第32話:【断絶】一万円の境界線と、残された矜持
タクシーの自動ドアが、プシュッと音を立てて開いた。
僕は上げたままだった両手を下ろし、背中にしがみつく彼女の腕を、剥がすように、けれど壊れ物を扱うような手つきで解いた。
「……おこ、ですか……?」
潤んだ瞳で僕を見上げる凛を、僕は何も言わずに後部座席へと押し込んだ。
「……先輩は?」
「僕は別のタクシーで帰る。……運転手さん、これで。お釣りはいりません」
僕は財布から一万円札を取り出し、運転手の手元に無造作に握らせた。
その時、凛の膝の上で、彼女が握りしめていたスマホがパッと明るくなった。
画面には「中山」という男からの、軽薄な通知。
一瞬、思考がどす黒く濁る。
(今ここで中山のデータを消去して、代わりに僕の連絡先を叩き込んでやろうか)
だが。
「…………」
僕は、自分の左腕にあるチープカシオを見つめる。
酔った部下のスマホを勝手に操作して、自分の連絡先をねじ込む?
(……ありえない。そんなのは、三流のやり方だ)
僕は彼女の手に握られたスマホの電源ボタンを、外側から押し込み、画面を真っ暗に落とした。
そのまま彼女の手を優しく押し戻し、スマホをバッグの中へ滑り込ませる。
「……佐倉さん、今日は早く寝てください。明日、一分でも遅刻したら容赦なく減給です」
あえて突き放すような言い方をした僕は、ドアをバタンと閉めた。
タクシーが滑り出す。
リアガラス越しに、こちらを見つめる彼女の不安げな顔が、夜の闇に吸い込まれて消えていった。
一人、夜の歩道に残される。
手元には、彼女の温もりも、彼女の連絡先も、何一つ残っていない。
一線を越えられず、個人的な番号さえ聞けないまま、一万円で彼女を遠ざけた臆病な自分。
だが安易に繋がらないこと。
それが今の僕にできる唯一の誠実さだ。
僕ら出向者が守らなくてはいけないコンプライアンスなのだ。
僕は闇に消えたタクシーの行方を追うのをやめ、静まり返った街へと歩き出した。




