻ってくる。


「Essayez celles-ci.」

(こちらを履いてみて。)


 結流はすぐに今のハイヒールを脱いだ。

 一足目、履く。立つ。歩く。

 ・・・違う。少し良くなったが、まだ甲が当たる。

 結流は自分の足の甲を何度も指差した。

「ここ」

 そして日本語で言う。

「ここが痛い。きつい」

 スタッフは言葉こそ分からないものの、何度も頷いた。


「D'accord.」

(分かったわ。)


 今度はもう一足。先ほどとは少し形が違う。細いストラップが足首を支えるタイプだった。

 履く。立つ。一歩。二歩。・・・三歩。

 ・・・あ。さっきより全然いい。足の甲が当たらない。ヒールの高さは同じなのに、不思議なくらい歩きやすい。

 結流は思わず笑顔になる。

「メルシーボクー」

 スタッフもほっとしたように微笑んだ。


「Parfait.」

(完璧よ。)


 結流は、小さく頭を下げる。言葉はほとんど通じない。それでも困った事は伝えればいい。伝えれば、誰かが応えてくれる。ほんの少しだけ、この世界との距離が縮まった気がした。


 ようやく靴が決まり、結流は小さく息を吐いた。

 これで終わり。そう思った、その時だった。

 人混みを割るように、1人の中年男性がこちらへ歩いてくる。黒いジャケット。胸にはスタッフパス。髪には白いものが混じり、年齢は50代くらいだろうか。

 鋭い目だけが妙に印象に残る。・・・あれ。どこかで見たような・・・昨日のオーディション会場にもいた気がする。いや、違うかもしれない。正直、一度しか会っていない外国人の顔は、ほとんど区別がつかない。


 男性は結流を頭の先から足元まで眺める。何も言わない。ただ、視線だけが動く。肩。胸元。腰。脚。靴。どこを見られているのか、はっきりわかる。だが、その視線にいやらしさは感じられない。

 そして一歩近付き、静かに口を開いた。


「Marchez encore une fois.」

(もう一度歩いてくれ。)


 ・・・え? 結流は固まる。何を言われたのか分からない。

 その空気を察したのか、近くのスタッフが短く英語で言った。

「Walking.」

 ああ、歩くのか。

「はい」

 反射的に日本語で返事をしてしまう。

 結流は背筋を伸ばした。一歩。二歩。・・・三歩。・・・四歩。・・・五歩。足元を意識しながら真っ直ぐ進み、静かにターンする。

 昨日、土屋さんに何度も言われた。慌てない。睨まない。力を入れすぎない。口角だけを少し上げる。そのまま元の位置まで歩いて戻る。

 男性は腕を組んだまま、低く呟いた。


「Apportez-moi de la dentelle. Beige, avec le motif floral.」

(レースを持ってきてくれ。花柄のベージュだ。)


 一瞬だった。周囲の空気が変わる。


「Tout de suite !」

(すぐに!)


 スタッフが一斉に動き出す。ラックの奥。資材棚。大きなケース。あちこちからレースや裁縫道具が運ばれてくる。

 結流は思わず目を丸くした。

 え? 今から?

 男性は衣装を見つめたまま続ける。


「Nous allons créer des ailes.」

(羽を作ろう。)


 別のスタッフが頷く。


「Oui. Il faut aussi équilibrer l'avant et l'arrière.」

(ええ。前後のバランスも揃えましょう。)


「Ajoutez-en ici.」

(ここにも足してくれ。)


 結流は立ったまま動けない。気づけば数人のスタッフが自分を囲み、着たままの衣装へ針を通し始めていた。カチッ。カチッ。小さな糸切りばさみの音。布が引かれる音。糸を締める音。

 何事か、指示する言葉が頻繁に飛ぶ。

 迷いがない。採寸もしない。まるで最初から完成形が頭の中にあるかのように、次々とレースが縫い付けられていく。肩から背中へ。脇から裾へ。花柄のレースが増えるたび、衣装の印象が少しずつ変わっていく。


 ・・・すごい。昨日までに完成していたのじゃないの? それに新たに手を入れていく。ショーって、もっと何日も前から全部決まっているものだと思っていた。

 なのに。

 本番直前になっても、まだ作っている。

 これが、世界最高峰。完成した服を着る場所じゃない。ぎりぎりまで妥協しない。完成する瞬間を作る場所なんだ。

 そんな事をぼんやり考えていると、周囲へ目が向く。


 ほとんどのモデルはすでに私服へ戻っていた。スマホを見ている人。椅子へ座って休んでいる人。スタッフと談笑している人。

 だが、自分の前後に並ぶ数人だけは違った。

 10番。

 12番。

 13番。

 14番。

 同じ世界観の衣装らしい、同じ花柄の布を使った服を着たモデル達だけが、まだ着替えられず立たされている。

 こちらでも。

 あちらでも。

 裾へレースが足され、肩へ飾りが付けられ。13番の服の人なんて袖が外されたし、14番はボタンが付け替えられる。

 誰一人、不満そうな顔はしない。

 きっと、これが当たり前なのだ。

 ようやく男性が満足そうに頷いた。


「Parfait. Maintenant, vous pouvez vous changer.」

(いい。もう着替えていい。)


 その一言で、周囲の空気が緩む。


「Enfin...」

(やっと・・・。)


 どこかから安堵のため息が漏れた。モデルたちが一斉に衣装を脱ぎ始める。結流も急いでシャツを脱ぎ、ハーフパンツを脱ぎ、私服へ戻した。

 衣装は丁寧にハンガーへ掛けられる。

 ・・・終わった?

 次はメイク席へ戻ればいいのかな。結流は鏡の並ぶテーブルへ向かって歩き出した。


 その時だった。

 ・・・ぐぅぅぅ。静かなバックステージに、不意に間の抜けた音が響く。

「・・・」

 結流は固まった。しまった。お腹だ。朝食以来、何も食べていない。

 恐る恐る周囲を見る。

 近くにいたスタッフが1人。結流を見て、腹を見て、そして、思わず吹き出した。張り詰めていたバックステージに、小さな笑いがこぼれた。


「Ne t'inquiète pas. Il y a un catering. Tu pourras manger... mais d'abord, la répétition.」

(大丈夫。ケータリングは用意してあるわ。でも、その前にリハーサルね。)


 言葉は分からない。けれど、スタッフが指差した先を見れば理解できた。床に色とりどりのテープが貼られた場所へ、モデル達が私服で次々と並び始めている。

 ・・・あそこに並べって事かな。結流は小走りで向かい、自分の番号を探す。

 11。見つけた。番号の上へ静かに立つ。左右を見渡すと、同じシリーズの服を着ていたモデル達が並んでいる。

 10番。

 12番。

 気づけば4、50人ほどが一列に並び、壮観という言葉が似合う光景になっている。やがて、前方から合図が飛んだ。


「Allez !」

(行って!)


 先頭のモデルが歩き出す。列がゆっくりと流れ始めた。結流も前のモデルとの間隔を保ちながら歩き出す。

 目の前には、一直線に伸びる純白のランウェイ。余計な装飾はほとんどない。

 ブランドロゴだけが静かに存在感を放ち、左右には幾重にも客席が並ぶ。世界中のファッション関係者やメディアを迎えるための空間は、無駄を削ぎ落とした美しさそのものだった。

 広い会場。天井は高く、視界の端まで続く黒い壁が、白いランウェイをいっそう際立たせている。

 照明はまだ本番ほど明るくない。

 それでも、天井から降り注ぐ白い光がランウェイを真っすぐ照らし、足音だけが静かに響いていた。静まり返った空間に響くのは、モデル達のヒールが刻む規則正しい足音だけ。

 コツ。

 コツ。

 コツ。


「Détends-toi davantage.」

(もっとリラックスして歩いて。)


 誰かが声を掛ける。

 ・・・ごめんなさい。何を言っているのか、分かりません。


「La caméra est ici. Pas besoin d'exagérer. Juste un regard naturel.」

(カメラはここよ。大げさなポーズはいらない。自然に一瞬だけ見ればいいわ。)


 前を歩く10番のモデルが、片手をポケットへ入れたまま歩いていく。カメラの前だけ、一瞬だけ視線を向ける。

 それだけ。

 後ろの12番をちらっと見る。こちらはポケットへ手を入れていない。腕を自然に下ろしたまま歩いている。

 ・・・どっち?どっちが正解なんだろう。

 一瞬だけ迷う。いや、ポケットに手を入れるのは、何となく行儀が悪い気がする。

 よし。

 出そう。自然に腕を下ろす。

 カメラだけは一瞬見る。モデルと言えば・・・顎を上げて、大きくポーズを決めて、そんなイメージだった。

 でも、それはいらないらしい。よし。それなら何とかなる。

 また別の声が飛ぶ。


「Ne regarde pas trop le sol.」

(床を見過ぎないで。)


「Imagine que tu te promènes en ville... ou dans une forêt.」

(街や森を散歩しているつもりで。)


「Reste naturel.」

(自然体で。)


 言葉は理解できない。それでも、前後のモデルたちを見る。

 歩幅。

 視線。

 腕の振り方。

 呼吸。

 全部真似をする。

 ・・・土屋さんも言ってた。分からなくなったら、周りを見なさいって。同じシリーズなんだから、流れは一緒のはず。

 それを信じるしかない。

 一周回って、ようやくリハーサルが終わる。結流が元の場所へ戻ると、先ほどの女性スタッフが近付いてきた。


「Tu avais faim, n'est-ce pas ? Si tu veux manger, c'est maintenant. Après avoir remis la tenue, ce sera trop tard.」

(お腹が空いていたでしょう? 食べるなら今のうちよ。衣装を着たら食べられないから。)


 結流は首を傾げる。

「・・・?」

 スタッフも首を傾げる。

「・・・?」

 2人とも止まった。沈黙。

 数秒後、別のスタッフが苦笑する。


「Ah, cette fille ne parle pas du tout français.」

(ああ、その子、フランス語は全く話せないのよ。)


 少し考え込み、今度はたどたどしい英語で言った。

「Catering・・・」

 スタッフが指を奥へ向ける。

「Eat.」

 ・・・イート。聞き取れた。

「あっ、はい!」

 思わず日本語で返事をしてしまう。

 スタッフは笑いながら手招きした。


「Par ici.」

(こっちよ。)


 案内された先には、小さな休憩スペースが設けられていた。長机の上へ、美しく並べられた軽食。一口サイズのサンドイッチ。クラッカーの上にチーズやサーモンが乗ったカナッペ。透明なカップへ彩りよく盛られたサラダ。ナッツ。ドライフルーツ。

 ミネラルウォーター。フルーツジュース。

 どれも見た目は華やかだ。


 ・・・でも。結流は思う。これ、お腹いっぱいになるかな・・・。朝からほとんど動きっぱなしだ。正直、せめて牛丼一杯くらい・・・いや、二杯くらいは食べたい。そんな事を考えた瞬間・・・ぐぅぅぅ。またしても、お腹が鳴いた。

「・・・」

 近くにいたモデルがこちらを見る。スタッフも笑いを堪えている。

 結流は観念した。・・・もういいや。どうせ今日限りかもしれない。この人達と二度と会わないなら、少しくらい恥ずかしくても構わない。

 結流はカップサラダへ手を伸ばしかけ・・・ぴたりと止めた。そうだ。土屋さんに言われていた。海外では勝手に取るな。ビーガン用。アレルギー対応。VIP出演者専用。用途が決まっている場合もある。

 結流は勇気を出して口を開いた。

「Can I have this?」

 スタッフは一瞬きょとんとした後、笑顔で頷く。


「Oui, bien sûr. Servez-vous.」

(ええ、もちろん。どうぞ。)


 よかった。合ってた。結流は小さく頭を下げる。

「メルシーボクー」

 サラダを手に取り、人の少ない壁際へ移動する。

 シャキッとしたレタス。トマト。オリーブ。チーズ。どれも美味しい。けれど、やっぱり物足りない。フォークを置きながら、結流は苦笑した。・・・これが終わったら何か土屋さんにお願いして、食べよう。日本へ帰ったら、白いご飯を山盛り食べよう。


 軽い食事を終える頃には、メイク席は再び慌ただしさを取り戻していた。

 さっきまで休憩していたモデル達が、それぞれ自分の番号の席へ戻り、鏡の前へ腰掛けている。

 ・・・戻るんだ。

 結流も11と書かれた席へ向かった。

 椅子へ腰を下ろした瞬間だった。


「Parfait. Une petite retouche.」

(いいわ。少しお直しね。)


 メイク担当が間髪入れず近付いてくる。柔らかなブラシが頬をなでる。目元へ赤いシャドウを少し足し、唇の色味を整える。額に浮いた汗を丁寧に押さえ、ヘアスプレーで乱れた髪を固定する。

 まるで数十分前に仕上げたメイクとは思えないほど、細かく確認していく。・・・本当に妥協しないんだ。鏡越しに、その仕事ぶりを見つめた。


「Habille-toi.」

(衣装を着て。)


 言葉はやっぱり分からない。けれど周囲のモデル達が一斉に立ち上がり、衣装ラックへ向かう。

 もう迷わない。結流もその流れへ加わった。

 案の定、先ほどと同じ3人のスタッフが待っている。


「Allez, vite.」

(さあ、急いで。)


 衣装を広げる。1人が袖。1人が背中。1人が裾。3人がかりで着せられるのも、もう二度目だ。昨日ほど戸惑わない。身体を預ければいい。そう覚えた。それでも、布地が肌を滑るたびに胸の鼓動は少しずつ速くなっていく。

 鏡を見る。先ほどつけたばかりのベージュ色のレースが、裾から幾重にも揺れている。歩けば風を受けて羽のように広がりそうだった。

 ・・・あの時、縫っていたやつか。先ほどは仮縫いっぽかったが、ちゃんと完成したんだ。少しだけ嬉しくなる。服はショーの直前まで進化し続けるんだ。その事実に、世界最高峰の現場を少しだけ実感した。

 思わず、結流の口元が緩む。

「メルシーボク―」

 スタッフが笑顔で頷く。


「Avec plaisir.」

(どういたしまして。)


 続いて足元。自分の足に合わせて選び直してくれた一足・・・ストラップ付きの赤いハイヒール。足首を固定すると、不思議なくらい安心感があった。

 これなら、歩ける。そう思えた。

 更に首元へ金の細いネックレスがかけられる。ひやりとした金属が肌へ触れ、その冷たさが火照った身体を少しだけ冷ましてくれた。ブランドのトレードマークであるNマークが小さく揺れた。最後に赤色の小ぶりなバッグを渡された。

 ・・・持つの? 肩へ掛ける? 手に持つ?

 考えている間にスタッフが手で示す。なるほど、手持ちだ。結流はバッグを持ち替え、小さく頷いた。


 その瞬間だった。胸の奥で、どくん、と心臓が大きく鳴る。

 服を着た。靴を履き、アクセサリーを身につけ、バッグを持った。準備が一つ終わるたび、本番が少しずつ近づいてくる。


 もうすぐだ。

 もう、この姿でランウェイへ立つ。世界中のファッション関係者が見つめる舞台。

 失敗したらどうしよう。

 転んだら・・・。

 歩き方を間違えたら・・・。

 そんな不安が頭をよぎる。

 それでも、不思議と足は震えていなかった。緊張はしている。だけど、その緊張さえも、この世界の一部なのだと結流は静かに受け入れていた。


 白銀の髪を揺らして笑う紬の姿が、不意に胸へ浮かんだ。・・・帰ったら、ちゃんと、直接、誕生日おめでとうございますって言おう。そのためにもまずは、この舞台を歩き切る。


 ほどなくして声が飛ぶ。


「En ligne ! C'est l'heure !」

(並んで! 時間よ!)


 空気が変わる。

 今まで談笑していたモデル達の表情から笑顔が消えた。誰一人、無駄口を叩かない。

 一列に並ぶ。

 入口には、あの中年男性が立っていた。その隣には分厚いファイルを持った男性。もう片方の手で一人一人を確認していく。

 肩の位置。襟元。裾。靴。髪。少しでも皺があれば、その場で伸ばす。ネックレスの角度まで直す。


 最後に首元へ香水を一吹きされる。甘く、それでいて爽やかな香りがふわりと漂った。


 その頃には、厚い扉の向こうから、人のざわめきが聞こえ始めていた。低い話し声。笑い声。椅子を引く音。観客が入場している。


 ・・・始まる。


 その一瞬。

 心臓が急に速くなる。さっきまで平気だったのに、急に存在を主張し始める。

 ドクン。

 ドクン。ドクン。

 胸の奥を叩く鼓動が、一つ一つ大きくなる。

 指先だけが少し冷たい。それなのに掌にはじんわりと汗が滲んでいた。深呼吸をする。吸ったはずの空気が、肺まで届いていない気がする。


 大丈夫。

 落ち着いて。何度も自分へ言い聞かせる。

 けれど、身体は正直だった。

 足首を包むハイヒールの感触。バッグを握る指先。首元へ触れる細いネックレス。全てが、今だけ妙にはっきりと感じられる。


 やがて会場の照明がゆっくりと落ちる。光が消えていく。客席が闇へ沈み、ランウェイだけが静かに浮かび上がる。

 息を呑むような静寂。

 そして。

 ズン・・・。重低音の音楽が会場全体へ鳴り響いた。

 ズン・・・。ズン・・・。腹の底へ響くリズム。

 床がわずかに振動し、音楽は鼓動と重なり合うように身体の内側まで入り込んでくる。バックステージの空気まで震える。


 誰も喋らない。数秒前まで小声で笑っていたモデル達も、別人のようだった。全員が表情を消し、前だけを見つめている。・・・仕事の顔。

 スタッフの声だけが鋭く飛ぶ。


「On commence.」

(始める。)


「Vas-y.」

(行って。)


「Attends ici.」

(ここで待って。)


「À toi ensuite.」

(次、出て。)


 まるで戦場だった。1人送り出し、次の1人待機させ、その間に次の1人の服を確認する。その全てが秒単位で動いている。無駄が一切ない。


 世界最高峰。その言葉の意味を、結流は今さらながら思い知る。


 気づけば結流はランウェイ入口へ立っていた。

 薄い幕の向こうには、世界中の視線が待っている。

 テレビでしか見た事のなかった景色。雑誌でしか見た事のない舞台。その一枚の布を隔てた先に、自分の知らない世界が広がっている。


 ・・・逃げたい。


 ほんの一瞬だけ、そんな弱音が頭をかすめた。

 もし転んだら、失敗したら、この世界最高峰のランウエイで何かやってしまったら・・・日本でも大々的に知られる。今までランウエイで転んだモデルなんていないだろうな。もし転んだら・・・フライデー・ミュージック・パレスの切り抜き動画レベルの騒ぎじゃない。世界の知らないどこかで拡散され、何度も再生され、世界的な切り抜き動画になる・・・。


 それだけは避けたい。


 でも。

 ここまで来て、逃げるなんて選択肢はない。日本を発つ時に決めた。いや、あの断りメッセージを送った瞬間から決まっていたと思う。紬さんへごめんなさいと、誕生日の・・・それも一度OKしたのに断ったメッセージ。

 ここから逃げたら、ただ約束を破っただけで終わってしまう。それだけは嫌だ。きっちりやり遂げて、あらためて謝って、赦してもらいたい。


 だったら、歩くしかない。


 胸の奥で、紬さんの笑顔が浮かぶ。・・・見ていてください。結流は心の中で小さく呟いた。


 スタッフがバッグを指差す。

「Tiens-le plus fermement. Comme si tu partais en vacances.」

(もっとしっかり持って。リゾートへ出掛けるような感じで。)


 スタッフは拳を握る仕草を見せる。・・・もっと強く持てって事か。結流も同じようにバッグを握り直した。


「Oui. Très bien.」

(そう。その感じ。)


 スタッフが満足そうに頷く。次の瞬間、スタッフが前方を指差した。

「Vas-y !」

(行って!)


 ファイルを持つスタッフも、小さく頷く。

 ・・・今だ。

 胸が張り裂けそうなほど高鳴っている。それでも、不思議と頭の中は静かだった。


 結流は、一歩を踏み出した。

 眩しい。思わず目を細めそうになる。天井から降り注ぐ無数のスポットライトが、一斉に身体を包み込んだ。照明が思った以上に強い。まるで光そのものの中へ足を踏み入れたようだった。


 客席の最前列までは見える。その先は、光に溶けてほとんど見えない。黒い人影が幾重にも座っている。左右には何百人もの観客。200人、300人・・・いや、それ以上いるのかもしれない。

 スマホを構える人もいる。一眼レフを構えたカメラマン。テレビカメラ。世界中の視線が一本のランウェイへ集中している。

 その空気だけで息が詰まりそうになる。


 けれど、不思議な事が起きた。

 怖い。

 緊張する。

 そう思っていたはずなのに。

 一歩。

 また一歩。

 歩みを重ねるたび、胸を締め付けていた不安が、少しずつ別のものへ変わっていく。


 音が消えた。


 いや、消えたわけではない。音楽は流れている。シャッター音も聞こえる。観客の衣擦れも、スタッフが走る足音も。

 全部、聞こえている。

 それなのに、頭の中だけが、驚くほど静かだった。

 時間がゆっくり流れ始める。

 ランウェイに反射する照明。床へ映る自分の影。


 前を歩く10番のモデルの肩甲骨の動き。その更に前を歩く9番のモデルがカメラに数秒、視線を送った。


 ヒールが床を打つわずかな角度。

 風を受けて揺れるレース。

 その全てが、手に取るように見えた。


 ・・・前の人と同じラインで。同じテンポで。同じリズムで。

 土屋さんの声が、耳元で聞こえた気がした。。

 ・・・迷ったら前を見なさい。・・・同じシリーズなら、流れは同じ。


 少し前には10番のモデル。あの人と同じ所を、同じ歩幅で歩いていけばいい。

 結流は視線を少しだけ上げた。


 よし、ここ。

 カメラ。

 自然に、一瞬だけ見る。

 止まらない。ポーズはなし

 歩き続ける。

 ・・・今。

 私はパリコレを歩いてる。

 その事実が、急に現実味を帯びる。

 大丈夫か。

 変じゃないか。

 足は震えていないか。

 肩は上がり過ぎていないか。

 頭の中へ不安が押し寄せる。

 

・・・歩け。

 歩け。止まるな。

 歩け。自分へ言い聞かせる。


 その時だった。客席の一角。壁際。土屋さんの姿が見えた。その隣には、昨日会った黒髪の男性。二人とも真っすぐこちらを見ている。

 ああ、心配してるんだ。失敗しないかなって。

 そう思った瞬間、不思議と肩の力が抜けた。

 口元がほんの少しだけ緩む。

 自然な笑み。

 それだけを残し、結流は最後まで歩き切った。


 バックステージへ戻る。

 息をつく間もない。


「En ligne !」

(並んで!)

 ・・・あ。フィナーレだ。今度は理解できた。

 全員が一列に並ぶ。音楽が最高潮を迎える。もう一度、全員でランウェイへ。客席から大きな拍手が湧き起こる。

 歓声。

 フラッシュ。光が幾重にも弾ける。

 そして、ショーは終わった。

 もう一度バックステージへ戻った瞬間。


「Magnifique !」

(素晴らしかったわ!)


「Très beau défilé !」

(いいショーだった!)


 次々と声を掛けられる。

 誰かが肩を軽く叩いた。

 結流は笑って頭を下げる。

「メルシーボクー」

 それしか言えない。でも、それで十分だった。モデル達は何事もなかったように衣装を脱ぎ始める。スタッフが受け取り、すぐにラックへ戻していく。

 終わった。

 本当に、もう終わりなんだ。

 世界最高峰の舞台は、始まった時と同じくらい、あっけなく幕を閉じた。

 結流も11と書かれたラックから私服を取る。

 着替えようとした瞬間。


「Attends.」

(待って。)


 3人のスタッフがまた集まってきた。慣れた手つきで衣装を脱がせていく。最後のレースを整え、ハンガーへ掛ける。

 結流は深く頭を下げた。

「メルシーボクー」

 今日は一日、その言葉ばかり口にしていた。それでも足りないくらいだった。

 言葉は通じなくても、この舞台へ立たせてくれた人達への感謝だけは、しっかり伝えないと。

「メルシーボクー」

 結流は周りにいる全ての人達へ向かって、幾度も頭を下げた。





 土屋がショー会場を出ると、夕暮れのパリは既に柔らかな黄金色の光に包まれていた。

 石畳を行き交う人々の足音。遠くを走る車のエンジン音。カフェのテラスから漏れてくる笑い声。

 つい数分前まで世界中の視線が集まっていた会場の熱気が嘘のように、外にはいつもの街の時間が流れている。

 土屋はゆっくりと深呼吸をした。

 その隣へ黒髪の男が並ぶ。男は会場の扉を一度振り返り、口元をわずかに緩めた。


「Alors... c'était bien le numéro onze, n'est-ce pas ?」

(・・・11番だったよね。)


 土屋は視線を会場へ向けたまま、小さく頷く。


「Oui. Le numéro onze.」

(ええ。11番。)


 短い沈黙が落ちた。2人とも何かを確かめるように、もう一度だけ入口を見つめる。

 男はゆっくり息を吐いた。


「C'était une excellente position. Aucun doute.」

(ああ・・・最高の位置だ。間違いない。)


 土屋は返事をしない。腕を組み、静かに唇を噛む。

 男は苦笑とも感嘆ともつかない笑みを浮かべた。


「Tu sais ce que signifie cette place ?」

(あの位置が何を意味するか、分かっているよね。)


 土屋はゆっくり視線だけを、男に向ける。

 男は肩をすくめた。


「La position réservée aux mannequins sur lesquels la maison mise pour l'avenir.」

(ブランドが「次世代の注目モデル」として期待する者に与える位置だ。)


 土屋の指先が、わずかに動いた。そのまま黙って石畳へ視線を落とす。

 男はその横顔を見つめ、少しだけ声の調子を変えた。


「Alors... pourquoi ne pas signer chez nous ?」

(だったら、うちのモデル事務所と正式に契約しないか。)


 土屋は答えない。コートのポケットへ手を入れ、ゆっくり息を吐く。

 数秒の沈黙。

 ようやく口を開いた。


「Laisse-moi un peu de temps pour y réfléchir.」

(少し・・・考えさせて。)


 男は眉を上げる。


「Je peux te demander pourquoi ?」

(理由を聞いても?)


 土屋は苦笑した。


「Parce qu'il ne parle ni français... ni vraiment anglais.」

(あの子、フランス語どころか、英語もほとんど話せないのよ。)


 男はすぐに返す。


「Il peut apprendre.」

(学べばいいじゃないか。)


 土屋は首を横へ振った。


「Tu sais pourtant que, pour un Japonais, apprendre une langue étrangère n'est pas si simple.」

(日本語話者が他言語を身につけるのが、どれだけ難しいか知っていて言っているでしょう。)


 男は鼻から小さく息を漏らし、肩をすくめる。


「Touché...」

(それは・・・確かに。)


 土屋は続けた。


「Et puis... il y a aussi son âge.」

(それに・・・年齢もあるわ。)


 男は首を傾げた。


「Il n'est jamais trop tard pour apprendre.」

(学ぶのに遅すぎる事なんてないよ。)


 土屋は男をまっすぐ見た。


「Il a vingt-cinq ans cette année.」

(あの子、今年25なの。)


 男の表情が止まった。目が見開かれる。

 言葉を失ったまま、数秒。


「...Vingt-cinq ?」

(・・・25?)


 土屋は思わず笑ってしまう。日本人が若く見える法則が、ここでも発動している。結流が10代だったなら、今から語学の勉強をして、本格的に海外でモデル挑戦の線も濃厚だったと思う。

 最近は20代から30代モデルを主力に起用しているブランドも増えた。だけど、25はやはり遅いと言わざるを得ない。

 男は呆れたように額へ手を当てた。


「Les Japonais sont des fées ou quoi ?」

(日本人って妖精か何かなのか?)


 土屋は小さく肩をすくめる。

 男は苦笑しながら土屋を見つめた。


「Toi aussi, tu n'as pas changé. Tu es toujours aussi jeune... aussi belle. Personne ne croirait que nous avons le même âge.」

(君も相変わらずだ。若くて綺麗なままだ。僕と同い年だなんて、誰も思わないよ。)


 土屋は呆れたように笑い、軽く手を振る。


「Les compliments ne te serviront à rien.」

(お世辞はいらないわ。)


 男は胸へ手を当て、大げさに肩を落とした。


「Mais je suis parfaitement sincère.」

(本気なんだけどな。)


 土屋は苦笑したまま首を振る。

 男もつられて笑う。

 夕暮れの風が2人の間を静かに吹き抜け、ショーの余韻だけが、まだ互いの胸に残り続けていた。


読んでくださってありがとうございます(*_ _)

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