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前編

 シャルル・ド・ゴール空港へ降り立った瞬間、結流(ゆきる)は日本とは違う空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 初、海外。初海外が仕事だなんて、2・3年前までは想像もしていなかった。新婚旅行かな。働き始めてお金の余裕ができたら、友達と行けたらいいな、そんな想像。

 乾いた風。聞き慣れない言葉。ガラス張りの巨大なターミナルを行き交う人々は、誰もが迷いなく歩いている。


 ・・・本当に来たんだ。昨日までは、ドラマ撮影が入って、調整を重ねてもらって何とかもぎ取った4日間。・・・そんな感慨に浸る暇は本当に一瞬。

「結流ちゃん、急ぐわよ! オーディション時間ギリギリなのっ」

 土屋(つちや)さんがキャリーケースを引きながら振り返る。

「はい!」

 結流も慌ててキャリーケースを転がした。本来なら数時間前には到着しているはずだった。しかし、乗るはずの機体が遅れてきて、予定は全てずれた。


 飛行機の中では何度も時計を見た。まだ間に合う。いや、間に合わないかもしれない。頭の中では到着予定時刻とオーディション開始時刻を何度も計算し直す。いや、入国審査が長引けば、間に合わないかもしれない。胸の奥で、期待と焦りがせめぎ合う。


 これが人生初の海外だった。そして、その最初の仕事が・・・パリコレ。世界的ラグジュアリーブランドNient(ニエント)のランウェイを歩くため。

 本来なら世界中のモデル達が競い合う一般オーディションを通過しなければならない。

 しかし今回は違う。デザインチームから直接声がかかり、異例ともいえるオファーに近い形で参加する特別オーディションだと聞かされていた。


 だからこそ、絶対に遅れるわけにはいかなかった。


 ようやく空港を飛び出し、タクシーへ飛び乗る。窓の外には石造りの建物が並び、本場のカフェのテラスが見える。パリ。誰もが一度は訪れたいと憧れる街。けれど結流には景色を楽しむ余裕など一欠片もなかった。

 膝の上に置いたショルダーバッグを握り締め、何度も深呼吸を繰り返す。


 ・・・お願い。

 ・・・間に合って。


 タクシーが止まる。

「着いたわ!」

 料金を支払う間も惜しい。2人はスーツケースを抱え、そのまま建物へ駆け出した。

 歴史を感じさせる石造りの外壁。高いアーチ状の入口。その前には、100人程のモデル達が整然と列を作っていた。

 皆、背が高い。足が長い。細い。誰もがファイルを胸に抱え、自分の順番を静かに待っている。

 張り詰めた空気。

 笑い声はない。

 聞こえるのは、小さな囁きと微かな足音だけだった。


「・・・すごい」

 思わず声が漏れる。ここに並ぶ全員が夢を追っている。そして、そのほとんどがランウエイを歩けず、今日で終わるらしい。そんな現実が、列の静けさから伝わってきた。


 土屋さんは迷わず入口へ向かう。

 受付の男性スタッフへ何かを伝える。当然ながら、結流には何一つ分からない。聞き取れる単語すらない。

 ただ、土屋さんの声だけが少しずつ強くなっていく。列に並んでいる人達が何事かと土屋さんとこちらに視線を向ける。



「Nous avons rendez-vous pour une audition spéciale.」

(特別オーディションの約束をしています。)

 スタッフは首を横に振った。


「Je n'ai reçu aucune information à ce sujet.」

(そのような話は聞いていません。)


「C'est impossible. On nous a clairement indiqué cette heure.」

(そんなはずありません。この時間だとはっきり案内されています。)


「Vous avez peut-être mal compris… ou quelqu'un vous a trompée.」

(聞き間違えたか、誰かに騙されたのでしょう。)


 土屋さんの眉がぴくりと動く。


「Nous avons été contactés directement par l'équipe de design de Nient. 」

(私たちはNientのデザインチームから直接連絡を受けています。)


「Je suis désolé, madame. Je n'ai aucune instruction concernant une audition spéciale. Si vous souhaitez participer, veuillez faire la queue.」


(申し訳ありません。そのような特別オーディションの指示は受けていません。参加されるなら列にお並びください。)


「Pouvez-vous au moins vérifier auprès de votre responsable ?」

(せめて責任者に確認していただけませんか。)


「Je suis désolé, mais je ne peux pas faire cela. Si vous souhaitez participer, veuillez faire la queue comme tout le monde.」

(申し訳ありませんが、そのような事はできません。参加されるのでしたら、皆さんと同じように列にお並びください。)


 言葉は分からない。

 だが表情だけで十分だった。

 話が噛み合っていない。土屋さんはしばらく何かを言い返していたが、最後は小さく息を吐くと、踵を返した。

 結流の前まで来ても、一言も話さない。そのまま地面へキャリーケースを寝かせる。


 ガチャリ。

 乱暴なくらいの勢いで鍵を開け、中から厚みのあるファイルケースを取り出した。

「はい」

 渡されたのは、自分のプロフィール。顔写真。全身写真。身長、体重、スリーサイズ、靴のサイズ。そして過去の実績らしきものを纏めた書類と、写真を綴じたフォトブックだった。


「スマホとモバイルバッテリーは持ってるわね?」

「・・・はい」

「よし」

 土屋さんは結流の返事を待たず、今度は結流のスーツケースを掴んだ。

「あっ・・・」

 更に、どこから取り出したのか500mlのペットボトルを、結流のショルダーバッグへ強引に押し込む。

「水分補給だけは忘れない」

「・・・ありがとうございます?」


 土屋さんは苦笑いも見せなかった。険しい顔のまま、小さく鼻を鳴らす。

「話が違ったわ」

 視線だけが受付へ向く。

「・・・これもアジア人への洗礼かしらね」

 冗談のように聞こえた。だが、全く笑ってはいなかった。

 結流の胸がざわつく。

「あの・・・」

「帰ってもいいのよ」

 土屋は淡々と言う。

「ここまで来て、何もしませんでしたって報告するのも癪だけど」

 一呼吸置いて、結流を真っ直ぐ見る。


「一般オーディションに参加してきて」


 結流は思わず長い列を見つめた。最後尾は建物の角を曲がっている。小走りでやってきて、その列に並ぶらしい人達もまだいる。どこまで続いているのかもわからない。

「・・・これって、どれくらい時間がかかりそうですか?」

「1時間で済めば運がいい方ね」

 1時間。

 いや、それ以上かもしれない。


 本来なら、関係者枠で受けられるはずだった。人気音楽番組『ミュージック・フライデー・パレス』での、あの、切り抜き動画が拡散され、その映像を見たNientのデザインチームが興味を示した。

 そう聞いていた。

 だからこそ、土屋も行こうと決めたのだ。もし本当に一般オーディションから挑むのなら、いきなり世界的ラグジュアリーブランドのNientを勧めたりはしないだろう。もっと堅実なレベルのブランドを選んでいたはずだ。

 経験を積み、少しずつトップへ近づく。本来なら、それが順番だった。


 だが現実は違う。目の前には、長く伸びる列。ざっと見渡しただけでも100人以上。世界中から集まったモデル達が、それぞれのファイルを抱え、自分の順番を静かに待っている。

 その一人に、自分もなろうとしている。

 結流は小さく息を吐く。

 ・・・帰るか。

 ・・・並ぶか。

 選択肢は、その二つしかない。


 ここで帰っても、誰も責めないだろう。飛行機が遅れた。話が違っていた。予定していた特別オーディションではなく、一般オーディションへ並ばされた。運が悪かった。理由なら、幾らでもある。

 このまま日本へ帰っても、仕方なかったと笑って済ませられるかもしれない。周囲もそう受け止めてくれるはずだ。笑い話にだってできる。


 ・・・でも。

 本当に、それで終われるのだろうか。結流は自分自身に問う。


 それを許せるか。許せないか。


 答えは、考えるまでもなかった。

 許せない。

 誰かではない。自分自身が、それを一番許せなかった。


 ふと、(つむぎ)さんの顔が浮かぶ。白銀の髪を揺らしながら、少し照れたように笑う。大きな瞳が優しく細まり、お疲れさまと言ってくれる声まで思い出せそうだった。


 今日、本当なら、紬さんの誕生日を一緒に祝う約束だった。


 それなのに結流は、その約束を自分から断った。あの日、ごめんなさいとメッセージを送った。理由は書けなかった。まだ決まってもいない仕事まで伝えられない。芸能界は情報にはシビアだ。ほんの一言が、大きな問題になる世界だ。


 だから、何も説明できなかった。


 あの後、返信は来ていない・・・。忙しくて、見ていないのかな・・・そんな事を思いながら、やっぱり怒っているのかなとも思う。怒られて当然だ。一度はOKした約束を断ったんだから。

 きちんと理由を伝えれば、頑張ってと言われただろう。あの笑顔で頑張ってと言ってほしかった。聞きたかった。背中を押してほしかった。


 でも、それは叶わない。


 紬さんの誕生日を断ってまで選んだのが、このパリだ。何もしないまま帰る? そんな事をしたら、紬さんにも、自分自身にも顔向けできない。


 結流はゆっくりとファイルを抱え直した。自然と肩の力が抜ける。

 仕方ない。

 もう、やるしかない。

 いや・・・。

 どうせやるなら、やってやろうじゃないか。世界最高峰だろうが何だろうが、全力でぶつかってくる。せっかく、ここまで来たんだ。日本から十数時間。飛行機は遅れ、予定は狂い、それでも、この場所までたどり着いた。まだ、オーディションはしている。門はまだ開いている。


 結流は土屋さんへ視線を向ける。

「・・・分かりました」

 土屋さんは何も言わず、小さく頷いた。

 結流は微笑み返す。

「行ってきます」

 その声には、不思議なくらい迷いがなかった。

 もう覚悟は決まった。何もしないまま帰るくらいなら、最後まで挑戦して帰る。やってダメなら、それも仕方ない。その方がすっきりする。紬さんにも笑って話せる。


「そう」

 土屋さんも短く頷いた。

「私は先にホテルへチェックインしてくるわ」

 キャリーケースを掴みなおすと、続ける。

「終わる頃には、この場所へ戻って来る」

 少しだけ表情を和らげた。

「もし私がまだ戻ってなくても、ここで待っていて」

「はい」

 結流は力強く頷く。

 ・・・どこにも行けませんよ。

 ・・・そもそも言葉も分かりませんし。

 そんな心の声が顔に出ていたのだろう。

 土屋さんはふっと口元だけを緩めた。

「言葉、忘れてない?」

「・・・一応、としか言えません」

 苦笑いしか出ない。パリ行きが決まってから数日。土屋さんに叩き込まれたのは、本当に最低限のフレーズだけだった。


「ドゥ ロー、スィル ヴ プレ」(De l'eau, s'il vous plaît. 水をください。)

「ウ ソン レ トワレット?」(Où sont les toilettes ? トイレはどこですか?)

「メルシーボク―」(Merci beaucoup. ありがとうございます。)

「パードン」(Pardon. すみません。)

「アンシャンテ」(Enchantée. はじめまして。)


 相手が返してきた言葉は、おそらく一つも理解できない。だから覚えたのは、自分の意思を伝えるためだけの言葉だった。


「大丈夫」

 土屋さんは結流の肩を軽く叩く。

「モデルに必要なのは、語学より歩き方。英語もフランス語もできない子達が普通にモデルになっていくのよ」

 そして少しだけ笑う。

「あなたは、そのために来たんでしょう?」

 その一言で、不思議と肩の力が抜けた。

「・・・はい」

 結流はファイルを抱え直し、長い列の最後尾へ向かって歩き出す。世界中から集まったモデル達の背中が並ぶ。

 知らない言葉。知らない街。知っている人は、もう誰も隣にいない。それでも、胸の奥では、不思議なくらい静かに闘志が燃え始めていた。

 ・・・ここからだ。パリコレへの挑戦は、予定されていた場所ではなく、思いもよらない長い列の最後尾から始まってしまった。


 1人で並ぶ時間というのは、不思議なものだ。最初の10分ほどは、何もかもが新鮮だった。何しろ初海外。そこに見えている、ただのビルでさえ珍しい。

 天井の高い石造りの廊下。歴史を感じさせる白い壁。

 床には磨き上げられた大理石が敷かれ、モデルたちのヒールが乾いた音を響かせる。窓から差し込む午後の光は柔らかく、それでも廊下の空気は少しひんやりとしていた。

 世界中から集まったモデル達。金髪。黒髪。赤毛。褐色の肌。白い肌。

 聞こえてくる言葉も様々で、英語らしき会話もあれば、フランス語、イタリア語らしきものまで飛び交っている。そう思っただけで、実際はポルトガル語かもしれない。

 結流には、一つも分からなかった。辛うじて、幾つかの英語の単語が聞き取れるくらいか。


 それでも不思議と嫌ではない。

 むしろ少しだけ楽しかった。

 ・・・これがモデルの世界なんだ。そんな実感が、じわじわと湧いてくる。


 そしてもう一つ。周囲を見回しながら、思わず口元が緩んだ。

 みんな背が高い。180cm前後は当たり前。2m近い人までいる。ヒールをはいている人がほとんどなので、もっと高いかもしれない。

 いつも日本では背が高いですねと言われる結流が、ここではごく普通だった。視線の高さが揃っている。それだけで妙に嬉しい。今まで感じた事のない感覚だった。


 だが。

 その感動も30分を過ぎる頃には薄れ始める。

 40分。50分。そして、1時間過ぎた。

「・・・長いなぁ」

 思わず小さく呟いた。

 列は少しずつ進んでいる。

 止まっているわけではない。それでも、1人2、3分かかるだけで、この人数だ。当然、待ち時間は長くなる。

 前を見る。

 後ろを見る。

 また前を見る。

 やる事がない。

 暇だ。

 退屈だ。


 周囲ではスマホを見つめている人が多い。イヤホンを片耳だけ付けている人。SNSを眺めながら笑っている人。知り合いらしい2人組は、小さな声で談笑している。楽しそうだ。

 少し羨ましい。

 結流もショルダーバッグへ手を伸ばしかける。

 ・・・いや。

 やめよう。

 そっと手を引っ込めた。

 ここは外国だ。

 もし土屋さんと連絡が取れなくなったら。もし道に迷ったら・・・一応、泊まるホテルの名前と場所は聞いている。行こうと思えばスマホの地図を見ながらなら、何とかなるかもしれない。


 でも、その時、スマホの充電が切れていたら本当に終わる。・・・詰む。その一言が頭に浮かび、苦笑した。

「・・・日本じゃないんだもんね」

 一時の暇潰しより、何か困った時に生き残る方が大事。結局、結流はぼんやりと列の流れを眺め続けた。


 ようやく前の人が呼ばれる。

「Entrez, s'il vous plaît.」

(どうぞ、お入りください。)


 その人が部屋へ入り、ドアが閉まる。

 数分後、何事もなかったような顔で出てきた。表情からは合否など全く分からない。

 そして。

「À vous. Entrez.」

(次です。お入りください。)


 ・・・来た。

 心臓が一度だけ大きく鳴る。結流は小さく息を吐き、部屋の入口で丁寧に頭を下げた。

「アンシャンテ」

 覚えた数少ないフランス語。初めまして。幾つか覚えたうちの一つ。


 部屋の中は意外なほど質素だった。

 中央には長いランウェイ代わりだろう空間。奥には横一列に並べられたテーブル。その向こうに3人。男性が2人。女性が1人。全員が無表情で資料を見ている。


 ・・・怖い。

 そう思った瞬間、土屋さんの言葉が浮かぶ。

『向こうは百人以上も見るの。笑わないからって気にしなくていい』

 そうだ。笑わないだけだ。怒っているわけじゃない。

 結流はファイルからプロフィールを取り出し、テーブルまで真っ直ぐ歩く。両手で差し出した。

「お願いします」

 当然、日本語だ。伝わらない事は分かっている。それでも自然と口から出てしまった。

 3人は資料を受け取る。1人がページをめくる音だけが静かな部屋へ響く。そして、1人の男性が手で床の端を示した。


「Marchez de cette ligne jusqu'à la porte.」

(その端からドアまで歩いてください。)


 ・・・歩いて。多分、それだと思う。スタッフが手で前方を示し、自ら二、三歩歩く仕草を見せる。

 間違いない。結流は小さく頷き、指定されたと思われるスタート位置へ静かに立った。


 胸の奥で、鼓動がひとつ大きく鳴る。ゆっくり息を吸う。肺いっぱいに空気を入れ、長く吐き出した。

 肩の力を抜く。

 背筋をすっと伸ばす。

 顎はほんの少しだけ引く。

 目線は遠く。

 腕は力を入れすぎず、自然に。

 歩幅は一定。


 ・・・日本で何度も教えられた。土屋さんの声が耳の奥によみがえる。

『自分を見せようとしなくていい。服を見せるの』

『モデルは主役じゃない。服を一番美しく見せる人なの』


 このオーディションの話を聞いてから、何度も何度も繰り返したレッスン。ドラマ撮影の合間を縫って、鏡の前で何度も歩いた。

 その全てを思い出しながら、結流は静かに一歩を踏み出した。

 コツ・・・。ヒールが床へ触れる。

 続いて、もう一歩。床を押し返す感覚を足裏で確かめる。

 重心はぶらさない。身体の軸を一本の糸で吊られているように真っすぐ保つ。

 余計な音は立てない。滑るように。水面を風が撫でるように。焦らず、一定のリズムで前へ進む。

 視線の端に審査員たちの姿が映る。それでも見ない。

 見るのは、そのずっと先。自分だけの一本の道。

 やがてドアの前へたどり着く。静かに立ち止まり、誰にも気付かれないほど小さく息を吸った。

 そして、流れるように身体を返す。ターンは、迷いなく美しかった。


 ・・・睨んじゃダメ。

 土屋さんの声が更に蘇る。

『日本人は真顔になると睨んで見える人が多いの』

『まだアルカイックスマイルくらいの方が印象はいいわ』


 アルカイックスマイル。口角だけをほんの少し上げる。笑い過ぎない。作り過ぎない。優しく。穏やかに。結流は意識して口元だけを柔らかくし、再び歩き出した。

 視線はまっすぐ前へ。

 余計な力を抜き、そのまま静かに歩きだす。

 一歩。

 また一歩。歩幅は変えない。

 呼吸も乱さない。

 テーブルの前まで戻ると、足を揃えて静かに止まった。

 ・・・よし。

 やれる事はやった。あとは結果を待つだけだ。


 静かな時間が流れる。3人は資料を見る。一枚めくる。結流を見る。また資料を見る。

 何か言うのかと思った。

 質問。指示。・・・まあ、聞かれてもわからないし、答えられないが。フランス語は勿論、英語だって満足には話せない。


 土屋さんからは言われていた。

『Thank you.でもMerci.でも、Next.でも、言われたら終わりだと思っていいわ』

 その言葉を待つ。

 けれど・・・。

 誰も何も言わない。部屋にあるのは、紙をめくる小さな音だけ。

 沈黙だけが、静かに時間を積み重ねていく。何も言われない。


 ・・・あれ? 結流は小さく首を傾けた。

 あ。

 そうだ。思い出した。

 無言で終わる場合もある、と土屋さんは言っていた。

 それなら、・・・終わりかな。

 落ちたか。不思議なくらい落胆はなかった。勿論悔しさはある。けれど、それ以上に、ここまで来られたという思いの方が強かった。

 結流は静かに頭を下げる。

 誰にも邪魔にならないよう、足音を殺して出口へ向かった。

 仕方ない。ここまで来られただけで十分だ。


 帰国までは、まだ少し時間がある。ショー本番まで滞在する予定でホテルも押さえてある。

 せっかくパリまで来たんだ。観光くらいして帰ろう。美味しいものも食べたい。本場のクロワッサンに、焼きたてのフランスパン。熱々のオニオングラタンスープも食べてみたい。ブイヤベース。ポトフ。ガレットにコルドンブルー。

 ・・・エスカルゴは。

 うん。

 ちょっと勇気がいるかもしれない。


 凱旋門は絶対に見よう。エッフェル塔でも写真を撮りたい。ルーブル美術館は、一日あっても回り切れないって聞いた。でも、モナ・リザくらいなら見られるだろうか。

 そんな事を考え始めた、その時だった。


「・・・Wait。 Wait!」

 英語だ。思わず振り返る。

 3人のうち1人が立ち上がり、こちらへ手を振っていた。

 え?

 何?


「Essayez cette tenue, s'il vous plaît.」

(服を着てみてください。)


 結流は固まる。

「・・・?」

 全く分からない。

 スタッフが困ったように周囲を見回し、一言だけ英語を口にした。

「Fitting.」

「・・・ふぃってぃんぐ?」

 頭の中で単語が繋がる。フィッティング。服を合わせる。着替える。つまり・・・。服を着てみろ、という事だ。

 結流は何度も瞬きをした。

 ・・・え。

 これって。

 もしかして。

 合格した?


 鼓動が一気に速くなる。胸の奥で、小さな火種だった期待が、音を立てて燃え上がった。

「This way, please.」

 スタッフがそう言って手を差し出した。

 言葉は分からない。けれど、ついて来いという意味なのは伝わる。結流は小さく頭を下げ、スタッフの後ろを歩いた。


 さっきまでいた審査室とは別のドア。白い木製の扉が静かに開く。

 中へ入ると、空気が少し変わった。

 照明はさらに明るい。白い壁。白い床。窓はなく、天井一面に取り付けられたライトだけが部屋全体を均一に照らしている。

 壁際には大きな姿見。

 その反対側には背景紙が垂らされ、数台のストロボとカメラが並んでいた。

「あ・・・」

 撮影室だ。そう思った瞬間。

「Let's take a digital.」

 スタッフが何か言った。

 ・・・分からない。けれど、目の前ではカメラマンがすでにカメラを構えている。

 それだけで十分だった。写真だ。きっと。結流は背景紙の前へ立つ。

「Relax.」

「・・・はい」

 思わず日本語で返事をしてしまう。

 カシャッ。

 カシャッ、カシャッ。

 シャッター音が一定のリズムで響く。

 真正面。少し寄り。全身。胸から上。無表情のまま何枚も撮られていく。

 日本の撮影とは全然違う。

『笑ってください』『顎を少し引いて』『目線ください』

 そんな指示は一切ない。

 ただ立つだけ。その人間そのものを記録するような撮影だった。


「Turn around and show me your profile.」

(向きを変えて、横顔を見せてください)


 ・・・ターン。

 そこだけ聞き取れた。

 ターン。つまり向きを変える。

 プロフィール? ・・・多分。結流はゆっくり身体を回し、右向きになる。

 そのまま正面。反対側。後ろ姿。また正面。

 カシャッ。

 カシャッ。

 無機質なシャッター音だけが部屋へ響く。

 ・・・笑わなくていい。

 ・・・歩かなくていい。

 ・・・そのまま。

 そんな空気だった。

 数分もしないうちに撮影は終わる。

「OK.」

 スタッフが頷いた。


 その瞬間、部屋の隅が目に入る。大きなラック。何十着という服が規則正しく掛けられている。黒。白。鮮やかな赤。淡いグリーン。どう見ても日本では見かけない色合いばかりだった。

 1人のスタッフがラックへ向かい、迷いなく3着を取り出す。

 こちらへ歩いてくる。・・・と思ったら、別のスタッフが首を横に振った。

「Non.」

 2人で何か話す。最初の3着は元の場所へ戻される。そして再びラックの奥から、1着だけ取り出した。

 赤い花柄。長いシャツのようにも見える。でも、形がよく分からない。


「Fitting.」

 その一言だけは聞き取れた。

 フィッティング。着替え。そういう事か。結流は心の中で頷く。土屋さんから聞いている。

『モデル業界じゃ普通だから』『恥ずかしがってる時間なんてないわ』

 そう笑われた。

 ・・・うん。今さら照れている場合じゃない。結流はジャージのファスナーを下ろした。するりと脱ぐ。ジャージを床へ置く。

 部屋には誰も気にした様子がない。正解らしい。

 仕事。ただ、それだけ。結流も余計な事は考えず、ハーフパンツも脱いだ。残るのは下着だけ。

 カシャ、カシャ。何枚か立ち姿の写真も撮られる。

「・・・」

 少しだけ肌寒い。そんな事を思っていると、スタッフが革のような質感の黒いハーフパンツを差し出した。

「メルシー」

 受け取り、履く。サイズは驚くほどぴったりだった。

 問題は上だった。

「・・・え」

 結流は固まる。


 シャツ・・・なのか? 丈は膝近くまである。花柄。昔の図鑑に描かれていそうな植物模様。袖が4つあるように見えるけど? 胸元には大きなフリル。それが裾に向かって繋がっているような・・・。

 袖口も左右対称ではない。

 どう見ても、どこへ腕を通せばいいのか分からない。

「・・・」

 右? 左? ここ?

 いや違う。首? 違う違う。

 結流が完全に止まっていると、スタッフが苦笑した。


「Here. Put your arm through here.」

(ここに腕を通して。)


 ・・・本当に分かりません。

 申し訳なさそうに笑うしかない。

「デゾレ」

 その一言だけ口にすると、スタッフも「No problem.」と笑った。

 そして。

「Come, come.」

 まるで赤ちゃんに服を着せる母親のように、結流の手首を優しく掴み、

「Here.」

 腕を通し、

「Good.」

 反対側も通す。

 襟を整え、背中を引っ張り、最後にフリルを丁寧に広げる。

 鏡を見る。

「・・・え」


 着る前は意味が分からなかった。なのに、着た瞬間、一枚の服として完成していた。

 二段のフリルが肩から胸へ流れ、花柄が立体感を生み、長い丈が少し動くたびに柔らかく揺れる。奇抜なのに、不思議とまとまっている。

 ・・・これが高級ブランドか。

 日本なら衣装合わせで何十分も悩みそうなデザインなのに、この人たちは一瞬で選び、一瞬で着せてしまった。


「Magnifique 」

(素晴らしい)


 スタッフの一人が小さく頷く。

 すぐにまた背景紙の前へ案内された。

 カシャッ。

 カシャッ。

 今度は服の揺れも写すように何枚も撮られる。

「Walking.」

 歩いてだ。今度は迷わない。結流は自然に頷き、部屋の端まで歩く。

 ターン。戻る。服の裾が空気を切る音が微かに耳へ届く。フリルが遅れて揺れる。

 軽い。

 見た目よりずっと軽い。

「・・・面白い」

 思わず心の中で呟いた。日本では着た事もないような服なのに、不思議と歩きにくさは感じなかった。

 歩き終えると、スタッフ同士が短く言葉を交わす。1人が小さく頷いた。

「OK.」

 その一言だけだった。

 再び私服へ着替える。


 今度はもう迷わない。荷物をまとめ、丁寧に服を返す。

「メルシーボク―」

 覚えたばかりの言葉を口にすると、スタッフが笑顔で頷いた。


「De rien.」

(どういたしまして。)


 その笑顔を見て、ようやく肩の力が抜けた。

 ドアを開け、廊下へ戻る。長かったような。あっという間だったような。

 まだ何も決まっていない。

 受かったのか。

 落ちたのか。

 それすら分からない。多分、受かったのだと思うけれど。それでも結流は、自分でも気づかないうちに、ほんの少しだけ胸を張って歩いていた。


 建物の外へ出ると、夕方の柔らかな陽射しが結流を包み込んだ。

 石畳の歩道には、先ほどまで同じ建物にいたモデル達が次々と姿を現しては、それぞれの方向へ散っていく。誰かと抱き合って喜ぶ者。肩を落としたまま電話をかける者。無表情のまま足早に去っていく者。結果は誰にも分からない。

 それでも、一人ひとりが何かを抱えて、この場所を後にしていく。


 結流は周囲を見回した。

「・・・土屋さん」

 どこだろう。言葉も分からない。この人混みで、もしいなかったら本当に困る。

 少し離れたところで、見慣れた黒いスーツ姿が目に入った。

「あ」

 土屋さんだ。建物から少し離れた街路樹の下に立っている。


 だが、1人ではなかった。

 隣には、一人の男性。黒髪。彫りの深い顔立ちだが、どこか東洋系の面影もある。黒いロングコートをさらりと着こなし、長身の身体を街灯へ軽く預けて笑っていた。

 絵になる。その一言だった。

 映画のワンシーンのような2人。

 年齢は土屋さんより少し上だろうか。40歳くらい? 距離感が自然だった。結流はすぐには声を掛けず、2人の方へ歩きながら様子を窺う。


 男性が先に口を開いた。


「Ça fait longtemps.」

(久しぶりだね。)


 土屋さんは肩を竦め、小さく笑う。


「Merci de m'aider.」

(お世話になるわ。)


 男性は楽しそうに目を細めた。


「Si c'est pour toi, je peux faire ça autant de fois que tu veux.」

(君のためなら、このくらい何でもないよ。)


「Tu n'as pas changé. Tu sais toujours flatter les gens.」

(相変わらず、口が上手いわね。)


「Alors… dis-moi la vérité. Tu viens déclarer la guerre ?」

(それで、本当のところは? 殴り込みに来たのかい?)


 土屋さんは小さく吹き出した。


「Pas du tout. Cette histoire appartient au passé.」

(まさか。昔の事は、もう終わったの。)


 そう言った表情は穏やかだった。


 結流は2人の顔を交互に見る。

 2人の間に何があったんだろう。それともこれから始まるのか? 男性は腕を組み、少し真面目な顔になる。


「Mais vous avez déjà reçu votre baptême, n'est-ce pas ?」

(でも、もう洗礼は受けたみたいだね。)


 土屋さんが苦笑する。


「Oui. Nous avions reçu une invitation de la marque, et finalement on nous a envoyés à l'audition générale.」

(ええ。ブランド側からのオファーだったはずなのに、結局は一般オーディションへ回されたわ。)


 男性は困ったように息を吐く。


「Les étrangers sont toujours jugés plus sévèrement.」

(外国人には、どうしても厳しいからね。)


 土屋さんは少しだけ眉を寄せた。


「Même toi, tu dis ça… C'est donc vraiment profondément enraciné.」

(あなたまでそう言うなんて、本当に根深いわね。)


 男性は苦く笑った。


「Je suis aussi un enfant d'immigrés. Alors… je connais bien ce genre de choses.」

(俺も移民の子だからね。そういう事は嫌というほど知ってるさ。)


 2人の間に短い沈黙が流れる。

 長い付き合いなのだろう。無理に言葉を続けなくても、空気が途切れない。

 結流は少し離れた場所で立ち止まり、そんな2人を眺めた。・・・お似合いだな。ふと、そんな事を思う。並んで立つ姿が、本当に自然だった。

 互いをよく知っている距離。冗談を言い合える空気。気まずさがまるでない。無理に笑わなくてもいい。そんな月日があっただろうなって感じが伝わってくる。

 もしかして・・・元恋人、とかだったのかな。そんな考えが頭をよぎる。


 いや。

 勝手に想像してはいけない。

 仕事仲間かもしれないし、昔の同僚かもしれない。それでも、あの空気には、長い年月を共有した人間同士にしかない温度があった。


 結流は少しだけ苦笑する。自分も芸能界へ入ってから分かった事がある。長く同じ現場にいれば、恋人ではなくても特別な信頼関係が生まれる事は珍しくない。言葉にしなくても通じる瞬間とか。背中を預けられる相手とか。アドリブを入れても絶対に受け止めてくれる信頼とか。そんな人は確かに、いる。


 だから、決めつけるのはよくない。

 ・・・でも。やっぱり絵になる。結流は小さく笑った。


 ふと、一人の顔が浮かんだ。

 白銀の髪。柔らかな蜂蜜色のメッシュ。少し幼さの残る整った顔立ち。笑うとふっと目尻が下がって、子供のように無邪気な表情になる。ステージでは誰よりも輝いているのに、二人きりになるとちょっと違ったりして・・・紬さん。

 名前を思い浮かべただけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。


 会いたいな・・・。今日は、紬さんの誕生日だ。本当なら仕事を終えて、一緒に食事をして。おめでとうございますって言って、ささやかなプレゼントを渡して、そんな一日になるはずだった。


 一緒に過ごせなくなって、やっぱり怒ってるだろうな・・・。

 誕生日なのにって、少しくらい拗ねているかもしれない。いや紬さんの事だから、きっと笑って送り出してくれたはずだ。頑張ってきてって、そう言って、少しだけ寂しそうに笑う姿まで簡単に想像できてしまう。


 だから余計に胸が痛い。


 連絡したいな。せめて、メッセージを送るだけでも・・・。お誕生日おめでとうございます、その一言だけでも。でも、自分は今どこで、何をしているかは伝えられない。

 パリへ来ている事も。世界最高峰のランウェイに挑もうとしている事も。

 全部、まだ秘密だ。

 結流はショルダーバッグの中のスマホへ、そっと手を添えた。画面を開く事なく、静かに手を離す。

 ・・・帰ったら話そう。

 ちゃんと全部。その時は、きっと今日の事を誰よりも嬉しそうに聞いてくれる気がする。


 そんな事を考えていると、土屋さんがこちらへ気づいた。

「終わった?」

 ようやく仕事の顔へ戻る。

「はい」

「どうだった?」

「よく分からないです」

 正直に答えると、土屋さんは吹き出した。

「それが普通よ」

「え?」

「向こうは何も教えてくれないもの」

 男性も笑いながら頷く。


「C'est vrai. Ici, personne ne te dira si c'est bien ou mauvais.」

(その通り。ここじゃ、良かったか悪かったかなんて誰も教えてくれない。)


 結流は困ったように頭を掻いた。

「写真を撮って、服を着替えて、歩いて・・・終わりました」

 土屋さんの目が少しだけ大きくなる。

「服を着たの?」

「何着?」

「最初3着持ってきたんですけど、他のスタッフさんが首を振って、別の1着だけですけど」

 その瞬間、土屋さんと男性が目を合わせた。ほんの一瞬だけ。2人とも何かを確信したような顔になる。だが、それ以上は何も言わない。


 土屋さんはすぐに表情を戻し、微笑んだ。

「とりあえず」

 そう言って結流の肩を軽く叩く。

「今日はお疲れさま」

 その一言だけで十分だった。

 結流はまだ知らない。


 フィッティングを行う。それが、この世界ではオーディションを通過したという意味を持つ事を。ただ、フィッティングまで行ったからといって、ランウエイを歩く確約にもならない事も。



 翌朝。

 パリの街は、まだゆっくりと目を覚まし始めたばかりだった。

 石畳の通りには朝露がわずかに残り、カフェのテラス席では店員たちが白いテーブルクロスを整えている。焼きたてのクロワッサンの香りと、挽きたてのコーヒーの香ばしい匂いが風に乗って漂い、街全体が穏やかな時間に包まれていた。


 残念ながら、結流と土屋さんは室内。テラス席に座ろうとしたら、日本で聞いていた通りやんわりと室内に誘導された。これでも、まだマシな方らしい。土屋さんがフランス語を話せているから。


 気持ちを切り替えて、目の前のクロワッサンを見つめる。

「・・・これ、本当に美味しい」

 思わず頬が緩む。

 外はさくさく。中は驚くほどしっとりしていて、噛むたびにバターの香りが口いっぱいへ広がる。日本で食べるクロワッサンとは別物だった。

 土屋さんはカフェオレを口に運びながら、小さく笑う。

「本場だからね」

「毎日これ食べたいです」

「いいけど。一週間もしたら、お米が恋しくなるわよ」

「まぁ・・・確かに」

 2人で笑う。

 ようやく肩の力が抜けた朝だった。昨日のオーディション。結果は分からない。

 けれど、終わった。

 もう今日は気分を切り替えて観光だ。凱旋門。エッフェル塔。ルーブル美術館。時間があればセーヌ川も歩いてみたい。シャンゼリゼ通りとか。

 そんな予定を2人で話していると・・・。


 ♪♪

 土屋さんのスマホが鳴った。画面を見るなり、土屋さんが少し眉を上げる。

「・・・何かしら」


「Allô ?」

(もしもし?)


 スマホの向こうから、聞き覚えのない男性の声が響く。


「Tu devrais prévenir Yūkiru. Il va défiler pour Nient.」

(結流に伝えた方がいい。Nientのランウェイを歩く事になったぞ。)


 土屋さんの動きが止まる。


「Pardon ?」

(・・・は?)


 結流はクロワッサンを持ったまま固まった。何かあった。それだけは表情で分かる。それに今、確かにユキルと聞こえた。

 電話の向こうから、楽しそうな男性の声が続く。


「J'avais indiqué ton numéro comme contact ici, à Paris, tu te souviens ? Comme nos agences sont partenaires, ils devaient aussi passer par nous. Ce matin, ils nous ont appelés pour confirmer.」

(パリでの連絡先を君にしていただろう? 提携している関係だから、こちらの事務所にも連絡を通すようにしてあったんだ。今朝、確認の電話がこちらに入った。)


 土屋さんは黙る。数秒。本当に言葉を失っているようだった。

 男性の笑い声。


「Au fait, je leur ai aussi glissé une petite remarque.」

(ついでに、嫌味も言っておいてやったぞ。)


「・・・」


「Je leur ai rappelé que l'invitation venait de l'équipe de design, et pourtant ils l'ont envoyé à l'audition générale. Ils avaient l'air complètement paniqués. Je pense que cette histoire n'est pas encore terminée.」

(デザインチームから直接オファーが来たのに、一般オーディションに参加させたってね。向こうは相当慌てていたよ。まだ一波乱ありそうだ。)


「Je n'en veux pas.」

(いらないわよ。)


 土屋さんは深いため息をついた。


「Maintenant qu'on est arrivés jusque-là, je veux juste qu'il porte une tenue, qu'il marche normalement, puis qu'on fasse un peu de tourisme avant de rentrer tranquillement au Japon.」

(ここまで来たら、普通に一着着て、何事もなく歩いて。それから少し観光して、無事に日本へ帰れれば、それでいいの。)


 更に男性の笑い声。これだけ長く通話しているって事は、昨日の男性だろうか。


「Où voulez-vous aller ? Je peux vous servir de guide.」

(どこへ行きたいんだ? 案内してやるよ。)


 土屋さんが結流の方をちらりと見る。


「Il veut voir l'Arc de Triomphe et le musée du Louvre.」

(この子、凱旋門とルーブル美術館へ行きたいんですって。)


 電話の向こうから、すぐに返事が返ってきた。


「Quel programme de touristes provinciaux !」

(なんて田舎者の観光コースなんだ!)


 結流は意味も分からず首を傾げる。

 土屋さんだけが苦笑した。


「C'est son premier voyage à l'étranger.」

(初めての海外だからね。)


 男性は少し真面目な声になる。


「Deux femmes seules, ce n'est pas prudent. Je viendrai avec vous. Dis-moi simplement votre programme.」

(女性2人だけじゃ危ないよ。俺も一緒について行く。日程を教えてくれ。)


 土屋さんはしばらく何か話し、最後に短く返事をした。


「D'accord. Merci.」

(分かったわ。ありがとう。)


 通話が切れる。

 静かな朝が戻る。

 だが、土屋さんはスマホを見つめたまま動かない。

「・・・土屋さん?」

 結流はおそるおそる声を掛ける。

 土屋はゆっくり顔を上げた。

「結流ちゃん」

「はい」

「今日の午後2時」

 深く、深く息を吐いた。

「パリ装飾美術館」

「・・・はぁ」


 聞いた事のない名前だった。少なくとも2人で立てた観光予定には入っていない。

「えっと・・・そこ、行きたい場所に入ってましたっけ?」

「入ってない」

 土屋さんはきっぱりと言い切る。そして、静かに微笑んだ。


「Nientのランウェイ、歩くわよ」


 その言葉を聞いた瞬間、時間が止まった。

「・・・え?」

 結流の頭は真っ白になる。ランウェイ? 自分が?

「昨日・・・一般オーディション、でしたよね?」

「そう」

「落ちたんじゃ・・・」

「どうやら、落ちてなかったみたい」

 土屋さんは肩をすくめる。

「しかも、デザインチームのオファーだった事も確認が取れた」

「・・・」


 結流は何も言えなかった。もう落ちたと思って観光しか考えていなかった。

 凱旋門で写真を撮ろう。エッフェル塔も見よう。ルーブル美術館は混んでるかな。お土産選びも楽しいってネットに書いてあった。サモトラケのニケの置物がいいかな? 青いカバも捨てがたい。名画のスカーフやトートバッグもいろいろあるって・・・。

 そんな事ばかり考えていたのに。

 一夜明けたら、予定は全部ひっくり返っていた。


 土屋さんはカップに残ったカフェオレを飲み干し、立ち上がる。

「観光は、」

 結流を見る。

「終わってから、できたらいいわね」

 その笑顔に、少しだけ申し訳なさが混じっていた。・・・それって、出来ないやつ・・・。


 結流は凱旋門の写真を開いていたスマホを静かに閉じる。

 胸の鼓動が、また少しずつ速くなっていく。観光旅行は、どうやら始まる前にもう終わったらしい。

 これから始まるのは・・・世界最高峰のランウェイだった。


「そうと決まれば、今のうちにしっかり食べておかないと。結流ちゃん、おなかすくわよ」

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― 新着の感想 ―
 時司 龍さん、こんにちは。 「11番目のランウエイ ~ステップ・バイno.4(前半)」拝読致しました。  前後編で、完結編ですね。まずは連載完結、お疲れさまでした。  初めての海外。まさか、…
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