第34話:【査定】一万円の対価と、チープカシオの等価交換
私は、震える手で封筒を握りしめて佐藤先輩のデスクへと向かった。
先輩はすでにデスクにつき、無機質な打鍵音を響かせている。
その横顔からは、昨夜の動揺など微塵も感じられない。
「……佐藤先輩。これ、昨日のタクシー代です。ありがとうございました」
デスクの端に、昨日の一万円を入れた封筒をそっと置く。
すると、先輩は画面から目を離さないまま、冷淡に言い放った。
「構いません」
「え? いや、受け取ってもらわないと困ります。私、そんなに……甘えるわけにはいきませんから」
食い下がる私に、先輩はようやく手を止め、椅子を回して私と向き合った。
その視線は鋭く、底冷えするほどに「怒って」見えた。
「……その一万円は、酔った部下が深夜に路頭に迷うリスクを排除しただけです。返してもらう必要はないです」
「それでもです! せめて実費分だけでも……」
頑なな私を見て、先輩はふっと口角を上げた。
不敵な笑み。
「……なるほど。どうしても支払いたいと?」
「はい」
「分かりました。なら、そのお金はこの時計代としてお支払いします」
そう言って先輩が左手首を差し出した。
そこにあるのは、昨夜、松本さんに爆笑されていたあの「チープカシオ」だった。
「……え?」
「前に貰ったままだったので。それで手を打ちましょう」
(一万円で、千円の時計を「買い取る」……?)
あまりに計算の合わない提示に、私は息を呑む。
(……怒ってる? 怒ってるよね……)
中山さんのことチクったのがバレてる? それとも抱きついたこと?
あるいは、その両方を「酒のせい」にして、こうやって事務的に一万円で解決しようとしている私の態度そのものに?
先輩は、私が差し出した封筒を指先で引き寄せると、それを私の机の上へと置いた。
まるでワークフローを「差し戻し」するように。
(……いや、差し戻しするなら、差し戻しの理由書いてよ!)
心の中で叫んだときだった。ガチャ、とドアが開く。
「おはようございます!」
松本さん率いる視察団が出社してきた。
続いて榎木さんも。
(ここから離れたい!!)
「おはようございます。じゃ、じゃあ早速、昨日の続きに会議室行きましょうか……中山さん、土井さん」
「はい!あの佐倉さんの『ターンっ!』また見せて下さい!」
「は、はい。あははは」
私の口から乾いたような笑いがでる。
中山さんたちが動き出し、私も資料を手にとり立ち上がりかけた、その時。
「佐倉さん、今日はここで作業してください」
背後から、低く、抗いがたい声が降ってきた。
「え?」
「移動しなくていいです。先に僕と本部の3人で、ベンダー契約に関する承認ワークフローの共有を済ませます。それまではここで通常業務をしていてください」
佐藤先輩は、一度もこちらを振り返ることなく、淡々と指示を出す。
共有から私を外す。
これが業務上の「配慮」でないことくらい、私でもわかる。
(これ、隔離だ。私を物理的に引き離す……鉄壁のファイヤーウォールだ! けど、何のために?!)
「え?いや、キャビネット保管してるフローを参照するから、別に……」
松本さんがわざわざすることでも無いと言い掛けると、佐藤が睨み付けた。
「……ああ、はい。はい。共有お願いします」
「はい……」と力なく返事をする私の横で、中山さんが「えー、佐倉さん来ないんですか?」と残念そうに肩を落とす。
佐藤先輩が立ち上がり、会議室へ向かう一瞬。
私の横を通り過ぎる際、微かに冷たい、けれど熱のこもった視線が私を射抜いた。
(こ、怖い……。そんなにイヤだったんですかね……。抱きつかれたの)
私は、自分の机に差し戻された一万円の封筒を見つめながら、昨夜の自分の行動を、本日何度目か分からない「削除」したい衝動に駆られていた。




