第37話:【再起動】甘いアレルギーへのアップデート
目を瞑ると、闇の向こうから彼女の声が聞こえてくる。
『巧くん……。』
『……ふふっ、ウケますね!』
「……くっ、寝かせろ……」
寝返りを打つと、昨夜の彼女の微かな体温と、あのマッスル猫のシュールな残像が脳裏に焼き付いて離れない。
朝。
アラームの音が、新しい一日の始まりを告げる。
「……駄目だ。仕事、行きたくない」
僕はまた、あの時と同じ言葉を口にしていた。
けれど、あの日と細胞に含まれる「成分」が全く違う。
かつては「凛ちゃんアレルギー」に震え、逃げ出すための航空券をポチった。
だが今は、鳴凪支店の二階フロアにある「あの席」で、彼女がどんな顔をして僕を待っているのか――それを想像するだけで、心臓の鼓動が制御不能に陥っているのだ。
(((……凛ちゃん過敏症)))
脳内で、疾患名が更新された。
自律神経を破壊する毒素ではなく、僕の理屈を根本から溶かす劇薬。
(行きたくない。……いや、行きたいのか? どっちなんだ。この僕が、こんなにも「未確定な変数」に振り回されるなんて)
身支度を終え、鏡を見る。あの時、防御のために深く引き上げた「不織布マスク」は、もう必要ない。
なんだか今日は、異常に暑い。
僕はカシミヤの鎧を脱ぎ捨て、ジャケットも羽織らず、ただのシャツ一枚で、彼女のいる死地――いや、聖域へと向かう。
車を走らせ、支店の扉を開ける。
「……おはようございます」
彼女は、いた。
きちんといつも通り、僕より早く出社し、いつも通り自分の席に座っている。
だが。
「……ぉ、ぉはようござぃます……」
返ってきたのは、消え入りそうな、くぐもった声。
「え……?」
そこにいたのは、あろうことか白い不織布マスクを鼻先まで引き上げ、さらに度の強そうな眼鏡をかけた凛だった。
ハァ、ハァ、と緊張のせいか呼吸が荒く、吐息でレンズが真っ白に曇っている。
「佐倉さん、どうしたんですかその格好。……風邪ですか?」
「ぃ、ぃぇ……っ。風邪じゃ、なぃです。……アレルギー、みたいです! 新種の……っ」
(((……まさか、た、巧ちゃまアレルギーか……っ!!!)))
かつて僕が彼女を拒絶するために装備した「マスク」を、今度は彼女が僕を直視したくないがために装備している。
僕の心臓はさらに激しく、不規則なリズムを刻み始めた。
ハァー……と凛が息を吐くたび、眼鏡が真っ白にホワイトアウトし、もはや前が見えていないはずなのに、彼女は猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
「佐倉さん、危ないですよ。眼鏡、外したらどうですか。……というか、今までコンタクトでした?」
「裸眼です。2.0です。お父さんの老眼鏡です」
「目に悪いよ。せっかくサバンナを見渡せるくらい視力あるのに」
「外せません! 外したら……っ、先輩の『解像度』が上がっちゃうじゃないですかっ!」
「解像度……?」
「い、今の私には、先輩は4Kどころか8Kの解像度なんです! だから、わざとアナログに落として、先輩に『強めのスクランブル』かけてるんです! そうしないと視神経から直接脳を焼かれます!」
ハァ、と彼女が吐き出した必死の熱気で、レンズはもはや視界ゼロの完全な白壁と化している。
「……スクランブルって。佐倉さん、それじゃ仕事の画面も見えてないでしょう」
「いいんです! 心の眼で入力してるんで大丈夫です!」
ふと彼女のPC画面を覗くと、そこにはワードで出力された、自己分析のような誤字脱字だらけの怪文書が並んでいた。
よく見ると、僕の名前がいくつか執拗に入力されている。
(((……僕より重篤なアレルギーだ。)))
「全然大丈夫じゃないよ!」
「8Kの解像度」という概念が彼女のアレルギーを悪化させている。
するとそこへ、右手に乳酸菌飲料、左手にプレーンヨーグルトを掲げた榎木さんが、のんびりと乱入(出社)してきた。
「おやぁ? 佐倉さん、今日はえらく防護レベルが高いね。それと佐藤くん、そのシャツ……ボタン、一個掛け違えてない?」
「「っ……!!」」
その指摘に僕は、反射的に喉元を隠した。
一方の凛は、榎木さんの声にすら過剰反応し、椅子をガタンと鳴らして立ち上がる。
「え、榎木さん! おはようございます! 今日の佐藤先輩は、画質が良すぎて目に毒ですから気をつけてください!」
「が、画質……? いやぁ、佐藤くんはボタンがカクカクしてて、むしろ低解像度だけどねぇ」
榎木さんは、僕たちが昨夜、車内でどれほど「非論理的アナログ」な熱をぶつけ合ったかなど、1ドットも知らない。
(((……助けてくれ、榎木。その『フローラ優先』な鈍感さが、今は唯一の救いだ……)))
僕は冷静さとボタンを直すために、逃げるように給湯室へと向かった。
震える手でスマホを取り出し、凛(マッスル猫)にメッセージを飛ばす。
『――給湯室へ来てください』
送信した直後、オフィスの向こうで『ピコン!』と乾いた音が響いた。
バタン、ドタン、ビタン。
視界ゼロの老眼鏡で、あちこちのデスクや備品に激突しながら近づいてくる足音。
「……あぶないよ!」
給湯室に飛び込んできた凛を、僕は咄嗟に抱きとめた。
「な、なんでしょう……巧ちゃま。……あ、佐藤先輩」
「佐倉さん。……このままでは、良くないです。真面目な話」
僕は、彼女の肩を掴んで距離を置いた。
「業務に支障が出るレベルなら、昨夜のことは全部忘れましょう。リセット……です。お互いに、一回なかったことに」
僕が絞り出した浮気男の言い訳のような「論理的解決策」に、凛の肩がビクリと跳ねた。
「じ、示談……ですか?」
少し悲しそうに、震える声。
ああ、この人は――。
僕はたまらず、彼女の顔を覆っていた「お父さんの老眼鏡」を外した。
続けて、彼女の口元を隠していた「不織布マスク」を、ゆっくりと引き下げる。
そこに現れたのは、汗をかいて火照り、寂しそうに下唇を噛む、あまりに無防備で高精細な彼女の素顔。
スクランブルが解除された、「16K」の凛。
「……佐倉さ……」
僕がその熱に手を伸ばそうとした、その時。
「おーい、佐藤! 親睦会の予算で確認したいことが……って、うわあああああ!?」
背後で、給湯室のドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、空気の読めなさにおいて右に出る者はいない、高橋だった。
「な、ななな……何してんの会社で! 佐藤、それ(事後みたいな佐倉さんの顔)……ッ!? お前、ついにハイスペックの皮を脱ぎ捨てて職権乱用か!?」
「…………高橋」
僕はゆっくりと、剥き出しの殺意を込めて振り返った。
シャツのボタンは掛け違い、呼吸は乱れ、片手には老眼鏡とマスクを握りしめている。
客観的に見て、僕は言い逃れできないほど真っ黒だ。
「ちょっと、表へ出ろ。また変な噂を流したら今度こそは……」
「ひっ……!? 佐藤、目がガチすぎて怖いって! じゃあ佐倉さんは、なんでそんなに茹で上がっての! 会社です、ここ!」
凛は、高橋の叫び声で正気に戻ったのか、あるいは逆に戻りすぎて回路がショートしたのか。
「あ……あ、あぅ……っ! 示談交渉受け入れますですぅ……っ!!」
彼女は僕の手から老眼鏡をひったくると、上下逆さまのまま装着し、今度は「バタン、ドタン、ドシャッ」と派手な音を立ててオフィスへと逃げ帰っていった。
(……はぁ。結局またこうなる。)
その時。
ポケットの中のスマホが、狂ったように震えだした。
『ブブブブブブッ!!』
僕は高橋を無視して、画面を開く。
そこには、例の筋骨隆々な「マッスル猫」のアイコンと共に、意味不明なスタンプが五月雨式に投下されていた。
「お、えぇ!!」
マッスル猫が咆哮し、土下座し、プロテインをシェイクし、宇宙を漂う――。
錯乱しているのが一目でわかる、脈絡のない通知の嵐。
(ちょっと……、ちょっと待って。ログが追えない)
だが、その濁流のようなスタンプの最後に、たった一行。
静かな、けれど彼女が一生懸命入力したであろうメッセージが届いた。
『私は、なかったことにしたくないです』
「…………っ」
ドクン、と心臓が一度、大きく跳ねた。
オフィスで、顔を真っ赤にしてキーボードを叩く彼女がいる。
(示談、交渉決裂)
彼女に狂わされ、僕にログを刻みつけるこの状態。
もう二度と元には戻せない。
「……で、佐藤。マジで何してたの? 社内報にアップしちゃうよ?」
勝ち誇った顔でスマホを構え、僕をからかい続ける高橋を無視し、彼女の待つ「聖域」へと、真っ直ぐに足を踏み出した。




