第23話:【同期】空港のデバッグと、予期せぬ再会
日曜日の昼過ぎ。
僕は羽田空港のラウンジで、完璧な「出張帰りのエリート」を演じていた。
昨日買った南青山のコートを羽織り、手元には最新のビジネス誌。
(……完璧だ。この週末で、僕は完全に『佐藤巧』をリブートした)
鳴凪に戻るのは憂鬱だが、今の僕にはカシミヤの鎧がある。
凛ちゃんさんに『サラダ王子』と揶揄されても、今の僕なら鼻で笑って受け流せる自信があった。
搭乗口に向かう。
ふと、お土産は買ったほうがいいのかと足を止めるが、そもそも東京へ帰ると誰にも伝えていない。
必要ない。
そう結論づけてゲートを覗き込むと、そこはどうやら修学旅行中と思われる中学生たちの集団で溢れかえっていた。
「おい! 蓮!」
不意に背後で飛んだ鋭い声に、僕はびくついた。
……凛と一文字違いだ。
せっかくリブートしたはずなのに、そんな些細なことで心臓が跳ね上がる。
情けない。
気分を紛らわすために、近くの売店を覗いた。
そこには、猫の顔にマッスルな体が合成された、奇妙なキーホルダーが並んでいた。
襷がけで「TOKYO」と書かれたその猫は、どこかのマッスル大会に出場していそうな威圧感を放っている。
(……凛ちゃんさんが好きそうだな)
無意識にそう思い、手を伸ばそうとした。
すると同じタイミングで、横から伸びてきた中学生の手がそれを掴む。
「あ、悪い」
「……いや、大丈夫っす」
譲ると、その少年は「うっす」という感じで短くぺこりとして、先に会計へ行った。
結局、自分でも意図が分からないまま、そのわけのわからないマッスル猫キーホルダーを凛ちゃんさん用に、そして榎木さんには定番の東京バナナを買った。
何やかんや頑張って企画を進めてくれている二人への、心ばかりの「前向きな評価」ということにしよう。
中学生が半分を占めた、少し騒がしい機内に揺られて地方へと引き返す。
到着時刻が近づいた頃、機内アナウンスが流れた。
「当機は、到着地混雑のため……」
ゲートから吐き出される、疲れと興奮が入り混じった中学生たちの群れ。その背中を追うように、重い足取りでロビーへ出た。
「蓮! こっちこっち!!」
耳に飛び込んできたのは、静かなロビーを切り裂くような、聞き覚えのある「電波的な声」だった。
……幻聴か?
まさか。ありえない。
心臓の鼓動が、カシミヤのコート越しに激しく打ち付け始める。
「ちょっと、遅延しすぎだってば! アニメはじまっちゃうじゃん! WBS守ってよ!」
僕は、世界中の不安を一身に背負ったカノンのように、その場で震えた。
間違いない。
世界中でただ一人、このタイミングで、この場所で、航空機の遅延に対して「進捗管理(WBS)」を叫ぶ生物は、彼女しかいない。
「凛ちゃん、ごめん。待たせて。でも俺のせーじゃないし。だぶる?なんて??」
「太郎が寂しくて泣いてたよ。わんわんって」
ゲートを抜けた「マッスル猫」の少年が、あろうことか僕の天敵に向かって、流れるような謝罪を口にした。
15年間という長い歳月をかけて、彼女の理不尽に最適化された「凛ちゃん、ごめんなさい」の精度は、あまりに高い。
感服だ。
僕なんてまだヒヨッ子に過ぎなかったんだ。
「凛ちゃん、車? お母さんは?」
——凛ちゃん。
少年のその呼び捨てが、僕の脳内が致命的なエラーを叩き出す。
(さんを付けろよ! このデコすけがっ!!! 凛ちゃん『さん』だろうが!!)
心の中で、自分でも制御不能な暴言が噴出する。
「お母さんいないよ。頼まれたんだもん」
凛ちゃんさんは大きめのパーカーにヒートテック的なレギンス。
(多分1日家でゴロゴロしていたんだろうな。)
足元はサンダルでスッピンだ。
アンテナ(アホ毛)が、カシミヤの鎧を纏った僕を捕捉した。
「……え、佐藤先輩!? なんで!? ……え、東京帰ってたんですか!? 」
凛ちゃんさんの目が、驚きでこぼれ落ちそうになる。
と同時に、彼女の鋭い視線は、僕が手に持っている袋——さっき蓮くんと取り合った「マッスル猫」へ固定された。
「……奇遇だね、佐倉さん。僕も今、リブートを終えて帰着したところだ」
(リブートと?ブツブツと言っている。残念。今日はノートを持ってないから書き込めないね)
僕は震える手で、カシミヤの襟を正した。
西麻布では「正解」だったはずのこの数十万円のコートが、この地では、このスッピンの女の前では、まるで「不正解」の塊のように思えてきて、僕は猛烈に恥ずかしくなった。
「これ、よかったら。……お土産です」
このいたたまれない気持ちを解消するために、僕ができることはただ一つだった。
羽田の売店で取り合うようにして手に入れた「マッスル猫」を、凛ちゃんさんに献上すること。
「えー? お土産ですか??」
紙袋から現れたマッスル猫を見た瞬間、彼女の顔がパッと輝いた。
「ぎゃーー! かわいい! なんですかこれ、マッチョなのに猫! センス爆発してるじゃないですか! !」
スッピンのまま、子供のようにキーホルダーを振り回して喜ぶ凛ちゃんさん。
鳴凪の地に来て初めて、自分の選択が正解を射抜いたような、奇妙な高揚感。
(……勝った)
僕は、心の中で小さくガッツポーズをした。だが、その勝利の余韻は一瞬でかき消された。
「…………っ」
背後に、冷徹な殺気を感じて振り返る。
そこには、修学旅行バッグのポケットから、全く同じ「マッスル猫」の尻尾を覗かせた蓮くんが立ち尽くしていた。
そう。彼は買ったのだ。
「凛ちゃんが好きそう」だと「15年間の調教」で心得ていたはずだ。
彼は自分のお小遣いで、必死に姉へのお土産を選び、それを今まさに手渡そうとしていたのに先を越された形になったのだ。
——完全なる、敗北。
自分の買ったものと全く同じ、いや、僕が渡したことで「二個目」となってしまったお土産を手に、蓮くんは般若のような形相で僕を睨み付けている。
(……違うんだ、蓮くん。僕が君より先渡してしまったのは申し訳ない。でも君の順位を下げようとしたわけじゃ……)
弁明は届かない。
凛ちゃんさんの歓声が大きければ大きいほど、蓮くんの瞳の奥に宿る「不倶戴天の敵」としての僕の解像度が高まっていく。
「佐藤先輩、分かってますね! 蓮も何か買ってきたの? ……え、何それ、お揃い? ウケる!」
「……っ、いらねーよ、こんなの!」
蓮くんがカバンの中にマッスル猫を叩き込む。
凛ちゃんさんの無邪気な一撃が、僕と彼の間に、一生埋まることのない深い溝を刻みつけた。
僕は、マッスル猫を掲げて踊る凛ちゃんさんの横で、少年の憎悪を一身に浴び続けた。
何十万円もかけて揃えた最新のワードローブ。
友人たちに吹き込んだ、華やかな(大嘘)の成功譚。
自分を『佐藤巧』へとリブートするために費やした、あの優雅な週末のリソース。
その全てが、今このスッピンでサンダル履きの女の、「ウケる!」という一言で無効化されていく。
結局、僕は東京に何をしに行ったのか、自分でももう分からなくなっていた。
ただ一つ確かなことは。
西麻布のシャンパンでも、南青山のコートでもなく。
羽田の売店でたまたま手に取った、このわけのわからない「マッスル猫」だけが、唯一の『正解』であったということだ。
「……帰ろうか。佐倉さん」
「え?あぁはい。お疲れ様でした!」
そうだった、この女は僕を迎えに来たのでは無かった。




