第40話:【長期投資】納豆の糸と五千円の誓い
親睦旅行組が旅立ち、お留守番二日目のガランとした鳴凪支店。
凛はデスクで、家から持参した白米と納豆、さらに真っ茶色な漬物を広げている。
(((……納豆。デスクで納豆を食べるのは、コンプライアンス的にどうなのだろうか……)))
僕は内心で毒づきながら、自分のルーティンである昼食を口に運ぶ。
家でまとめて炊いて冷凍している「もち麦と玄米のおにぎり」、そしてサラダチキンとブロッコリー。
外で食べない時は、この無駄のないメニューが僕の最適解だ。
「……佐藤先輩。どうしたらお金って貯まるんでしょう? 貯めてるつもりでも、口座にあるとついついつかっちゃうんです!」
凛は箸で納豆の糸を器用に巻き取りながら、切実な顔で訴えてきた。
僕はイントラネットの右上で、年初来高値を更新し続けている自社株のチャートを見る。
「……佐倉さん。子会社化したときに、持株会には加入してる?」
「カブ……? なんですか、それ。美味しいんですか?」
(((……ここの人たちは、本部主催の研修中、全部寝ているのか?)))
これでは、おそらく企業年金や将来の備えといった仕組みも一切理解していないに違いない。
二万円の参加費すら出せなかった凛の未来に、僕はかすかな恐怖すら覚えた。
「あれば使ってしまう人には、給与から強制的に引かれる仕組みが必要です。毎月二千円でいいから積み立てて下さい。会社からも奨励金という名のおまけが十パーセント付きますから」
「おまけ! お金が増えるんですか!? やります、私、その『カブ』にすぐ入ります!」
凛は鼻息荒く加入届をダウンロードし書き始めたが……。
(……僕は知っている。)
今の株価が二千五百円である以上、彼女の二千円では二ヶ月に一株を買うのがやっとだ。
「加入するのはいいけど、それを現金化するには百株揃えなければいけない。計算すると約十年です。あなたは今日から十年間、その二千円には指一本触れられない。これが市場の罠、『資金拘束』です。大丈夫ですか?」
「じゅうねん……! 私の二千円、出戻り禁止ですか!?」
「うん。だけど、その間に配当金が勝手に再投資されます。十年前のあなたが浪費していたはずの二千円が、十年後に『ささやかな老後資金』を届けてくれる。未来の自分への仕送りです」
「未来の、私への、仕送り……。わ、分かりました。十年後の私が、美味しいカニを食べられるように頑張ります!」
感銘を受けたのか、凛はさらに身を乗り出してきた。
「佐藤先輩! 私、やる気出てきました!なら 五千円……いや、一気に一万円くらい行っちゃってもいいですかね!?」
言うが早いか、彼女は秘密であるはずの給与明細のPDFを印刷し、僕のデスクに無防備に放り出した。
(((……なぜ給与明細を。普通、非公開にするものを、どうして堂々と見せてくるんだ……あっ……)))
地方のリアルを見た。
僕の顔は今、絶望した表情でパソコンを見つめている転職口コミサイトのバナー広告のようになっているに違いない。
突き出されたままの彼女の「戦績」を薄めで見ながら慎重に分析する。
基本給から引かれている項目……生命保険、車の任意保険。あとはガス料金と電気料金が天引きされている。
(((……手取り13万。そこから「マッスル猫」の限定グッズを大人買いすれば、当然、月末の残高は2,000円という壊滅的な数値を叩き出すわけだ……)))
(実家住まいだから光熱費を負担しているのか)
地方の車社会という維持コストと、家族への貢献。低空飛行な基本給の残滓で、彼女はカニカマや家から持ってきた米と納豆でやりくりしているのだ。
ただ、一つだけ救いがあった。
(((……良かった。システムは理解していないだろうが、企業年金の個人掛け金が三千円だけある。どうせデフォルト設定のバランス型だろうから、あとでスイッチングを――)))
「……この明細を見る限り、一万円以上の積み立ては自殺行為ですね。キャッシュフローが完全に停止します。頑張って、五千円。それが人間らしい生活を維持しながら未来に種を蒔ける、ギリギリのラインです」
「五千円……。先輩がそう言うなら、それが私の正解なんですね」
凛は納得したように頷き、五千円と書き込んだ書類を大切そうに抱えた。
「五千円を十年間続ければ、奨励金と年五十六円の配当を合わせて七十万円以上になります。佐倉さんが親睦旅行の二万円に泣いた、その三十五倍以上の資産になるよ」
「三十五倍! 七十万! 十年後の私、大富豪じゃないですか!」
納豆の香りが残るオフィスで、七十万円の未来に胸を膨らませる凛。
僕が南青山で一日に使う金額と大差ない、その「大金」を彼女は十年の歳月をかけて作ろうとしている。
(((……ふぅ。実家にお金を入れながら、自分の将来も守ろうとするその健気なポートフォリオ、僕がファイナンシャルプランナーとして最後まで管理(見守)ってあげる必要がありそうだ……)))
十年後の北海道。
その時、彼女の隣で「ほら、あなたの五千円がこのカニに化けたんですよ」と笑ってやるのが、僕のこれからの十年で最も重要な「長期投資」になるのかもしれない。
「……さあ、そろそろお昼休憩が終わります。五千円分の価値を生み出す企画を考えましょう!」
「はーい! 投資家・凛、頑張りまーす!」
元気よく給湯室に納豆の容器を捨てにいく凛を見つめ、僕は自分の「おにぎり」の最後の一口を、ゆっくりと噛み締めた。
(((……いや)))
僕はふと、我に返る。
二年の任期で本社に戻る僕が、十年後、この鳴凪支店にいるはずがない。
――僕はここに、十年後はいない。




