第35話:【残像】強制終了のあとの静寂
結局、午後は本部の新人二人に動画編集ソフトの基本操作と生成AIの活用方法を簡単にレクチャーしただけで終わってしまった。
視察を終えた彼らは、嵐のような賑やかさを残して、最終便の飛行機で帰路についた。
空港の搭乗ゲートで見送る際、松本さんは『近いうちにまた』と軽く手を振り、中山さんは最後まで「佐倉さん、またスタンプ送りますからね!」と手を大きく振っていた。
私の隣に立つ佐藤先輩の温度は、もはや絶対零度を超えていた。
……そして今、空港からの帰り道。
先輩が運転する車の助手席で、私は逃げ場のない沈黙に押し潰されていた。
(時間を巻き戻したい……)
窓の外、夜の道路を流れていくオレンジ色の光をぼんやりと見つめる。
車内には、微かに先輩の香水の匂いと、昨夜の記憶を呼び起こすような静かなエンジン音だけが響いている。
(なんて余計なことをしたんだろう。私、バカすぎる。……変な焼きもち、やかなかったら良かった)
元カノの話が聞こえてきて、勝手に惨めになって。
その腹いせに中山さんをダシにしたり、あろうことか勢いで先輩に抱きついたり。
ハイスペックで常に合理的なこの人にとって、昨夜の私の行動は、解析不能で迷惑な行為でしかなかったのだ。
(……嫌われちゃった。自業自得だよね。あんな、バカみたいなことして)
ハンドルを握る先輩の手元、袖口から覗くのは、私があげた不釣り合いなあの時計。
一分一秒を正確に刻むその時計が、今の私には、先輩のとの関係を巻き戻せない宣告されているようだった。
「………つく。本当に、むかつく」
不意に、低く、地を這うような声がした。
「……え、なんですか?」
聞き返したときには、車はすでに路肩に停まり、規則的なハザードランプの音が静かな車内に響いていた。
先輩の顔は……
(めちゃくちゃ怒ってる!!見たことないくらいに……)
だが、有無を言わさぬ力で私は引き寄せられ、強引に抱きしめられた。
「えっ……? 先輩……!?」
(なんで? なんで!? なんでぇえええええ!!!)
私の思考回路は完全にパニックを起こし、真っ白になる。
「……静かに。貴女が嫌だと言えば、僕は今この瞬間、コンプライアンス違反で社会的に抹殺されます。……嫌、ですか?」
耳元で響く、震えるような低い声。
それは完璧な上司としての言葉ではなく、ただ一人の、余裕をなくした男の言葉だった。
「……い、嫌では、ない、ですけど……」
小さな、戸惑うような声。
(……嫌じゃないです)
けれど、あまりの急展開に、私の心臓の鼓動は過去最高値を更新し続けていた。
「佐倉さん……君は、一体何がしたいんですか?」
「えっと……」
この完璧な人を面白い玩具みたいに振り回している自覚がある。
(わざと、か……)
最初は、先輩の鼻につくエリートみたいな言い回しが面白くて、いつか言い返してやろうと思ってメモを取っていただけだった。
それもただ、仕事が面白くなるただのスパイスくらいの気持ちだった。
でも、いつの間にか先輩の言葉を一つも聞き逃したくなくて、必死にノートを埋めるようになっていた。
でも結局……、先輩が怒らないのを良いことにやりたい放題して、さらには一方的な焼きもちで、本当に怒らせてしまった。
「……わかりません。でも、先輩に嫌われたくないです」
「……はぁ。……意味不明すぎる」
先輩が、私の肩に顔を埋めたまま、深く溜息をつく。
「嫌われたくない? 僕は、君にどう思われてるんですか」
「……私……も、わかりません」
答えた瞬間、視界が熱くなって、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
(うー…、やだ、泣きたくないのに……)
自分の気持ちの解像度が低すぎて、ただただ、苦ししい。
(でも嫌われたくない!……それだけはハッキリとわかる)
「泣かないでよ……。僕もずっと混乱してます」
そう言って、先輩は私の頭をそっと包み込み、さらに強く抱きしめた。
耳元で、先輩の少し速い鼓動が聞こえる。
「……君のせいで、僕のロジックはもう、とっくに破綻してるんですから」




