第22話:【並行】カシミヤの結界と、野生のチキン
土曜日の朝、僕は実家のベッドで目を覚ました。
全館空調により、家中が常に一定の適温に保たれている。
「おいで、カノン」
僕は、世界中の不安を一身に背負ったように震えるカノンを抱き上げた。
そのまま、抱っこで近所の並木道を歩く。
カノンは決して地面に足をつけない。
汚れることのない僕の腕の中で、彼は優雅に外界を眺めている。
(……これだ。このルーティンこそが、僕のセラピーだ)
家に帰ると、母さんが手作りのグラノーラとグリークヨーグルト、そして蜂蜜を用意してくれていた。
さらにはグルテンフリーのパンケーキまで。
父さんと並んでコーヒーを飲みながら、新聞を広げ、時事を語る。
知性だけが漂う至福の時間だ。
午後は、南青山のセレクトショップへ向かった。
扉を開けると店員の洗練された会釈が僕を迎える。
「佐藤様、お帰りなさいませ」
僕はロンドンから届いたばかりという極細ウールのコートに袖を通した。
鏡に映るのは、不織布マスクの下で怯えていた男ではない。
知性という鎧を再構築した、本来の僕だ。
(……生き返る。この肌触りが、僕のプライドをクレンジングしていくんだ)
僕は自分自身を完全な形に修復するために、クレジットカードを何度も切った。
◇
一方その頃、鳴凪の隣の市。
佐倉凛の実家。
「……っあー、寝すぎた」
午後二時。
佐倉凛は、爆発した髪の毛を激しく揺らしながらベッドから脱皮した。
眼をこすり、大きな欠伸をする。
「朝も昼も食いっぱぐれた!」
「凛、起きたなら太郎を散歩に連れてって! 朝からずっと待ってるわよ!」
リビングの外の窓に目をやると、外から太郎がこっちを見ている。
母親の怒声に背中を押され、彼女は適当に突っ掛けたサンダルで、雑種・太郎を連れて外へ飛び出した。
途中、近所の『フォックスマート』に立ち寄り、もはや何ご飯か分からない食糧を調達する。
「ちょっと太郎、引っ張りすぎ! 私、今チキン食べてるから!」
彼女は太郎に引きずられるようにして、近所の土手を猛進していた。
片手には揚げたてのチキン。
太郎がリードを強く引くたびに、揚げたての衣が彼女の口元で弾ける。
(……あー、これこれ。この脂っこさが私のガソリンだわ)
一方は、洗練されたジャケットの袖を通し、一方は、サンダルで土手を激走しながらチキンを食らう。
二人がそれぞれ、自分にとっての「正解」という名の通常運転を謳歌していた、そんな土曜日の午後だった。
◇
夕方ーー
西麻布、隠れ家イタリアン。
冷えたシャンパンが心地よく喉を通り、僕は完璧な「エリートの微笑み」を顔に貼り付けていた。
「いやあ、地方の生活もなかなか人間的でいいものだよ(大嘘)」
僕は、高校からの内部進学組である友人たちを前に、優雅にグラスを傾けた。
「今はね、支店のベテラン……そう、榎木という男がいるんだけど、彼をインフルエンサーとしてプロデュースしつつ、自治体と連携した大規模な地域DXを推進している最中でね。アナログな地方都市をデジタルで再定義しているんだ。正直、やりがいは本部以上かもしれないね(大嘘)」
「へえ、佐藤、面白そうじゃないか!」
「さすが国立組、やることが違うな」
友人たちの羨望の眼差しが、僕の自尊心に極上の栄養を与えていく。
実際には「おじさん構文」を添削し、『凛ちゃんさん』と媚びを売っているだけなのだが、西麻布の照明の下では、それは「壮大な地方創生プロジェクト」へと華麗にコンバージョンされていた。
(……そうだ。僕は選ばれし者なんだ。鳴凪なんて、僕の手のひらの上で転がしているに過ぎない)
僕は、カシミヤの感触を確かめながら、二杯目のシャンパンを注文した。
◇
一方その頃、佐倉家のリビング。
「……チキンでお腹膨れたところに、すぐ晩ご飯か……」
凛は食卓に並んだ山盛りの煮物を前に、自分の胃袋のキャパシティ(供給能力)を再計算していた。
ついさっき土手でチキンを完食したばかりだが、佐倉家の家訓に「残食」の二字はない。
「凛、あんた明日、蓮を迎えに行ってあげてよ。空港に夕方着くから」
母親がテレビを見ながら、思い出したように言った。
中学三年生の歳の離れた弟・蓮は、今、修学旅行の真っ最中だ。
「えー、蓮? 了解、了解。迎えに行けばいいんでしょ。拝承ー」
「んもう!その『はいしょう』ってやめてよ。耳障りだわ」
凛はテレビのバラエティ番組に突っ込みを入れながら、無造作に箸を動かす。
その横では、父親が競馬新聞を広げ、赤ペンを耳に挟んだまま「明日のメインレースの配当」を論理的に(勘で)導き出していた。
「蓮、お土産に何買ってくるかな。……あ、お母さん、この煮物おいしい。追い煮物していいですか?」
「食べれるなら食べなさい」
港区で「地域DXの軍師」を気取っている男のことなど、今の凛の頭には一ミリも残っていない。
彼女の関心は今、明日の弟の迎えと、目の前の煮物の分配率、そして競馬新聞を読む父親の背中に集中していた。
平和で、騒がしくて、どこまでも「通常運転」な佐倉家の夜。
その「通常」が、翌日の空港で佐藤の「虚構」を粉砕することになるとは、二人ともまだ知る由もなかった。




