第8話:【算出】神の領域の山田さん
小会議室に、異様な熱気と電卓を叩く音が響く。
真っ白なExcelシートの前で、榎木と凛は「算出」ではなく「予言」の領域に足を踏み入れていたのだ。
「佐倉さん。やはり私は、人様の寿命を勝手に決めるなんてできないよ。バチが当たる……!」
榎木が祈るように両手を組む。
「榎木さん、佐藤先輩が言ってるLTV(顧客生涯価値)は、期間が必要なんです。このアンケートのA子さん。統計局のデータによれば……あと59年分はお支払いを計算に入れないと!」
「59年!? 私なんてその頃にはもう……。佐倉さん、名案がある。A子さん、『長風呂してます』って書いてる。これは100歳まで計算に入れてもいいんじゃないか?」
凛に物理的に避けられ、少し離れた位置で蚊帳の外になっている佐藤。
(統計局のデータを見てるのになぜ……。まさかとは思うけど、本当に個人の寿命から計算してないよな? 概念的な平均値で出せって言ったつもりだったけど)
「そもそも、59年も今のプランを使い続けてくれますかね。途中でIHに変えちゃうかもしれないし、他社に乗り換えるかも……。ああ! これが『顧客の生涯を予測しろ』ってことなんですね。重すぎる仕事ですね!」
そこへ、榎木が何かに取り憑かれたような目で身を乗り出した。
「本当だ!大事なことだ! こっちのB男さんは『最近、腰が痛くて……』と書いてある。これは将来的にリフォームの需要ソリューションが発生する可能性があるぞ。……しかし、腰痛は長生きの敵かもしれん。ううむ、80歳で計算しておくか……」
(……正解じゃない。いや、不正解どころか、僕の言ったことの1ミリも伝わってない)
「この人は趣味がウォーキングだから、あと10年は上乗せだ!」
二人のやり取りが、もはや「顧客の生涯」を勝手に決める神の領域に踏み込みかけたその時。
トントン、トントン……。
静かな会議室に、佐藤が指先で机を叩く音が鋭く響き始めた。
あまりの威圧感に、二人がハッとして動きを止める。
佐藤は左手でこめかみを強く押さえ、画面を睨みつけたまま固まっていた。
「統計、って言葉……知ってますか?」
「…………榎木さん。佐倉さん。いちいち個人の健康状態をエクセルに打ち込んで、寿命を予言しなくていいんです。それはLTVじゃありません」
「え、でも、生涯の価値を出すには……」
「それは、保険会社のやることです。僕たちの仕事じゃない」
佐藤の冷徹な、けれど真っ当な一言が室内の空気を凍らせた。
「長風呂だからプラス10年なんていう不確かな数字を並べても、本部のハンコは一歩も前に進みません。今日、会議室押さえたのもただの時間の浪費です」
反論されるかと思ったが、凛はスマホを置き、真っ直ぐに佐藤を見た。
「……すいませんでした。ふざけていたわけじゃないんです。やり方や言葉を知らなかっただけで……。佐藤先輩が導いてくれるなら、真面目に聞きます。やり直し、させてください」
凛の淀みのない言葉に、佐藤はふっと毒気を抜かれた。
(また、難しい言葉をーとかって反抗されるかと思った……)
「あの、一応同じ社員として同じ所属として僕はいるので、頼ってください……。まずは『セグメント』に分けましょう。属性で括る。たとえばこの関数を……」
佐藤が説明を始めた、その時だった。
「ほうほう、属性とな! どれどれ……」
「セグメント、ですね。覚えなきゃ……」
ぐいっ、と左右から凄まじい圧力がかかった。
凛はもう椅子二個分の距離を空けてはいなかった。榎木までもが反対側から身を乗り出してきた。
佐藤の視界の端で、若々しい凛の頭と、少し……いやかなり心もとなくなってきた榎木の頭が、B5サイズのPC画面を挟み込むように密着する。
(……ち、近い)
凛のシャンプーの香りと、榎木のトニックの香りが混ざり合う。
「きょ、画面共有するから……! 一旦、離れて……!」
佐藤が引きつった声で懇願したが、二人の知的好奇心は止まらない。
「いいから続けてくれ、佐藤くん! この『せぐめんと』で、長風呂の山田さんは救えるのかね!?」
「榎木さん、山田さんは一旦忘れてください! 先輩、ここをクリックですか?」
凛は数式やら言葉の全てをメモしいく。
その前のページには今まで聞いてきた構文・横文字が全て翻訳されている。
(なんだそのデスノートは……こわい)
二人の頭がさらにぐいぐいと寄ってくる。
佐藤は観念し、キーボードを叩き続けた。
――数時間後。
「よし、宿題完成だ! お先に失礼!」
榎木が嵐のように打ちっぱなしへと去っていき、小会議室には佐藤と凛だけが残された。
急に静まり返った室内で、佐藤はどっと出た疲れを隠すように椅子に深く背を預けた。
鼻が麻痺してるか確かめる為に、ハンドクリームを塗り込み嗅いでみる。
隣では、凛が先ほどまで必死に書き殴っていたノートを閉じ、満足げに一つ息をついている。
「……佐倉さん。それ、後で見せてもらってもいい?」
「え? ああ、これですか」
凛が差し出したノートの最新ページには、佐藤が教えた『セグメント』や『ロジック』が、彼女なりの「現場用語」に変換されてびっしりと書き込まれていた。
その前のページには、今まで佐藤が放った横文字の数々が、血の滲むような勢いで翻訳されている。
相関図みたいなのもある。
武藤=小職(少食じゃない)
田中=小生(多分、佐藤の敵)
(……やっぱりこわい。これ、いつか僕が刺される時に使われるやつじゃないか?)
佐藤が戦慄していると、凛は「んーーっ!」と両腕を高く上げて大きく伸びをした。
そのまま、くるりと椅子を回転させて佐藤の方へ向き直る。
その表情には、朝からあった「都会アレルギー」のトゲはもう微塵もなかった。
「佐藤先輩。お腹、空きませんか?」
「え? まあ、確かに……もうこんな時間だしね」
「牛丼、食べにいきましょう! 近くに、提供スピードが爆速で、コスパ最強(バリューが高い)な店があるんです!」
「え? ……牛丼??」
佐藤は思わず聞き返した。
(鳴凪は牛丼デートがマストなのか?)
凛は「はい! 爆速・コスパ最強のロジックです!」と自信満々に胸を張る。
だが、佐藤はふと、彼女の横顔を見た。
朝から新たな本社からのルールに馴染もうと必死で、不慣れな横文字を「デスノート」に書き殴り、数時間前には「神の領域」で寿命を計算していた、この真っ直ぐな後輩。
……今日は、金曜日だ。
(今日くらいは、牛丼じゃなくていいだろう)
「……佐倉さん。ちょっと待って、時間大丈夫? 実家から通ってるんだよね?」
「え? そうですけど、今日は金曜日なので。帰って映画観るくらいしか予定ないですから、空いてます!」
「……あ、じゃあ」
佐藤は何かを思いついたように、すっとスマホを取り出した。
歩きながら手慣れた指つきで画面を操作し、耳に当てる。
「もしもし。……今から二人空いてますか? ……ええ、ええ……では30分後で、よろしくお願いします。」
短いやり取りを終え、佐藤はスマホをポケットにしまった。
「牛丼は、また今度。今日はもっと『セグメント』の違うお店に行こう」
「えっ、どこですか……?」
「行けばわかるよ。佐倉さんがきっと驚くような、鳴凪のサラダの美味しい店だ」
「デート」なんて言葉は口が裂けても言えなかったが、佐藤の足取りは少しだけ軽くなっていた。
凛は「サラダ……?」と首を傾げながらも、佐藤の背中を追って夜の鳴凪へと踏み出した。




