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ハイスペ佐藤くん、この恋だけはポンコツです〜五月雨式に失礼いたします〜  作者: サミダレもふ太
第一章

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第9話:【毒と牙】サラダは草ではないと知る夜

 佐藤に連れられてやってきたのは、鳴凪支店から車で少し走った場所にある、古い蔵を改装した隠れ家のようなイタリアンだった。


 磨き上げられたグラス、控えめな暖色の照明。


 牛丼屋の「爆速ロジック」とは真逆の、ゆったりとした時間が流れている。


「……あの、佐藤先輩」


「ん?」


「ここ、床がツルツルしてません。あと、カウンターに紅生姜の容器が見当たらないんですけど」


 凛は借りてきた猫のように背中を丸めて座っている。


 でも服装はちゃんと『ちょっとしたパーティー』にお呼ばれされた人だ。

 

 道中の車内。


 彼女が語った「特別な外食」は、入社以来、榎木が少ないお小遣いをやりくりして「佐倉さん、今日もお疲れさん!」と連れて行ってくれる牛丼屋だった。


 子会社化の波に飲まれ、親会社から理解不能な横文字を浴びせられ、システム入れ替えや社名変更手続きといった残業の嵐。


 そして現場を否定され続けた二年間。


 そんな荒んだ日々の中で、榎木のお小遣いで食べる熱々の牛丼だけが、彼女にとって唯一の、そして最高のご褒美だったのだ。


「ここは紅生姜じゃなくて、これ。ふふ……前菜のサラダだよ」


 運ばれてきたのは、地元の瑞々しい野菜が、まるで絵画のように盛り付けられた一皿。


 凛は、かつて自分が「都会の女が食べる草」と毒づいたものとは全く別物の輝きに、目を丸くした。


「……綺麗。これ、写真撮ってもいいですか? 榎木さんに見せたら、絶対『これは食品サンプルか?』って疑われますね」


 佐藤が頷くと、凛はスマホを構えた。


 だが、いつも仕事で補助金申請用の現場写真を撮る時の手際の良さはどこへやら、料理を前にすると途端に手元がおぼつかなくなっている。


「……先輩、これ、どうすれば『こなれ感』が出ますか? 私が撮ると、なんだか工事現場の記録写真みたいになっちゃうんですけど」


「貸して。……こう、少し斜めから光を入れて。ほら」


「あ、すごい! 魔法みたいです! ……じゃあ、次、私が入るように撮ってください!」


 凛が椅子を少しだけ佐藤の方へ寄せて、料理の横でピースサインを作った。


 都会アレルギーだなんだと毒づいていたはずの彼女が、今はまるで修学旅行に来た女子高生のように目を輝かせて、佐藤の顔を覗き込んでいる。


「佐藤先輩、もっとこっち! 画角に入りきらないですよ。……あ、もうちょっとだけ、寄ってください……!」


 グイッ、と服の袖を引かれる。


 小会議室で画面を覗き込まれた時よりも、さらに近い。


 画面越しに見える彼女の笑顔は、オフィスで見せる「毒を吐く凛」ではなく、ただの「佐倉凛」だった。


(……なんだ、かわいいかよ)


 佐藤は、呆れ半分、感心半分でシャッターを切った。


 と同時に、その無邪気な姿を見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。


(そうか。彼女はずっと、最前線で盾を持っていたんだな)


 あの日からずっと、彼女が放っていた「恨みのような毒」。あれは彼女自身の本性ではなく、急激な変貌を強いられた現場のおじさんたちが抱えていた「怨嗟(えんさ)」そのものだったのだ。


 言葉を持たないおじさんたちが悔しさに唇を噛む姿を、凛は一番近くで見続けてきた。


 だから彼女は、おじさんたちの代わり牙を剥くしかなかった。


(それにしても、榎木さん……。牛丼以外も食わせてやれよ。こんなに喜ぶならさ)


 佐藤は、彼女に「牛丼以外の世界」を教えてこなかった榎木に、心の中で小さなツッコミを入れた。


 けれど、その牛丼が彼女の心を救ってきたことも、今の彼女の強さを作ったことも、痛いほど理解できていた。


「佐藤先輩! 早く送ってくださいね、この写真!保存して、ノートの表紙にしますから」


「……そこは、普通に保存しててよ」


 デザートまで完食した凛はその写真を榎木に送信した。


 すぐにスマホが震える。


 画面には、打ちっぱなしの後の飲み会だろうか、例の「オフィスジュアル」に身を包んだおじさんたちが、赤ら顔でジョッキを掲げている写真が映し出されていた。


「……なんだ。みんな、楽しそうですね」


 凛の声は、祈りにも似た安堵に満ちていた。


 彼女が守りたかった「おじさんたちの尊厳」は、壊されるどころか、新しい「遊び」を見つけて息を吹き返していた。


 結局、反抗していたはずの「本部のルール」に、誰よりも適応し、楽しんでいる。


「佐藤先輩。……これが、先輩の言っていた『顧客の生涯価値』なんですね。……やっと、本当の意味で分かりました」


 佐藤は、彼女の言葉に一瞬息を呑んだ。


 昼間、小会議室で「山田さんは長風呂だからプラス10年だ」と神の領域に踏み込んでいた彼女は、もういない。


 目の前の料理に感動し、写真を撮り、遠くにいる榎木たちの笑顔を願う。


 そんな「当たり前の幸せ」をどれだけ積み上げ、どれだけ持続させられるか。その積み重ねこそが、本部の人間が言うLTVの、正体なのだ。


「……佐藤先輩。私、次の定例会議、もっと頑張れそうな気がします」


 佐藤は優しく微笑んだ。


 また、ノートに翻訳された鋭いロジックで戦う日が来る。


 けれど、今夜だけは、オフィスカジュアルを身にまとい、この「華やかで、少しだけ優しい世界」の余韻に浸っていた。

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